明石書店のwebマガジン

MENU

グレゴワール・シャマユーから現代日本の論点を考える

ドローンを多角的に哲学する

この記事は2023年2月25日、台東区は田原町にある書店「Readin’ Writin’ BOOKSTORE」で行われたオンライン・イベント「グレゴワール・シャマユーから現代日本の論点を考える」を再構成したものです。 思想史家であるグレゴワール・シャマユーの著作の訳者3人(信友建志氏、渡名喜庸哲氏、平田周氏)とともに、『統治不能社会―権威主義的ネオリベラル主義の系譜学 』を代表とした4冊の訳書(『ドローンの哲学―遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争』『人体実験の哲学―「卑しい体」がつくる医学、技術、権力の歴史』『人間狩り―狩猟権力の歴史と哲学』)を通してシャマユーの思想の源流やこれらのテキストを読み解きながら、権力が生まれて実装される過程や現代の日本に通じる論点、シャマユー自身の多様な関心の根本にあるものに迫っていきます。

第2回目は『ドローンの哲学』の訳者である渡名喜庸哲氏より本書の5つの論点とシャマユーの哲学の仕方について、お話いただきました。

 

私は『ドローンの哲学』を翻訳しました渡名喜と申します。今、信友さんにいただいたとても面白い紹介に対して申し上げたいことは多々ありますが、それはまた後半のトークのところでさせていただいて、私が翻訳したこの『ドローンの哲学』の簡単な紹介と、今回の主題である『統治不能社会』とのつながりをいくつか挙げさせていただきます。

 

ドローンという題材で「哲学する」

『ドローンの哲学』は2013年刊行なのでもう10年前の本になります。主題としては、9.11以降、2000年代以降のテロに対する戦いにとりわけ実用化が加速した無人戦闘機のほうのドローンを対象にしています。つまり、ドローンというと一般的には空を飛んで、商品を運んでくれたりとか、写真を撮ったりとかそういうものがイメージされるかもしれませんが、無人戦闘機のほうは、むしろ形態としては飛行機に似ていて、ただコックピットがない形です。こういう無人戦闘機がアメリカ、イスラエルなどで開発され実用化されていったことを踏まえた哲学的な考察です。ですので、この限りでは先ほど信友さんが仰ったように、『統治不能社会』とはどう結びつくんだという感じはします。

とはいえ、近年軍用ドローンは、たとえば『ドローン・オブ・ウォー』ですとか、最近の多くの映画の主題にもなっていますし、あるいは日本でも『彼女の知らない空』という小説がありますが、ここには、日本でもしこの軍用ドローンが導入されたらという設定で描かれた短編が収められています。本書は、フランス語のタイトルをそのまま訳すと「ドローンの理論」になりますが、あえて「ドローンの哲学」というふうにしたのは、やはり、この新たに現れた軍用ドローンというものについて哲学するということをシャマユー自体が実践していると思うからです。『ドローンの哲学』の序文にも挙げられてますが、ジョルジュ・カンギレムという、先ほど信友さんの紹介にもあった「科学認識論」というフランス流科学哲学の流派がありますが、その代表者がいます。系譜としてはカンギレム、フーコー、シャマユーというふうにつながっていきますが、その源流であるカンギレムが、「哲学とは、どんな異質な素材も適切なものとなるような省察である」と言っています。つまり、哲学というのは「自由とは何か」とか「真理とは何か」を対象にする印象がありますが、そういう「ザ・哲学」的な主題でなくても、哲学できるんだということです。カンギレムはそれで医学における正常さや異常さを哲学的に考察したわけですが、シャマユーはここではドローンについて考察している。ですから、この『ドローンの哲学』というのはドローンについて知れるというよりは、「あ、こういうふうに哲学できるのか」っていう哲学入門にもなるんじゃないかと私は思っています。

ただ、「哲学する」と一言で言ってもなかなか大変なんですけども、少なくとも『ドローンの哲学』の目次を見てわかるのは、かなり多角的な角度からドローンを見ているということです。第一章はまさしく技術としてのドローンにアプローチした技術論です。第二章は心理です。大体映画作品でドローンを扱っているのはこの心理的な側面ですね。つまり、戦場に行かずしてドローンを扱って遠くの人を殺すオペレーターの精神的な葛藤が描かれるわけです。もちろんシャマユーはそれも扱いますが、それだけではない。第3章では、あとでもう少し具体的に触れますけれども、倫理が取り上げられます。ドローンの活用によって今までの倫理の考え方が全然ガラッと変わる。これまではいかに善く生きるかが問題になっていたのに対し、ドローンでは、いかに善く殺すかということが倫理として語られることになる。しかも、これもやはりその信友さんがさっき仰ったことに通じるんですが、なんでこんな資料を持ってくるんだ、どこで見つけるんだというような、アメリカの倫理学者の仔細な議論を掘り出してくる。そこにはドローンというのはこんなに倫理的なんだというようなことが学術論文のかたちで書かれているわけですが、そういうのを掘り出してきて、ほらこういうふうに倫理の考え変わっていく、という変遷を辿り直している。それから、第4章では法律を扱います。あとでも触れますが、これまでの戦争、戦争というのはやはり一応国際法があって、つまりどうして戦争で人を殺していいのかという問題についても、法的な規制があったわけです。それが、これまで戦争を曲がりなりにも支えてきたような法自体もドローンによって無効になっていく。宣戦布告してない国に勝手にドローンを飛ばして勝手に攻撃をすることができるようになってきているわけですから。そうすると倫理だけでなくて法も変わってくる。最後に、政治のあり方すらも変わってくるということが論じられる。ドローンという一つの物を巡って、こうした多角的なところから考察をしているこの手続きは非常に鮮やかだと思っています。

 

『ドローンの哲学』の5つの論点

時間も限られていますので、今挙げた5つの論点について、若干気になるフレーズだけ抜き書きしてきました。

一つ目はこれです。「CIAがエアロビクスをしている最中の三人の男を見たら、 テロリストの訓練キャンプだと思うだろう」(CIA高官)。

これもどの資料から抜き出してきたのだろうという感じなんですけど、CIAの高官がこういうことを言っていたというわけです。よくドローンについて、特にアフガニスタンにおけるアメリカのドローン攻撃で、いわゆる括弧付きの「誤爆」の報道がされることがありました。特に結婚式場がよく狙われていたんですね。どうしてかというと、ドローン攻撃はいわゆるビッグデータに基づいているので、これまでのデータとは何か違う傾向があったら「あ、ここは怪しい」ってなるわけです。結婚式というのは、今までは集わなかった人たちが一時的に集って、しかも複数名一定時間滞留することになる。だからデータ上ではテロリストの密会と同じように出てくる。だから、それはデータ上はドローン的に誤爆ではない、ということになるわけです。このエアロビをしている3人の男も、テロリストたちの訓練風景にしか見えないというふうにデータは判断するわけです。このように第一章では、ドローンが実際にどうやって括弧付きの「敵」を評定しているのかといったことが問題になります。

二つ目はこれです。「朝は殺人者、夜は家庭の父。「平和的自我」と「戦争的自我」のあいだに日常的な切り換えがあるのだ」

第二章では、先ほどちらっと申し上げたドローンのオペレーターが問題になる。勤務は三交代制で、朝は兵士として、アメリカの基地の中のオペレーションルームに入って、遠くのアフガニスタンなどを飛来するドローンの爆撃のスイッチを押すわけですけれども、その勤務が終わると自宅に帰ることができる。この平和的自我と戦争的自我のあいだに日常的な切り換えがあるというわけです。シャマユーの手つきとして面白いのは、やはり先ほど信友さんが仰ったように、論じるべき重要なものはちゃんと押さえているんですね。ちくま学芸文庫にも入っているデーヴ・グロスマンという人の『戦争における「人殺し」の心理学』や、いわゆるアイヒマン実験も出てきます。この本でグロスマンはこういうことを言っています。近ければ近いほど殺人への抵抗感は増える。だから、殴り殺すのはすごく抵抗がある。それに対して、距離が遠くなれば遠くなるほど抵抗感は低くなる。遠くにいる敵にミサイルを撃つときはつまり、自分が殺している相手の顔を見ることがないわけですから。こうしてグロスマンは戦争における攻撃をする人の心理的な葛藤が武器の距離と反比例するという図を示すわけです。しかしそれに対しシャマユーは、ドローンはこの図には当てはまらないというのです。なぜか。一方で、距離的には普通のロケットよりももっともっと遠くなります。アメリカとたとえばアフガニスタンですから。他方で、ドローンのオペレーターはまさに自分が飛ばしたドローンのロケットが敵の身体に到着する、つまり攻撃が完遂するところまで見ることができる。つまり、指は遠いが目はすごく近くまで行くことだってできると。遠さと近さの極限が合流するということです。このようにして従来の見方を踏まえつつ、しかしやはり今違うことが起きてるということを指摘する。この手つきは非常に見事だと思います。

三つ目はこれです。「「無人」の、人間がもはやまったく搭乗していない戦争機械が、生命を除去するにあたって「いっそう人道的〔人間的〕」な手段であると主張できるのはどういうわけか」

倫理に関して、このように倫理学者の発言がたびたび引用されます。つまり、無人化が進むなかで無人機的な攻撃が人道的であるということ、そういうふうな倫理学者の主張をどうやって検討したらいいのかという問題です。このときのシャマユーの手つきが素晴らしいものがあると思っています。たとえば、倫理学者には、ドローン攻撃はこれまでの攻撃に比べてよりピンポイントで精緻にできるようになっているという主張がある。これに対してシャマユーは、「精緻」というときに何と比べてるのかと問います。普通ピンポイントでできるようになったというときに比べているのは、ドローンとたとえばB29のような戦闘機が比べられる。形は似ていますよね。B29のほうは絨毯(じゅうたん)攻撃をするから全然精緻じゃない、ピンポイントじゃない。それに対し、ドローンはターゲットのテロリストをピンポイントで狙う、というわけです。だけど、それって本当にそうなのかとさらにシャマユーは問いを進めます。ドローンが導入されたのは決してB29のような戦闘機に代わるためではないのではないか。むしろそれがやっていること、果たしている機能からすると、戦闘機よりも特殊部隊と比べるべきではないか、というわけです。つまり、ヘリコプターとかでテロリストの潜伏先付近まで連れていかれてそのターゲットを殺して撤収するっていう作戦はよくありますが、形の上では似ているのはB29のような戦闘機だけど、やっていることはむしろこの特殊部隊と一緒ではないか。その地点で考えたときに、その絨毯攻撃と比べて精緻だというロジックはやはりおかしいのではという形で相手の主張を検討し直していくわけです。このようにどの次元で考察をするか、視線をどこに据えるかという手つきは非常に参考になると私自身思っています。

四つ目はこれです。「今日、戦争を、扇動者、犯罪者、有害分子に対する警察活動へと変容させてゆけば、このような警察的爆撃の方法の正当化を増幅してゆく必要が出てくる」(カール・シュミット)

これは法に関してですが、先ほど申し上げたようにこの戦争の形態が変わっていったということが問題になる。『ドローンの哲学』でもカール・シュミットが何度も出てきますけれども、シュミットがまさしく予言していたように、この戦争がだんだん警察活動へ変容していく、つまり、戦争というのは国対国のものだったのに対して、その国対国をすっ飛ばして一つの国が相手の国の中にいるテロリストに対して警察活動に代わっていくことが問題になります。しかも、警察活動といっても、ドローンは逮捕することもできない。死刑しか執行できない。だとすると、ここでの警察活動は、単なる対テロ戦争を超えた、きわめて異様なものに変容しているだろうというわけです。

もう一つ『統治不能社会』との結びつきでも重要だと思いますが、最後の政治のところに関して、次のように言われます。「市民の側でも戦争のコストが外部委託されるようになると、民主主義的平和主義の到来を告げていたのと同じ理論的モデルが、逆のものを予言するようになる。すなわち、民主主義的軍国主義である」。

ドローンの開発は、とりわけアメリカではベトナム戦争や湾岸戦争以降に推進されていくわけですが、そこで問題になっていたのは、自国のアメリカ人の兵士たちが戦場に行って犠牲になったり、あるいは帰ってきてもPTSDになったりといった、そういう人的被害をどうやって抑えるかということでした。そういうときに、ロボットに頼ればいいじゃないかという形で、外部委託としてドローンというのが活用されるようになるという経緯があります。そうするとここでは自国の兵、自国の市民たちを守ろうとして民主主義を擁護する議論とドローンを推進する議論がぴったりと合わさる。それがこの「民主主義的軍国主義」ということです。ここで問題となっている外部委託の問題は非常に重要なのではないかなと思っています。先ほど信友さんはアメリカの南北戦争の例を出しましたけども、まさしくそうです。たとえば、フランスでも第一次世界大戦で戦場の第一線に立たされたのはセネガルなど植民地の兵士なわけですよね。フランス人の兵士は安全なところに居て、まずは植民地の人たちに外部委託される。だんだんその植民地が独立していくと使えなくなるので、ロボットに外部委託されていくという流れです。

 

ドローンの活用の拡大と変化

ちなみに、現代日本の論点を考えるという今日の全体のタイトルからするとどうしてもやっぱり触れておかないといけないのは、軍用ドローンの活用がすでに日本でも進められていることです。2022年の12月のニュースでは、海上保安庁がこの無人航空機を配備すると報じられています。これは攻撃ではなくて監視用ですが。ただし、その少し前の9月に、今度は攻撃型のものも試験導入が決まっています。こちらは防衛省です。ちなみに国土交通省にも無人航空機課という部署が2022年にできています。さらに付言しておけば、2025年の大阪万博の一つの目玉もドローンですよね。東京オリンピックでも最初に登場しましたけれども。いずれにしても、この後ドローンの活用は、日本でも産業から軍事にいたるさまざまな分野で加速していくでしょう。

ただ今日の主題として挙げておきたいのは先ほどもちらっと申しましたように、民営化、アウトソーシングの政治的な問題かと思います。戦争への参加が、自国兵士、植民地兵士、さらに傭兵というかたちで、アウトソーシングされていく。ロシアがそうであるように、犯罪者でも派遣するという形でアウトソーシングしていく。シャマユーが見てとったように、軍用ドローンはこうしたアウトソーシングの最終的な形態という面があります。現在もロシアやウクライナでまさしくドローンが活用されているわけですが、ただ、シャマユーが『ドローンの哲学』で対象にした時期のシーンとちょっと違っているのは、ドローンがもはや一方的ではなくなっていることでしょう。アメリカ対アフガニスタンといった形ではなくて、ロシア対ウクライナとかリビアにおける政府軍と反政府軍のような形で両方から撃ち合うような時代になっています。しかもそこでドローンが積極的に使われるのは、もはや人道的とか倫理とかという大義名分に基づいてではなく、端的にはコスパがよい、安上がりだというのが基本的な理由となっていくわけです。

もう一つは「身体の行方」という問題があると思います。これまでのシャマユーの三つの著作、『人体実験の哲学』と『人間狩り』と『ドローンの哲学』の主眼はやはり「身体」にあったと思うんですね。実験される身体、攻撃される身体、狩られる身体です。この問題を『統治不能社会』の文脈で考えてみるとどうなるのかは、このあとで議論してみたい問題です。信友さんが最後に仰ったように、まさしく現代の新自由主義社会の中で重要になってくる問題です。その前の社会、つまり、いわゆる福祉国家型の規律訓練の社会だったら、学校であったり工場であったり企業であったり、そういう社会のほうが身体に対するケアを担っていたはずなんですけれども、それが現在はだんだん自分自身で自分の身体をケアしマネジメントしないといけない時代になってくる。自分自身で自分の身体のパフォーマンスを最大限にしないといけなくなる。つまりもう終身雇用なんかはないから、次の企業に移っても自分がうまくやっていけるように自分の身体を活用しなきゃいけなくなる。その点はフーコーも生政治の議論の中でホモ・エコノミクスと絡めるかたちでの身体の統治という話をしていたと思います。このあたりが『統治不能社会』と「身体」とで関連してくるのかなというふうには思っています。その他、いくつかあるのですが、それはまた後程できればと思います。私からは以上です。

 

(第3回へ続く)

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 信友 建志(のぶとも・けんじ)

    2004年京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。現在、鹿児島大学医歯学総合研究科准教授。専門は思想史、精神分析。訳書にE.アリエズ、M.ラッツァラート『戦争と資本:統合された世界 資本主義とグローバルな内戦』(杉村昌昭共訳、作品社、2019)、W.シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』(村澤真保呂共訳、河出書房新社、2017)、イグナシオ・ラモネほか『グローバリゼーション・新自由主義批 判事典』(杉村昌昭ほか共訳、作品社、2006)など。

  2. 渡名喜 庸哲(となき・ようてつ)

    1980年生まれ。立教大学文学部教授。専門は、フランス哲学・社会思想史、パリ第7大学博士課程修了。著書に『現代フランス哲学』(筑摩書房)、『レヴィナスの企て』(勁草書房)、『カタストロフからの哲学』(共編著、以文社)、訳書にグレゴワール・シャマユー『ドローンの哲学』(明石書店)、ジャン=ピエール・デュピュイ『聖なるものの刻印』(共訳、以文社)、『カタストロフか生か』(明石書店)など。

  3. 平田 周(ひらた・しゅう)

    1981年生まれ。南山大学外国語学部フランス学科准教授。専門は、社会思想史。パリ第8大学博士課程修了。博士(哲学)。主要業績に『惑星都市理論』(仙波希望との共編著、以文社、2021年)、『予測と創発』(共著、春秋社、2022年)など。翻訳に『民主主義の発明』(クロード・ルフォール著、共訳、勁草書房、2017年)、『もっと速く、もっときれいに―脱植民地化とフランス文化の再編成』(クリスティン・ロス著、共訳、人文書院、2019年)『恋愛のディスクールーセミナーと未完テクスト』(ロラン・バルト著、共訳、水声社、2021年)など。

関連書籍

閉じる