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「親ガチャ」は嘘。日本を「ペアレント・ネイション」にしていくための、いくつかのポイント(掛札逸美)

 『3000万語の格差』を翻訳した後の2018年秋、サスキンド博士がシカゴ大学に設立した「3000万語(TMW)センター」を訪問しました。驚いたのはセンターの大きさです。私自身も大学院在学中、コロラド傷害予防研究センター(米国疾病管理予防センター〔CDC〕が助成)でリサーチ・アシスタント*1をしていましたから、それなりの規模は予想していました。でも、広さからして予想以上で、センターの中を案内してもらいながら、数十人に挨拶し続けたのを覚えています。

 今は規模がさらに大きくなったようで、同センターのサイトに紹介されている常勤のリーダー(財政担当や各プロジェクトのリーダー。サスキンド博士とジョン・リスト博士は除く)だけで30人*2。ここに、それぞれのプロジェクトのスタッフ(例:家庭訪問担当)や、パートタイムで働きつつ研究にも携わっている大学院生や学部生を加えたら…? サスキンド博士に人数を確認したところ、「たくさん!」という答えが戻ってきました。まさに、「TMWセンターも小さな企業のようなもの」(251ページ)です。これがすべて、大学や米国政府、州政府、財団、慈善団体、企業等からの助成金や寄付金*2でまかなわれているわけです。本書に出てくる民間団体や大学の研究センターはすべて、同様の形で運営されています*3

 本書をお読みになって、「なんだ、日本のほうがずっとマシじゃないか」と思った方も多いと思います。皆健康保険とチャイルドケアは確かにそうかもしれません。ですが、まず、日本のシステムではたとえ大学であっても、TMWセンターがしているような研究と実践を長年にわたって続けることは不可能、またはきわめて難しいということ、そして、この問題が日本における科学技術の進展や社会研究の進展の足かせになっていることは、指摘しておきたいと思います。

 

 もうひとつは、ホームレス・シェルターから新しい家に移ったサブリナがふたたび大学へ通っているというくだりに象徴される側面です。

 日本は世界でも稀な、小中高、(進むのであれば)大学とひとつながりのエスカレーターのように進学し、新卒で就職、そのまま同じ職場で働き続けるというシステムが強固に残っている文化です。途中で数年間、休んだり、寄り道や方向転換をしたり、仕事を何年もした後に勉強し直して専門を変えたり…をしにくい。私自身を含め、個人でそれをしている人はいますが、サスキンド博士が何度も書いている通り、個人にできているからといって社会が変わらなくていいわけではありません。

 高所得であっても(高所得だからよけいに?)休職、退職、転職が容易ではなく、「子どもが生まれてから数年間は、家で(できる仕事や勉強をしながら)子どもと過ごしたい」と思う母親、父親がその願いをかなえることは日本の場合、困難です。本書にあるような意味で「保護者に優しい」職場は少なく、仕事に戻れば長時間労働が当然です。結果的に、未就学児施設の負担が増し、子どもの発達にも影響しているでしょう。日本では、「家のほうがチャイルドケアよりも会話が多い」(160ページ)でしょうか?

 横道に少しそれますが、人生の途中で仕事を変えたり別の職種に乗り換えたりする機会が少ない社会(労働力の流動性が低い社会)は、スキル優位の適材適所がうまくいかない社会でもあります。「自分にはこの仕事は合っていない」「あの仕事のほうが合っているはずだ」と思っても変えられない、まわりから見て「この人はこの仕事に合っていない」(でも、その人には適職が必ず別にある)と思っても辞めさせることができない。これは個人だけでなく、組織全体の生産性を下げます。労働力の流動性が低ければ、おとなでも「失われたアインシュタイン」現象は起こるのです。

 

 新型コロナウイルス感染症の流行により、リモート化を核とした働き方の大きな変化と、人生における優先順位の見直しが世界じゅうで起きました。「大量離職 Great Resignation, Big Quit」と呼ばれた現象です。米国の場合、ロックダウン中にオンラインで新たなスキルを身につけるなどして転職した人たちは、その後の労働力不足も手伝って、転職しなかった人たちよりも収入が増えました*4。一方、日本は政府が先進国の中で唯一、保育施設を開け続けると決めたこともあり、働き方の変化も大量離職もほとんど起きませんでした。逆説的ですが、「変わるチャンス」を日本は手に入れ損ねたとも言えます。

 さらに、ロックダウン中の各国で起きた「子どもと一緒に家で過ごす時間」も日本ではほとんど生まれず、子どもたちは未就学児施設や学校で、マスク姿のおとなと過ごし続けました(場合によっては、まわりの子どもたちもマスク姿)。都市部の住宅事情ではリモート・ワークもしづらく、「子どもが家にいたら仕事ができないから」といつも通り、保育施設を使い続けた保護者も少なくなかったようです。

 1日11時間以上、未就学児施設で過ごす子どもたちがマスク姿のおとなと関わり続ける影響については、当初、「問題ない」という論調もありました。今、2年半が過ぎたわけですが、生後最初の3年間、覚醒している時間の大部分をマスク姿の保育者に囲まれる影響はどうなのか。私の周囲の未就学児施設の方たちは心配な様子を口にしていますが、日本はあいかわらずその懸念を無視し、後になってたとえ「失敗だった」と気づいても取り返しのつかない社会実験を続けています。他方、保育施設は保護者が仕事に行き続けるための社会基盤とみなされ、不安の中で開所し続けてきました。保育施設で複数の感染者が出れば、「クラスター」と呼ばれ、まるでその施設や職員の失敗であるかのようにさえ報道されてきたのです。これも他国では起きなかった現象です。

 

 未就学児施設の安全を仕事にしている私がサスキンド博士の『3000万語の格差』を読み、訳したのは、当時、園で見る子どもたちの姿がどうにも気になったから、でした。保育者は「手のかかる」子どもたちに手いっぱいで、いわゆる「おとなしく、手がかからない」子どもたちは自分たちだけでずっと遊んでいる。それで良いはずがないと思ったのです。

 本書の中でサスキンド博士はデータをもとに、チャイルドケアでのおとなとの会話のやりとりの基準を「1時間あたり40回」(159ページ)とすべきだと書いています。新潟県私立保育園・認定こども園連盟と行った1歳児の実験結果(2019、2020年*5)によれば、保育者が子どもの横にいて介助する昼食中であっても、10分間に3回しか保育者に声をかけられていない子どももいました(やりとりの回数ではなく、かけられた言葉の数)。社会が変わり、保育時間が長時間化し、保育以外の仕事が増えたにもかかわらず、日本の保育士配置は70年前と変わらず、特に1歳児クラスでは子ども6人に職員1人と、極端に少ない現状です。まさに、「特に重要だとわかった6か月間は、生後18か月から24か月」(152ページ)という、成長と発達においてもっとも重要な時期がこの扱いなのです。

 「米国に比べれば、日本は保育園も幼稚園もあるから十分だ」と言えるのでしょうか。「保護者に対するサービス」という側面が保育に加わった1990年代から、「待機児童問題」でとにかく施設数を増やす方向に進み、歪んだ「無償化」に向かった2010年代を経て、今、すでに私たちはその結果の一端を社会のあちこちで目にしているようにも思います。

 

 お読みになった通り、『3000万語の格差』も本書も、日本語で言う「親ガチャ」を否定するものです。社会システムを変えて「保護者の国」をつくるということをしないなら、子どもの運命は親や家族の経済力に左右されてしまい、「子どもたちはそこに生まれた時点で貧乏クジを引いたようなもの」(215ページ)です。でも、保護者が脳発達の科学と「3つのT」を知り、無料かつ万能なこの道具を使う自分自身の力を信じ、その保護者を社会が支えるなら、「親ガチャ」は起こりません。逆に高所得層の保護者であっても、子どもにはお金をかけるばかりで、子どもと一緒の時間を過ごさない、子どもとやりとりをしないなら、子どもは持って生まれた力を100%伸ばす機会を得ることができません。

 子どもを育てるには、母親にも父親にも家族にも、チャイルドケアで働く人にも教育に携わる人にも、そのまわりにいるすべてのおとなにも、時間と余裕がたっぷりと必要です。子どもの育ちに「効率」はありえません。そして、子どもを育てるということは、その社会の次世代、次々世代を育てることですから誰一人として無関係な人はいません。「自分のことは自分で責任を持て」「弱音を吐くな」という日本の主流文化の考え方では、次の世代は育たないのです。私たち全員が「保護者 parent」である、そう考えれば、母親、父親、家族、チャイルドケアで働く人たち、それ以外のすべての保護者(すべてのおとな)にも決して優しいとは言えない、日本のシステムを「保護者を中心に置いて」変えていく道筋が見えるのではないかと思います。

──「訳者あとがき」より抜粋

 

注:

*1 米国の場合、学部生を教えることと独自の研究に従事することが博士論文を始める要件のひとつ。アシスタントは有給で、私の場合、センターから月1000ドルを受け取っていた。

*2 同センターのサイトから(2022年10月21日参照)https://tmwcenter.uchicago.edu/

*3 助成や寄付が運営方針や研究内容に影響することはない。ただし、団体や研究センター側は毎年、詳細な報告書を提出せねばならず、報告書では、年初の目標をどの程度達成したか、具体的な数値で示さねばならない。

*4  たとえば、ピュー・リサーチ・センターの調査結果(2022年10月24日にリンクを確認)、Majority of U.S. Workers Changing Jobs Are Seeing Real Wage Gains. https://www.pewresearch.org/social-trends/2022/07/28/majority-of-u-s-workers-changing-jobs-are-seeing-real-wage-gains/

*5 報告書等は「保育の安全」サイトの「その他」→「保育関連」に。

https://daycaresafety.org/others_hoiku.html

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著者略歴

  1. ダナ・サスキンド(Dana, Suskind)

    医学博士。シカゴ大学医科大学院小児外科教授、小児人工内耳移植プログラム・ディレクター。「子ども期初期の学びと健康のためのTMWセンター」(http://tmwcenter.uchicago.edu/)の創設者であり、共同ディレクター。著書に『3000万語の格差:赤ちゃんの脳をつくる、親と保育者の話しかけ』(2015年。邦訳は明石書店、2018年)。

  2. リディア・デンワース(Lydia, Denworth)

    科学ジャーナリストで、Scientific American誌(『日経サイエンス』)の編集者でもある。著者は『ママのささやき声きこえるよ:私と息子の音とことばの科学の旅』(桒原桂訳、新潟医療福祉大学、2019年)等。

  3. 掛札 逸美(かけふだ・いつみ)

    心理学博士。保育の安全研究・教育センター代表。著書に『保育者のための心の仕組みを知る本:ストレスを活かす、心を守る』(ぎょうせい、2016年)、『子どもの「命」の守り方:変える!事故予防と保護者・園内コミュニケーション』(エイデル研究所、2015年)等。『3000万語の格差:赤ちゃんの脳をつくる、親と保育者の話しかけ』訳者。

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