明石書店のwebマガジン

MENU

グレゴワール・シャマユーから現代日本の論点を考える

【最終回】グレゴワール・シャマユーをどう読むか?

この記事は2023年2月25日、台東区は田原町にある書店「Readin’ Writin’ BOOKSTORE」で行われたオンライン・イベント「グレゴワール・シャマユーから現代日本の論点を考える」を再構成したものです。 思想史家であるグレゴワール・シャマユーの著作の訳者3人(信友建志氏、渡名喜庸哲氏、平田周氏)とともに、『統治不能社会―権威主義的ネオリベラル主義の系譜学 』を代表とした4冊の訳書(『ドローンの哲学―遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争』『人体実験の哲学―「卑しい体」がつくる医学、技術、権力の歴史』『人間狩り―狩猟権力の歴史と哲学』)を通してシャマユーの思想の源流やこれらのテキストを読み解きながら、権力が生まれて実装される過程や現代の日本に通じる論点、シャマユー自身の多様な関心の根本にあるものに迫っていきます。

最終回はシャマユーが述べる「自主管理」の意味合いから、フランス本国での読まれ方、最後に改めてグレゴワール・シャマユーの著作のポイントについて訳者のお三方にまとめていただきました。

 

望ましい「自主管理」とは?

 

司会:『統治不能社会』の最後の言葉が「自主管理を再開することである」と元気よく結論づけているんですが、そこからこちらにパスを投げたという感じで、なんというか、シャマユー自身の考えていることが見えづらかったなというところが率直にあったんですけど、その点はいかがでしょうか。

平田:もしかしたら次回の本で書く。

渡名喜:どうかなあ。

(みんな笑)

平田:今話をしながら質問を思い出しました。これが出たのが二〇一八年。権威主義的ネオリベラル主義とかリベラル主義って言った時に、今まさにこう権威主義が自由主義かみたいな形で、二〇一七年以降、トランプが大統領になったときに議論されていますが、シャマユーはトランプについてどう思っていたのでしょうか。あえて書かなかったのでしょうか。

渡名喜:あ、それは面白いですね。

平田:あるいはもう暗示させているのか。トランプ的なものも起源はべつにそういうリベラル社会の中にあったんですよと言いたいのか。つまり、今我々の中でそういう権威主義かリベラリズムかみたいな対立があるけど、本書では別にそれは矛盾するものではないですよって言っているわけですよね、この本では。

信友:そうですね、自主管理の話は実は僕もまったく同じことを感じていました。ちょっと投げっぱなしではないかと。それで「図書新聞」で酒井隆史さんとお話をするときに聞いてみたんですけど、酒井隆史さんは、「実はいろいろあるんだ」という旨のことを教えてくださって、機会があればまたそこを伺ってみたいと思っています。我々の世代が知らないだけで何かあるのかしれない、ということは考えています。

同じことではないかもしれないのですが、小泉義之さんが昔、読書ノート的なところで少し書いていらっしゃっていたことがあります。福祉国家の崩壊という文脈で国の保険システムがどうとか言っている人もいるけれど、他にも組合式やその他諸々の保険システムの流れだってあったはずだ、そういうところを押さえないで、自由化か皆保険か、だけで議論しているのはまずいのではないかと。それで、その方向で議論を膨らませてリアルなところを追えれば、シャマユーっぽいやり方で具体的な何かを拾えるかなと、いろいろやろうとはしてみたんですけど、これがぼくには難しかった……。いかんせんシャマユー的な、どこからそれを持ってきたという収集力がちょっとまだ欠けている。僕は一応生命倫理的なことを教えるべく医歯学総合研究科というところにいることになっているので、できればなんとかやってみたいなと思っているんですけど、なかなか難しいですね。

渡名喜:難しいですね、自主管理って少なくともフランス現代思想というよりは、現代のフランス思想家の中ではアンドレ・ゴルツとかカストリアディスとかがいると思うんですけれども。

平田:まさに引かれてますね、ゴルツなんかは。

渡名喜:ただ、具体的に言えば、その自主管理運動がフランスの中で実現したのってブザンソンの「LIP(リップ)」っていう時計工場くらいだと思います。そこでは、生産手段を労働者が奪取するっていう一種のクーデターみたいなものがありましたよね。ただ、そういう自主管理というのは果たしてもう一回できるのかなっていうのは疑問に思うところです。

平田:LIPの話も『統治不能社会』で出てましたよね。で、自主管理が達成しちゃうと誰が一番困るかといったら経営者、管理する側の仕事がなくなっちゃうので困る。しかも自主管理のほうが効率が良かったみたいな話が触れられていますよね。

渡名喜:そう。LIPは社長があんまり有能じゃなかったから成功したと思うんです。そうすると逆に経営者が有能なところだと困ると思うんだけど。もう一つは、これもやはり先ほどの自己の統治と一緒で両義的だと思うんですよ。つまり、ネオリベ的な自主管理っていうのも大いにありうると思います。トランプのときに言おうと思ったことなのですが、ブルーノ・ラトゥールが『地球に降り立つ』という本の中ですごく面白いことを言っています。今までのグローバリズムに関しては、グローバリゼーション対反グローバリゼーション、あるいはグローバル対ローカルという二極でしか語ってこなかったと。それで、ローカル、グローバルの2つの極を結ぶ直線に、さらに別の直線をXのような形で交差させて、ローカル=グローバルの直線の両脇にさらに2つの極があるんだと言っています。新たな直線の1つの極がラトゥールの言いたい「テレストリアル」という地球に降り立つ立場。ローカルであれグローバルであれ、地球に足を置いているという立場です。それに対して、この地球に降り立つ立場の反対の極にあるのは何かというと、地球から出ていくような立場だといいます。

「なんだそれ」って感じがしますが、実際イーロン・マスクやアマゾンのジェフ・ベゾスが言っているように「火星」というか、別のところでコロニーを作ろうといった発想です。つまり、地球という自分たちが身を置いているここの環境からは外れていって、たとえば火星にコロニーというのはちょっと絵空事かもしれませんが、それは具体的に言えばゲーテッド・シティのようなものですよね、超富裕層の。そして、それはかなり自主管理的だと思います。

平田:確かに。

渡名喜:もちろんそうじゃないものがたくさんあるんだけど。ただ、ゲーテッド・シティでは警察権力まで自主管理しようとするわけです。もちろんアルソックとかセコムといった民間警備会社のおかげですけど。つまり、むしろ現実的なのはこういう方の自主管理のような気がしています。それに対して、かつての自主管理をもう一度というのはなかなか大変だなというのが思うところです。

信友:学生のレベルでいくと、あれは筑波かどこかでしたかね。シラバスがあまりにも使いにくい、しかしデータセットそのものは使えるかたちでオンラインにある、というので学生が自分たちでシラバスシステムを作り直しちゃったんですよね。

平田:それ自主管理。

渡名喜:それはいいほうですね。

信友:いい。ですけど、よく考えたら大学があまりにも高い学費を取っている割にはインチキなサイトを作ってるという問題を補完してしまっているということを考えると、これはこれで微妙なんですよね。僕が自主・自律の幻想という話をしたのはそれもあります。学生たちは何かに対する抗議活動や異議申し立てよりは、自分たちでちょこっと作れて、それが便利にできちゃって、自主的に何かできてしまえばそれのほうが全然いいし、それならべつに反対運動は時間の無駄じゃないか、という傾向が強い感じなんですね。それを見ながら、筑波の子たちはどっちなんだろう、と。

大学がインチキなシステムしか作ってないということに文句を言ったってよかったはずだし、そのことと、自分たちで作ってしまったということが筑波のインチキなシステムを助けてしまったということと、どう折り合いをつけるのかなというところが難しい。今おっしゃられたゲーテッド・コミュニティはその最たるものだと思うんです。そのあたりを学生にどう伝えたものかというところもあります。

渡名喜:難しいですよね。だから結構東大の「逆評定」でしたっけ、学生たちが教員の授業評価をまとめたものです。もちろん評価といっても、内容面もそうでしょうが、単位の取りやすさ等もあるでしょう。それを全部学生たちが作って、正門前で売ったりしています。そういう学生のイニシアティブってとても面白いと思います。ただし、まさしくカストリアディスとルフォールが分かれたのはそこだと思うんですけど、自主管理的なものって最初のイニシアティブがあるときにはうまくいくことがあると思うんですけど、それがちゃんとした組織になって継続化させるというときに制度的になりますよね。制度になると、今度は形骸化して、第一世代はよかったと懐かしがる、みたいなことって結構あると思います。だから、ルフォールの場合には、そういう実践よりは、少なくとも民主主義という形態だけを重視することがむしろ重要というのがルフォールの立場だったと思います。

平田:それでいうとルフォールはもう、制度はいらなくて、そういう民主主義が立ち上がるような、何か運動が起きる源泉として民主主義があればいい。

渡名喜:ルフォールは、そういう異論を受けいれることができるような形態が大事であるという立場だと思います。それはそれで重要だと思うんです。たとえば、大学の意思決定の問題もそうですが、少なくともこれまではその意思決定に際し、教員の声を聞くような枠組み・制度があったわけですが、それが段々なし崩し的になくなっていっている。それに対し、たとえ変な異論反論があっても、とりあえずは制度的にはそれを聞かなきゃいけない、受け入れなきゃいけないといった枠組み・形態です。そうしたものも現在はなくなってきているのではと思います。

 

フランスでのシャマユーの読まれ方

司会:シャマユーはたとえばドゥルーズやフーコーと比べて、とても読みやすい印象があったんですが、フランス本国ではどんな風に読まれているのかなというのがちょっと気になりました。その辺りはいかがですか。

平田:割となんかこうアクティビストにも読まれるような形で書いていますよね。出版社のラ・ファブリックというところがフランスという左の国の「左」の出版社ですよね。

特にその、エリック・アザンっていう社長が書き手でもあって、パレスチナ問題にもコミットしている人なので、そういう国際的な政治問題に関する本を定期的に出す一方で、18世紀、19世紀の文学や思想が好きで、パリの歴史とかも書かれている人です。イスラエルの問題に対するコミットとかをするので、聞いた話によると、封筒が送られてきてその中に銃弾が入ってる。それでも断固とした態度で書くし、出版する。なので、アカデミックな格好つけた文体というよりは、もちろん知的な洗練というのを求めるところもありますが、読みやすさというのが結構定評になってるのかな、と。

信友:そうですね、フランスのインテリはすぐわかるようなものを書いたら馬鹿に思われるじゃないかと思ってる人が結構いるんですよね。知人がフランス人と一緒に共著で仕事をしていたときに、「こう書いてあるの、よーわからんけど、なんやこういうことなんちゃうの?」って聞いたら、「そうだけど、そんなにわかりやすく書いたら馬鹿だと思われるじゃないか」って言われた、という逸話もあります。

シャマユーに関してはそのへんはあまりなくて、むしろ比較的短い文章を積み重ねていくほうが好きなタイプですし、特に『ドローンの哲学』と『人間狩り』は、1章あたりはかなり短いボリュームで進みますよね。『統治不能社会』に関しても一番筆がのっていると思ったのは具体的に、どうやって組合を潰しますかとか、組合を潰した男の告白あたりだったので、基本的な興味はやはりそういうところに強くある人なんじゃないかなという印象は持っています。

ちなみに、この機会にほかのお三方の訳書の訳文も見ていたのですが、それぞれ違う人が訳した違う文体の訳文なはずなんだけど、「あ、同じ人の本を訳してる」という印象があります。もしかしたらこれ俺が訳したのかもしれないってちょっと思う瞬間まであったりして。シャマユー本人の文体も実は結構強烈にある、というのは改めて思いました。

渡名喜:酒井さんが『図書新聞』の対談の中で、「ブログ世代だよね」みたいなことを仰っていたと思います。そういう世代的なものはあると思います。きっとシャマユーはアニメも好きそうですよね。

信友:地球から離脱するなんていう話、日本のアニメだったらいくらでもあるよとか思いましたからね。

渡名喜:そうですね。それから世代の問題もありますよね。世代と制度の問題。ドゥルーズたちがつくったパリ八〔パリ第8大学〕的なものとか、仲間たちが作り上げた文体みたいな。ガタリもそうですし。ヴィリリオとかになると少しちがいますが。

平田:よりは、もうちょっとこう、ちゃんとまとまりはあるけど。

渡名喜:ヴィリリオより〔シャマユーのほうが〕わかりやすいですよね。

信友:ヴィリリオぐらい短いとかえって訳しづらいんですよね、何言ってるのかわかんない。

平田:だけど、なんだろう、すごくなんか体系的なものの意思みたいなのがあるわけですよね。

渡名喜:そうですね。

平田:ある意味べつに哲学を知らない人が読んでも、なんかジャーナリズムの本かなぐらいな感じで読めるとこはありますよね、すごく。注とか飛ばして読んじゃえば。

信友:その中になんとか哲学を放り込んでくるというその執念深さというか強さみたいなのがやっぱり一番魅力なんじゃないかなというところですね。

渡名喜:同世代では、まだ全然日本に翻訳されていないですけど、平田さんが『人間狩り』のあとがきで触れているエルザ・ドルランがいますよね、フェミニズムの中で、ただし系譜学的に辿り直していって、植民地の問題に注目をしたり。結構エルザ・ドルランのアプローチは、見ている角度がシャマユーと似てますよね。世代も近いですし。ただ、エルザ・ドルランのほうがしっかりしてますし、アカデミックですよね。

平田:おっしゃる通りです。読むのが難しいです、凝った文章を書いてます。

渡名喜:なかなか分類が難しいです。

平田:たぶんだからそのへんは一緒のサークルなんです。例えば、今度翻訳が出版される予定のアキーユ・ンベンベの『ネクロポリティックス〔死の政治学〕』の仏語版には、エルザ・ドルランとシャマユーは二人とも謝辞が挙げられてますしね。

ともあれ『統治不能社会』は全6部で26章あって、一部一部、一章一章驚きがあります。それで、ちょっと驚きが多すぎて忘れちゃう、前の驚きを忘れちゃうみたいなところがあるので、何回か読みたいというのはありますよね。

信友:ちょいちょいマニュアル的に読めるところがあるんですよね。組合潰しが当時どうだったかとか、すごく面白いな、と。10年ぐらい前からでしょうか、日本のデフレがどうにもならないのは組合が弱すぎるからだと『エコノミスト』や『フィナンシャル・タイムズ』まで言い出したときには結構びっくりしたものです。だから、組合アレルギーの人たちも、こういうところもちゃんと読んでくれるといろいろ楽しいのにな、と。なんなら日本版のときには『フィナンシャル・タイムズ』の記事も付けてあげようとか思ったり。「同情されてるよ、資本家に」みたいなね。

平田:注も面白いんですよね。

渡名喜:注が面白いのと、各章の冒頭の引用、これを吟味するという楽しみもありますよね。一回読み終わったあとに次の楽しみはこの引用を。

平田:これよく調べましたよね、信友さん、訳書、こんな訳あったのですか?

信友:いや、結構大変……。ここはなにせ医歯薬系なので、図書館の人文系蔵書がほぼ機能していないんですよ。もう皆さんはご存じかと思いますが、会場のお客様にはお伝えしておきますと、大学図書館は今もう本を買わず、お金の半分以上というか7割8割は全部データベースのほうに回ってしまうので、なかなか資料探しは大変です。しかも、図書館改修中につき学外から借りてこられるのは3冊までです、みたいな話になったりとかして、結構面倒くさかったです。

平田:細かい論点になりますけど、要するに労働者の反乱を治めるために、企業の中で規律訓練を強めるんじゃなくて、労働者の仕事を辞めるコストが低すぎるからそれを高めなきゃいけないんだっていうので、完全雇用と社会保険と、あと、労働組合を潰すんだというような議論が出てきて、スティグリッツもそういう論文を書いてるのがちょっとショックだった。

信友:日本だったらカイゼンというのがあるんだよって、ちょっと教えてあげたいなって思いましたね。カイゼン運動はほんとに見事にこれにはまる話だな、と。管理された自主管理みたいな。なんか管理が被っていますけれど。

渡名喜:やっぱり、そのへんは興味深いですよね。ピエール・ルジャンドルのマネジメント論というのがあって、映画にもなっているんですけど、それがすごく面白くて。あれはトヨタは出てこなかったかな、資生堂だったと思います。トヨタと資生堂って、フランスにおける日本企業のツートップなんですけども。資生堂の資生堂文体というのがあって、特徴的なフォントですが、あれを資生堂の人は手書きで書けるようにしなきゃいけないという。練習している風景をルジャンドルのその映画で撮っていて。マネジメントがこのように身体化されているみたいな話をしています。

平田:エステティックな。

渡名喜:そう。エステティックなところまで侵入してきているという話をしているわけです。

平田:そういうのと重ね合わせても面白いですよね。

渡名喜:ただ、ルジャンドルは、資生堂についてはすごく面白いんだけども、ちょっとトリガーがでかすぎるから、つねにローマ=キリスト教まで遡るじゃないですか。だからなかなか捉えづらい。そうするとシャマユーのほうが説得力や具体性があるようにも思います。

平田:『統治不能社会』はせいぜい4、50年のスパンですからね。もちろん長ければいいわけではないですが。いやぁ、それにしても信友さん訳が早かったですね。ちょっと全然話逸れますけど。翻訳早かったですよね。

信友:そうですね。編集さんの皆様の助けもいただきましてというやつです。

平田:僕とかもっと短いのを3人がかりで4、5年かかったので。

信友:お仕事というやつです。今回は持ち込みだったというのもあるんですけど。ちゃっちゃっと上げないと。

平田:そうなんですか。

日常生活からネオリベラリズムをひも解く

渡名喜:これもちょっと聞いてみたかったんですけど、信友さんがこれまでお訳しになってきたものとは今回の『統治不能社会』は少し毛色が違うところがあり、とはいえお話を聞くなかでつながっているところもありと思うんですけども。信友さんご自身の、これまでのラッツァラートだとか、あるいはラカンとかドゥルーズ=ガタリといった人たちをめぐるお仕事に照らして、どうしてシャマユーのほうに関心を持たれたんでしょうか。

信友:ラカニアンの中で、ラカンの晩年の最後の謎の一つと言われているものに「資本主義のディスクール」というのがあるんです。4つのディスクールといって、ディスクールの構造についていろいろと、ヒステリーのはどうだとか、大学のはどうだとかやっているところがあるんですね。その中に「資本主義のディスクール」というのもあって、これが何言ってるのかわからん、と。他方で、出版の方から、たとえばネオリベ的なものにみんながワーっと乗っかってしまったりだとか、そういう資本主義的なもの万歳みたいに自発的な隷従が生じるのは、精神分析的にいったらどうなんですか、みたいなお話もあったりします。ですが、そのまま書いてしまうとやはりアドルノ、ホルクハイマーみたいな形で精神分析を使うしかなくなってしまうんですよね。超自我というものがあって権威主義があって服従するのが人間で、って、頭から精神分析的な情報が下りてくるだけ。ですから精神分析的な情報を共有してないと何の説得力もないので、もう少し資本主義の、日常生活の資本主義みたいなところからちゃんと拾っていけて、かつ歴史的な背景も追えればいいなというのがラッツァラート、アリエズの本だったり、シュトレークの本だったりします。なかでも本書は、日常生活のネオリベラル主義という性格がはっきりしていたので、こういうところからちゃんと詰めないと説得力は出ないよな、と思ったのです。先ほど、ルジャンドルのトリガーがでかすぎて説得力がどうかな、という話がありましたけど、それと同じです。

渡名喜:なるほど。それすごく興味深いです。でもこの日常生活のネオリベラリズムという話、しかもラカンからどう描かれるのかという話はぜひ続編として楽しみにしています。

信友:将来的な課題というやつです。

渡名喜:でも平田さんは、『人間狩り』が一番関心に合うんですか?

平田:どうなんですかね。

渡名喜:ご自身の研究の、シャマユーを外れて。

平田:もとはと言えば渡名喜さんが紹介してくれた……。

渡名喜:そっか、すいません。

平田:いやいやいや、そんなことない。すごい面白かったです。仲間とやれたのもよかったし、面白かったですね。

渡名喜:押し付けて……。

平田:押し付けてない。そんなことない(笑)。

信友:アリエズ、ラッツァラートの文脈があったので、やっぱり植民地に対する狩りっていう問題が資本主義とは切り離せないよ、という意識がありました。そこから行くと『人間狩り』はすごくクリアというか、ちゃんと細かいテクノロジーまで載っていていい、というのが僕の感想です。ラッツァラートとかアリエズの本だともうちょっと大きな話になってしまう。都市における戦争とか、ちょっと話が大きいのです。『人間狩り』だとすごく微細というか、ミクロのレベルで追えます。そこがちゃんと哲学につながるところまでいけるのがシャマユーのいつも素敵なところかなというふうには思いますね。

 

グレゴワール・シャマユーの著作が刊行される意義

司会:では、そろそろお時間なので、改めてお三方からシャマユーの本が刊行される意義を短くまとめていただければと思います。

信友:今言ったことの繰り返しになってしまうんですけれども、ほんとに細部の中からいつもがっつり哲学を引っ張って使っていこうとするその強靭な意志というか。それに情報にしたがって多様な情報を一気に集めてくる能力というか、そのあたりがやっぱり魅力なんだろうなというふうに思います。これからもずっとフォローしていって、我々が見たいアクチュアルな問題というものにどんなふうに、どんな意外なソースを引っ張ってどんなふうに議論するのかを見ていければ、と思っています。

渡名喜:私はですね、シャマユーがこんなに面白いという話はここまでしてきたのですが、シャマユーというよりは、フランスにはまだこんなに面白い哲学者がいるよっていうのが結構重要なことだと思っています。マイナーで名前が知られていないから、とっつきにくかったりする人もいるかもしれませんが、他方で翻訳されているけれどあんまり知られてなくて面白さが伝わってない人って結構たくさんいるんですよ。もちろんフーコー、ドゥルーズ、デリダっていうのはビッグネームで、やっぱり今でもすごいとは思うんですけれども、それ以降、そんなに名前は有名じゃないけど刺激的な哲学を展開している人はたくさんいます。

カトリーヌ・マラブーはすでに有名ですが、クレール・マランという病についての哲学をされている人とかも、マラブーに反論していたりして面白いです。それから最近では、橋本一径さんが翻訳なさった『ドーピングの哲学』とか、あれはすごい面白いですよね。たくさんの著者がいる論集なんですけど、僕自身も誰が誰か全然わからないんですが、すごく面白いです。あと、『猫たち』っていう本を書いたフロランス・ビュルガさんという人がいるんですけど、その人もシャマユー世代だと思います。そのへんは、なんていうんでしょうか、今後、是非出版社の方々、発掘と言いますか、あんまり売れないかもしれませんけど、よろしくお願いいたします。

平田:そうですね、シャマユーはすごく身を引いて書いてる人で、あんまりドヤ顔もしないし、パッションも前には出さないけれどもしっかりあって、ブレない感じのところがありますよね。お二方からもすでに指摘があったように、押さえるところをすごく押さえているし、なんかすごく勉強になるのは間違いないのと。あとやっぱり、我々が普段読んでいるものと比べると、読み物として普通に単純に面白い本と思うので、ある程度のリテラシーはありますよっていう人であれば全然問題なく読める。なんか哲学書難しいとか、一般にある哲学っていうバイアスをもう取っ払ってしまってもいい。

信友さんがちょっと解説で触れられていた『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』。今出たらジェンダー的にアウトなタイトルに思えてしまいますが、今でもなんかこう後輩とかがそれこそユーチューブを見てスタートアップだ転職だ、と、なんかこう、経営者も労働者もなんかこうそれこそ駆り立てられる時代なので、ちょっと疲れてる人にとっては、なんかこれを読むと距離を取れる。距離をとれるのは、本の効用だと思うんですけど。なんか世の中に対する距離を取るみたいな、なんかそういう視点を与えてくれる本なんじゃないかなって思います。

 

司会:本日は長い時間ありがとうございました。では、ここらへんでお開きとさせていただきます。

 

(おわり)

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 信友 建志(のぶとも・けんじ)

    2004年京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。現在、鹿児島大学医歯学総合研究科准教授。専門は思想史、精神分析。訳書にE.アリエズ、M.ラッツァラート『戦争と資本:統合された世界 資本主義とグローバルな内戦』(杉村昌昭共訳、作品社、2019)、W.シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』(村澤真保呂共訳、河出書房新社、2017)、イグナシオ・ラモネほか『グローバリゼーション・新自由主義批 判事典』(杉村昌昭ほか共訳、作品社、2006)など。

  2. 渡名喜 庸哲(となき・ようてつ)

    1980年生まれ。立教大学文学部教授。専門は、フランス哲学・社会思想史、パリ第7大学博士課程修了。著書に『現代フランス哲学』(筑摩書房)、『レヴィナスの企て』(勁草書房)、『カタストロフからの哲学』(共編著、以文社)、訳書にグレゴワール・シャマユー『ドローンの哲学』(明石書店)、ジャン=ピエール・デュピュイ『聖なるものの刻印』(共訳、以文社)、『カタストロフか生か』(明石書店)など。

  3. 平田 周(ひらた・しゅう)

    1981年生まれ。南山大学外国語学部フランス学科准教授。専門は、社会思想史。パリ第8大学博士課程修了。博士(哲学)。主要業績に『惑星都市理論』(仙波希望との共編著、以文社、2021年)、『予測と創発』(共著、春秋社、2022年)など。翻訳に『民主主義の発明』(クロード・ルフォール著、共訳、勁草書房、2017年)、『もっと速く、もっときれいに―脱植民地化とフランス文化の再編成』(クリスティン・ロス著、共訳、人文書院、2019年)『恋愛のディスクールーセミナーと未完テクスト』(ロラン・バルト著、共訳、水声社、2021年)など。

関連書籍

閉じる