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オックスフォード哲学者奇行

完璧主義者のパーフィット

前回も述べたように、エドモンズ(David Edmonds)によるパーフィットの伝記が出たので、早速おもしろく読んだ。とりわけ、オールソウルズコレッジにフェローとして残るために、苦労に苦労を重ねて『理由と人格』を書き上げるまでの話は、手に汗にぎる、涙なくして読むことのできない物語……とまでは言えないにせよ、大変おもしろかった。『アイリス』(アイリス・マードック)、『ビューティフル・マインド』(ジョン・ナッシュ)、『博士と彼女のセオリー』(スティーブン・ホーキング)のような映画化を期待したいところだが、パーフィットの知名度からするといくぶん期待薄なので、エドモンズの伝記をもとに、以下で私なりに物語を説明してみよう。

1942年生まれのパーフィットは、英国の名門イートン校を出てからオックスフォード大学に進学し、歴史学を学んだ。2年ほどの米国留学中に専門を哲学に変え、帰国後まもなくして難関オールソウルズコレッジの試験に合格し、1967年にフェローとなった。オールソウルズはオックスフォード大学の中でも一切の教育義務がない特権的なコレッジである。

このフェロー(プライズフェロー)の任期は最長7年で、その後もオールソウルズに残るにはリサーチフェローになる必要があった。彼はジュニアリサーチフェローに応募のさいは3冊の本を書くと約束し、1974年に無事にフェローとなる。しかし、それらの本は次の7年の間に一冊も出版されなかった。

そのため、1981年、退職まで身分が保証されるシニアリサーチフェローにパーフィットが応募したときには、ヘアやロールズやドゥウォーキンといった名立たる哲学者からの推薦があったにも拘らず、彼の人事は難航した。選考委員会では全会一致でパーフィットの昇任が認められた。ところが、日本の大学の教授会に相当する、コレッジの構成員からなる合議体では、単著が一冊もないパーフィットの研究能力に疑義が出た。議論の末、1984年までリサーチフェローを延長するという妥協策が提案され、パーフィットの首はかろうじてつながることになった。パーフィットを推していたバーリンは、後にこれを「パーフィット・スキャンダル」と呼んで嘆いたという[1]

とはいえ、この間、パーフィットは決して遊んでいたわけではない。1971年に出た「人格の同一性」という最初の論文で一躍有名になって以降、彼は何本かの論文を書いていた。オックスフォード大学出版局から単著を出す計画も進んでいた。だが、本が完成に至ることはなかった。問題は彼の完璧主義だった。

オックスフォード大学出版局。

仕事において高い完成度を目指すことは望ましいことだ。だが、その基準が高すぎると何も生み出せなくなってしまう。これが完璧主義の病である。研究者がこの病を患うと、予定されていた学会発表に姿を現さないとか、ほぼできているはずの博士論文が何年にもわたって完成しないといった症状が出る。もちろん、業績稼ぎのために質の悪い論文や本を次々と出版するのも困りものだが、優れた研究者なのに自分に厳しすぎて何も公表できないのも遺憾である。

そもそもパーフィットの名前は完璧(perfect)を意味する中世英語(parfit)に由来するそうだが[2]、彼の場合、完璧主義は膏肓に入っていた。友人の哲学者であるジョナサン・グラバーも、パーフィットが出版できない真の原因は、「ほとんどノイローゼと言えるほどの」完璧主義だと考えていた[3]。チェスが得意だったパーフィットは、相手の駒の動きをあらかじめ読んでから駒を打つように、相手のあらゆる反論を想定してからでないと、本を出版することはできないと考えていたようだ。

彼は自分だけでなく、他人の著作にも完璧さを求めていた。頼まれれば他人の草稿に迅速かつ丁寧にコメントを付けるパーフィットは、研究者や学生から大いに感謝される一方で、ときに彼らを困らせもした。パーフィットとR・M・ヘアの話がおもしろい。次の話は、1919年生まれのヘアはパーフィットより20歳以上も年上で、当時はすでに、権威あるホワイト道徳哲学教授であったことを前提に読んでほしい。

1980年ごろ、ヘアが『道徳的に考えること』の草稿をパーフィットに送り、コメントを求めた。パーフィットは何枚もの紙に改善点を記して送り返したが、その際に、原稿は不十分なところがあるので出版を遅らせるべきだ、とヘアに伝えた。パーフィットの考えでは、未来の人々のためにはヘアが完全に正しい答を出すことが重要だった。しかしヘアは、完璧さは必要ではないと応じた。「私は、倫理学の研究に終止符を打つような本を書こうとしているのではない。」重要なのは議論を活性化させる本を書くことだとヘアは考えていた。「われわれ二人は、本を書く術について根本的に意見が異なっているようだ」とヘアはパーフィットに伝えたという[4]。結局、ヘアは翌年に本を出版した[5]

しかし、ヘアの賢明な意見も、パーフィットにはどこ吹く風だったようだ。後年、パーフィットがオックスフォード倫理学のシリーズの編纂に関わったときに、執筆者たちと同じようなやりとりをしている。パーフィットの弟子で良き友人でもあるラリー・テムキンは、このシリーズで出版予定の彼の草稿にパーフィットが何年にもわたって多くのコメントを付けてきたのに辛抱強く対応してきたが、ようやく1000ページほどの原稿が完成したと思ったら、パーフィットが全てのページにコメントを付けたファイルをメールに添付して送ってきたので、ついにブチ切れた。

テムキン:デレク、あなたのコメントは欲しくない! もうたくさんだ!

パーフィット:でも、ラリー、君は自分の本を完璧にしたくないのかい?

テムキン:いいえ、私は自分の本を完成させたいんです![6]

パーフィットは、提出期限がある大学院生の論文に対しても、まるで永遠に時間があるかのようにコメントを付け続けた。あるとき、早く博士論文を完成させて博士号を取らないとお金が尽きてしまうと落ち込んでいた学生に対して、パーフィットはこう伝えてその学生を驚かせた。「それなら1年前に口頭試問を受ければよかったのに。私は君が論文をもっとよくしたいんだろうとばかり思っていたよ。」また彼は、博士論文をほぼ完成させた学生に対して、コメントをもらうために草稿を200人に送るべきだと伝えた。その学生は、「それは考えうる限り最悪の助言でした」と後に述べたという[7]

さて、1981年にシニアリサーチフェローになることができなかったパーフィットは、大いにショックを受けたが、3年の任期延長は認められたのだった。彼はオックスフォード大学出版局の編集者と相談し、原稿を完成させるまでの残り時間が実質約20ヶ月しかないことを知ると、可能な限り自室に引きこもり、死にものぐるいで本を書き始めた[8]。そして、合理性と人格同一性と未来の人々という、それぞれ3冊の本のテーマになるはずだったものをくっつけて、のちに『理由と人格』と名付けられる本を出すことにした。

こうして、『理由と人格』の基本的な内容は早い段階で完成したのだが、パーフィットはコピーした草稿を国内外の何十人もの研究者に送りつけ、返ってきたコメントに応答する形で著作の内容をどんどん膨らませていった。パーフィットは来る日も来る日もこの作業を続け、ジョン・ブルームやジェフ・マクマハンなど、その後ホワイト道徳哲学教授になる若き優秀な研究者たちの手を借りながら作業を進めた。期限が迫ってくると、しまいには補論の数ページをジョン・ブルームが執筆した。パーフィットとオックスフォード大学出版局との特別な取り決めで、書き上がった原稿は一章ずつ出版社に送られて組版がなされていった。

最後の一週間はパーフィットは倒れる寸前だった。毎晩明け方までコンピュータに向かって書き続け、睡眠薬とウォッカを一緒に飲んで気絶するように寝た。最終〆切の二日前、パーフィットは友人の研究者のスーザン・ハーリーとビル・ユウォルドに電話した。パーフィット曰く、結論部の草稿を書き上げたが、もはや頭が回らず、「文字が紙の上を泳いでいる」ため、自分は睡眠を取る必要がある。ついては最後の章を推敲して、オックスフォード大学出版局に必ず持っていってくれと二人に頼んで電話を切った。もう無茶苦茶である。

そこで二人が草稿を読んだところ、最後は次のニーチェの引用で終わっていた。

水平線はついに再びわれわれに開けたようだ、まだ明るくなってはいないにしても、われわれの船はついに再び出帆することができる、あらゆる危険を冒して出帆することができるのだ。認識者の冒険のすべては、再び許された。海が、われわれの海が、再び眼前に開けた。おそらく、こんなに「開けた海」は、かつてあったためしはないだろう。[9]

しかし、この引用の直前にある段落がパッとしなかったため、二人は思い切ってその段落を削除し、さらにニーチェの引用はエピグラフとして本の冒頭に置くことに決めた。そこで結論部の最後は、現在あるような、有名な次の段落で終わることになった。

(…)進歩が最も大きくありうるのは、これらの科学や芸術の中で今一番進展していないものにおいてである。私の主張したところでは、これは非宗教的倫理学である。(…)神への不信仰が多数派によって公然と認められるということはごく最近の出来事であって、まだ完結していない。この出来事はそれほど最近のことだから、非宗教的倫理学はごく初期の段階にある。数学におけるようにわれわれがすべて意見の一致に到達するかどうか、われわれにはまだ予言できない。倫理学がこれからどう発展するかを知らないわれわれが、高い望みを抱くことは不合理ではないのである。[10]

パーフィットが翌日のお昼に目を覚ますと、ユウォルドは電話で、最終章のデータが入ったフロッピーをオックスフォード大学出版局に持っていたことと、推敲の内容をパーフィットに伝えた。長い沈黙が続いたあと、パーフィットは、二人の判断は良かったと述べた。

その後も出版まで紆余曲折があった。パーフィットは、上述のニーチェの引用を口実にして、彼自身が撮影した霧深いヴェニスの写真を表紙に使うことに決めていたが、現在のカラープリンタで使われるような通常の4色ではなく、6色を用いて印刷することを要求して出版社を困らせた(これは実現されなかった)。また、一章ずつ組版していったために、「ネーゲルの脳」という補論の後半部分が印刷されていないことに本が完成するまで誰も気付かなかった。あわてた出版社は、残りの半分を索引の後ろにくっつけた上で、正誤表を挟み込んで出版することを提案した。しかし、パーフィットが「ネーゲルの脳」の分割を頑固に拒んだために、結局、すでに印刷されていた3000部が出版直前に廃棄された[11]

『理由と人格(Reasons and Persons)』。

そんなこんながありつつも、パーフィットはどうにか期日までに出版に漕ぎつけた。『理由と人格』は直ちに「古典」となり、その後、オックスフォード大学出版局が出した哲学書の中では、過去50年間で一番売れた本になった。オールソウルズでも、本書の高い価値が認められ、1984年の人事ではパーフィットは文句なくシニアリサーチフェローに選ばれた[12]。その後、パーフィットはオールソウルズで末永く――そして、在職中は一冊も本を完成させることなく――幸せな研究人生を送ったのだった[13]

 

[1] Edmonds, David, Parfit: A Philosopher and His Mission to Save Morality (Princeton University Press, 2023), ch. 10. および Dancy, Jonathan, “Derek Parfit,” Biographical Memoirs of Fellows of the British Academy, XIX (2020), 37-57.

[2] Edmonds, Preface.

[3] Edmonds, ch. 10.

[4] Ibid.

[5] Hare, R. M., Moral Thinking: Its Levels, Method, and Point (Clarendon Press, 1981).(翻訳:R. M. ヘア『道徳的に考えること:レベル・方法・要点』(内井惣七・山内友三郎監訳、勁草書房、1994年)

[6] Edmonds, ch. 16.

[7] Edmonds, ch. 17.

[8] Edmonds, ch. 11.  以下の出版に至るまでの話はすべてこの章を参照した。

[9] フリードリッヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、筑摩書房、1993年、368-369頁。

[10] Parfit, Derek, Reasons and Persons (Oxford University Press, 1984), p. 454.(翻訳:『理由と人格:非人格性の倫理へ』森村進訳、勁草書房、1998年、616頁。引用箇所は少し訳を修正した)

[11] Edmonds, ch. 11.

[12] Edmonds, ch. 14.

[13] パーフィットは、2010年に67歳で定年退職した。その2年後にようやく大著『重要なことについて』を出し、それから約5年後の2017年に息を引き取った。

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著者略歴

  1. 児玉 聡(こだま・さとし)

    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科専任講師等を経て現在,京都大学大学院文学研究科教授。
    主な著書に『COVID-19の倫理学』(ナカニシヤ出版,2022年),『実践・倫理学』(勁草書房,2020年),『正義論』(共著,法律文化社,2019年),『入門・倫理学』(共編,勁草書房,2018年),『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人,2013年),『功利主義入門』(筑摩書房,2012年),『功利と直観』(勁草書房,2010年,日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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