明石書店のwebマガジン

MENU

オックスフォード哲学者奇行

[無料公開]オックスフォードに行ったら大学がなかった話

「オックスフォード哲学者奇行」は2019年8月より連載を開始し、2021年12月に完結しました(全30回)。長い間ご支援頂きありがとうございました。

連載完結後に本文を加筆修正し、“こぼればなし”23本と“英国にサバティカルに行く人のために”、さらにイラストマップも新たに加えて、2022年11月に書籍版『オックスフォード哲学者奇行』を発刊しました。ぜひ手に取ってご覧頂ければ幸いです。

ここでは連載第1回「オックスフォードに行ったら大学がなかった話」を無料公開します(内容は連載時のものです)。

 【書籍版 目次】

 Chapter 1 オックスフォードに行ったら大学がなかった話
 Chapter 2 ライルのカテゴリーミステイク
 Chapter 3 「ロンが生きてるなんて珍しいね」
 Chapter 4 エアの新婚旅行とウィーン学団
 Chapter 5 哲学者のための学校――オックスフォードの哲学教育(1)
 Chapter 6 ライルの大学院改革――オックスフォードの哲学教育(2)
 Chapter 7 どのオースティン?
 Chapter 8 仲間に噛みつく猟犬――オースティンの二つの研究会(1)
 Chapter 9 哲学の生じる場――オースティンの二つの研究会(2)
 Chapter 10 苦悩する男、ハート
 Chapter 11 怒りに震えるアンスコム(1)
 Chapter 12 怒りに震えるアンスコム(2)
 Chapter 13 アンスコムと堕落した哲学者たち
 Chapter 14 ボヘミアンのマードック
 Chapter 15 マードックと二人の教師たち(1)
 Chapter 16 マードックと二人の教師たち(2)
 Chapter 17 フットとマードックと平底ボートの靴
 Chapter 18 ローラー車に轢かれるフット
 Chapter 19 ミジリーと配管工
 Chapter 20 悩みがないことに悩むウォーノック
 Chapter 21 ハンプシャーの尋問と試問
 Chapter 22 囚われのヘア
 Chapter 23 怖いぐらい賢いストローソン
 Chapter 24 反理論家ウィリアムズの誕生(1)
 Chapter 25 反理論家ウィリアムズの誕生(2)
 Chapter 26 哲学の修道僧、パーフィット
 Chapter 27 パーフィットと「重要な仕事」
 Chapter 28 ベジタリアンになったピーター・シンガー
 Chapter 29 ウィトゲンシュタインのオックスフォード
 Chapter 30 オックスフォードのウィトゲンシュタイン
 Side Story 英国にサバティカルに行く人のために
 あとがき
 人名索引/事項索引

 《こぼればなし》
 1 ライルとエアの旅行中の会話
 2 エアとマイク・タイソンの共通点
 3 石黒ひでのチュートリアル体験
 4 オースティンの求婚
 5 アンスコムの卒業試験
 6 アンスコムがズボンを脱いだ話の真偽
 7 アンスコムとギーチの出会い
 8 アンスコムの家と子どもたち
 9 教育者としてのアンスコム
 10 カトリック教徒としてのアンスコム
 11 アンスコムとギーチの夫婦関係
 12 良心的兵役拒否者のギーチ
 13 オースティンとアンスコムの共通点
 14 オックスフォードとケンブリッジを結ぶ鉄道
 15 サッチャーの不名誉博士号
 16 オースティンの耐えられない軽さ
 17 アイリス愛護協会
 18 マードックのウィトゲンシュタイン体験
 19 フットの映画館での経験
 20 フットの離婚
 21 マードックとミジリーのポスト争い
 22 パーフィットとチベット仏教
 23 ロワイヨモンの決戦


 

オックスフォードに行ったら大学がなかった話

 

サバティカルでオックスフォードに来た。サバティカルとはこれまで大学で研究・教育・雑用に励んできた見返りとして教員に与えられる研究休暇のことだ。「今までがんばって働いたので、しばらく自由に研究してきてくださいね」という性質のものであり、「サバティカルを取った人にはもれなく帰国後にたくさん役職が付いてきますよ」という性質のものではない。一応このように念を押したうえで、今回のサバティカルを可能にしてくださった某研究科長や同僚のみなさまに深く感謝して、めでたくこの連載を終えたいと思う。じゃなくて、連載を始めたいと思う。

サバティカルでオックスフォードに来た。今年の4月に渡英して、2週間ほどしばらくショートステイのフラットに泊まり、その間に1年間住める家を探した。今回は、そのショートステイ中に中国人夫妻にオックスフォード大学を案内してもらったときの話である。

この中国人夫妻の旦那と私は、以前私がロンドン留学していたときに同じ寮にいたので、約20年来の知己だ。彼はしばらく英国で仕事をしたあと、オックスフォードで勉強中と聞いていた。連絡を取ってみると、結婚してこちらに住んでいると言う。そこでさっそく再会したというわけだ。

土曜の午前中にシティセンターからやや東にあるモードレン橋のあたりで待ち合わせをして、まずモードレンコレッジヘ。Magdalenと書いてモードレンと読ませるこのコレッジは、毎年5月1日の早朝(メイモーニング)に聖歌隊が合唱を披露することでも有名だ。しかしあいにく見学は午後からということだったので、その日はあきらめた。

モードレンコレッジ。5月1日にはチャペルの塔の上で聖歌隊が賛美歌を歌い春の訪れを祝う。なお、労組の活動とは関係がない。

それから大学の植物園の脇を抜けてマートンコレッジへ。ここは現天皇が皇太子のときに2年間学んだ場所で、今年5月の即位のときにもニュースで取り上げられていた[1]。が、ここも建物を見ただけで中には入らず、マートンフィールドというきれいな芝生の運動場のそばを歩いてクライストチャーチへ。ここは朝から見学可能だったので中に入ることにした。

マートンコレッジ。『ロード・オブ・ザ・リング』の作者のトールキン、詩人のT.S.エリオット、動物行動学者のニコ・ティンバーゲン、フランクフルト学派のテオドール・アドルノなどが著名な「マートニアン」として知られている。

クライストチャーチといっても教会ではなくコレッジのひとつである。現在はハリー・ポッターの映画の撮影に使われていたことでよく知られており、観光客も高い入場料を払ってここに入っている。17世紀の清教徒革命前夜には後に死刑となるチャールズI世が住んでおり、ハリー・ポッターの映画に出てくるダイニングホールが議会として使われていた。観光客が目の色を変えて喜ぶダイニングホールには、ここで学んだジョン・ロックの肖像画もある。また、『不思議の国のアリス』の著者であるルイス・キャロル(数学者)もここで研究していた。

クライストチャーチの南側の建物。見学可能な時間帯は大勢の観光客が入口付近に溢れている。

ところで、英国は博物館や美術館は無料で入れるのに、オックスフォードではコレッジを見学するのにお金を取る。しかも、コレッジごとに値段が違い、トリニティコレッジは3ポンドだがクライストチャーチは10ポンドも取る。クライストチャーチに入場料を払って入る観光客が年間40万人いるとのことだから、単純計算で年間約5億円の収入だ[2]

これに対して、日本は博物館や美術館は入場料を取るのに、京大も東大もキャンパスに入るのは無料。オックスフォードは国から補助をもらっているとはいえ私立だから、という声が聞こえてきそうだが、国立大学も独法化したので好きにすればよいのだ。東大は手始めに秋の銀杏拾いを有料化してはどうか。京大は観覧車を設置して大学を真の意味でレジャーランド化したらよいのではないか。時計台の上に展望台を作れば、五山の送り火のときなどはかなり稼げるだろうから、逼迫した予算の足しになるだろう。一部の学生だけに登らせるのはもったいない話だ。旧七帝大共通の年間フリーパスというのもよいかもしれない。

つい話が脱線したが、オックスフォード大学の学生証や職員証を持っていると、これらのコレッジや植物園などには無料で入れる。学生証・職員証を持っていれば学外者を数人同伴できるので、これで商売できそうなものだが、そういう人はまだ見かけたことがない。

クライストチャーチを見学したあと、ボードリアン図書館、トリニティコレッジ、ベイリオールコレッジ、セントジョンズコレッジ、ウースターコレッジなどの場所を教えてもらい、昼食後はさらにアシュモリアン博物館に入って中を一通り見学したあと、中国人夫妻とは別れることになった。

私「え、ちょっと待って。今朝からいろいろなコレッジやら図書館やらを案内してもらったけど、よく考えたらまだオックスフォード大学は案内してもらってないよ。大学(ユニヴァーシティ)はどこにあるの?」

友人「あのね、君、それはカテゴリーミステイクで、まさにライルが『心の概念』で論じている例だよ。オックスフォード大学というのはコレッジの集合体であって、それと別個に大学が存在するわけじゃないんだ。では、再見」

……などという会話はもちろん交わさなかったが、今回話したかったのは、上の(架空の)会話で友人が指摘しているカテゴリーミステイクである。これはどういうミステイクなのか。ネットに落ちている京大文学部の専修案内を見ると、哲学専修(いわゆる純哲)の専修案内には次のようにある。

「哲学専修は、文学部の中でも、研究対象の選択の自由度が最も高い場所の一つである。なんたって、名前が「哲学」。国文学や仏文学にまじって「文学」専修があるようなもの。一段と高いはずの分類項目が、より細かい項目の間に紛れている珍現象を哲学の業界用語では、カテゴリー・ミステイクと言う。」[3]

京大文学部の仕組みを知らない人にとってはわかりにくい話だが、哲学専修や私の所属する倫理学専修は、哲学基礎文化学系(旧哲学科)の中にある講座である。しかし、哲学基礎文化学系の一講座として哲学専修があるのは、上位のカテゴリーにあるべきものが下位のカテゴリーに混入しているように見えるということだ。

同様に、オックスフォードでコレッジや博物館を見たあとに、それと同列のものとして「大学」を見つけようとすることは、「大学」をコレッジや博物館と同じカテゴリーに入るものとして考える誤りを犯すことになる。ギルバート・ライルがカテゴリーミステイクと呼んだのはこのような誤りである[4]。子どもが歩兵、砲兵、騎兵などの隊列の行進を見守ったあとに、いつ「師団」は出てくるのかと問うという、師団の行進の話も同様である。

だが、正確に言えば、ライルのカテゴリーミステイクは「一段と高いはずの分類項目が、より細かい項目の間に紛れている現象」を指すのではない。ライルが挙げているクリケットの例では、投手、打者、野手、審判、記録係などの役割を学んだ外国人が、「あれ、しかし、あの有名なチームスピリットの役割を果たす人はどこにいるんですか?」と尋ねるという話がある。そんなことを本気で尋ねる人がいるんですかと突っ込みたくなるが、ライルによるとチームスピリットというのは、投手や打者がそれぞれの役割を果たすさいの取り組み方に体現されるものであり、投げたり打ったりするのとは別個の役割として存在するものではない。この例からわかるように、ライルのいうカテゴリーミステイクにおいては、上位下位というのは重要ではなく、むしろより一般的に、ある対象が、本当はあるカテゴリーに属するのに、別のカテゴリーに属すると考える誤りである。

マートンフィールドでクリケットの練習をする、おそらくは非常に裕福な家庭の少年たち。

この連載ではあまり詳しい哲学の話をするつもりはないが、前置きが長かったせいかすでに字数が尽きたので、次回はライルの話の続きをしたいと思う。

 

[1] このときの思い出は下記の著作に記されている。オックスフォード大学のコレッジの様子もよくわかって大変参考になる。徳仁親王『テムズとともに:英国の二年間』学習院教養新書、1993年

[2] 下記のニュース記事を参照。1ポンドは130円くらいとして暗算。ただし、グループ割引やシニア割引もあるので、単純な計算はできない。とはいえ、おみやげの売り上げも馬鹿にならないはずなので、相当な収入になっているだろう。Andrew, Ffrench, “New Visitor Centre in Christ Church Meadow in Oxford Is Almost Ready to Open”, Oxford Mail, 4 July 2019

[3] https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/bungaku_live_font_lores-3_compressed.pdf

[4] Ryle, Gilbert, The Concept of Mind: 60th Anniversary Edition, Routledge, 2009

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 児玉 聡(こだま・さとし)

    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科専任講師等を経て現在,京都大学大学院文学研究科教授。
    主な著書に『COVID-19の倫理学』(ナカニシヤ出版,2022年),『実践・倫理学』(勁草書房,2020年),『正義論』(共著,法律文化社,2019年),『入門・倫理学』(共編,勁草書房,2018年),『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人,2013年),『功利主義入門』(筑摩書房,2012年),『功利と直観』(勁草書房,2010年,日本倫理学会和辻賞受賞)など。

閉じる