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私とあなたのあいだ〜この国で生きるということ

【特別公開 第4回】かれらの居場所〜最終便 温又柔より

親愛なる木村友祐さま

 

八月。通常の夏ならば、私は上越新幹線でU介氏とともに新潟へむかう時期です。高いビルだらけの東京の喧騒が遠ざかり、のどかな田園があらわれ、さらにトンネルをいくつか抜けると、山が増えます。

新潟では必ず、立派な囲炉裏のあるU介氏のお祖母ちゃまの家をたずねます。かれの祖父や曾祖父母にあたる人たちの肖像写真が飾られた仏間で、U介氏やかれのご両親に続き、私も仏壇にむかって両手を合わせます。

大きな古い家です。猫も数匹います(いつも数がちがう)。

私はこの家で、赤ん坊のU介氏をこぞって可愛がったというかれのお祖母ちゃまや、写真でしか知らないひいお祖母ちゃま、かれのご両親がいまの自分たちよりも若い夫婦である頃の風景を想像します。東京の2DKのアパートに身を落ち着けた父が、日本にはなんでもあるから心配しないで、と台湾にいる母に国際電話をかけていた頃、この家で流れていた時間に思いをめぐらします。U介氏が一八歳まで暮らした町で、自分も育っていたら、と考えることがあります。私にとっての日本が、ここだったのなら、と。そして、日本の、この国の、何を自分は知っているのだろうと眩暈を覚えるのです。

それなのに私は、子どもの頃からよく日本や日本人を「代表」してきました。

 —日本では、どうなの?

 —日本人は、なんて思うかしら?

台湾にいると、叔母や従姉たちにいつもたずねられました。

逆に日本では、台湾ではどうなの? とか、台湾人はどんな感じなの? といったように、台湾について説明することをよく求められました。

日本と台湾という、国と国のあいだを行き来していたためか、私はよく、日本や台湾について説明する役目を担わされました。私自身もその役を喜んで引き受けていた部分があります。ごく限られた生活圏内で見聞きしたことを根拠に、自分のイメージで言っているだけなのに、私の言うことを疑ったり、あえて反論するようなひとはほとんどいませんでした。

それが、ある時期から、特に、日本人にむかって、自分が台湾人を「代表」しなければならない局面に思いがけず陥ると緊張を覚えるようになりました。

〈イメージ、イメージ。(……)中身がガランドウでも、なんでもかんでもイメージでぼくらは動かされているし、動いてしまうのです〉

木村さん。私は、私の発言やしぐさ、振舞いといった断片から、日本人にとっての台湾のイメージと、台湾人にとっての日本のイメージを補強しようとする人たちといままで何人も会ってきました。そのことを感じるようになった頃から私は、安易に台湾や日本を「代表」する態度は改めました。とりわけこの日本で、台湾人である私が台湾について語るなら、その内容はきっと正しいはずだと信じている日本人たちにむかって、いいかげんなことを語るわけにはゆかない、と思うようにもなりました。 

台湾出身とはいえ、私は、台湾の、あの国の、いったい何を知っているのだろう? といまもよく不安になります。いくら周囲にそれを期待されるからといって、自分こそは台湾を代表しているのだとうぬぼれるのが私は恥ずかしいのです。

つい先日、台湾の総統であった李登輝が死去しました。九七歳という年齢です。

私の母は「お祖父ちゃんは李登輝と同世代だからね」と言ったことがあります。たしか、一〇年近く前に李登輝が日本の報道陣にむかって巧みな日本語を話す姿がニュースで流れたときも、「お祖父ちゃんと同じ。李登輝も日本語がじょうずだ」と言っていました。台湾を民主化に導いた人物よりも、母には自分自身の父親のほうがえらいのです。

戒厳令下の中華民国でうまれ育った私の両親は、リトウキ、ではなく、Lǐ Dēnghuīと中国語で李登輝を呼びます。

台湾で約三八年の長きにわたる戒厳令が解除されたのは、一九八七年。私が七歳のときです。当時、私たちの一家はすでに日本に根を下ろしつつあり、父と母は一九八〇年代半ば以降、海外在住の台湾人として母国とは距離を置いていました。

李登輝が中華民国総統だった一九八八年から二〇〇〇年は、台湾が、天安門事件が勃発した対岸の中国とは対照的に、自由と民主の方向にむかって動きはじめた時代と重なっています。

仮に八歳から二〇歳になるというその一二年間を私も台湾で暮らしたのなら、政治活動や言論の自由が保障される社会で生きられる幸福や、母国の運命は自分たちの意識にかかっているのだと肌身で感じながら育ったはずです。それも、あくまでもマジョリティの一人として。

それ以前の時代、つまり、私(たち)の親の世代の台湾人にとって、みずからの運命はほとんど国家の管理下にあったようなものでした。

かれらは中華民国の国民として、「大陸を取り戻せ」「共産党をやっつけろ」というスローガンを教師から徹底的に教えられました。中国大陸は本来、蔣介石率いる国民党の領土であって、いまはそれを共産党が不当に占拠しているのだという言い分に基づいた考え方を叩き込まれたのです。それは、毛沢東との内戦に敗れた蔣介石の思想を十二分に反映させた、いわゆる党国体制下の教育でした。

木村さんも感激していた映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』で知られる台湾ニューシネマの旗手の一人、エドワード・ヤンは、蔣介石のことなんか全然すごいと思っていなかった、偉大と言いなさいと命令されるので偉大ですと答えてはいたが心の中ではいつもくそったれと思っていた、と語っています。そのインタビュー記事を読みながら私は、ヤン監督と同世代である母が言っていたことを連想します。

 —学校の先生が恐かったから、言え、と命じられたことを言っていたの。

うつくしくも反抗的な精神を保ち続けたエドワード・ヤンが特別だったのではなく、ごく平凡な台湾人である私の母や父、それに大勢いる私の伯父や叔母たち、要するにその頃の台湾人の子どものほとんどは、たぶん、蔣介石など崇拝してなかったはずです。いや、人によるのでしょうね。ほんとうのことはわかりません。

いずれにしろ、学校の先生がすごく厳しかった、とか、中国語を喋らないと叩かれた、といった両親の昔話や、その両親に連れられて冬休みや夏休みのたびに、伯父や叔母たち、大勢のいとこと過ごした台北の祖父母の家やその近辺で目にしたり耳にすることが、子どもの頃の私にとって台湾のすべてでした。

一九九九年。大学一年生になった私は、ある異変に気づきます。台湾に特別な関心を寄せるひとが周囲にあらわれるようになったのです。私の両親が台湾人で、祖父母は父方母方とも戦前から台湾にいる本省人—これに対して、戦後、蔣介石の軍隊とともに大陸から台湾に移り住んだ人たちのことは外省人と言います—だと知ると、奇妙な馴れ馴れしさでもって、ぼくは台湾が大好きなんだ、と言うひとがいました。そういうひとと話すと、台湾人なのにあなたは台湾の歴史について何も知らないんだね、と呆れられました。そういうことが何度か重なると、私は台湾について他人から意見を求められることを苦痛に感じるようになりました(なんだ。台湾人とはいうけど、日本人であるぼくのほうが台湾について詳しいじゃないか)。

自分でもそれを恥じていたので、私は、あなたも台湾人なら台湾のことをもっと知ったほうがいいよ、と言って台湾に詳しい人たちが熱心にすすめる本を、何冊か読んでみました。その中には李登輝の本—翻訳ではなく、彼自身による日本語で書かれたもの—も混じっていました。国民党政府が反体制派とみなした者を弾圧する白色テロが横行した時代について、司馬遼太郎との、かの有名な対談で李登輝はこのように振り返っています(『街道をゆく40  台湾紀行』朝日文庫)。

 

かつてわれわれ七十代の人間は夜にろくろく寝たことがなかった。子孫をそういう目には遭わせたくない。

 

私の祖父や大伯父も、そういう夜を過ごしたのでしょう。けれども私の両親は、台湾にはそういう時代があったことをすすんでは語ってくれませんでした。特に、早くに父親—私は父方の祖父は写真でしか知らないのです—を亡くしている父が、暗い時代の台湾についての話題を好まなかったため、私も両親にあれこれたずねるのをどこか遠慮していました(あなたは台湾の歴史について何も知らないんだね)。

台湾人のくせに、と私に呆れた人たちの言うとおりだと思いました。

私にとって、台湾について学ぶことは、台湾そのものを知ること以上に、まず、両親、とりわけ祖父母の生きた時代に想像をめぐらすことだったのです。

それから約二〇年の月日が流れました。

李登輝の訃報を知ったとき、生きていたら祖父も九七歳だったのかと真っ先に思いました。

元総統、民主の父、親日家、台湾意識……という日本語が、新聞やweb記事に躍るのを見ながら、台湾人なら台湾のことをもっと知ったほうがいいよ、と私に言ったひとが、日本にとって台湾はもっと大事にしなければならない国なんだ、と熱弁していたときのことがよみがえります。台湾は中共なんかとはちがうんだよ、と言う相手がにやりと笑ったとき私は直感的に反発を覚えたものの、自分の知識不足がこわくて何も言い返すことができなかった……

あまり愉快ではない記憶が渦巻くのに耐えながらWebニュースを次々と追ってゆくと、「衰退ニッポンに響いた李登輝氏の『戦略的親日』」という見出しが目に入りました。共同通信客員論説委員である岡田充さんによるビジネスインサイダーの記事です。

日本と台湾が中国の脅威に対して共に立ち向かう「日台運命共同体」というものを李登輝は提唱しているのですが、この記事では、それが北京への挑発を計算した李の戦略の一つであるという点を見逃してはならないと指摘しています。米中、日中対立の均衡を見極めながら日本を味方につけるために「日本の植民地統治は台湾近代化に多くの貢献をした」とアピールした李の態度は日本人の心に響くものがあった、と論ずる記事は、こんなふうに結ばれています。

 

右派だけでない。歴史認識をめぐる中国、韓国の日本批判に「疲れた」多くの日本人が、李発言に自己を肯定できる「光」を見いだしたのだろう。「日本人の思考方法」を知りつくした〝戦略的親日〟は十二分に威力を発揮した。それは日本世論に「親日か反日か」の二分法を流行させ、中国を敵対視する市場を拡大する触媒作用にもなりえた。

 

長い溜息が出ます。

脅威の大国・中国にちいさな母国・台湾が飲み込まれぬように、「中華民国」という国名を冠する台湾で生きる人びとが安心して生きられるように、李登輝が日本の世論をも巻き込みながら戦略的につくりあげた「日台運命共同体」のイメージは、少なくない数の日本人が、台湾はアジアの中で唯一の親日国、と考える根拠になりました。

イメージ。木村さんは強調しましたよね。

前回の手紙で私は、自分自身も含めて「北朝鮮はなんとなく怖い、中国はとにかく傲慢だ、韓国はいちいち突っかかってくる、台湾はこちらを仰ぎ見てくれているという漠然としたイメージ」を抱いている日本人は多い、と書きました。

こうしたイメージの作られ方は、国と国の政治的なパワーバランス、経済的な力関係も絡んだ国と国の関係の仕方に大きく影響されます。要するに、現代社会を生きる私たちのほとんどは、だれもが知らずしらずのうちに、各〈政府の思惑を内面化した〉メディアの報道の仕方や、それらが流布するイメージに多かれ少なかれ左右されています。あらゆる情報を自力で収集できない限り、私たちはメディアの影響から完全には逃れようがありません。そうであるからこそ、どんな情報もべつの視点や角度から語られることで、まったくべつのイメージが生じる可能性がある。そのことをつねに意識しなければならないと私は思います。でなければ、まんまとだれかの思惑どおりに操作されてしまう。

台湾に関して言えば、たとえば「日本統治時代の我々は母語を口にしただけで処分されたものだ」と台湾人にむかって繰り返し語った李登輝が、日本による台湾の植民地統治を全面的に肯定していないことは、ほんとうならば、少し考えればだれにでもわかるはずのことです。ところが、日本にいるほんの少しも考えたくない人たちは、台湾の近代化に日本が果たした役割は小さくないので日本による統治を真っ向から批判するだけでなく冷静に評価をしなければならない、という李登輝の発言を、台湾人は日本の植民地支配に感謝している、と都合よく読み替えて、だから台湾は親日である、というイメージに溺れるがままになっている。

その背景には、そうすることで得をする人たちがいるからなのですよね。

戒厳令が解除され、台湾で言論や報道の自由が保障されるようになると、長い間、口を噤んでいた人びとが次々と口を開くようになります。

 —国民党の軍人は酷かった。やつらは我々を日本化された奴隷と罵っては、裁判もせずに、むやみやたらと投獄して、島流しにした……

 —日本人は、勤勉で正直で約束は守る。日本人はこうした精神を、私たちの世代の台湾人に授けてくれた。それを根こそぎ奪った蔣介石の軍隊が憎い……

みずからの半生について語ることを蔣介石のせいで封印していた人たちのほとんどが、日本統治時代に日本語教育を受けた世代の人びとでした。そんなかれらが、日本人は素晴らしかった、と讃えてくれることに気をよくし、台湾人こそが我々のほんとうの味方である、ともてはやしたのが、戦争責任にかかわる日本の歴史の「闇」の部分ばかりを取りざたにするのは「自虐」的だと主張する一部の日本人たちでした。

「光」と「癒し」を求めてやまない日本人と、かれらにむかって親切にも流暢な日本語で台湾の〝真実〟を啓蒙してまわる台湾人たちの蜜月時代のはじまりです。

日本時代のほうがよっぽどましだった、と言うよりは、日本時代は素晴らしかった、と言うほうが一部の日本人の歓心を得られると気づいた台湾人と、そのようなことを言ってくれる台湾人には「日本人が失った美徳がある」と誉めそやす日本人……かれらのこうした〝結託〟を、私は正直に言えば、苦々しく思ってきました。とりわけ、「夜にろくろく寝たことがなかった」台湾人たちが、晩年にいたってそのような日本人にすがるしかなかった積年の孤独を思うと、胸が張り裂けそうになります。

考えてみれば私も、李登輝がかれの「子孫」と呼ぶものの一人なのですよね。しかし私は、日本の中の台湾人として、かれが戦略的につくりあげたイメージの余波に、よくもわるくも巻き込まれたと言えます。

それでも私は、李登輝の存在があったからこそ、日本語世代だった大伯父や祖父が息を殺し、戦後うまれの両親が中国語で「蔣介石は偉大だ!」「共産党をやっつけろ!」と叫ばなければ教師に殴られた、という暗い時代は遠ざかったのだと思うし、二〇二〇年現在、蔡英文政権が、人権の重視が台湾の強みであると表明すれば、そのことばの重みに目眩を覚えそうになります。

事実、同性婚をアジアではじめて法制化したことや、女性の国会議員比率が四割超とアジアトップであることに象徴されるように、多様性重視の面で台湾はもはや日本の先を行っています。

三五歳の若さで入閣したIT大臣・唐鳳(オードリー・タン)氏は「私は政府とともに仕事をしている。政府のためではない」と明言しています。「異なる立場であっても、よりよい社会のために合意できる共通の価値はある。それを可視化させるプラットフォームをつくるのが自分の役目だ」と語るその姿にも目眩がしそうになりました。

ひとのために、国がある。

私は、日本という「外」から見える蔡英文や、オードリー・タンの輝かしさを根拠に、いまの台湾はパーフェクトなのだと称賛したいのではありません。本省人(福建系、客家系)、外省人、原住民、そして大陸や東南アジアから台湾に移住した新住民に外国籍の労働者……政治的には親中派や独立派の存在、また経済格差などもあいまって台湾の内側では、私のごく限られた視点では想像が及ばぬほど複雑で、様々な矛盾を抱えているはずです。しかし少なくともいまの日本政府と比較する限り、現在の台湾は多様性を重んじる国家であろうと努めているふうに私には見えます。たとえそれが、国際的孤立と中国の統一圧力というのっぴきならない事情による、(李登輝の精神を汲む)国際社会にむけての巧みなイメージ戦略だとしても。

先日、香港の民主派を代表する新聞「蘋果(ひんか)日報」の創業者である黎智英(ジミー・ライ)と、弱冠二三歳の若き活動家である周庭(アグネス・チョウ)が香港警察に逮捕されました。どちらも、香港国家安全維持法に違反したという疑いで。身も凍るような出来事で、私も少なからずショックを受けました。このときも台湾の総統たる蔡英文は、自国の民主化の歴史を振り返りながら、自由と人権を訴える香港の人びとの意志を阻む専制と抑圧は決して許されるものでない、と明言しました。中国政府の意図を汲んだ香港当局による、香港の民主化運動を象徴する人物たちへのまるで見せしめのような逮捕・釈放劇は、台湾にとっては対岸の火事ではないのです。

いまだに、少なくない数の日本人が、台湾は親日だから好感が持てる、と平気で言ってのける風潮があります。しかし私たち日本人は、長きにわたって独裁政権に抑圧されてきたかれらの歴史や、中国との政治的な緊張といったデリケートな背景を十分に想像し得ているのでしょうか?

好いてくれるから好き、というだけではあまりに無邪気である気がします。しかも、その点を強調したがる人ほど、敵の敵は友だち、とばかりに、中国や韓国は反日だからね、と続けたりするのです。場合によっては、こちら(私)が台湾人であるという理由で、共に中国を貶めることを期待されたりも。

木村さん。私と台湾の縁は切っても切れないものです。この日本に対してもそうであるように、私は、好き嫌いという次元で台湾について語ることができません。たとえ、日本人から「反日」と呼ばれる国家だったとしても、台湾は、私の母国なのですよ。そう、おまえは本物の台湾人とはいえない、と私を罵るひとがいても。

つい数日前も、私のTwitterを引用し「台湾語もろくに喋れないくせに、自分は台湾人なのだと名のっているこの偽物には呆れてしまう」という内容を書くひとがいました。それも、台湾語で。

台湾の言語事情は少々ややこしくて、公用語は中国語なのですが人口の七割ほどを占める本省人は福建省にルーツを持つ人びとであるため、閩南(びんなん)語も喋ります。ただし、日本統治時代も国民党一党独裁時代も、それを公の場で堂々と話すことは禁じられていた。日本語や中国語とちがって、台湾人である自分たちのことばという意味で、閩南語はいつしか台湾語と呼ばれるようになりました。

二〇〇〇年代以降、台湾語こそが我々台湾人の真の母語である、と主張する人たちがあらわれ、いまでは台湾社会の中でけっこうな力を持つようになりました。そう主張できるようになるまでの長い苦節を想像すればかれらが、やや声高にそう主張したがる気持ちがまったくわからないではない。そのうえで率直に言えば私は、台湾語こそが台湾人の真の母語である、という言い方には激しい抵抗を覚えます。

それは一種の、純潔主義ともいえます。それが話せたら、本物の台湾人。そうでなければ、偽物の台湾人。こうした、ある言語ができるかどうか、ということを〝担保〟に、ある人物が本物か偽物か判別するというイデオロギーに私は与したくないのです。

それに実際、様々な理由から、台湾人でも、台湾語をうまく話せないひとはいくらでもいます。

一九四九年以降、台湾に移り住み、中国のべつの地方のことばや中国語しか喋っていなかった家庭で育った人たち、原住民、大陸花嫁、新住民……私のような海外育ちの台湾人。

 —この偽物には呆れてしまう。

きっと、私には台湾語など読めないと思ったのでしょう。文字どおりの陰口です。たしかに私はろくに台湾語ができません。でも、ローマ字で綴られたその文章を声に出してみると、父や母、祖父母と交わした台湾語がよみがえり、なんとなく意味がわかってしまう。楽譜をたどっていたら、耳に残っている子守歌を思い出したというような感じです。

こういう台湾人もいるのだと、私はそのひとに言ってやりたかった。

残念ながらこの日本と同じく、台湾にも、〈自分や他人の国籍を〝尊重する〟〉のではなく〈国籍を〝絶対視する〟〉人たちはいます。

台湾籍はあっても中国語や台湾語がうまく喋れない私を「偽物」とみなすひとが、台湾国内で暮らす台湾語は話せても台湾籍を持たない人びとを「偽物」として貶めるようすを想像するのは容易です。

私の「敵」は、いや、私を「敵」だとみなしたがるのは、たいてい、こうした〈「純粋な血統」とか「単一民族」とかの〝つくられた幻想〟〉を絶対視しする人たちです。

先月の東京都知事選挙前後、私の心身は決して好調とはいえない状況に陥りました。特に、直後が酷かった。

数日にわたって、Twitter経由で見ず知らずの人たちからさんざんな言われようをされたことの影響も少々ありました。自分の味方は大勢いるはずだと頭ではわかっていても、的外れの揶揄や冷笑、論点を故意にずらされた攻撃が、ほんの二つ、三つ、目につくだけで、消耗する。ただでさえ疲れていたところに、〈コロナパニックを余さず自分のために利用した現職が当選し〉たことのみならず、〈在日コリアンに「出ていけ」と叫んで甚大な脅威を与え〉た「在特会」の元会長が約一八万票も得たという現実に、私はほとんど打ちのめされていました。そんなときに、投票したかった、という私のことばを引用しながら、

 —こんなむちゃくちゃな要求をするひとはむしろめずらしくて、台湾人はふつう日本が大好きだよ。だからみなさん、このひとのせいで台湾を嫌いにならないでね。

というコメントを、うっかり目にしてしまったのです。台湾人はふつう日本が大好き、このひとのせいで台湾を嫌いにならないで。私はとうとう涙がとまらなくなりました。まさに〈言葉による威圧〉で心がぺしゃんこになったのです。友人に弱音を吐くと、PCやスマホの電源をさっさと切ること、そして、瞑想をするようすすめられました。

瞑想なんてのんきなことを……と最初は半信半疑でしたが、座禅を組んで目をつぶって深呼吸をしていたらだんだん落ち着いてきました。そうやって、自分の呼吸の一つひとつ、心臓の一拍一拍に耳を傾けることで、インターネット空間を跋扈する空虚な、にもかかわらず、十分に威圧的で悪意に満ちたことばに、動揺し、狂わされた自分の感覚を私は徐々に取り戻しました。

(私は微力だけれど、無力ではない)

それは、いま、ここにいる自分に対する信頼の回復でもありました。

根拠。この対話の中で、木村さんは「根拠は?」と繰り返してきましたね。〈イメージではなく、現実に根ざした具体的な根拠とはなんなのか〉、と。考えてみれば、私が中国語や台湾語を含んだ自己流のニホン語を編み出したのは、日本育ちの台湾人として生きてきた自分のリアリティを表現したかったからなのだと思うのです。

日本語しかできないのに日本人ではない。

台湾人なのに中国語(や台湾語)ができない。

日本人としても、台湾人としても、「規範」からずれてしまう自分の半端さを持て余していた頃の私は、日本人とはこういうものだ、とか、台湾人はこういうものである、という漠然としたイメージを内面化していました。けれども、そもそも、ずれているのは私ではなく、私が「規範」と思い込んでいたもののほうかもしれない……そう思うようになったのは、〈現実に根ざした〉私自身の感覚のほうを信頼することに決めたからなのです。

台湾人だけれど、日本語とともに生きてきた。

日本人ではないけれど、日本語に支えられている。

これが、私自身のリアリティなのだと自信を持てたからこそ、私は中国語や台湾語を自分の文体の中に注ぎ込めたように思います。それは、言語の問題を越えて、〈根本的に、生きものとして生きる〉自分の感覚を信頼することでもありました。そしてそれは、漠然としたイメージにのっとって、私のような複数のルーツを持ちながら育った者のことを、本物/偽物、ふつう/ふつうじゃない、親日/反日……と二分法で判断したがる人たちとのタタカイでもあったのです。

いまあらためて、私の小説家としての出発点は、そのタタカイのはじまりだったと確信しています。

〈ぼくがこの国で暮らす外国籍の人々のことを意識にとめるようになったのは、(……)温さんの存在が何よりも大きかったのだと思います〉

木村さんがおっしゃってくださるように、デビュー以来、私が書いたものを読んで、台湾出身のかつての同級生の気持ちを想像して胸が詰まった、と打ち明けてくれた大学生や、娘さんを通わせている保育園に中国出身のお母さんがいて、いつもあかるいその方の心の中を想像してしまった、と告げてくれた方、それから、外国にルーツのある教え子たちが感じているだろうことをはじめて具体的に想像できた、とおっしゃる小学校の先生という方もいました。

ほかでもない私自身の呼吸のリズムを取り戻すために書かざるを得なかった小説やエッセイが、ずっと自分の憧れだったふつうの日本人たちにとっては〈この国で暮らす外国籍〉の隣人たちへの想像力を喚起するということ—とりわけ、外国出身の人びとや、その子どもたちが、いまよりものびやかに生きられる現場をつくろうと日々尽力なさる方々が、私の本を読んでくれていると知ると、感慨無量になります。

読者がいる。私の本を、もっと読みたいと言ってくれる人たちがいる。

わかって、ねえわかってよ、ここにいるの、あたしはここにいるんだからね、と叫ぶような気持ちで、自分一人しかめくらないノートの中にことばを叩きつけていた頃にしてみれば、ほとんど夢のような状況です。そして、いや、夢ではないのだから、身を引き締めなくてはと思うのです。

日本人ではないけれど、日本語に支えられている。

私がこう宣言できるのは、これまでの人生でただの一度も、勉強する機会を阻まれなかったからです。義務教育の九年間にとどまらず、高校や大学進学も断念せずにいられたからこそ、「授業かったるい」「宿題めんどくさい」「勉強したくない」「またテストだよ」と友だちと嘆き合うことを、私はあたりまえのように享受してきました。

しかし、いま、この国に増えつつある外国籍であったり、外国にルーツのある子どものだれもが、難なく学校に通えているわけではありません。むしろ、経済的な原因やほかの様々な問題などで、十分な教育を受けることがままならない境遇の子どものほうが圧倒的に多いのです。

私はこの事実を度外視し、そして、周囲にそれを期待されるからといって、自分こそが外国籍を持ちながらこの国で育った人間を代表しているとばかりに、ものを書いたり述べたりはしたくない。とりわけ、作家である私がそのことについて語るなら、その内容はきっと〝正しい〟はずと信じている人たちにむかって、「外国出身者」という共通点のみで、自分以外のありとあらゆる人びとを代弁する口ぶりになるなど、傲慢の極みです。私は、究極的には私自身しか「代表」できないのですから。

これは、私が子どもの頃から、日本と台湾をそれぞれ「代表」させられてきたことから得た教訓です。

あるいは、この一年半にわたって木村さんと交わした手紙の中で、木村さんの覚悟に感化されながら肝に銘じてきたこととも言えます。

木村さんは私に、〈外部〉を意識することの重要さを何度も思い出させてくれました。それは、〈他者〉とも呼びうる領域のことですよね。木村さんはかつて、こう書いていました。

〈〝他者〟である相手が置かれた状況を受けとめ、搾取しないでつながろうとするためには、逆説的ですが、まず線を引くこと──お互いの力の不均衡を自覚すること〉

そのためにも、私はいま、あらためて線を引きたい。

社会学者であるレス・バックの表現を拝借すれば、「豊かな世界の国境を自由に移動し定住できるパスポートを持つ人々と、トラックの荷台に隠れたり、偽造文書を持ってしかそうできない人々の間の境界線」の、どちら側に自分が立っているのか絶対に忘れたくないのです。

小説家として、いや、もっとそれ以前に、日本で日常生活を送るのに何不自由のない私が、もはや日本にしか居場所がないのに日本語をまともに学ぶ機会が得られず、ただ暮らしてゆくだけでも精いっぱいの状態に置かれている子どもたちや、その親にむかって「日本語は私たちのものでもある」など言えるはずがありません。私がしなければならないことは、日本人によって占有されているこの国の政策決定者たちにむかって「日本社会はかれらの居場所でもある」と訴えることのほうなのです。

作家である自分にわずかでも発言力が備わっているのだとすれば、私は小説を書くこととはべつに、そのような機会が与えられる限り、自分自身について徹底的に語ることで、私の背後にいる、私と似た境遇でありながらも自分自身を語るためのことばを奪われているせいで見えない存在にされている大勢の人たちの気配を知らしめたいと思うのです。もちろん、代弁としてではなく。

ほとんど綱渡りのような状態ではありますが、そのためにも私は、自分の限界について誠実でありたいと感じています。この体の身の丈や、この視界から見えるものの範囲をわきまえていたい。根拠としての自分の感覚を信頼するからこそ、自分の想像力は無限なのだと慢心したくないと思います。

木村さん。私たちはこれからも、手と手をとりあうことになるのでしょう。そんな私たちの〈共同戦線における連帯〉は、生きとし生けるものがのびやかに生きられることを望む愛のためにあると信じています。

たとえば、木村さんが入管で見かけたという、カレー粉のまぶされたチキンにかぶりつく男の子とその母親。あるいは、やはり木村さんが出会ったエイズを罹患した最愛のパートナーの最期に立ち会えなかったと吐露された方(あの手紙を読み、私もその方が被った理不尽な経験と、無知でいると、そのような不均衡な状況の継続に加担してしまう可能性があるという恐ろしさを思って震えました)。幸福な鼻歌が満ち溢れ、ふせぎようのある悲しみの涙を流す人が一人でもいなくなるように。

政策決定者たちを動かすことがたやすいことでないのは百も承知ですが、絶望に抗うことが希望であれば、抗うにふさわしい絶望がひたひたと押し寄せるいま、私たちのタタカイを促す希望も決して小さくはないはずですよね。

 

さて。きょうも、ミンミンゼミが激しく鳴いています。窓の向こうでは八月の空が輝いています。お盆の時期である八月は、まさに死者を悼む月です。六日、九日、一五日……大政翼賛会が掲げたスローガンの一つに、進め一億火の玉だ、というものがありますが、約八〇年前の日本本土の人口は七千万人程度。そのため、この「一億」とは、大日本帝国の植民地である朝鮮や台湾の人口も合わせた数なのだそう。そのことをはじめて知ったときは戦慄を覚えました。

日本で育った台湾人として、天皇陛下の兵士として太平洋戦争に出兵した者の中には、台湾人もいたことや、その台湾人の中には高砂族と呼ばれた原住民もいたことを最初に知ったときも、身震いせずにはいられなかった。さらに言えば、この戦争で戦死した台湾人やその遺族、おびただしい数の戦傷者は、日本国政府からなんの補償も受けられないまま放置されていたと知ったときにも。皇軍の兵士として戦争に駆りだされつつも、ほんものの日本人ではなかった、という理由で日本国政府から見棄てられた人びとがいた……

木村さん。私は最近、自分は覚えていることよりも、忘れていることのほうが、実は圧倒的に多いのだと気づきました。そして、自分の覚えていることだけでは、自分ではないほかのだれかと共有した時間がどんなものだったのか、ちゃんとは把握できないのかもしれない、と。

私がこんなことを思うのは、いつからか、この時期になると「この国を守るために自らの身命を賭して闘ってくださった多くの英霊に感謝の想いを捧げてきました。 この方々がいらっしゃったからこそ、今の私たちがある。今のこの国がある」などといったことを恭(うやうや)しく呟く人びとのことばが、やけに目につくようになったからです(日本を、取り戻す、というスローガンを掲げた第二次安倍内閣が成立した頃からのような気がします)。

(この国を守るために、闘ってくださった? 

ちがう。そうじゃない。かれらのほとんどは、この国を守れ、と命じられて、無理やり闘わされたのだ)

いつも、そんなふうに反論したくなる。あの戦争を、あたかも天災のように語ったりしないでくれ。それは、ふせぎようがいくらでもあったはずの人災なのだから、と。

〈どうにか命を落とさずに生還した男〉たちが、だれかにとっての〈いい夫、いいお父さん、いいおじいちゃん〉であるという事実を私は踏み躙りたいとは思いません。

ただし、昭和が遠ざかり、平成すら幕を下ろしたいまの日本で、どこかでだれかが結託して〈日本という国を国として成り立たせるために、言いかえれば、日本という国の輪郭を明確にする〉ために、あの戦争から帰ってこられなかった声のない人たちの声をさらに奪ってかれらが、妻や子どもや愛する恋人を守るために喜び勇んで憎き敵と闘い、桜の花びらのようにうつくしく舞い散った、という物語をこしらえようとしているのなら、死者らを正しく悼むためにも、それとは異なる、まったくべつの物語を、私たちは書き続けなければなりません。

木村さん。私は近頃、書いたものを公表したり、活字として発表する場を「持つ者」の一人としての責任について、よく考えるのです。生きとし生けるもののすべてが、呼吸の一つひとつ、心臓の一拍一拍において自分の命を堂々と満喫できる世の中になるように、ほんのわずかにでも貢献するためには、自分は何をしたらいいのか……と、しかつめらしく書いてしまいましたが、結局のところ、私は書くことがとても好きなのでしょうね。何しろ私はあいかわらず、書いてさえいられれば「生きてる」と感じられる。そう、生かされている、のでもなく、自力で生きている、のでもなく、ただ、生きてる、のだと。

思えば私は二〇代最後の年に木村さんと出会いました。 

三〇代を駆け抜けて、四〇代を迎えたこの一年と五か月、木村さんと交わした手紙の数々を私はいつかまた読み返すのでしょう。そのたびに、ただ懐かしくなるだけではなく、たったいまも心の底で火の玉のごとく燃え盛るまっとうでありたいという気持ちが、よみがえるのではないかと信じています。そして、いつの私も、いまの私と木村さんにとって、まっとうな生き方をしているようにと心から願っています。

 

七五年目の八月一五日を前に

温又柔

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著者略歴

  1. 温 又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2015年、日本エッセイスト・クラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『空港時光』(河出書房新社、2018年)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2019年)、『魯肉飯のさえずり』(中央公論新社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村 友祐(きむら・ゆうすけ)

    小説家。愛猫家。郷里の方言を取り入れた『海猫ツリーハウス』(集英社)でデビュー。演劇プロジェクト「東京ヘテロトピア」(Port Bの高山明氏構成・演出)に参加、東京のアジア系住民の物語を執筆。2014~2020年、主流から外れた小さな場所や人々を大切に描いた作品を選ぶ「鉄犬ヘテロトピア文学賞」の選考委員。著書に『幼な子の聖戦』(集英社/第162回芥川賞候補)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社)、温又柔氏との往復書簡『私とあなたのあいだ―いま、この国で生きるということ』(明石書店)など。

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