人間狩り―狩る者と狩られる者の境界線
この記事は2023年2月25日、台東区は田原町にある書店「Readin’ Writin’ BOOKSTORE」で行われたオンライン・イベント「グレゴワール・シャマユーから現代日本の論点を考える」を再構成したものです。 思想史家であるグレゴワール・シャマユーの著作の訳者3人(信友建志氏、渡名喜庸哲氏、平田周氏)とともに、『統治不能社会―権威主義的ネオリベラル主義の系譜学 』を代表とした4冊の訳書(『ドローンの哲学―遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争』、『人体実験の哲学―「卑しい体」がつくる医学、技術、権力の歴史』、『人間狩り―狩猟権力の歴史と哲学』)を通してシャマユーの思想の源流やこれらのテキストを読み解きながら、権力が生まれて実装される過程や現代の日本に通じる論点、シャマユー自身の多様な関心の根本にあるものに迫っていきます。
第3回は『人間狩り』の訳者の一人である平田周氏より本書の主題について、お話いただきました。
信友先生に続いて渡名喜先生からも濃厚な話が出てて、僕のほうとしては、すべての訳者が物知りであったり話がうまかったりするわけではないことを示す例としてお話させていただければと思います。
狩猟権力ー境界線の暴力
まず『人間狩り』は、このタイトルからして、哲学書なのかという話ですが、先ほど渡名喜さんのスライドで挙がっていたカンギレムの言葉「哲学とは、どんな異質な素材も適切となるような省察である」が、まさにこの本にも当てはまると思います。つまり、すごく異質な対象を哲学してます。
副題「狩猟権力の歴史と哲学」にある「狩猟権力」は、ミシェル・フーコーが権力の一類型とした司牧権力に対置される権力概念です。フーコーによれば、ヘブライ文化を起源としてキリスト教文化のなかに現れた司牧権力は、人間の集団を羊の群れのようにたとえて統治します。シャマユーはその裏面として、その対立項として狩人をモデルにした獰猛な権力があるのではないかということで、狩猟権力を語ります。序論で、狩猟権力を理解する上で次のような重要な説明があります。
「どんな狩りも被食者に関する理論を伴う。その理論が、なぜあるいはいかなる違いや区別によって、あるものが狩られ、別のものは狩られないかを説明するのである。それゆえ人間狩りの歴史は、追跡技術や捕獲技術の歴史によってのみ作り出されるのではない。それは、人間共同体のなかで狩ることができる人間を規定するための排除に関する手続きの歴史、つまりそこで引かれる境界線の歴史によってもまた作り出されるのである」。ここで「狩り」と言われるのは、人間と人間以下の動物、狩る者と狩られる者、あるいは捕食者(プレデター)と対になる「被食者」とのあいだに境界線が引かれるからです。この著作で分析される暴力の歴史は、こうした境界線上に沿って記述されます。
狩りってすごく特殊な言葉に思われるかもしれません。他方で、我々、小さい頃からよく「暴力はいけないよ」って言われつつも、現実のレベルでは常に追跡、捕獲、追放、殺害といった暴力を見るわけなんですけど、その暴力がどういうメカニズムになっているのかといえば、まさに、人間以下ということで正当化される議論が歴史的に形を変えながら暴力に伴ってきたのだということです。少し私より年配の読者が著作のタイトルを見て、「オヤジ狩り」を思い出したと冗談で話してくれましたが、真剣に返すと、強ち間違ってないかなと思います。九〇年代の高校生のマインドにおいても「このスケベジジイが!」という暴力を正当化する議論が-単純なかたちではあれ-担保されていたのですから。あるいは書評家の永田希さんが『人間狩り』の議論を野宿者の追い立てなどに敷衍したり、人類学者の小川さやかさんが「読売新聞」の本書書評のなかで、SNS上での狩りや追放について思いを巡らしたと書いて下さったりしていますが、いずれもシャマユーの議論を日本社会に接続する上で有益な論点です。言葉の上であれ、直接的に身体に行使するのであれ、暴力は、相手を人間以下に「見下す」判断を含んでいます。
『人間狩り』の射程
話を戻して、ヨーロッパを中心にした地図をちょっと取り出して、古代ギリシャ、つまり紀元前のプラトンとかアリストテレスの時代から現代までこの本で触れられる歴史と地理を確認してみます。わずか200ページぐらいの本なんですが、扱われる歴史は、2500年ぐらいの長い歴史的なスパンがあります。地理的には、狩猟権力の出現を語る第一章から第三章までがヨーロッパの地中海世界、続いて、アメリカ大陸の先住民狩りを語る第四章、アフリカ大陸における黒人狩りが取り上げられる第五章と第六章では、植民地主義が展開する環大西洋世界が舞台になっています。そして七章から一二章まででは、第九章のアメリカにおける黒人リンチを除けば、貧民狩り、外国人労働者の排斥、ユダヤ人狩り、不法滞在者の追放などが取り上げられながら、再度近現代のヨーロッパ世界に立ち戻って戻っていく構成に本書はなっています。
そして、「被食者に関する理論」に関しては、アリストテレスの『政治学』第一巻で定式化された「自然に基づく奴隷」を嚆矢とし、「新大陸」では神学者セプールベタによる「先天的奴隷論」、それがいわば世俗化された生物学的人種理論というかたちで変奏されていくのが本書を通して見えてきます。
こうした『人間狩り』の議論はその「狩る」という点において、先ほど渡名喜さんの紹介にあった『ドローンの哲学』と共通します。渡名喜さんの説明にあったようなテロリズムとの戦争という、非対照的な戦争の枠組みのなかで、戦場は、対等な人間同士が戦う舞台というよりも、ドローンが一方的に人を狩るような狩猟場になっています。
これまで述べてきたことを別の仕方でまとめると、『人間狩り』は暴力論です。この点で、アプローチは違えど、酒井隆史さんの『暴力の哲学』と問題意識が非常に近いです。この著作は2003年のイラク戦争後の状況で書かれた本です。酒井さんはこの本のなかで、暴力はいけないと、非暴力が唱えられるけれども、そのときに、なんでそういった暴力が生まれているのかを精査せずに、それをすっ飛ばしてしまうと、恐怖を煽り、治安(セキュリティ)を求めるような言説に乗っかって、ときには暴力的な取り締まりに加担さえすることがあることを強調しています。つまり、どういうかたちで暴力が生まれるのか、暴力が発動するメカニズムを考察し、それを評価しときには敵対性を持って臨むことを「反暴力」という概念で捉えていますが、そういった議論と『人間狩り』とはすごく通底する部分があります。
そしてもう一点、先ほど、環大西洋的な広がりという点で、これは私と渡名喜さんの共通の先輩であり友人でもある中村隆之さん、カリブ海文学を専門にされて、特にエドゥアール・グリッサンを中心にして、フランツ・ファノンなどの黒人文学や思想、最近では音楽などについても手広く研究されている方が解説を書かれている『黒人と白人の世界史』という本がまさに、奴隷制があって、人種の概念が生まれたのであってその逆ではないという歴史を論じています。シャマユーの短い本の中では飛び飛びで十分には扱われていない歴史が詳細に描かれています。
シャマユーの著作に通じるもの
今日のメインテーマである『統治不能社会』に関連づけると、少し舞台裏めいた話になりますが、三人でどういう共通項があるんだと簡単にディスカッションをメールでさせてもらった際に、シャマユーは割と具体的な歴史的文脈の中で概念を適用する人で、その文脈から引き離していくのを本人は嫌うようなところがあるのかなと思っていました。そういう意味では、『統治不能社会』は、『人間狩り』や『ドローンの哲学』までに出ていたモチーフからは独立していると思う一方、先ほど信友さんが話されたことと通じるのかなと思う面もあって少し迷います。あえてつなげるのであれば、『人間狩り』とか『ドローンの哲学』で考察された暴力や戦争のテーマは、権威主義に関するシュミットの形式で言うと、「強い国家」という部分にすごく重なるように思います。まさに『統治不能社会』の中で書かれているのは株主優先の自由市場社会に従わないような者は経営者も労働者もすべて排除すると、その外にやるんだ、その外に追いやられたときに何にさらされるのかと言えば、権威主義であり、強い国家であり、取り締まる装置なのだと思います。ちょっとこの辺りについてはお二方にちょっと議論をお伺いしたいなと考えています。私のほうからはここで『人間狩り』の紹介を終えます。
(第4回に続く)