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私とあなたのあいだ〜この国で生きるということ

【特別公開 第3回】人という起点〜第31便 木村友祐より

温又柔さま

 

日々の暮らし。あえてもっと大きな言い方をすれば、この日本社会における日々の暮らしの中で、ふいにゴツンとぶつかってくる様々なことがらについて、温さんと言葉のやりとりを続けてきて、気がつけば、もう一年と五か月がたちました。よく続いたなぁというか、ここまで何事もなくたどり着けたことが、なんだか信じられません。

高山明さん演出の演劇プロジェクト「東京ヘテロトピア」に参加したのは、二〇一三年でしたか。もう七年前。ほんとうに、「東京ヘテロトピア」への参加は、その後のぼくの思考や創作姿勢を変えるほどのインパクトをもたらしました。

「ヘテロトピア」とは、「現実の中の異郷」とか「混在郷」とも訳されるフーコーの用語とのことですが、東京の中にこんなにもアジアの人々の歴史を刻んだ場所があったのか、日々を暮らすコミュニティがあったのかと驚きの連続でした。中国、韓国、台湾、ベトナム、ミャンマー(ビルマ)、フィリピン、インド、カンボジア、パキスタン、ネパール。そして、難民として日本に逃れてきたのに、いつまでも難民として認められない不安定な立場にいる人々の存在……

気がつけば、普段からぼくの目には、彼女や彼らの姿は映っていたはずです。それなのに、視界に入っていてもほとんど意識にとめていなかったことを思い知らされました。そこに「人」がいたら、当然その人の「生活」があるのに、それを想像することすらしなかった自分は、世界の半分、あるいはそれ以下しか見ていなかったのだと痛感しました。

役者がいるわけではない、観客自身が役を演ずるように訪問地を訪れ、その場でぼくらが書いた物語の朗読をラジオで聴くという、高山さんの革新的な「演劇」。その後も高山さんの作品を観客として体験してきましたが、その大きな特徴とは、分け隔てられている世界同士をじかにつなぐという、アクロバティックな「接続」の仕方にあるのではないかと思います。ある意味で過激ともいえるその方法は、あいちトリエンナーレにおける、電話で苦情をぶつけてくる(電凸攻撃してくる)相手にアーティストが直接対応するという、以前も話題にした「Jアートコールセンター」の創設にも通じているでしょう。この「東京ヘテロトピア」の参加がきっかけで、ぼくは日本における在日外国人や、難民(そして難民と認められない人々)、技能実習生として来日したアジアの人々のことを気にとめるようになりました。

でも、よくよく考えてみると、ぼくがこの国で暮らす外国籍の人々のことを意識にとめるようになったのは、一緒に小説家デビューした温さんの存在が何よりも大きかったのだと思います。こうして温さんと小説以外でも活動をともにしていなかったら、たとえば、長年この国で暮らしていても投票する権利がないことの狂おしさを肌で感じることもなかったでしょう。

温さんが、「定住外国人の地方参政権付与の検討」を公約のひとつに掲げた宇都宮けんじさんを応援した動画を観ました(はじめて見る眼鏡姿が素敵でした)。胸が震えました。宇都宮さんの登場にどれほど励まされたか、どれほど支えたいと思っているか、温さんの心の震えがぼくにも伝わってきました。この動画を観て、ほかの大勢の人たちも揺さぶられたことでしょう。温さん自身の一票は、残念ながら投じることはできなかったけれど、温さんのメッセージによって宇都宮さんに投票した人たちはたくさんいたと思います。ぼくも宇都宮さんなら希望を託せると思い、宇都宮さんに投票しました。

その東京都知事選挙の結果がでましたね。現職の小池百合子氏が、他候補の得票数を足しても追いつかないほどに圧勝しました。その結果にぼくは、〝まともさ〟が通じない選挙・政治の世界という理不尽に、あらためて暗澹としました。

まともさ──。人々が何に困っているのか、現場の声に向き合い、困っている人が救われるような社会をめざすための施策を掲げたまっとうな人の声が届かない。あるいは聞こうとしない。そして、「女性だから安心できそう」とか「コロナの感染をよく抑えている」とかの、いずれも根拠のないイメージだけで票を投じる(これもぼくのイメージですが……)。

一方で、なんの苦労もなく選挙権を手にした人たちの多くは投票に行かず、投票率は前回の都知事選よりも五ポイント近く下がって五五パーセント。その結果、極めてイメージ操作に長けた(というかそれしかない)、コロナパニックを余さず自分のために利用した現職が当選しました。選挙に行かない四五パーセントもの東京の人々。選挙制度や選挙権を持つことに対するこの果てしない軽さはなんなんだろうと思います。まさに、〈投票率が低ければ低いほど、都合のいい政治家たちが、ほくそ笑んでる国〉。

先ほどぼくは悔しさをにじませて「まともさが通じない」と書きましたが、こういうときによく頭に浮かぶのは、自然に寄り添い、争いを好まず暮らしていた少数民族の人々が、銃や大砲といった圧倒的武力を持った侵略者との戦いに負けて土地を追われてしまうという光景です。生きものとして、人としてまっとうに生きる人々は、勝つためにはどんな卑怯な手段でも使う人たちに負け続けるしかないのだろうかと。……たとえそうだとしても、まともさを手放すわけにはいかないと腹をくくるしかないのですが。

宇都宮さんの応援で温さんのメッセージが注目される一方、そのぶんだけまたぞろ「国籍の有無」を楯に取って絡んでくるツイートが温さんのところに集まってしまったようです。「帰化すればいい」「台湾に帰ったら?」「国籍で区別するのが原則だろ」「日本の政治は日本人のものだ」「台湾人のくせに反日」……

おまえら、ふざけんなと思う気持ちを飲み込んで言えば、普通に考えて、ごく普通に考えて、長年この国で暮らしてきた者が、国籍がちがうという理由で政治にかかわれないのはおかしなことでしょう。なぜなら、その国、その街で暮らす以上、政治できまったことの影響は外国籍の人も等しく受けるからです。

政治家が増税をきめたら、外国籍の人も等しく増税分を払わなければならない。日本人同様、生活が苦しくなる。また、増税分が大企業の法人税減税や戦闘機の爆買いに当てられているようで納得できない場合でも、外国籍の人は、税金を納めているのに増税の可否について選挙をとおして自分の意見を表明することができない。これってただの不公平、もっといえば不当な嫌がらせでしょう。入管で長期勾留される外国人に対する扱いと根が一緒の、意図的な外国人差別です。

いったい、国籍で選挙権の可否を線引きすることの正当性とは、どこにあるのでしょうか? 温さんに絡む「日本人」たちは、その不公平や意味不明について、どんな説得力のある回答を持っているというのでしょう。同じ土地の上で暮らす生活者であることは日本人も外国人も変わりがないのに、生活者にも区分があるという結論をだすつもりでしょうか? 二級市民とか準市民みたいに? 人間を「二級」とか「準」でランク付けすることはれっきとした差別そのものなのに、その「日本人」たちは、「差別して何が悪い」と開き直るつもりでしょうか? 恥を、知らないのでしょうか?

ネットのどこかで見かけた理屈として、「在日外国人に選挙権を与えたら、その外国人が属する国籍国が有利になるような投票をするから、結果的に日本の立場を弱体化させかねない」というのがあったと思います。外国人を潜在的な「敵対者」とみなす考え方で、在日外国人が多くなると犯罪が多くなるという偏見に基づくデマと同じものです。そうなる根拠を示さずに、イメージだけで怖がるのです。もし、その言い分が現実のものとなって日本が弱体化し、景気が悪くなったとしたら、その日本で暮らす外国人だって収入が減ったり仕事に就けなくなったりして、すごく困ることになるというのに。

そしてもうひとつ、定番の理屈としては、「純日本人の意思だけで形づくられるのが日本だ」というのもあるでしょう。結局、外国人が選挙にかかわることに抵抗する理由は、ここでもまた、「純粋な血統」とか「単一民族」とかの〝つくられた幻想〟に行き着くのでしょう。これもまた根拠のないイメージです。イメージ、イメージ。かつてブルーハーツが歌っていたように、中身がガランドウでも、なんでもかんでもイメージでぼくらは動かされているし、動いてしまうのです。

なぜそこまで「国籍」を絶対視しなければならないのか。帰化しないからといって、国に対する忠誠心がどうとか言われなくてはならないのでしょうか。日本国籍を持つぼくは、日本への忠誠心を問われたことなんか一度だってないのに。温さんに「忠誠心が欠けている」と言った人だって、国への忠誠心を問われたことなんかないはずです。

自分や他人の国籍を〝尊重する〟ならわかります。それは大切です。でも、国籍を〝絶対視する〟となると、その根拠や正当性はいったいなんなのかと思います。ぼんやりとしていながら物の見方を方向づけてしまうイメージではなく、現実に根ざした具体的な根拠とはなんなのか(ぼくはこの対話の中で何度も「根拠は?」と繰り返していますが、でも、やはり根拠を問わなければならないのです)。そうやって国籍を絶対視することで、だれが得をするのか。国籍の重みを運転免許証なみに軽くしたら困るのはだれなのか。

ぼくはここで天下国家について持論を述べるつもりはなくて、それができるほどの知識も教養もありません。でも、国籍がどうとか以前に、すべての人にはまず根本的に、生きものとして生きる権利がある、住みついたそこで生きる権利があると思うのです(暴力を用いて他人の土地を奪うのでなければ)。これは、「国民」を対象にした憲法の生存権の範疇を越えた、だれもが〝生きものとして〟そこで生きようとする権利が当然あるだろうという考えです。

どんな土地でもその人がそこで生きる権利はある、また、その人がその人らしく生きる権利があるのだと〝人を起点として〟考えるのでなければ、いろんなことがおかしくなるでしょう。個人が起点ではなく、「人はこうあるべき」という国家側の考えがはじめにきてしまうと、国籍がちがうから、あるいは伝統的家族観をはみだすLGBTだから人としての権利を制限してもいいとか、最悪の場合は迫害や虐殺といった悲劇をも起こしかねません。

最近ぼくは、在日韓国人三世の作家、李龍徳さんの『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』(河出書房新社)の書評を書いたのですが、その小説は、在日コリアンを敵視する女性の政治家が総理大臣になり、国民の九割が嫌韓感情を持っているという悪夢のような世界をこれでもかと想像力を駆使して描いています。これは在日コリアンが肌で感じている日本の現状を拡大して映しだしたものといえますが、なんだか虚構の話とはいえなくなってきたとそら恐ろしく思うのは、小池百合子都知事が圧倒的な得票で再選したことです。

彼女は、関東大震災の直後に日本人によって虐殺された朝鮮人犠牲者を追悼する式典に、三年連続で追悼文を送っていません(二〇二〇年七月時点。追記=二か月後の九月の式典にも送らなかったので四年連続となった)。虐殺の事実には「様々な意見がある」として、歴代の都知事が送っていた追悼文送付を取りやめたのです。震災全体の犠牲者を悼む大法要に送った追悼文でも、朝鮮人の虐殺には触れなかったそうです(二〇一九年九月一日の朝日新聞より)。明確に「なかった」とは言わないものの、その史実が「あった」とは認めないことで、間接的に都合の悪い史実の真偽を曖昧にするという歴史改変の態度・アピールです。

また、この都知事選では、街頭で堂々と在日コリアンへのヘイトスピーチを繰り広げる「在日特権を許さない市民の会」の元会長の桜井誠氏が、前回出馬した都知事選のときより六万票以上多い一七万八千票を得ました。作家・評論家の古谷経衡氏のウェブ記事によれば、この増加は右派の内紛により特定グループの票が集中した結果であって、極右勢力が伸長したわけではないということですが、それでも約一八万もの人々が在日コリアンヘイトど真ん中の桜井氏に投票したのです。

在日コリアンに「出ていけ」と叫んで甚大な脅威を与える排外主義者に共感を抱く人々と、ぼくは電車や喫茶店の中ですれちがっているのかもしれない。そう思うと慄然とします。在日コリアンばかりでなく、温さんのような外国籍の人々にとって、この先どうなるのかという不安を抱かせる恐ろしい事態にちがいありません。

「東京ヘテロトピア」に参加して、この国には多様なアジアの人々が暮らしていると気づき、難民や移民の存在を意識しはじめました。すると、そもそもそれよりずっと前から、朝鮮半島にルーツを持つ在日コリアンの人々が隣人として暮らしていたことに、今さらながら気がつくのでした。なぜ、それを見落としていたのか。

じつをいえば—、ぼくが一〇代〜二〇代くらいのとき、「在日」という言葉の響きに、何やらふれてはいけないタブーのような印象を覚えていたことを告白しなければなりません。今思えば不思議ですが、どこか怖さを伴ったイメージがありました(ほら、ここでも〝イメージ〟です)。同じような近寄りがたいイメージを持っていた言葉としては「部落」「同和」もそうです。

それらの印象はどこからもたらされたものなのか。小池都知事が朝鮮人虐殺について真偽不明という態度をとることで、それを見た人が「ほんとは虐殺なんてなかったんじゃないか」という印象を抱いてしまうように、だれかの偏見に基づく言葉や映像の断片が、小さな印象の堆積としてぼくの心に根づいていったのだと思います。こういう実際にそぐわない何気ない印象というものが、実は危険なのです。たとえばもしも今、為政者が、普段差別にさらされているコミュニティとコロナ感染の原因区域を根拠もなく結びつけてしまったら、冗談ではなく大変な攻撃にさらされるでしょう。

アジアの中の、アジアの一つである日本で暮らすというときに、こうした足元の差別が確実にあるということを忘れてはいけないと思います。「アメリカの黒人差別はひどい」と他国のことを怒るなら、まずは自分たちの足元を見なければなりません。言いがかりのように「在日特権」を騒ぎたてる輩は、アイヌの人々にも特権があると攻撃しているのです。どれだけの「日本人」が、そうした国内における差別の存在を自分ごととしてとらえているのでしょうか。

温さん。ぼくは、〝国〟をまとい、〝純日本人〟をまとった言説、つまり、ひどく抽象的なことがらなのにあたかも実体があるかのような言葉で威圧する者に対し、つねにそこにいる〝人〟を起点にした、その人の生きる権利に土台を据えた言葉で対抗していかなければと思うのです。具体的な、その人の顔がちゃんと見える言葉で。その人の暮らしの温かみや手ざわりの質感で。〝イメージ〟を打破する揺るぎない生々しさで。

たとえば、「東京ヘテロトピア」の物語を書くための取材で訪れた品川の東京出入国在留管理局(東京入管)で見た親子の姿。ぼくはそのとき、部外者は行ってはいけないフロアだと気づかずに入ってしまったのですが、病院の待合室のように長椅子が並んだ部屋で、インドかパキスタ ン系と思われる大柄なお母さんが小さな男の子にフライドチキンを食べさせていました。もは や細部の記憶はおぼつかないのですが、そのフライドチキンにはたしかカレー粉がまぶしてあって、自家製かなと思った記憶があります(タンドリーチキンだったかも)。

やんちゃそうにじっとしていない男の子は、上顎を舌で叩くような発音の言葉で話すお母さんに何か注意されながら、アルミホイルに包まれたそれにかぶりついていました。なんだかフンフンと鼻歌でも歌うような感じの上機嫌で、お母さんと一緒にいる安心感がこちらにも伝わってきました。在留許可の延長申請に来た親子だったのでしょうか。その男の子のくつろいだ様子には、自分たちがこの国にいることに厳格な許可が必要なこととか、許可されなければ追いだされてしまうとか、外国人だからという理由で理不尽に差別されることもあるといった心配は、かけらも見受けられませんでした。自分たちがここにいることにだれかが文句を言うなんて想像もできなかったはずです(当然です。本来、何も悪くないのだから)。

だけど、この国は、ぼくらの社会は、成長したその子に対し、おまえはこの場所で暮らす資格があるのかどうかと事あるごとに問い詰めるのです。日本人ではない外国人だから、ほかのアジアの国から来た不審な人間だから、肌の色や顔つきがちがうからという理由だけで下に見られ、選挙にも参加する資格を与えられないという経験を繰り返し叩き込まれるのです。そのうちにその子は、自分は自分の存在理由をたくさん説明して、納得してもらわなければこの地に存在できない、日本人よりも人としての尊厳が軽い人間なのだと卑屈な気持ちで思うようになるでしょう。あの頃のように鼻歌まじりの上機嫌でいることは許されないのだと。

……おかしいのは、どっちでしょう。どれほどもっともらしい理屈で人権の制限を正当化しようとしても、生きることに条件や資格をつけるほうがそもそもおかしくないでしょうか。その「おかしい」というところから、物事の思考は出発するべきではないでしょうか。そして、文学はそこから書かれるべきではないでしょうか。自分や他人が「国家」や「国体」の一部として組み込まれたり、逆に排除されたりすることを断固として拒絶する・かわす・すり抜ける、そのために文学はあるのではないでしょうか?

でも、これまでに考えられなかったことが起きる時代だから、「国家」や「国体」への参入と排除をがなりたてる書き手も今以上に増えていくのかもしれません。アジアにおける日本の地位がどんどん後退していくように、文学も劣化し、衰退していく。アジアにおける自分たちの優位性を喧伝するスピーカーの役割をになっていく。

そんな事態になってほしくないし、この国の文学者の多くはそこまでヤワじゃないと思いますが、もしもそうなったときは、温さんとぼくの共同戦線における連帯は、いよいよさらに強固になっていくのだと思います。

 

二〇二〇年七月一八日

木村友祐

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著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

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