狩り立てられ、駆り立てられるわたしたち―「知」はどう抗えるか
この記事は2023年2月25日、台東区は田原町にある書店「Readin’ Writin’ BOOKSTORE」で行われたオンライン・イベント「グレゴワール・シャマユーから現代日本の論点を考える」を再構成したものです。 思想史家であるグレゴワール・シャマユーの著作の訳者3人(信友建志氏、渡名喜庸哲氏、平田周氏)とともに、『統治不能社会―権威主義的ネオリベラル主義の系譜学 』を代表とした4冊の訳書(『ドローンの哲学―遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争』、『人体実験の哲学―「卑しい体」がつくる医学、技術、権力の歴史』、『人間狩り―狩猟権力の歴史と哲学』)を通してシャマユーの思想の源流やこれらのテキストを読み解きながら、権力が生まれて実装される過程や現代の日本に通じる論点、シャマユー自身の多様な関心の根本にあるものに迫っていきます。
第4回は『統治不能社会』と前三作との共通点から、現代日本で起こっている自己管理や大学自治の問題等について議論します。
『統治不能社会』と前三作の共通点
司会:まずは平田先生もお話されていた前三作と『統治不能社会』の違いというところをお伺いできればと思います。
信友:僕は実はあまり違うとは思っていないのです。渡名喜さんがおっしゃったような身体の問題というのは確かにいい切り口で、身体というのは収奪すべき場なんですよね。言ってみればファームになるのです。その収奪するべき場は、たとえば、『人体実験の哲学』のときだったら具体的に、医学実験における身体であったであろう。『人間狩り』の場合、動物と人間の境界から、狩られるべき人間とは、という問題であっただろう。そして、『ドローンの哲学』では、じゃあその人間をどうやって狩ろうか、そのとき身体をどうしよう、と。「非対称戦争」という言葉が出ましたけれども、確かに『ドローンの哲学』において、この非対称性というのは本当に際立つわけです。一方はもう身体のない、あるいは機械の身体と、機械の目と人間の指でしかないもの、他方には狩られるべき身体があるという形になっています。
『統治不能社会』の中における人間も、そういったポジションに位置づけられます。そのためのテクノロジーが、資本主義の社会の中でどうやってソフィスティケイトされていくのか。たとえば今、我々オンラインワーカーたちにとっては、渡名喜さんもお話しされていましたけれども、身体の管理は自分で完璧に行わなければいけないにもかかわらず、その管理は24時間監視されているかもしれないわけです。身体を持っている者たちは、もう本当に狩られるだけの者たちなのではないか。
たとえば『統治不能社会』の中で描かれているような経済は、ドローンと同じで、どこにでも飛んで行って、どこでも狩りをすることができる。他方で我々のように身体があって、この土地に残らざるを得ない者たちはいいカモだから常に狩られ続け、税金も上がり続け、物価も上がり続ける。多国籍で、ぶんぶんどっか飛んでいけてしまう人たちは、あいつらに税金かけると逃げていってしまってもったいないから、逃げられない貧乏人から取ろうぜというコンセンサスは、はっきりしている。そうすると民主主義国家に生きている我々人間は、単に民主主義の成員というだけではなくて、逃げられない身体を持っている者ではなかろうか。そして、逃げられない身体を持っているからこそ狩られる者なのです。
他方で『統治不能社会』で描かれるような、経済的な自由をもつ人たちは身体を持っているのだろうか? そう考えると、テクノロジーが資本主義社会の中で高度に抽象化されると社会はどうなるのだろう、そこには逃げられない我々、残りカスの身体としての民主主義国家の成員の我々がいるだけなんじゃないだろうか、と思っています。
渡名喜:たしかに『人間狩り』と『ドローンの哲学』は似ているわけですけれども、でも、『統治不能社会』を最初読んだときに、『ドローンの哲学』と似ているところもやはりあるとは思いました。少なくとも物の見方が似ている。フーコーはやはり20世紀よりもむしろ18世紀あたりを詳しく論じていたわけじゃないですか。それで、1984年に亡くなるので、適切な予言はしていたけれども、いわゆる新自由主義社会の現実というのはそれほど観察せずに亡くなってしまった。もちろん、豊かな遺産を残してくれたことは確かだと思います。それで、シャマユーはむしろ2000年代以降のこの社会をどう理解するかというときに、そこから遡って系譜学的な作業をやっていると思うんですね。その角度から見ると『ドローンの哲学』と『統治不能社会』は、もちろん主題は違うものであっても、今起きている現実を辿り直すというアプローチは似ていると思うんです。しかも、そのときにこんな文献をどこから手に入れるんだろうという文献を探り出しながらという手つきも似てると思います。そうすると、今度は『人間狩り』のほうが、かなり昔から話を始める点で歴史的なアプローチなので違ってくることにはなります。
ただ、以前平田さんと一緒に神戸大学の科学技術史をなさっている塚原東吾先生の研究会に呼んでいただいて、それもオンラインだったんですけれども、この『人間狩り』と『ドローンの哲学』についてお話をする機会がありました。そのときに参加なさっていた近藤祉秋さんという人類学者の方がとても面白いことを言っていました。シャマユーの『人間狩り』を読んでみたけれども近藤さんがフィールドとしている地域における狩りとは全然違う、とおっしゃる。その地域の狩りは何も狩らないで、むしろ罠を仕掛けて待つだけ。それに対してシャマユーの狩りって、能動的に狩ってますよね、というようなことをおっしゃっていました。
平田:フランス的に……。
渡名喜:そう。フランス的。フランス語で狩りは「chasse」ですが、これは英語の「チェイス」に相当します。チェイスはもちろん「狩り」という意味もありますが、カーチェイスがそうであるように、追いかけることでもあります。僕はYouTubeで警察のカーチェイスの動画をよく見るんですが、そこでは「狩り」ということでも、追いかけて、駆り立てることが問題になっている。ドローンもまさに、どこで狙ってるかわからず、人々は駆り立てられ、追い立てられる。だから、このように、狩られる身体というのは同時に追い立てられて駆り立てられる身体なわけですよね。
平田:確かにすごい駆り立ててますよね。
自己の駆り立てと最適化
渡名喜:『統治不能社会』についても、先ほど信友さんがおっしゃったように、まさしく駆り立てて、ハッピーで元気でパフォーマンスのよい自分になるような事態が問題になってますよね。たとえば本日も、Zoomという遠隔通信技術のおかげで、まさに信友さんが入試業務っていう1日がかりの相当大変な業務のあとに東京のこういう会に参加できるようになっている。我々も、これまでだったらありえないかたちで、連続した会議を体験させられますよね。しかもそのときに、自宅でやる場合には自分の機材とか接続料金とかも自分で用意しなければならない。雇用者側としては、そうした技術的環境や場所も含めて、外部委託というか、個々の労働者に責任転嫁する形になりますが、我々個々人の側は、ちゃんとしたパフォーマンスを自分で管理するように駆り立てられていますよね。こうしたことは一貫してるなって僕は思っています。
平田:その「駆り立てられる」というところと、まさに今、信友さんから出た「逃げられない」っていうモチーフとつながりますよね。
渡名喜:そう。それは非常に重要だと思います。先ほど最後に信友さんがおっしゃった自己の統治の魅力にも関わります。つまり、ネオリベ的な自己の統治が魅力的であるという話はすごく重要で、それはフーコーが最晩年に言っていたことと字面的にはほとんど一緒だと思うんですよ。つまり、自己のテクノロジー、自己の統治です。もちろんフーコーが言おうとしていたのは、人々を駆り立てるメカニズムをしっかり把握したうえでの自己の統治ということだったと思うんですけども、それが「自己の統治」っていう言葉尻では一緒だけれども、まさに逃げられない形で、駆り立てられる形での自己の統治みたいなものが前面に出てきている。つまり、最適化です。個人化というより、むしろ最適化が問題になってると思います。それこそがシャマユーが描き出したことなんじゃないのかなというふうに思っています。
信友:最適化に失敗する人間はもう全部適応障害にされてしまうというね。
渡名喜:そうそう、まさにそうです。
信友:恐ろしい時代ですね。あとがきに書いたことでもあるのですが、ポストモダン的なフォームが換骨奪胎されて向こうに上手に使われてしまっています。ちょっと前にイスラエル軍が条里制とか平滑空間とかいうドゥルーズ=ガタリの用語を軍事マニュアルで使っているというのが話題になったことがありました。そのあたりの状況も踏まえて、シャマユーのあらゆるところに哲学を持ち込もうという強い意志を参考にしつつ、中途半端に応用されてしまった言葉を取り返したいと思うところもありました。今おっしゃっていたように、自己への統治とネオリベという形でフーコーを読んでしまうことも可能なわけです。特にフーコーの場合は、ネオリベとの関係は難しいテーマになります。そのあたりも含めて、哲学する意思ですよね。渡名喜さんがおっしゃったように、ドローンが日本でも実現するとき、平田さんがおっしゃっていたように、暴力に対抗して治安の安全が保たれるならいいじゃないか、それこそ民主主義的な防衛なんじゃないだろうかと言われたときに、我々は哲学の言葉で対抗できるのかが、テーマにもなりそうな気もするんです。平田さんは「反暴力」という言葉を使われておりましたが、今のところのお考えはありますか。
協調における個人主義
平田:なるほど。まず、3冊の共通点みたいなところにちょっと立ち戻らせてもらうと。渡名喜さんがスライドで引いていたカンギレムの言葉がこの本にもやっぱすごくあるのかなと思っています。この本の冒頭で、経営の哲学みたいなのはあるけど、それは、「哲学は神学の婢(はしため)」ならぬ「マネジメントの婢」にとどまっていると述べた上で、企業の批判哲学という異質な新しいモチーフを提出していますよね。信友さんも言われているように、単なるネオリベラリズムの理論的著作というよりは、もう一本『統治不能社会』を貫く線として企業の批判哲学があって、そこに他の3冊と共通するカンギレム的な衣鉢を継ぐ試みもあるというのがまず一点です。
対抗策の話に移ると、この本はいわゆるネオリベラリズムや、一見ネオリベラリズムとは反対であるかのように見える企業の社会的な責任やステークホルダー論などがごった煮されて、今にまで続くような大きい支配的な言説になっていることを考察しています。そうした様々なマネージメントの言説は、一方で70年代まであったような、ある種の自主管理論とかそういった左派に対する巨大な反動なのであり、反動として議論が収束していくのだと語られています。本の最後に、中村隆之さんが書かれた本(『魂の形式−コレット・マニー論』カンパニー社、2021年)で再び日本でも話題になったコレット・マニーの名前が出てきて二つの対立が描き出されています。『統治不能社会』の357頁には、一方では、コレット・マニーが主張した「協調における個人主義」が掲げられ、もう一方では、「個人主義下の競争」が推進されます。我々が議論してきた「駆り立てられる」ことをめぐる議論は「個人主義下の競争」に対応します。逆に、この本の中では「ネオリベラリズムの反対はケインズ主義じゃない」、そうではなくて自主管理論だということを強く打ち出していて、それに対応するのが「協調における個人主義」です。我々がこう疲れて、嫌々ながらも強いられている個人主義下の競争に変わるような、なんか協調における個人主義っていうものが一つ、依って立つスローガンやモットー、それらに類するものになるのではないかというのがシャマユーにあるオルタナティブなヴィジョンですよね。
もう一点付け加えると、先ほどから話している市場原理に対して従わない者は狩られる対象になるみたいな話で言うと、2020年代にジョージ・フロイドさんが絞殺されて再燃したブラック・ライブズ・マター運動が焦点化した警察の暴力(police brutality)の問題がありますよね。これは狩り的なもの、狩猟権力的なもの、治安的な言説をもう一度力強く押し返すような動きとして捉えられるのではないかと思って、そういった対抗言説に関心を持っています。
政治権力と技術産業の結託―源流にあるトリガーを見きわめる
渡名喜:先ほど信友さんが問題提起された、たとえば日本でも今後続いていくようなドローンの活用などに対してどう抗っていくかというのは根本的な問題だとは思います。ただ、同時に、まさしくアリエズとラッツァラートが言っているように(『戦争と資本―統合された世界資本主義とグローバルな内線』)、内戦というのは決して実際に行われている戦争ではなくて、まさに資本主義自体が社会全体にけしかけているものとなっている。その点も見る必要があると思います。少なくともこういうドローンの、とくに日本における使用とかっていうのは、決して単にそれが技術的に優れているからという観点のみから行われているだけではないはずです。コスパがいいからではなくて、明らかに産業と政治、つまり「権力」と、そして大学などの研究機関、「知」ですね、これらが結合する形でなされていますよね。
だから、たとえば日本学術会議の問題だって、発端になっているのは防衛装備庁の研究に対して普通の大学の研究者がアプライできるようにすることの是非が問題でした。それが論点がすり替えられて軍事研究の是非みたいになっているけれども、もともとは軍事研究というより、防衛装備庁が研究資金を大幅に提供しようとする動向があり、それに対して日本学術会議が出した見解に対してものすごいバックラッシュがあったわけです。本来そこには、科研費や運営公費金など、権力と知の関係の問題、大学における研究に対する公的助成をどうするか、大学の自律性をどうするかという問題があったはずです。現在は、大学の自治のほうまで、特に国立大学は非常に攻撃を受けて削られていると思います。東京芸大ではピアノが買えなくなるぐらいにいたっているようです。つまり、決して誇張ではなくて、技術と権力と知とを融合させる、あるいはかつて大学がそれなりに担保していた「知」が自律性を失って行くという、一貫した流れというのがあると思います。だから、抗うというときにも、ドローンに対して抗うというよりはその構造というのがまずは問題視されるべきだと思います。それで我々が少なくともできることとしては、なにがどうつながっているのかしっかり見ていかなきゃいけないなと思っています。
ただ、別の論点の話をしていいですか。先ほど信友さんの最初の話や、今平田さんが仰ったような自主管理的なものに対する反動という話との関連です。『統治不能社会』の最初のほうは、つまりマネジメントの思想みたいなものがどうやってできてきたのかが問題になっています。これについては、信友さんが解題で言及されているリュック・ボルタンスキーとシャペロの『資本主義の新たな精神』に結構似ているんですよね。ここでも、かつての60年代・70年代までの福祉国家体制、規律訓練型の社会における企業精神が明らかに80年代以降変わっていってると、ネオリベ化しているという分析がなされています。まさにマネジメントという思想が「新たな精神」なわけです。しかもボルタンスキーとシャペロは、ここではドゥルーズ=ガタリが「リゾーム」という言葉を使って描いたような事態が生じているという説明をするんですよ。だから、概略的には、福祉国家が解体していって自主管理論が頓挫してしまい、そのあとに生まれたこの社会をどう説明しようかということが問題になっているわけですが、こうした論点自体は、シャマユーの独創ではなくて、みんないろんな角度でやっていると思うんですね。
それからやはり、今この本を読みながら同時に読んでいたのがこのアラン・シュピオの『フィラデルフィアの精神』という本です。これはやっぱりすごく面白くて、ここでもやっぱりハイエクが出てくるんですよ。ハイエクがそのワイマールから学んだものは何かということが問題になっている。「フィラデルフィアの精神」というのは、信友さんが「共有体」や「共有地」と仰ったけども、労働運動を支えてきた労働組合だとか社会保障とか、そういう共有であるものを支えるような発想がまさにフィラデルフィアの精神と言われています。第二次大戦後に、過去の反省を踏まえてこうした精神を唱える宣言がILOからが出たんだけれども、こうした精神をぶっ壊そうとする勢力が戦後に出てきて、これがウルトラリベラリズムにつながっていくとシュピオはいいます。その発端がやっぱりハイエクだよとシュピオは念を押す。
ここは結構重要で、つまり、ボルタンスキーだと単に変わっていったという記述がなされますが、シュピオもそうだしシャマユーもそうですが、もちろん変わっていったことは確かだけど、その変化をもたらすトリガーというのはもっと前にあって、その源流がまさしくハイエクとか、信友さんがハイエク=シュミット主義って仰るようなものだと指摘しているわけです。フーコーもオルド自由主義があるということは言っていたと思うんですが、こういうふうにその後の流れを巻き起こすトリガーがどこにあったのかが指摘されているのかなと思います。
(第5回に続く)