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ウゾウムゾウのためのインフラ論

インフラと共に生きる(上)

有象無象・うぞうむぞう

現象と真理、姿かたちのあるものとないものの両方を意味する仏教用語、有相無相に由来する。転じて、「うじゃうじゃ」や「うじょうじょ」と語感が似ていることから、「群がり集まった取るに足らない者たち」を意味するようになった、と言われている(参照:語源由来辞典)。無論、人間はおろか、あらゆる生物、非生物、神、仏、魑魅魍魎のたぐいは等しく有象無象である。有象無象が「取るに足らない者」の集合である以上、それを構成する個体は常になにかを欠いた弱く目立たない存在である。だから互いに応答し依存しあう能力を研ぎ澄ませる。

 

インフラストラクチャー・infrastructure

フランスの土木工学用語として英語圏に入り、その後、道路、電気、水道、図書館、学校などあらゆる公共財(public good)を指す用語として使われるようになる。近年では、私企業の専有物であるIT環境も含まれ、社会や生活の基盤として想定されるものすべてがインフラとして語られるようになりつつある。しかし公共財としての社会/生活インフラは民営化の路線に乗って縮小傾向にある。普遍化するにつれ、インフラは企業の営利獲得の手段と利用者による自己責任の孤塁へと退行していく。

 

 

 1995年1月17日は忘れられない。忘れられないのはそれが僕の誕生日だったから、ではもちろんない。その日早朝に阪神・淡路大震災が発生したからだ。ブラウン管テレビ(当時)に映っていた光景は、のどかな田園地帯で生活していた僕の目に突き刺さった。家屋の倒壊に次ぐ倒壊と延焼に次ぐ延焼。阪神高速道路3号神戸線の橋脚はボキボキと折れ、宙空を走っていたアスファルトは山折り谷折りに畳まれ地上に這いつくばっていた。僕は初めて、道路や建設物の脆さというものを知った。

 それから今に至るまで、僕はたくさんの震災や豪雨被害を間接的に目撃してきた。そのたびに、自然の猛威は恐ろしく、人間の文明などとるに足らないものだという、ありふれた感慨と畏怖、それから絶望を新たにしてきた。


Image 1: 「2016年11月8日、福岡市博多区博多駅前2,3丁目のはかた駅前通りの道路が陥没。道路上に発生したシンクホールに水が溜まっている。JR博多シティ屋上階「つばめの杜ひろば」より11月9日に撮影」(写真

 けれどもそれだけではあまりに月並だ。文明の構築物の崩壊は一瞬の外圧から生じることもあれば、長い年月をかけた消耗の結果訪れることもある。たとえば2012年山梨県笹子トンネルの天井板崩落事故や2016年博多駅前道路陥没事故は、大なり小なりもともと文明に内在していた自然の仕業だと言えるだろう。事象そのものは地盤にぽっかりと穴が開いてすべてを飲み込む瞬時の出来事に見えても、その瞬時が到来するまでには長い時間がかかっている。わたしたちの日常は見えない自然によってじわじわと蝕まれている。

 自然は台風や地震のような外的脅威として到来するだけではなく、腐食や老朽化、微かな歪み、小さなすれ違いの内的連鎖にも宿る。不注意な僕は、モルタルの剥落や落盤事故を目の当たりにすると、それがまるで偶然の不意打ちであるかのように感じるけれども、実際の自然(法則)は災厄を必然の結果として用意する。わたしたちはふだん忘れている。文明を構成する人工物には自然法則にしたがった耐用年数があること。それらを常にメンテナンスしている人たちが背後にいるということ。そして戦後急速に建設されたインフラは、わたしたちの日常を支えるものであると同時に脅かすものでもあるということを。

 文明の外から土足で進撃してくる自然と、文明の中で息をしている自然について再考するなら、たとえばハリウッド映画が格好の素材となる。


Image 2: The Day After Tomorrow (2004)™ and © Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.

 日常の外からやってくる全き自然の猛威を描くハリウッドの災害映画(Disaster Movie)は枚挙にいとまがない。たとえば世界がノストラダムスの大予言の虜となった前世紀末、巨大隕石の襲来をテーマとした『ディープ・インパクト』(1998)と『アルマゲドン』(1998)が一世を風靡した。今世紀に入ると、氷河期の到来に際し米国人が暖を求めてメキシコ国境を不法に越境する、という気候変動下の南北問題にフォーカスした『デイ・アフター・トゥモロー』(2004)、太陽が発するスーパーフレアによる地殻変動とマヤ文明の終末論を扱った『2012』(2009)が登場した。これら災害映画に登場する、自然の猛威を前にした人間たちは、逃げ惑うか、技術の粋を集め英雄的に立ち向かうか、いずれかを選択する。黙示録のような破局の物語の主人公となる自然は、人知を超えた宿命のようにふるまう。カタストロフを前にした人間は、そのモラルや連帯の強さ、恩讐の彼方にあるホスピタリティや寛容、そして収入や地位、国籍や人種に応じた住環境の不平等に対する意識を厳しく問われる。


Image 3: Geostorm (2017) TM & © Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.

 外から突然やってくる脅威としての自然とは異なる、人間の生活の内陣を成す自然を主題とするハリウッド映画も少なからず存在する。たとえば『ジオストーム』(2017)は、各国の衛星を連動させて地球全体の気象を制御するシステム、「ダッチボーイ」が実現したテクノユートピアを舞台としている。だが、技術的な自然の制御が可能になった世界であっても、干ばつや豪雨、気温の上昇と下降をコントロールする責任を負うのは人間である。事実、システムの開発者であり責任者であるジェイクは、たびたびシステムの自動制御に介入し、その機転と無謀によって大災害を未然に防いでいる。他方、秩序維持のための装置は、そのままテロリストの恰好の兵器ともなる。すなわち、「ダッチボーイ」にコンピュータ・ウィルスを仕掛ける陰謀が、世界に未曽有の異常気象をもたらすのである。あらゆる可能性を先回りして計算する技術は存在しない。技術それ自体に内在する自然の力(経年劣化や技術的盲点)は脆弱性の源となりうる。そのうえ、倫理に忠実であることもあればバグを起こすこともある、不確実な「人間という自然」(human nature)の排除は、多くの人間の協働が必要になればなるほど困難を極める(註1)

(註1) この「人間という自然」は、ドゥルーズ学者クレア・コウルブルックの「万象」(climate)という概念に近い。コウルブルックは気候変動(climate change)を、人間社会を取り囲む「環境」の変化としてではなく、人間と自然を貫く「万象」が漸次的に変容する現象として考えている。人間性の変容を含む「万象」の変動は、同時多発的に地質学的時間を経て徐々に生じる。Colebrookを参照。その他、科学人類学者ブリュノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク・セオリー(ANT)の自然=文化、アナキズムの相互扶助論を生態系に転用するソーシャル・エコロジーや本連載の裏テーマでもある人新世をめぐる論争もこの範疇にある。


Image 4: Transcendence (2014) TM & © Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.

 テクノロジーの発展がすべての問題を解決する、という楽天的な技術決定論に収束しないのは『トランセンデンス』(2014)も同じだ。死の直前にプログラム化された天才科学者ウィルの意志=遺志(will)が、ウェブ世界と現実世界を掌中に収めたとき、物語は加速し始める。米軍に加え、反AIと反ウェブ空間を掲げる環境保護テロ組織がウィルの独裁を阻止すべく立ち上がる(註2)。しかしウィルの存在は真の危機ではない。危機をもたらしているのは、人間に対する機械の反乱でも、超人間的存在による独裁でもなく、日常に内在しじわじわ時間をかけて生態学的危機を準備する、人間という自然である。ウィルの意志は、技術の発展にすべてを委ねる倫理の放棄にも、人間のモラルへの固執にも傾かない。むしろウィルが体現しているのは、技術と人間、あるいは機械と自然とを分ける思考の枠組みを超越(transcendence)した、超技術的かつ超人的倫理である。

(註2)エドワード・アビーの小説『爆破 モンキーレンチ・ギャング』(片岡夏実訳、築地書館、2001年)やネオ・ラッダイト運動のようなテクノフォビア(テクノロジー恐怖)を想起させる。

 生活の外からやってくる自然の脅威ではなく、生活に内在する自然の危機を物語る『ジオストーム』と『トランセンデンス』に共通するのは、地球環境を技術によって制御するという地球工学(geo-engineering)の発想である(註3)。環境を経済成長のための資源と見なし、搾取を続けてきた人類にとって、地球を脱自然化し完全に飼いならす地球工学は夢の解決法に違いない。しかしながら、たとえ地球工学が実現したとしても安心するのはまだ早い。

(註3)地球工学、あるいは気候工学(climate engineering)に関しては、たとえば桑田と杉山を参照。

 技術を運用する人間に内在する自然は、自然災害の不安を控除してもなお残る。この体制を維持するには、『ジオストーム』のジェイクや『トランセンデンス』のウィルのような、常人離れした行動力や超越的な倫理を必要とする。しかし僕のような平凡な人間は精神的にも肉体的にも弱い。僕は、ウィルのような超人的な能力はもたないし、ジェイクのように自己犠牲を厭わない英雄でもない。些事を超越することのできない人間は群れて協力することになるだろう。けれども協働が深まり広まれば、人為的なエラーや隠れた悪意が紛れ込むリスクは高まる。技術革新は問題の解決ではなく、問題をより複雑にする。デモクラシーやエコロジーも、そのままでは危機を克服するための理念となるどころか、破局の淵源ともなりうる。これら2作品は、技術の進歩が自然を克服するという技術決定論的立場を、「人間という自然」や人間には不可能な超人的な倫理の提示によって挫いてみせる、現代インフラ映画の代表格である。


Image 5

 本連載「ウゾウムゾウのためのインフラ論」では、地震や隕石の衝突のような突然の破滅ではなく、人間とインフラに内在する、自然による日常の浸食に焦点を当てる。冒頭で触れたように、わたしたちはインフラが壊れて初めてインフラの存在を思い出し、それが日常生活の必要条件であることに思い至る。その破局の刹那に生まれる絆は時に美しく、どのインフラよりも強靭に映るかもしれないけれども、長続きはしない。出来事の瞬発力を軸にしてインフラとわたしたちの生を考えても、黙示録的な諦観か、長期的には維持不可能な「災害ユートピア」しか喚起しない(註4)。そのような出来事の前にも後にも、インフラはわたしたちの生のそばにあるということを考えてみてほしい。東日本大震災は一瞬の出来事だっただろうか。小惑星の衝突が一瞬であってもその後の環境の変化は徐々に進行するように、あの災害もまた終わることのない現在進行中の不可逆的なプロセスとしてある。現実的なのは、わたしたち人間がインフラなくして生存できないことを認め、インフラに託された長期的な時間性を意識し、今ここでインフラと共に生きているという事実を見つめ直すことだろう。

(註4)ソルニットを参照。

 当然ながら、インフラと共に生きている現実は決して理想的な状態を意味しない。とある人類学系のインフラ論集の序で指摘されているように、インフラはわたしたちの生の平等を前提しない。

 われわれが(新)自由主義の歴史と呼ぶものの内側にもその向こう側にもあるインフラは、ふだんの社会生活の枢要かつ本質にかかわる役目を担っている。その影響はたとえば、どこのバスルームにどうやって行くのか、電気やインターネットにいつアクセスするのか、どこに旅行できてどれぐらいの時間がかかり、目的地にたどり着くまでの費用がどれぐらいかかるのか、燃料・原料・輸送を生産と消費がどのように賄うのか、という問題に及ぶ。自明のようにも思えるが強調しておくべき重要なこと、それはインフラが社会生活のリズムと条線を形成するということだ。階級、ジェンダー、人種、親族関係はすべて、水や電気が利用できるか、利用できるのは誰なのかを決する、インフラへのアクセスの差別によって屈折する。(拙訳 Appel, Anand, and Gupta 6)

 もう一度確認しよう。インフラは新自由主義の歴史を超える。たとえば僕が今暮らしている住宅は築50年を優に超えている。公共領域と福祉の後退、そして労働の流動化を経済成長の原動力として位置づける新自由主義が全面化し始めた80年代よりも前から、この建築物はここに建ち続けている。そのあいだも、寿命のきた電球を取り替え、水道管やガス管を新調し、定期的に草刈りをしながら、僕以外の人たちもこの建物を棲み処にしてきた。インフラを考えるということは、果てしない日常を遥か彼方にある過去や未来に委ねることなく、今ここと地続きの時空として生きる、ということだ。

 しかしその日常は決して平和ではない。SNSでの有名人の炎上騒動は目くらましに過ぎない。差別はどこまでも当たり前のものとしてあなたのすぐそばで構造化されている。水が飲めるか、電気・ガスを享受できるか、新幹線はどこを走っているか、高速道路はどこにつながっているか、Wi-Fiはどこにあるか、土質はどうか、コンビニはあるか、行政の支援は十分か、働き口はちゃんとあるか、誰の生をも犠牲にすることなく生きているとあなたは胸を張って言えるか。災害や災厄は揮発性の日常を燎原の火に変える派手な火種である(註5)。燃料はいつでもどこにでもある。微温的で日常的な災害未遂から逃げ出すことなく、この疲弊した廃墟しか与えられないことをひとまず受け入れ、それでもこの人間も含む自然と共に生き延びるための、アイロニカルな「災害文化」をつくる必然性はある(註6)

(註5)インフラへのアクセスに関する差別に関してはSimoneも参照。
(註6)ここで言う災害文化は次のような理解の延長線上にある。「ある自然環境のなかで持続的に生活していると、繰り返し同じようなハザードに襲われるので、それへの対応が地域的に共有・継承することがある」(木村206頁)。アナ・チンのマツタケ論(『マツタケ:不確定の時代を生きる術』、赤嶺淳訳、みすず書房、近刊予定)やダナ・ハラウェイのクトゥルー新世に関する議論も、この荒廃した廃墟のような世界のなかに退避地をつくって現実的に生き延びる術を模索するという意味において、一種の「災害文化」論だと言ってもいいだろう。

 かたちを変えながら続いてきてこれからも続いていくこの日常にふさわしい災害文化をつくる。そのためにはまず、ここまで宙づりにしてきたインフラという言葉の来歴と意味を精査しなければならない。

 

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著者略歴

  1. 逆卷 しとね

    1978年生。宮崎県西都市出身、福岡県北九州市在住。学術運動家/野良研究者。
    異分野遭遇/市民参加型学術イベント「文芸共和国の会」主宰。他、トークイベントや読書会の企画。
    専門は、ダナ・ハラウェイと共生・コレクティヴ論。
    主な論稿:「喰らって喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」」(『たぐい vol.1』所収、亜紀書房、2019)
    その他『現代思想』(2019年3月号)、『ユリイカ』(2018年5月号・2月号)、『アーギュメンツ#3』などに寄稿・参加。在野研究者エッセイ集『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』(荒木優太編、明石書店、近刊)に寄稿。
    翻訳:「子どもではなく類縁関係をつくろう──サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る」(HAGAZINE)
    インタヴュー:「在野に学問あり 第3回 逆卷しとね」(記事執筆 山本ぽてと、「B面の岩波新書」)
    (写真)撮影:山本ぽてと

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