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私とあなたのあいだ〜この国で生きるということ

【特別公開 第2回】この国の当事者〜第30便 温又柔より

木村友祐さま

 

緊急事態宣言が解除されて、早くも一か月あまりが過ぎ、気づけば七月です。二〇二〇年の七月といえば、東京オリンピックの予定でした。

考えてみれば、私たちが書簡を交わすことになったきっかけの一つは、オリンピックという巨大な祭典が開かれることによって、グローバル資本主義がますます勢いづくであろうことへの危惧がありましたよね。オリンピックの名のもと、何が優先され、何が軽んじられるのか。

刻々と、悪い方にむかっているとしか思えない状況を肌で感じながら、いま、自分たちがどんな時代を生きていて、何を感じ、思い、考えているのか「記録」しておくことは、いつかの自分たちにとっておそらく重要なよすがになる……木村さんに宛てて一通めの手紙を書いたときはまさにそんな気持ちでした。

ここ一年と数か月、その思いは増してゆくばかり。よくもわるくも、なんという時代を自分たちは生きているのだろうと狂おしくなります。ひょっとしたら、いまは「戦争前夜」なのかと危ぶむのも、決して大げさではないような、そんな思いを抱くことも。

しかし、新型コロナウイルスの流行で、オリンピックは延期となり、〈生活困窮者への無関心〉と〈行政の非人道的対応〉が、早くも〈顕在化、露呈、浮き彫り〉になっています。いまやそれは一部の心ある人たちをじれったくさせたり、苛立たせるのみならず、ほとんどだれの目にも明らかとなりました。

それにしても、〈コロナによってバイトを失い、学費と生活費が賄えなくなった〉のは同じなのに、それを〈日本人か外国人かで分け、外国人留学生なら成績で選別〉したうえで、補償するかしないか決めようとする日本政府の対応には、ほんとうに胸が痛みました。また、朝鮮大学校がはじめから支援対象から外されていることにも絶句しました。

北朝鮮に関していえば、私たちの多くはその内情をよく知らないはずです。それなのに驚くほど多くの日本人が、〈日本人を拉致した独裁国家という悪役〉というイメージを疑わず、北朝鮮という響きだけで敬遠したり、ひどいときには嫌悪している気がしてなりません。それほどではないにしろ、中国と韓国もまた、〈日本という国を国として成り立たせるために、言いかえれば、日本という国の輪郭を明確にする〉目的からか、あるいは日本ほど素晴らしい国はない、とでも思わせるためか、政府や〈政府の思惑を内面化した見方〉を流布するメディアによって「悪役」や「敵役」を担わされることが以前にも増して多くなってきたように感じます。

もちろん、こうした政府の意向を反映したメディア操作は日本だけでなくどこでもこぞってやっていることではあります。たとえば台湾でも、テレビ局によっては嫌中を煽るような番組を制作します。まあ、その分、極端に親中的な番組も台湾にはありますが。日本との関連で言えば、中国や韓国でも、いわゆる「反日」感情を刺激する番組や物語が人気コンテンツと化している状況があります。日本と同様、国民の不満が自分たちに向かないように政府が、「敵役」や「悪役」として日本を利用するのです。そのせいで、たとえば中国在住の日本人や、日本人の母親がいる韓国育ちの子どもなどが、日本につながりがあるというだけで嫌がらせに遭う話もたくさんある。

しかし今回はまずは私たちの足元である日本に話を絞りましょう。

問題は、大多数の日本人が、北朝鮮はなんとなく怖い、中国はとにかく傲慢だ、韓国はいちいち突っかかってくる、台湾はこちらを仰ぎ見てくれている……という漠然としたイメージをあえて疑おうとはせず、どちらかいえばあっさり受け入れてしまうということにあるんですよね。

〈なぜ、こんなにも日本という国は他国に対して偉そうにしたがるのか〉

実に根深い問題です。

日本は、ペリーによって開国させられたのち、ヨーロッパがつくりだした世界秩序体系を受け入れることで、アジアの中でも最も早く「西洋化」したという歴史があります。戦後も、冷戦構造における西側陣営に組み込まれつつ朝鮮戦争特需で一気に復興を成し遂げ、アジアの中でいち早くアメリカ型経済発展を果たしました。そのため、ほかの国々の「近代化」を先導するという「脱亜入欧」的な価値観は敗戦後も完全に息絶えることなく、べつのかたちで生き続け、それが〈かつては侵略して支配下に置いた国々〉をはじめとした〈アジア人への蔑視や差別〉意識の温床となっている……というのが定説ではありますが、他のアジアの国々に比べて自分たちはなんとなく優れているはずだ、とほとんど無意識のうちに思っている日本人は実際にわりと多い。

木村さんが〈その優越心や差別心の残滓がうごめくときがある〉と告白してくださったように、私もそこから完全に免れているとは言い切れません。台湾人とはいっても私は、日本で育ち、日本の教育を受け、日本の文化にどっぷりと浸かって成人したのです。

 —えっ。台湾人なの? ずいぶんと垢ぬけてるから日本人かと思ったよ。

子どもの頃、台湾で見ず知らずの人たちにそう褒められるたび、私は自分が同じ年頃の台湾人の子たちよりも優れている気がして得意でした。一〇歳になるかならない子どもにも、「脱亜入欧」的な価値観はまんまと忍び込むものなのです。

その意味では、アジアの中の日本や、日本の中のアジアとむきあう契機として、私たちにとって「東京ヘテロトピア」にかかわったことはとても重要な経験でしたよね。

二〇一三年、高山明さんを中心に「東京の中に存在する、それまでほとんど語られることのなかったアジアにまつわる様々な歴史に触れる」ことを観客に体験してもらう目的で、「東京ヘテロトピア」と題されたこのプロジェクトは立ち上がりました。宗教施設、モニュメント、あるいは難民収容施設跡地……ふつうの日本人が、ふつうの暮らしを送るうえでは特に目にとめることのない、ただ通り過ぎてしまういくつかの場所や、都内に点在するエスニックレストランなどをピックアップし、そこに刻みこまれた隣人たちの痕跡を、物語のかたちで可視化させようと、皆で知恵を絞りました。出身国の政変や革命などによって日本の東京に流れ着いた人びとにまつわる様々な記録はどれも、高山さんが主宰する「Port観光リサーチセンター」の林立騎さんたちが集めてくれました。その資料とむきあっていると、自分(たち)の目に映っていなかっただけで、いろいろな事情を背景に日本にやってきて、故郷に戻れぬまま根を下ろし、それからずっと第二、第三代までここで暮らしている人びとはこんなにもたくさんいるのかと溜息が出るばかりでした。

思えば、鉄犬ヘテロトピア文学賞創設にもつながる七年前のあの頃から私たちは、刻一刻と迫る「二〇二〇年」を覚悟しながらこの数年を過ごしてきましたよね。

いったい、だれが、オリンピック・イヤーとなるはずだったいま、思わぬ疫病の流行で、〈すでにこの国に埋蔵されていた〉様々な問題が一挙に噴出することを予想したのでしょう。〈政治が率先して拡大させてきた非正規雇用の人たちが、コロナによる休業や経営不振によってクビや雇い止めになり、生活ができなくなるほどの大打撃を受け〉たというのに、〈困窮した人を行政がなるべく助けない〉せいで、〈仕事も住まいも失った人たちを支援する現場〉がますます負担を強いられているという現実……このような状況下、都知事選挙の投票日が数日後に迫ります。

木村さん。いつからか私は、 「選挙」の日は、 なるべく外出を控えるようにしています。冗談抜きで、 通りすがりの人たちに飛びかかってしまいそうになるからです。投票日の翌日は、 なお具合がわるいです。電車の中で乗り合わせた人たちや町を行き交う人たちを見ていると、 沸々と滾ってくるんです。

きのう、あなたは何してた?

さあ、言ってみなさい? きのうがなんの日だったか、ちゃんとわかってる?

私にとって、 毎回の選挙の結果そのものよりも耐えがたいのは、 いつだって投票率の低さなんです。

 —選挙権はあるけど、たいてい棄権しちゃう。

そんなふうに言う人たちに、なんてもったいないことをするの? と言いたくなるのは、私には選挙権がないからです。

ご存じのように、日本ではごく一部の地方をのぞき、日本国籍を持たない住民にはいかなる選挙権も与えられていません。

私にはそれがさみしいのです。

投票がしたいのなら帰化すればいいのに、と言う人たちも少なくありません。日本の政治に首を突っ込みたいなら、日本人になってから言え、と。さながら、郷に入っては郷に従え、といった調子で。

あるいはもっと露骨に、日本国籍を取得しないのは日本への忠誠心が欠けている証拠なのだから、そんな奴はそもそも日本にかかわらせるな、という意見もあります。

なぜ、こんな仰々しい話になるのでしょう。

いいかげん、国籍が異なっているというだけで、「敵対者」とみなされるのは勘弁です。そもそも、日本では二重国籍が認められていないため、帰化を選ぶのは、ほかのすべての国籍を放棄することを意味します。私は日本だけでなく台湾にも愛着があります。両親のうまれ育った国として、自分の第二の母国だと感じています。できれば、台湾の国籍を手放したくはない。国籍なんてそもそもかたちばかりのものだからそんなふうに思い詰めないで日本国籍にすればいいのに、と言われれば、それならなぜ、かたちばかりのものである日本国籍を取得していないことを理由におまえは日本国への忠誠が足りないと責められなければならないのかと不思議になります。

自分のことに限らず、この国に根を張る住民のだれもが出身国の国籍を保持したまま、日本で参政権を持つことが可能になってほしいと私は以前から願ってきました。複数の国籍を重ね持つ住民同士を含んだ政治はお互いの国々にとってよりよい関係をつくり合えるのではないか、と考えるからです。

とはいえ、こんな理想を唱えていても、私の声はしょせん〝票にならない〟のだから、目下の選挙に当選することが至上の目的である政治家からは、決して重要視されないと半ばあきらめてもいました。選挙とはそういうものなのだから、と(こんなこと、『幼な子の聖戦』の作者に言うのは釈迦に説法のようで気恥ずかしいのですが)。

ところが、今回、いち早く都知事選に立候補なさった宇都宮けんじさんはちがいました。同性のパートナーをもつ知人が「このひとの政策は私たちに寄り添ってくれている」とツイートしているのを見て私も宇都宮さんの掲げる政策を読みはじめたのですが「東京に住む外国人の人権が保障され、生き生きと共生できるまちをつくります」という文章が目に飛び込んだときは、どきりとしました。

 —定住外国人の地方参政権付与の検討を開始します。

このひとは、〝票にならない〟私や、私たちのことも考えているんだな、と思ったとたん熱いものがこみあげました。「私たちに寄り添ってくれている」という知人のことばの重みがずっしりと胸に響きます。そして、こういうひとが都知事になってくれたら〈ビニールシートの向こう、マスクの向こう、モニターの向こうで、いっそう聞こえづらくなった声〉に〈鋭敏に繊細に心の耳を澄ます〉にちがいない、と思ったのです。惜しむらくは、いまの自分はどうがんばっても、かれに自分の一票投じることがかなわないということ……

そのようなことをTwitterで呟いたところ、なんと選挙事務所の方が目にしてくださって、公式なメッセージとしてHPに掲載させてほしいと連絡をくださいました。願ってもみなかったことです。投票はできないけれど、自分のことばそのもので、自分が心から支持するひとを応援するチャンスに恵まれたのです。さらに事務所の方は、できれば動画でも撮影させてほしいとも言ってくださいました。断る理由はありません。

 —私が宇都宮さんに投じるために心から欲しいと願っているあなたのその一票を、どうか無駄にしないで。

約二分間の動画が宇都宮けんじ選挙事務所のTwitter経由で公開されると、宇都宮さんに投票したくなった、とか、自分の一票をあなたの代わりにかれに託すつもりです、といったメッセージが続々と書きこまれて、とてもうれしくなりました。微力ではあるものの、自分は決して無力ではないと思えたのです。

ただ、中には「投票したければ、さっさと帰化しろよ」という、ネガティブなコメントもまじります。「帰化すればいい」「台湾に帰ったら?」「国籍で区別するのが原則だろ」「日本の政治は日本人のものだ」「台湾人のくせに反日」……といったものもありました。

傷つきはしません、慣れっこだから。悔しいけれど、中傷めいたコメントというものは、慣れなければ、耐えられないものなのです。今回の件に関して言えば、前々回の木村さんのお手紙にあったように、〈もっともらしい理屈をつけて自分の〝中立〟の立場を正当化するマジョリティ〉たちが、明らかに〝マイノリティ〟である私に対して、とても苛立っているように思えました。そのせいで、この人たちは自分たちの位置を脅かされて、わざわざ私に吠え掛かってくるのかと感じたほどです。

いずれにしろ、批判の内容以前に、そのことば遣いに滲む、俺が愚かなおまえを諭してやろう、という態度にはずいぶん辟易させられました。そのうちの一つ、わがまま言ってないでさっさとお母さんの国に帰ってね、というリプライを見たときには、さすがに反論したくなりました。

 —あなたのお母さんは、あなたが見ず知らずの私にこんなふうに絡んでいると知ったらどんな気持ちになると思う?

インターネット空間にのたくる〈大蛇〉たちは、〈他者に対してつねに優位性を保つための身振り〉を死守します。そんなかれらにとって私のようなガイジンのオンナは、恰好のターゲットです。ただでさえ、日本では「物を言う女性」が忌避されます。さらに具体的に言えば、物を言う私が「台湾人」であることがどうしても許せないと言うひともいます。なんとも滑稽なことですが、台湾人は、近隣諸国—北朝鮮、中国、韓国—の奴らとはちがって、俺たち日本人が大好きで、しかも従順だというイメージを抱く男性は、依然、少なくない。

様々な理由が複雑に絡み合っていて、実際に、日本や日本人に好意的な台湾人も多いので、これがまた厄介なのですが。しかし私一人が、一部の日本人にとってなんとも都合のいい「幻想」と闘っても、なかなか埒があきません。戦っても、戦っても、第二、第三の「台湾人は、おれたちを気持ちよくさせるのがあたりまえだ」という日本人があらわれるのです。

台湾人であることが理由で、こういう目に遭うたびに私は、自分は、日本にとってただの外国人ではない、と感じます。自分は、日本にとっての旧植民地からの「移民」なのだと突きつけられるのです。むろん、私が両親とこの国に移り住んだ時期は、日本が台湾を「放棄」してから四〇年近くが経った頃でしたが。それでも私個人の意思を越えて、戦後の日本で不可視化されてきたいくつもの問題が、自分の来歴と重なり合って、ふいに身に迫ってくる……

ちょうどこの春、邦訳が刊行されたばかりの『彼女の体とその他の断片』(小澤英実ほか訳、エトセトラブックス)の著者であるカルメン・マリア・マチャドは、「女性や非白人やクィアな人々にとって、書くことはそれじたい、政治的なアクティヴィズムだ」と述べています。私にとってもこれはまったく他人事ではありません。小説に限らず、Twitterに投稿する一四〇字以内の文章も含めて、何を書くときにも、どうしても、自分が望もうと望むまいと、個人的なことが政治的になってしまう。

木村さんがおっしゃるように、私たち小説家のほとんどは〈日常の小さな細部を土台にして〉小説を書きます。私の目にはたくさんの日本人が映っています。でも、考えてみれば、かれらの目にも、私は映っているはずなのですよね。私だけではない。〈(技能実習生を含めた)日本で暮らす外国籍の人々〉の姿が、まったく見えない生活を送ることなど、いまや不可能です。

だからこそ、木村さんのことばが突き刺さりました。

〈当事者とはいったい、だれのことなんでしょう〉

たとえば、私にこんなことばを投げつけるひともいました。

 —投票したいなら、帰化するのが礼儀だ。

礼儀? だれへの? まさか、国への? ならば、日本国籍を所持しながら投票しない有権者のほとんどは、自分の国にたいしてものすごく無礼だということになります。こんな国に私たちは生きている。投票率が低ければ低いほど、都合のいい政治家たちが、ほくそ笑んでる国。いつかの、木村さんのことばがよみがえります。

〈子どもや孫たちの将来を思うなら、身内びいきと隠ぺいを繰り返す政府になど、早く見切りをつけたほうがいい〉

木村さん。オリンピックが開かれる予定だった二〇二〇年七月の東京で、知事の候補者の一人として「この選挙のほんとうの主人公はまだ選挙権を持たない子どもたちだ」と真摯に語るひとのことを、自分自身のことばで応援させてもらう機会に恵まれたことを私は心から誇りに思っています。選挙の結果がどうあれ、かれは、私に気づかせてくれました。私たち一人ひとりは微力ではあるものの、決して、まったくの無力ではない。

たとえ、ガイジンで、さらにいえばアジアの、親日であるはずの台湾出身の、それもオンナであるおまえが生意気なことを言うな、と私の口をふさごうとするひとがいても、これからも私は、あなたたちこそ、この国の当事者だ、としつこく言い続けます。

 

二〇二〇年七月二日

温又柔

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著者略歴

  1. 温 又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2015年、日本エッセイスト・クラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『空港時光』(河出書房新社、2018年)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2019年)、『魯肉飯のさえずり』(中央公論新社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村 友祐(きむら・ゆうすけ)

    小説家。愛猫家。郷里の方言を取り入れた『海猫ツリーハウス』(集英社)でデビュー。演劇プロジェクト「東京ヘテロトピア」(Port Bの高山明氏構成・演出)に参加、東京のアジア系住民の物語を執筆。2014~2020年、主流から外れた小さな場所や人々を大切に描いた作品を選ぶ「鉄犬ヘテロトピア文学賞」の選考委員。著書に『幼な子の聖戦』(集英社/第162回芥川賞候補)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社)、温又柔氏との往復書簡『私とあなたのあいだ―いま、この国で生きるということ』(明石書店)など。

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