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私とあなたのあいだ〜この国で生きるということ

【特別公開 第1回】パニックの陰で〜第22便 木村友祐より

温又柔さま

 

新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言は五月二五日に解除されましたが(と、どうしても新聞記事の書き出しのようになってしまうのですが)、温さんは近頃は、近所を散歩したりできていますか? あとどれくらい待てば、みんなと気がねなくご飯を食べたりお喋りしたりできるようになるのでしょうか。

出かけるときは、マスクをするのがもう日常のこととなりました。外に出かけて、あれ、何か足りない気がすると思うと、マスクをするのを忘れたせいだったりします。すると、なんとなく落ちつかないんですね。それは、他人から非難の目を向けられるのを心配するより先に、マスクがすでに皮膚感覚とくっついてしまったからのように思われます。マスクがないと、口元がヌード状態になったみたいな落ちつかない感覚。

コンビニでもカフェでも、支払いやお釣りを受け取る際、トレイを介してやりとりするのもあたりまえになりました。自分も相手もお金を一度指で触っているわけだし、トレイに置いたからといってどれほどの感染予防の意味があるのだろうと不思議なのですが、コロナ状況下における〝作法〟として、それにも慣れてきちゃいました。

でも、時々、コロナ以前と同じように、お釣りを手渡しする人もいるのです。お互いのあいだに張られたビニールシートの下から、ぼくの手にお釣りを手渡ししてくれる。するとぼくは、一瞬、ギョッとするのです。そのお金が汚染されていると思ったわけじゃなくても、いいのかなと戸惑い、相手がいいなら別にいいよねと受け取る。

お店を出た後で、ふと悲しくなりました。お金を手渡しで受け取ることに一瞬抵抗を感じてしまった、自分の心の動きを悲しいと思ったのです。コロナがもたらしたのは、ビニールシート越し、マスク越し、モニター越しといった、何かで隔てられたうえで人と対面するようになった世界です。ただでさえ他人との溝に悩んでいる自分たちが、さらにこうして隔てられることになってしまいました。距離をとるのは良いことだ、という認識とともに。

──顕在化、露呈、浮き彫り。この前代未聞のコロナ禍は、そのような言葉でよく表現されるように、社会の陰に埋もれていた数々の問題を深刻なかたちで噴出させました。とりわけ、政治が率先して拡大させてきた非正規雇用の人たちが、コロナによる休業や経営不振によってクビや雇い止めになり、生活ができなくなるほどの大打撃を受けてしまいました。

仕事も住まいも失った人たちを支援する現場から伝わってくるのは、困窮した人々を救うための行政のセーフティネットが驚くほど動きが鈍いということです。鈍いというより、むしろ、税金を使ったサービスをなるべく受けさせないほうに注力しているらしい。生活保護を受けさせないようにあの手この手で相談者をあきらめさせる「水際作戦」があることは、ずっと以前から聞いていましたが、どうやら今も健在というか、逆に加速しているらしいことに愕然としました。

困窮した人を行政がなるべく助けない。そんなありえないことが堂々とまかり通るのは、生活に追い詰められた人に対する人々の関心の薄さが理由のひとつにあるのかもしれません。つまり、コロナ禍になる以前からの生活困窮者への無関心や、「自己責任」の考えに基づく偏見・差別が、行政の非人道的対応を野放図に拡大させてきたといえるでしょう。

もうひとつ顕在化したのは、排外思想や他国のアジア人への蔑視や差別です。ただ、これもまた以前からすでに目についていたことだから、顕在化というよりは際立つようになったということかもしれません。この問題は温さんもご存じだと思いますが、困窮する学生に最大二〇万円の現金給付をするという支援策「学生支援緊急給付金」で、文科省は、外国人留学生については成績の上位にいる留学生にだけ給付するという要件を設けました。その理由として、留学生はいずれは母国に帰る存在であり、成績の上位にいる留学生は日本に貢献してくれる見込みがあるから、ということのようです。

なぜ、公平さをねじ曲げる検察庁法改正案が大批判を浴びたばかりなのに、日本人と外国人への対応を分ける差別的メッセージを性懲りもなく挟んでくるのかと、怒りが突き上げました。

「貢献」ということであれば、国に支えてもらった留学生は母国に帰っても日本とそこの人々に対して温かな気持ちと感謝の念を持ち続けるでしょう。その気持ちは一生続くはずです。それに、成績上位の人たちが日本に貢献するかもという判断の根拠はいったいどこからくるのか。

学費や生活費に困窮した者への支援を成績で線引きすることに、温さんは「生産性」重視の姿勢を見て、Twitterで批判していましたね。ほんとうに、我が国は成績のいい外国人にしか用がありませんという発想は、外国人を〝労働力〟としかみない外国人技能実習制度の本質と地続きです。そこにあるのは、まさに、人間を家畜かモノのように「生産性」でしかみない人間観ではないでしょうか。

その視線は当然、国内の人々に対してもあまねく向けられますが、外国人、特にアジアの外国人に対しては、より露骨に向けられます。驚くのは、今回の「学生支援緊急給付金」における差別的対応を、なんと、教育行政をになう文科省が行っているということです。命と教育の選別を文科省が行っている。

そして、この給付金からは朝鮮大学校のみが除外されているそうです。東京弁護士会が文科省に対して是正を求めた「学生支援緊急給付金に関する会長声明」によれば、文科省は、朝鮮大学校は「各種学校」であり、高等教育機関の担保がないから除外したと説明したそうです。

だけど、その声明によれば、当の文科省は一九九九年に改正した「学校教育法施行規則」において、大学院入学資格を拡充して朝鮮大学校の卒業者にも入学資格を認めているそうです。また、二〇一二年に改正した「社会福祉士及び介護福祉士法施行規則」でも、朝鮮大学校の卒業生が受験資格を得られるようになったとのことです。

つまり、朝鮮大学校についてはすでに、自動車学校といったほかの各種学校とは区別して「高等教育機関である」と法の上でも認めてきたのに、今回、文科省はそれを知らんぷりして給付金の対象から除外しているのです。日本語学校は給付対象にしているのに、高等教育機関が云々と言い訳するのは、筋が通りません。

コロナによってバイトを失い、学費と生活費が賄えなくなった学生を、日本人か外国人かで分け、外国人留学生なら成績で選別する。とりわけ、日本で生まれて日本語を話し、学生の三割近くが学費のほとんどをバイト収入で賄っているという朝鮮大学校の学生(移住連HPより)を支援から除外する。これを政治利用と言わなくてなんと言うのでしょうか。

ぼくがこんなことTwitterで書くと、ドワ〜ッと批判が集まるでしょうね。朝鮮大学校は日本じゃないんだとか、本国にカネを送ってるやつらに支援なんかいらないとか、だれかに聞いたもっともらしい理屈をたくさんつけて。まさに、政府の思惑を内面化した見方で。

北朝鮮につながるものの排除は、そのように、大衆の理解を得られやすいと為政者らは思っているのでしょう。日本という国を国として成り立たせるために、言いかえれば、日本という国の輪郭を明確にするためにはわかりやすい「敵」が必要で、だから北朝鮮に対しては、日本人を拉致した独裁国家という悪役としてのイメージを絶えず付与しておかなければならないのでしょう。その敵からあなた方を守っているんだよ、だから国家も戦力も必要でしょうと。

このようなアジアの国に対する政治利用は、あちこちで見られます。WHOの総会に台湾が招待されなかった件では、政権の肩を持つ人たちがこぞって、台湾に同情を寄せつつWHOの中国寄りの対応を非難するというツイートが目立ちました。中国を非難したいがために台湾の肩を持つという姿勢があからさまで、温さんがいつもモヤモヤしたりカッカさせられているのはこれか、と再認識させられました。

北朝鮮、中国、韓国。いずれも日本のすぐそばにある国々であり、かつては侵略して支配下に置いた国々に対し、日本政府は敵視や警戒の姿勢を崩しません。台湾に対しても、中国を叩くときに味方のように利用するほかは、どうでしょうか。民主主義の先進国と言いたい台湾の政治姿勢や、いち早くコロナを封印した手法を学ぼうという意識があるでしょうか。そんな声は、政府からまったく聞こえてきませんね。

以前にも書いたような気もしますが、なぜ、こんなにも日本という国は他国に対して偉そうにしたがるのかと思います。日本はほかのアジアの国々より秀でていると言わずにはいられない。そして、そのような為政者のポーズに人々はすんなり追随する。衣服も家電製品もほかのアジア圏の人々がつくったものを使っているのに、感謝したり尊敬したりすることはまずありません。いまだに彼らを支配する植民者の立場にいるかのように、その国の人々を下に見るという意識は心に食い込んでいるように感じます。自分もアジア人なのにアジア人じゃないと思っているかのように。これは(あえて名指ししますが)日本人の特異性ではないでしょうか? 

白状すれば、ぼく自身の中にも、その優越心や差別心の残滓がうごめくときがあるのです。だからこそ、これはかなり深刻な、根深い問題だと思うのです。

そのような日本人の差別的特異性は、今までどれくらい小説のテーマに取り上げられたのでしょうか。日常の小さな細部を土台にして小説は書かれますが、そうして書かれた日常からは、ほかのアジア人に対して優越心や差別心を抱くという小さな心の動きはきれいに消去されているかのようです。それは、多くの書き手が、日本人しか出てこない小説を書いているからでしょうか。あるいは、そのような差別的特異性を書くのは、たとえば温さんのように当事者の立場にいる書き手が書けばいいということなのでしょうか。

でも、それなら、当事者とはいったい、だれのことなんでしょう。ほかのアジアの人たちに優越心や差別心を抱いてしまう日本人は、加害者という意味での当事者じゃないのでしょうか?

今、この国で小説を書くというとき、この国で暮らす外国籍の人々、特にアジアの人々のことを、もはやこれまでのように小説内の〝日常〟から省いてスルーし続けることはできないはずです。スルーし続けた結果が、(技能実習生を含めた)日本で暮らす外国籍の人々の困難を温存してきたのだとしたら、なおさら。

未曾有の災害といわれるコロナ禍ですが、そこで噴きだした数多の問題は、すでにこの国に埋蔵されていたものです。とすれば、やるべきことの本質は、これまでと特に変わらないのかもしれません。ただし、コロナパニックの陰でかき消されている声があるだろうことは、いつも忘れずにいなければと思います。ビニールシートの向こう、マスクの向こう、モニターの向こうで、いっそう聞こえづらくなった声はないか。これまで以上に鋭敏に繊細に心の耳を澄ますことが求められますね。

 

二〇二〇年六月一九日

木村友祐

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著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

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