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ウゾウムゾウのためのインフラ論

スマートから遠く離れて(2)

 

 

最適化の魔、スマートシティ

外部世界を遮断してくれるシェルターそれ自体はインフラにはならない。シェルターをインフラとして機能させるためには、まずそれを撹乱する不確かさや不安、未知、リスクといった要素が、次いでその撹乱とうまくつきあうための信頼関係を構築する実践がなくてはならない(註18)。撹乱に直面するたびに生じる不具合や不安定さをわたしたちがケアし最適化させていく実践の過程で、インフラはインフラとして再起動し続ける。このためインフラはシェルター内部には限られない。インフラとして「使用」されうるものはすべて、インフラとして機能しうるからだ。

(註18)『アイ・アム・マザー』の世界自体にもしも外部が存在すれば、の話だが。

『アイ・アム・マザー』は必ずしもディストピアではない。真のディストピアとは、《マザー》に従順で、外の世界に対する好奇心の全くない《ドーター》ばかりが集う世界だろう。与えられたシェルターを唯一のインフラだと信じこみ、アクターたちが情報の流れには開かれつつ物質的には自閉する世界だろう。仮構された閉鎖系全体のパフォーマンスを最大限に引き出すべく、最適化にすべてを投入し続ける世界だろう。それは今、スマートシティと呼ばれている神話である。

 

 

Society 5.0とスマートシティ

日本におけるインフラ政策の本尊は、Society 5.0である。【Image10】を参照してもらえば概要はつかめるだろうか。18世紀的な発展史観を現代に復古させた日本政府が提案するSociety 5.0とは、狩猟採集社会、農耕社会、工業社会、情報社会の次に来る予定の、未知の社会像である。

Image10: 内閣府「Society 5.0

 

内閣府の説明によれば、Society 5.0とは「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)」(註19)のことである。具体的には、「IoT、ロボット、人工知能(AI)、ビッグデータ」を駆使して現実世界に起こるあらゆる課題を解決していく社会、となるが、すべての理念がそうであるようにそれでもなお具体性に欠けるのは否めない。Society 5.0の強調点は、それが世界で日本国だけが掲げた未来への理念である、という点にある。工業分野におけるコミュニケーション/情報技術の浸透を謳ったドイツのIndustrie 4.0(註20)にSDGs(持続可能な開発目標)(註21)を足し、日本社会全体へと適用範囲を拡大したものに過ぎないように現時点では見えたとしても、世界のリーダーになる日本政府の確かな意思だけはひとまず信じよう。このヴィジョンが画餅に終わらず、福利や効率性の向上、日々の安心に結実するのであれば喜ばしい。

(註19)内閣府「Society 5.0」。

(註20)「“Industry 4.0”は、製造業においてIoT技術を高度に利用する「サイバーフィジカルシステム」(CPS)を導入することで、高付加価値のある製品生産を実現しつつ、徹底して生産コストを極小化する「スマートファクトリー」を実現することに主眼がおかれている」(日立東大ラボ『Society(ソサエティ) 5.0 人間中心の超スマート社会』日本経済新聞出版社2018年 kindle)。熊谷徹「インダストリー4.0とは何か? ドイツが官民一体で進める「第4の産業革命」」(『日経ビジネス』2019年6月10日)を参照。

(註21)SDGsはすでに日本社会のあらゆる未来志向のアジェンダに浸透している。たとえば外務省「SDGsとは?」。ただしSDGsは、保全(conservation)対象の資源(resources)としてのみ自然を捉える人間中心主義や資本主義のありかたを温存したままの持続的発展、再分配や貧困の無視といった多くの問題を抱えており、多くの論者から批判を浴びている。土佐弘之『ポストヒューマニズムの政治』(人文書院 2020年)の28-29頁を参照。

Image 11: 「スマートシティたかまつの実現に向けた推進イメージ」(高松市公式HP「スマートシティたかまつ推進プランについて」)

 

雲を掴むようなSociety 5.0は、コミュニティレベルでの実践に地盤がある。たとえば【Image 11】の高松市の構想のように、すでに世界中で行われている都市計画、「スマートシティ」(Smart City)である。都市計画とデジタル・テクノロジーのコンサルタント、アンソニー・タウンゼントによるスマートシティの始まりについての説明を確認しておこう。

スマートシティのゴールドラッシュが始まったのは2007年だ。その年、オートメーション(自動化技術)分野で実績のある大手経営コンサルティング・ファーム、ブーズ・アレン・ハミルトンが、老朽化したインフラの改修や進行する都市化への対応のために、2030年までに全世界で41兆ドルもの投資が必要になるとの試算を発表した。その後しばらくして投資銀行リーマン・ブラザーズが破綻し、世界規模の恐慌が始まった。企業によるITへの投資は急速に冷え込み、結果シスコやIBMなどの業績は悪化した。

この間に各国政府は、経済を活性化すべく大規模な財政出動を始めた。その資金の多くが、ブーズの指摘した、老朽化の進むインフラの改修に向けられた。IT企業はそのおこぼれに預かる〔ママ〕べく、既存技術(センサや通信ネットワーク、自動化技術、データ解析技術など)を転用することでインフラを「スマート化」できることを積極的に示し、それを新たなビジネスに結びつけようと考えた。実際、水道・エネルギー・交通・建築設備などへのITの導入には多くの利点がある。ざっと挙げるだけでも、資源の有効活用を実現したり、セキュリティを向上させたり、信頼性を高めたり、遠隔操作や一括制御を可能にしたり、予測能力が向上したりなどさまざまなメリットが考えられる。(註22)

(註22)アンソニー・タウンゼント「スマートシティ——その可能性と落とし穴」(竹内雄一郎監修「Atlas of Future Cities | 未来都市アトラス」所収)。

シナリオをまとめよう。まず、老朽化したインフラの整備にかかるコストをコンサルティング会社が試算する。次にリーマン・ショックがやってきた。そして不況を脱すべく各国は公共事業をしかける。その一部にインフラの改修事業が組みこまれる。IT企業はこの公共事業に参入すべくインフラへのIT技術の転用、「スマート化」を提案し、実践した。つまりスマートシティは、IT業界が投資を呼びこむための広告の一種だったというわけだ。

現在スマートシティは、新興国のモデル都市建設のヴィジョンとなり、住人や環境、文化の差異を問わずあらゆる都市計画に転用可能な(スケーラブルな)規格だとされている(註23)。スマートシティで蓄積されたデータは別のスマートシティの建設・運営へと転用され、やがて世界中を結ぶスマートシティのネットワークができあがる。スマートシティをつないで構成される日本のSociety 5.0は、「超スマート社会」と今のところほぼ同義だとされているようだが、この転用可能なモデルは国家の枠組みも超え、システムどうしが互換的・相補的に働く超スマートグローバル社会に至るだろう(註24)

(註23)タウンゼントも上記引用のあとで用いているスケーラブルという用語に関しては、資本主義の均質化を批判するアナ・チン『マツタケ 不確定な時代を生きる術』(赤嶺淳訳 みすず書房 2019年)の重要概念である。かみ砕けば、スケーラビリティ(scalability)とは、ある状況で通用している規格・形式・システムが、別の状況にも転用可能である事態を指す。たとえば、グローバリゼーションや金融資本主義は、地球をひとつの基準・規格で結ぼうとする点においてスケーラブルな運動であると言える。これに対し、なにかのシステムが他の状況に転用できない場合、これをノンスケーラブルなものとして形容する。世界には必ずノンスケーラブルなものが含まれているため、根源的に均質化はされない。ノンスケーラブルなものは、別の世界への生成の可能性が保存されている。

(註24)スマートシティの世界展開の経緯とその分析に関しては、佐幸信介「スマート・シティと生政治 パブリック‐プライベートの産業からコミュナルな統治へむけて」(伊藤守編『コミュニケーション資本主義と〈コモン〉の探求 ポスト・ヒューマン時代のメディア論』東京大学出版会 2019年155-84頁)を参照。

 

 

IoTとIoH——モノとヒトのつながり

スマートシティ構想の技術的背景となるのが「IoT」(Internet of Thingsモノのインターネット)の進歩である(註25)。IoTとは、たとえば、スマートフォンで操作可能な家電や子どもの様子を親が遠隔地から監視できるカメラ、さらにはダムに備え付けられたセンサーを使って水位その他の情報を収集する装置のことを指す。ここには、エネルギー消費効率を自動的に制御するスマートハウスの基盤である、「住宅内のエネルギー機器や家電などをネットワーク化し、エネルギー使用を管理・最適化するホームエネルギーマネジメントシステム(HEMS)」や「ITを駆使し電力の需給を最適化するスマートグリッド(次世代送電網)」も含まれる(註26)。モノどうしがデータを交換しあい、情報を生成し、モニタリングやシステム制御に役立てる。これがスマートシティに転用されると、老朽化するインフラの状況をモニタリングしながら修理が必要な箇所をリアルタイムで把握したり、交通状況を分析して渋滞の緩和を実現したり、電力の需給バランスを制御してエネルギー消費を節約したりできるようになる。IHS Markitの試算によれば、世界中でIoTに接続されているデバイスは2017年時点で270億基、2030年には1250億基に達する見込みだという。データ通信量は今後15年にわたり、平均して毎年最大50%の増大が想定されている(註27)。IoTが工場や情報産業、モバイルフォンにとどまらず、生活に関係するあらゆる局面に浸透していく趨勢を避けることはもはやできない(註28)

(註25) MONO WIRELESS「IoTとは?|IoT:Internet of Things(モノのインターネット)の意味」。

IoTと聞いて僕が真っ先に思い浮かべるのは、ぬか床どうしが交信するNuka Botだ。ドミニク・チェン「ドミニク・チェンの発酵メディア研究 Vol.10【急】ミラノ・トリエンナーレBroken Nature展にて」(『Wired』日本版 2019年4月27日)。

(註26)「スマートハウス」(環境ビジネスオンライン 環境用語集)。

(註27) IHS Markit. The Internet of Things: A Movement, not a Market.

(註28)陸上輸送と海上輸送をつないで物流を最適化する「全地球IoT網」の整備はすでに進行している。「無人船が示す未来、「全地球IoT網」のインパクト 到来、無人船時代(上)」(『日本経済新聞電子版』2016年11月16日)を参照。

Image 12: IoTの都市イメージ

 

スマートシティの真骨頂は、IoTというモノどうしのデータ/情報の交換による効率化にはなく、人間の行動や感じ方のデータ/情報のIoTへの接続にある。これはIoH(Internet of Human ヒトのインターネット)と呼ばれている(註29)。IoHは、たとえば【Image 13】で図示されているように、ひとりの身体の各部をつなぎ、かつヒトとヒトをつなぎ、さらにそれを外部のIoTや他のIoHに接続する仕組みのことを指す。ゼロックスの研究によれば、「IoHにより、人の位置や行動、各種生体情報、感情、嗜好などが常時データ化されてインターネットに集められる。それらを分析することで、人の行動や健康状態の改善、組織の生産性向上の支援、高精度なマーケティング情報の入手、といったことが可能になった」(註30)。日本企業による実践例である、ゼロックスによる社員の行動分析や日立による社内幸福度のモニタリングと計量化(註31)が物語るように、IoHは人間の行動を効率化して労働生産性を向上させたり、人間が健康に働き続けるための条件を探ったりする上で威力を発揮する。経済発展に寄与する人材の配置・時間配分の最適化のみならず、労働者の健康を技術的に統制することにより、将来的に福祉にかかる経費をできるだけ抑える、予防福祉(preventive welfare)の効果も期待できる(註32)

(註29)英語圏ではHuman Internet of Things (Human IoT)が一般的。少なくともInternet of Humansと複数形で表記される。またヒトを含むIoTには、Internet of Everything(IoE)という表現もある。

(註30)京嶋仁樹+荒井恭一+丹野泰太郎「IoT/IoH技術を応用した働き方の変革と生産性の向上」(『富士ゼロックス テクニカルレポート』27 2018年 58-64) 59頁。

(註31)矢野和男他「ウエアラブル技術による幸福感の計測——知識労働やサービス業務の生産性を飛躍させるテクノロジー——」(『日立評論』2015年6・7月合併号 78-83)。

(註32)予防医学(preventive medicine)や予防的ヘルスケアから連想した僕の造語。福祉の体制が、困った人を助けるセイフティネットではなく、困った人をできるだけ生み出さないよう予防装置として働く状態を指している。予防福祉によって予防できなかった帰結のすべては、自己責任の圧に晒されることになる。

 

Image 13: ウェラブルデバイスを使ったヒトのワイヤレスネットワークのイメージ(MahtabAlam M and Ben Hamida E.“Wearable Wireless Networks for Internet of Humans: Trends and Challenges.”(J Telecommun Syst Manage 4: e115. Doi: 10.4172/2167-0919.1000e115.)のFigure 1)。

 

企業や生活の一部で活用されているIoTとIoHが都市全体のイメージへとまとめあげられるとき、スマートシティという「IoTやM2Mのネットワークからセンシングによって集積されたデータを解析し、エネルギーや交通、人などのフローを監視し、それらのフローを制御・誘導していくようなテクノロジーの集列体」が実現する(註33)。すべてを連携させて組織化させるには、もちろんクリアしなければならない問題が多々ある。とりわけ人間の協力を得なければならないIoHには困難が多い。市民がスマートシティという都市のために自発的にデータを提供してくれるかどうかという問題(内発的動機づけ)。それに伴うプライバシー保護。データ取得の条件の裏をかいた悪意あるノイズが紛れ込む可能性に対処する方法。システムの効率化を図るためにできるだけ都市をコンパクトに保つ手段。だがこれらを解決するための生物をモデルとした(共生)自律分散システムの導入やブロックチェーンによる情報提供の匿名化といった工学的な問題は、僕の守備範囲を超える(註34)

(註33)佐幸160頁。M2Mはmachine to machine、つまりヒトと機械ではなく、機械どうしの通信・制御を指す用語。

(註34)日立東大ラボ第4章に相当する。

 

 

シェア・人間力・最適化の向こう側

僕がスマートシティを焦点として考えたいのは、問題が顕在化しないようにヒトとモノの動作を最適化することに関する問題である。まず、あらゆる生物/非生物の挙動を平等に変換したデータや情報を、ひとつのシステムのなかで「みんなのためにシェアする」ことに関する問題(註35)、次に「人間の行動のアクティヴィティと既存の空間との間の最適な適合関係をデザインする」ことに関する問題(註36)、それから最適化の世界に奉仕する外部存在の等閑視という問題である(註37)

(註35)日立東大ラボ第1章の知識集約型社会とデータ駆動型社会の問題に相当する。

(註36)佐幸161頁。

(註37)日立東大ラボ第3章のスマートシティどうしをネットワーク上につなぐ超スマート社会=Society 5.0、それからスマートシティのモデルの輸出という議論に相当する。

 

Image 14: 一般社団法人シェアリングエコノミー協会「シェアリング・エコノミー領域Map

 

問いの入り口はポストコロニアル文学・理論研究者の西亮太がすでに切り開いている(註38)。【Image 14】が端的に示しているように、シェアリング・エコノミーを駆動させているのは企業の経済活動である。たとえば、「エアービーアンドビー(Airbnb)」や「中古品のリユースを無料で行うもの(たとえば U-Exchange)、自動車所有者が使わない時間帯だけ貸し出すもの(たとえば Zipcar)、あるいは同じく自動車所有者が近くにいる人を乗せてあげるライドシェアと呼ばれるもの(たとえば Uber)」にはサービスの関係(註39)はあっても、社会性のシェアはない。スキル、お金、移動、モノ、空間に関するサービスはあっても、相互の依存関係とそれを仲立ちする労働という社会性、そしてそれをもとに成り立つはずのコミュニティは、どこにもない。なにかをシェアしてつながりたいという願望はSNSを中心にして広く行き渡っている。しかしその願望のシェアは、生産性革命の文脈にあるシェアリング・エコノミーにおいて都合よく搾取され、願望が願望の対象となるべきもの(社会)に届くことはない。

(註38)西亮太「シェア」(研究社WebマガジンLingua「文化と社会を読む批評キーワード辞典reboot」第5回)を参照。

(註39)資本家に対して奉仕する存在であるにもかかわらず、その事実を覆い隠してしまう労働者-消費者間のサービス労働の問題を、両者の連帯の契機として捉え返す河野真太郎「サービス」(研究社WebマガジンLingua「文化と社会を読む批評キーワード辞典reboot」第6回)を参照。

スマートシティについても同じような状況がある。スマートさという価値はすでにシェアされている。スマートシティ構想の実現以前に、ほとんどの市民がスマートフォンというモバイル機器に慣れ親しんでいるからだ。列車の時刻表・乗り換え、近隣の飲食店、目的地につくための最短の経路はいつでもどこでも自分で調べることができる。各種課金サービスや支払いもスマートフォンで事足りる。健康状態をケアするApple Watchのようなウェラブルデバイスまで加えれば、データ/情報ネットワークのなかにわたしたちはすでに自ら進んで参入していることになる。わたしたちはすでに、自らの行動や傾向をデータ/情報として各種サービスに提供し、IoTとIoHを基礎とした、スマートシティに近似したゆるやかな情報ネットワークをその身体を通じて実演している。誰かが残したコメントやライフログだけではなく、行動や指向もわたしたちはシェアしている。より便利に快適に行動できるよう、そして不快なことをできるだけ避けることができるよう、モバイル機器やサービスの進歩を賞賛している。だから、Society 5.0も超スマート社会も実は突飛なことでは全くない。コミュニケーションによって生成する情報のつながりは物質的なハードウェアのネットワークと一体となり、ヒトもモノも区別なくスマートにコミュニケートしている。めんどうくさいものをショートカットして、スマートに生きたいという欲望は果てしない。このような欲望と機器はすでにシェアされているし、その亢進は止めどない(註40)

(註40)『攻殻機動隊』シリーズは、情報のフローとその伝達の即時性に最適化した身体からなる情報化世界における犯罪と懊悩が描かれる。『エヴァンゲリオン』シリーズにもまた、個人の社会からの切断を志向するA. T. フィールドと、人類補完計画の不完全な決行においてすべての存在物が混淆し単一の生命体となる状況の対比がある。タイムラグが生じない無媒介性(immediacy)にスマートな最適化の理念を象嵌する現代を考える上で、これらのSF的作話作用は興味深い。

Image 15: Uスマート推進協議会ホームページ

 

では「自らの意思決定をテクノロジーに委ねれば委ねるほど、私は目的地に早く到達できる」(註41)スマートシティの夢において、シェアされないものはなんだろうか(註42)。それを考える上でひとつの鍵となるのが最適化の問題である。建築家/都市デザイナーのアレックス・ウォッシュバーンは次のように断言する。

トレーディングに勝者と敗者は付き物だが、注目すべきはそれがアルゴリズムの優劣によって決定されるということである。私はここに、スマートシティの支持者たちが描き出すものよりも暗い、都市の未来像を垣間見る。確かにスマート・テクノロジーの導入は都市が抱える多くの非効率を是正し、それはすべての人に恩恵をもたらすだろう。しかしこうした、システム全体の非効率はいずれそのたいていが解消され、それ以降は個々人が利益を得るためには、別の誰かが損失を被ることが必要になってくる(註43)

(註41)アレックス・ウォッシュバーン「4. すべてが最適化されたとき」(竹内雄一郎監修『Atlas of Future Cities』)

(註42)スマートさが悪夢と紙一重なのは、日立東大ラボも意識している。「“Society 5.0”を支えるとされる技術の多くが、こうした共有価値、共有型経済と極めて親和性が高いように思われる」。「とはいえ、より多く共有しているから幸せかどうかはわからない。より多く共有することで、気にかけなければいけないことが増えて気が休まらなくなるかもしれない。より多く共有すれば、ある意味で管理しなけれなければいけない部分も増大し、それは容易に監視と支配につながる」(第6章)。

(註43)ウォッシュバーン

最適化が進めば、競争や競合がなくなるわけではない。競争のルールが変わるだけである。たとえば、スマートフォンのパフォーマンスに最適化した都市においてはどれほど高性能で高価なスマートフォンを持っているかが試されることになる。GPSの精度が高く、情報通信速度に優れ、多機能性と汎用性を備えていなければならない。もっと凡庸な水準に引き戻せば、スマートフォンを持っているか持っていないかが、スマートフォンユーザーに最適化したスマートな都市への適応度を大きく左右するだろう。これは技術と技術のあいだに生じる競争力の格差である。しかし、すべての人が同じ性能のスマートフォンを所有していたとしても「アルゴリズムは時々刻々のデータに基づいた最適化を行なうだけでなく、競争相手を騙すため嘘のデータを作り出すなど、さまざまな手を使って優位性を得ようとするだろう」(註44)。つまり、超情報化社会における全体最適化(total optimization)のための技術は、本来の目的から遠ざかり、競合相手を出し抜くための複数の局所最適化(suboptimization)のあいだの闘争に至ることもありうる。

(註44)ウォッシュバーン

Image 16: グルーヴノーツ「AI×量子コンピュータがひらく未来 MaaSとスマートシティを実現するために」(日経BP 「人工知能サミット2019 Review」)

 

スマートシティの居住者は、その機序を知らないまま入力と出力の情報だけを得ながら生活する。通話ボタンを押せば通話は成立するが、どのように通話が成立しているのかは知らなくて構わない。【Image 16】に見られるような入力と出力のあいだを媒介するアルゴリズムは人間にとってブラックボックスのままであるにもかかわらず、スマートな生活は実現してしまう。魔術のように。コンピュータがもたらす全体最適化による全体主義のなか、「近代の人間的倫理を上回る全体最適解」(註45)が得られる。ヒトとモノ、自然とが一体となって生まれる新しい技術的・宗教的・魔術的自然を、メディアアーティスト・落合陽一は計算機自然、あるいはデジタルネイチャーと呼ぶ(註46)。だが、ウォッシュバーンの指摘が正しければ、スマートシティの最適化の世界のなかで、わたしたちはいずれ、解を導き出す過程が不明の「デジタルネイチャーの技術的自然選択」(the techno-natural selection of digital nature)に晒されることになるだろう(註47)

(註45)落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』(PLANETS/第二次惑星開発委員会 2018年)221頁。

(註46)ダナ・ハラウェイは「サイボーグ宣言」(1985年)で、サイバネティックスと宇宙開発技術、スターウォーズ計画が絡み合った情報工学の体制下のアクター、サイボーグを提示している。ハラウェイは有機体と機械の混成体であるサイボーグという形象を通じ、自然と文化/技術の差異を絶対的なものとする自然化を徹底的に退け、情報技術のなかで生成する新たな境界的身体性の政治性を思弁している。『猿と女とサイボーグ 自然の再発明 新装版』(高橋さきの訳 青土社 2017年)所収。ただし落合のデジタルネイチャーとは異なり、ハラウェイのサイボーグは人間の「できる」能力の拡張には向かわない。サイボーグとは80年代当時、第二波フェミニズムが家父長制や資本主義との闘争のなかで見過ごしてきた、労働や第三世界における傷つきやすさを蝕知し、「できない」ものたちとつながる親和力を外へと開く身体性である。

(註47)『ブラックミラー』1-2「1500万メリット」は、ヴァーチュアル世界で刺激や笑いを得る人間の生に最適化した世界を描いている。ただしこの最適化が完成した世界のなかにも競争はあるし、格差はある。

しかし誰もが無策ではない。最適化の盲点に気づいている都市計画論者たちにも対策はある。だが、それはたいていの場合、人間の主体性や人間主義の増強である。機械やシステムに丸投げしてはならない。都市や社会の最適化に、人間が積極的に関与しなければならない。ウォッシュバーンも、日立東大ラボも、内閣府も、技術決定論的な未来を退け、人間中心のスマート社会の必要性を訴える。

日立東大ラボは、「人間中心の社会」の人間を次のように描き出す。

“Society 5.0”を人間中心の社会へと導くには、コンピュータやソフトウェアの進化とともに、新たな産業創造を担う人材の育成や市民一人一人の情報に対するリテラシーの向上が欠かせない。(第1章 “Society 5.0”とは)

“Society 5.0”では、サイバー空間とフィジカル空間(現実世界)を高度に融合させることで、快適で活力に満ちた質の高い生活を送ることのできる「人間中心の社会」をめざしている。“Society 5.0”では、モノだけではなくヒトをネットワークにつなぐIoH(Internet of Human)が、大きな意味をもってくる。(第4章 都市のデータ化とサービスの連携)

僕なりにまとめるならば、ここで求められている「人間」とは、スマートシティやSociety 5.0というヴィジョンとそれに伴う物質的条件のなかで、コミュニケーションとアクションの主導的役割を果たすIoHとしての能力、つまりスマートに自らを人材として最適化できる能力に秀でたアクターのことである(註48)

(註48)「AI時代の人間力」や「AIに負けない人間力」といったビジネス・教育業界で多用される標語も同じ問題を抱えている。人間を開発すべき資源=人材(resource)として捉え、PDCAサイクルのなかに組みこむ流れは加速している。たとえば至学館大学人間力開発センターの「人間力開発ノート」を参照。
 スマートシティ構想というひとつの全体的ヴィジョンに参加し、そのなかで自己の最適化を求められるわたしたちは、一見新たな人間への可能性に開かれているように見えて、久保明教が論じる近代的な再帰的自己に近づくように思われる。「再帰的自己においては、自己の行為と性質を全体として把握しようとするからこそ、形式化の外部に絶えず「自らを理解し制御する私」が位置づけられる。このとき、形式化が生みだすバグは「私」を変容させる契機とはならず、単に除去すべき機能不全としてしか現れない。機能不全はさらなる形式化を要請し、その結果、実現されるべき「本当の私」がどこまでも私から逃れ去るようにイメージされる」(久保明教『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』講談社 2018年)198頁。

人間主義の拡張という文脈で言えば、内閣府が組織した人間力戦略研究会が2003年4月10日に公開した『人間力戦略研究会報告書 : 若者に夢と目標を抱かせ、意欲を高める~信頼と連携の社会システム~』から連綿と続く、「人間力」の問題を無視することはできない。そこでは、知的能力的要素、社会・対人関係的要素、そして自己制御的要素を「総合的にバランス良く高めることが、人間力を高めること」(強調筆者)であるとされていた(註49)。2018年の経団連は、Society 5.0の世界において必要とされる人材を次のようにまとめている。

Society 5.0 時代に必要とされる人材像はこれまでとは大きく変化する。定型業務の多くは AI やロボットに代替可能となるため、中には消滅する職業も出てくる。しかし、人がやるべきことがなくなることはない。人々は、誰もが人ならではの想像力や創造力を発揮しながら、AIやデータを駆使して夢を実現し、より大きな価値を生む業務を行うようになる。先が見通せない時代には、自分の頭で考え、自ら課題を見つけ、解決策を設計し、AIなどを活用してそれを現実のものとする力が欠かせない。各分野において領域知識を持つ人材がAIを応用できる力を身につけることが求められる。また、従来必要とされていた、ルールや手順を正確に守る人材だけでなく、果敢に新しいことに挑戦し、社会の仕組みを一から創り直して、設計できるような人材が求められる。AI が普及し、それを活用していく上では、適切な倫理観も問われる。もう一つの重要な資質は、多様性を持った集団におけるリーダーシップである。日本社会が多様性を増し、SDGs の達成に貢献するためには、多様な背景と価値観を持つ人々からなるコミュニティーやビジネス上のチームにおいて、リーダーシップを発揮できる人材が重要である。そのような人材は、異なる文化に対する深い理解と敬意、新しい価値を想像し創造する力など高いリベラルアーツの素養と、コミュニケーション能力、メンバーから尊敬され得る深い専門性と人間性を兼ね備えることが必須である。このような集団の創造的能力を最大限に発揮させるには、権威や命令、社会的地位のみで統率することは不可能である。共通のビジョンと相互のリスペクトがマネジメントの根幹をなす。そこでは、全人間性が問われる。(強調筆者)(註50)

(註49)人間力戦略研究会『人間力戦略研究会報告書 : 若者に夢と目標を抱かせ、意欲を高める ~信頼と連携の社会システム』(2003年4月10日)10頁。

(註50)日本経済団体連合会「Society 5.0――ともに創造する未来——」(2018年11 月13 日)41-42頁。

技術の発展は、人間の労働を減らし、余暇を増やし、平等の社会が実現されるユートピアへの道として語られてきたはずだ。工学に携わる研究者は、「人間力」をそれほど必要としなくなる世界の到来を目指していたし、僕も労働の負担が軽くなり、余暇の充実し、際限なく可能性が拡張する未来をどこかで楽しみにしていた。落合陽一も同じだろう。だがどうやら金融資本主義のアクターたちは、Society 5.0という神話によって、既存の人間性を限界まで引き出す方向に突っ走っているようだ。人間とモノ、自然環境とが等しくデータや情報として連動する社会への参加を求められるときに、多岐にわたる人間力要素の綜合、すなわち「全人間性」が動員され、機械に負けないことを目的とする人間主義が復古する(註51)。Society 5.0を生き抜くのはとても難しいように僕には思える。なぜこのシステムに自らを最適化するために、これほどの人間力を引き出す必要があるのか僕には理解できない。スマートと言うにはほど遠く、どこか前時代的な体育会系の匂いすらする。

(註51)「AIに負けない読解力」というような売り文句も同断である。情報処理能力の面でAIに勝てるかどうかが人間の学びの目標ではないし、AIと人間とではインプットとアウトプットのあいだで生じているプロセスが異なる。

もちろん、Society 5.0もスマートシティも、今のところ投資を呼びこむための標語に過ぎない。そこまで全体化はしないかもしれない。けれども、これらの標語のありかたを忖度して、社会のさまざまな局面で改革が進行している現実はすでにある。自らの人間性をIoHへと自発的に組みこむ動きは各所で起きている。スマートさはすでに浸透し、全面化している。

まとめよう。再帰的な物言いになるが、スマートシティ構想でシェアされていないものとは、スマートではないものである。スマートではないものとは、たとえば、『アイ・アム・マザー』の「シェルター」をインフラへと変えた、頼りない信頼や外に向かう好奇心が働くプロセスである。必要なのは、テクノフォビア(技術嫌悪)でも、人間性の唾棄でもないし、ましてや人間主義の復古でもない。シェアすべきは、人間のアンガージュ(社会参加)が畢竟スマートシティという超情報社会のアクターとしての参加に閉じてしまうその偏狭さである。与えられた条件下での生存のための最適化という経路を勝手に敷かれてしまうことに対する息苦しさである。ICTにかかわる企業体の消費者として、過剰に生き生きと振る舞うことの拒否である。そのためにはスマートシティを全体としてではなく、なんらかのプロセスの末端(端末)、あるいはプロセスの涯てにある、エンドユーザーの住まうシェルターとして考える必要がある。

スマートシティは全体俯瞰的な理想を掲げつつ、実際は自閉に向かい、超情報社会のアクター像から外れる人間のふるまいを査定に入れない。事実、スマートシティは、そのままでは拡散してしまい冗長になる都市機能を、より効率よく電子的に囲い込むためのモデルである。メディア社会学者・佐幸信介は、次のように述べている。

〔中略〕スマートシティは都市を統治のために電子的に囲い込む(電子的パノプティコン)という特徴を有している〔中略〕。なぜ囲い込むのかと言えば、エネルギーが効率的に使われるように操行し、快適なものとするためには、ある閉じられた空間のなかに自己完結するエネルギーやフローの循環を構築しなければならないからである。この点においてスマートシティは、例えば地球環境問題やエネルギー問題を内部化し電子的に統治しようとしているかのように見える。だが、地球環境問題や自然破壊、環境破壊といったもう一つの自然性が有している圧倒的な物質性の崩壊を考えたとき、スマートシティとその外部との間に決定的な断層が走っていることが顕在化する。スマートシティとして電子的に囲い込むことは、この都市の外部にコントロールできないもう一つの自然性があることを浮上させるのである。(註52)

エネルギー効率や情報の流れの制御は利点かもしれないが、制御されているのはあくまでもコミュニケーションのシステムが行き渡っている限られた範囲にとどまる(註53)。その内部では、気候変動や生物の絶滅、汚染が顕在化しないように制御されているが、そのための資源は都市の外部に、正確を期すなら都市に包摂されていないものに依存している。まるで『アイ・アム・マザー』のシェルターのように、情報の開放系を共に形成しているはずの外部を忘却させ、情報の循環を囲い込むことによって、スマートシティは可能になる。情報環境への最適化は、問題の根本的解決の手段ではなく、一定の囲い込まれた環境のなかで問題ができるだけ露見しないようにするための仕組みである。情報の「循環」のために最適化されたシェアの概念も人間性も、その囲い込みを強化し、そのなかに囲繞されていないものの物質的搾取に加担することになることは言うまでもない(註54)

もちろんスマートシティであれなんであれ、わたしたちは現に生きている世界から逃れることはできない。たまたまとった行動でも、それがスマートであれば褒めたたえられる。ポイントを貯めようと思っていなくてもポイントは勝手に貯まってしまう。ただ、わたしたちはスマートシティに囲われたまま生きる運命にあるわけではない。僕が言いたいのは、スマートシティは「神話」のひとつだということだ(註55)。 その神話を神話だと暴いたところで根本的な解決にはならないけれど、それをひとつの神話だと名指すことができるなら、それが「すべて」なのではないという余裕は生まれ、それとは別のフィクションをつくる余地を手にするだろう。

もちろん有象無象のインフラ論もまたフィクションである。スマートシティの神話が大きく依存しているにもかかわらず見ないで済ませようとしているもの、相互包摂のプロセスを形成しているにもかかわらずそこからは切り離されてしまうもの、つまりスマートではないものを巻きこむフィクションである。フィードフォワード/バックの循環の夢魔を断ち、不可逆的にフローする生の現実のなかで目覚めるフィクションである。

《ドーター》のように、僕は囲い込みから逃れる。それは虐げられているものたちがかわいそうだからではない。被害者に対する加害性の認識でもない。普遍的な平等を達成することを目指しているわけでもない。有象無象のインフラ論は、生きるに値するフィクションを模索する僕個人の好奇心の部分的達成に過ぎない。外を知り続け、学び続け、信頼し、「わたしたち」という人称のエッジを開き続けるためのひとつのプロセスに過ぎない。

外部から隔絶された情報システムのシェルターのなかに生きているという現実を知るには、連綿と離散的に展開している、膨大な労働と汚濁、地質学的負債からなる物質的プロセスがエンドユーザーたちの生活につながっているという現実を露見させるしかないだろう。そして現実の露見に既存の生活がぐらつくとき、信頼の組み直しは必要となり、情動的紐帯につながるアンカーの投錨を実践し、ケアの方法を学ぶことになるのだろう。だから第2回(3)では、スマートな情報社会の生活を維持するためには使用しなければならないのに全く顧みられることのない物質的な共用地を、ダーク・コモンズ(dark commons)と名づけて論じる。

ちなみに僕はスマートフォンを持っていない。もともとスマートさに欠けるのだ。

(註52)佐幸 176頁。

(註53)佐幸の論は、気候変動を始めとする自然に加え、都市のような人工物に「第二の自然」を見るという態度において、僕の考え方と根本的に折り合わないところがある。「第二の自然」は自然の資源や法則を利用して成立する以上、「コントロールできない」自然とも切り離すことはできない。常識的な自然とは別に「都市の自然」のような概念を導入すると、まるで技術とは無縁のまったき自然がどこかに存在しているかのような錯覚を覚える。そのようなソーシャル・エコロジーに由来する概念は、第一の自然と第二の自然とのあいだの差異を自然化してしまいかねないのではないか、と危惧する。もっとも、自然界に存在する放射性物質を技術的に抽出し、エネルギーの生産へと転用するにあたり、人間が介在しなければ起こりえなかった技術的な自然現象が現にあり、なお現状の技術をもって制御できない、という原子力の問題等を考察する上で、「第二の自然」概念にも一定の有効性はあるかもしれない。それでも「第二の自然」も第一の自然と連続しているし、自然にも技術はある(カニのハサミやタイのひれは自然のなかで生きるために身につけた彼らの技術である)という視点から見えるようになるもののほうが大きい、と僕は考える。

(註54)日立東大ラボの射程のなかにも、囲い込みに対する疑念の萌芽はある。「あるスマートシティが、利便性や安全性、快適さに優れたコミュニティとして設計され、 人々に提供されたとき、そこには「ランダム」に人が集まってくるだろうか。一定の社会階層、経済力、価値観を持つ人を結果的に選別してしまうことは起こらないのだろうか」(第8章 課題と展望)。他方で彼らは、僕が第一回で論じたインフラ輸出戦略の一環でコミュニティの「外部」を考えているふしもある。「日本が課題先進国から課題解決先進国となる上で、“Society 5.0” の取り組みは極めて重要な国策とも言える。元気高齢社会や脱炭素社会などの課題解決モデルが実用されれば、今後、同様の課題を抱えることが予測される中国やアジア・アフリカなどの開発途上国を中心に、開発した技術やシステムの海外展開へとつながる」(第8章 課題と展望)。

(註55)機械を魔術化する神話の筆頭にくるのは、軍事・技術・フィクション・学問など多岐にわたる影響力を誇ったサイバネティクスだろう。ノーバート・ウィーナーに始まる「負のフィードバックの科学そのものは強力な正のフィードバックループを生み出して、私たちの未来像を長期的な暴走、つまり平衡とは逆に動かした」(トマス・リッド『サイバネティクス全史 人類は思考するマシンに何を夢見たのか』松浦俊輔訳 作品社 2017年)411頁。

 

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著者略歴

  1. 逆卷 しとね(さかまき・しとね)

    1978年生。宮崎県西都市出身、福岡県北九州市在住。学術運動家/野良研究者。
    異分野遭遇/市民参加型学術イベント「文芸共和国の会」主宰。他、トークイベントや読書会の企画。
    専門は、ダナ・ハラウェイと共生・コレクティヴ論。
    主な論稿:「喰らって喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」」(『たぐい vol.1』所収、亜紀書房、2019)
    その他『現代思想』(2019年3月号)、『ユリイカ』(2018年5月号・2月号)、『アーギュメンツ#3』などに寄稿・参加。在野研究者エッセイ集『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』(荒木優太編、明石書店、近刊)に寄稿。
    翻訳:「子どもではなく類縁関係をつくろう──サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る」(HAGAZINE)
    インタヴュー:「在野に学問あり 第3回 逆卷しとね」(記事執筆 山本ぽてと、「B面の岩波新書」)
    (写真)撮影:山本ぽてと

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