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ウゾウムゾウのためのインフラ論

インフラと共に生きる(下)

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 フランス語圏の土木工学用語に由来するインフラ(infrastructure)は、鉄道施設を指す言葉として1920年代に英語圏に輸入される。第二次大戦後には、NATO内で軍事・セキュリティ関係の隠語として流通する。70年代に入ると、行政と民間の都市計画や開発に対して使われるようになったインフラという語は、一気に世界中の日常に浸透していく。冷戦真っただ中だったのは偶然ではない。共産圏に勝つために、資本主義経済の豊かさの象徴としてインフラという言葉はふりまかれた。とはいえ70年代には一般的な辞書にも掲載されるようになったこの魔法の言葉は、80年代にはあまりにも融通無碍な、そのプラスチック・ワードとしての性質を早くも批判され始める(註7)。そんな逆風もどこ吹く風と言わんばかりに、経済成長のメルクマールとしてのインフラは、生活や経済活動の基盤となりそうであるがゆえに投資のターゲットとして有望な、モノとしては具体的でありながら同時に抽象的な、公共財全般を指す言葉として濫用され続け今に至る(註8)

(註7)プラスチック・ワードはバズ・ワードとほぼ同義。詳しくはペルクゼンを参照。

(註8)ここまでCarseを参照。エンジニアとしての経験を交えて書かれた簡潔な記事である Stephen Lewis “The Etymology of Infrastructure and the Infrastructure of the Internetも参照。

 その曖昧模糊を認めた上で敢えて便宜を図るなら、インフラは電気・上下水道・ガスなどライフラインとほぼ同義の生活インフラと、道路・橋・線路・市民会館といった経済活動や文化に深くかかわる社会インフラとに大別できるだろうか。しかし最近では、光ケーブルやブロードバンド、Wi-Fi環境、テレビの受信環境、スマートフォンの動作環境などを包括するITインフラという用語も見かける。また企業のなかで業務を遂行するために必要な要素を社内インフラと呼ぶこともある。それ以前に、基地や港湾設備が軍事インフラとして語られてきた経緯を考慮すれば、インフラという語の適用範囲はとても広い。インフラは、生活と経済活動に不可欠な基盤を列挙したリスト、あるいはネットワークとなっている。インフラは誰も俯瞰できないほど氾濫している(註9)。基盤となるインフラがインフレする最中、わたしたちは生きている(註10)

(註9)たとえば次を参照。「わかりやすいトレンドワード辞典

(註10)6/29に神保町で行われた飲み会での荒木優太の発言を流用している。

 デフレが続くこの国で奇跡的にインフレしているインフラは、いったいどこにあって、それは誰のものなのだろうか。基盤というからにはインフラはわたしたちの足許にあるのだろうか。年長の人であれば、インフラと聞いてカール・マルクスの史的唯物論に登場する下部構造(独: Basis)を思い出す人も多いはずだ。下部構造の英訳がinfrastructure(他にbase structureという訳もある)だからだ。マルクスの下部構造は生産様式の枢要をなす経済に関するさまざまな関係のことだが、僕がここで論じようとしているインフラも、生活や社会を下から支える設備・環境と考えたほうがわかりやすいのは間違いない(註11)

(註11)構造主義的マルクス主義哲学者の代表格ルイ・アルチュセールは、infrastructureを巨大建築に喩えている。Appel, Anand, and Gupta 8-9頁を参照。

Image 7: 『ひとびとの希望を叶えるインフラへ』(JICA研究所、2004年3月、7頁)

 一例を挙げよう。上の図版は、JICA(独立行政法人・国際協力機構)直属の研究所が提示するインフラのイメージだ。インフラがしっかりと整えば、さまざまなサービスの利便性が上がり、眠っていた人間社会の潜在能力を引き出すことができる、というメッセージが前面に出ている。わかりやすい。だが、このように人間の生活の下部構造としてJICAがインフラを定義するのは、ODA(政府開発援助)の実働部隊としての立場が深くかかわっている。自らの存在意義を一目で理解させるには、複雑なものを単純化してプレゼンするのが鉄則である(註12)

(註12)元・内閣官房参与の藤井聡の『超インフラ論』は、下部構造型インフラ論の典型である。反緊縮派の藤井は経済成長を実現するために、「物質的交通」を担う東京都心以外の交通インフラに積極的に投資する必要性を説いている。ハード・インフラを各地の文脈に即して建設しつつ、ソフト・インフラとしてのシビック・プライド(市民としての矜持)を醸成する。マクロ的には、藤井は、国民全体が国土強靭化のプロセスに参加する国民運動(ナショナリズム)として、インフラへの投資を位置づける。

 単純化は怖い。歴史を未開から文明に至る進歩の階梯として捉え、本来はあやふやな国家や民族の関係を階層構造で認識するのは近代の常套だったはずだ。そのような大胆な図式化は疑ってかかるにしくはない。ある存在が生の下部構造として括られるとき、それは投資の対象としての魅力を獲得するためにそのように演出されているだけなのかもしれない。インフラと呼ばれるものが本当にわたしたちの生の基盤を成しているのかは疑わしい。むしろわたしたちのほうが、主として公共事業に依るインフラを支えているのかもしれない。

 事実、インフラは遍在している。気象情報やGPSを司る人工衛星は遥か上空にあるし、総務省が考えるインフラとしての郵便局には人材(human resource)も含まれている(註13)。インフラは下だけではなく、真上にも真横にもあるし、それはもはや設備や機械とは限らない。ある種の人間がいつのまにか勝手に他の人間のインフラにされているかもしれない。それどころか、もしかしたらそれは目に見えないかもしれない。わたしたちの周りにはインフラが溢れている。でも身近に「溢れている」ということは、どれが生の基盤を成しているのか事前に確かめることができないということだ。わたしたち自身の生がインフラの一部として存在しているのなら、わたしたちはもうインフラと距離をとることができない。インフラは存在しないというに等しい。

(註13)総務省郵政事業庁・郵政審議会「郵便局ビジョン2010」にはこうある。「生活インフラとは、国民生活を下支えする基盤。通常、インフラとは、道路・港湾などハードを指すことが多いが、ここでは、ハードだけでなく、人的資源を含めたソフトなインフラとしていることが特徴」

 結局、インフラはいつ、どこにあって、誰のものなのかわからない。僕はさっき、突然壊れるものではなく、わたしたちの日常と長い間共にあるものとしてインフラを考える、と書いた。しかし、そのときの「わたしたち」とは誰のことなのだろうか。

Image 8:海水浴場から苓北火力発電所を対岸に臨む(熊本県天草郡苓北町)筆者撮影

 たとえば60年代以降、米国の経済成長をモデルとする進歩の価値を信じてきた「わたしたち」とは誰のことだろう。教育や健康、福祉の整備は手つかずのまま、途上国は、先進国側がインフラと呼んでいる文明の利器の開発に乗り出した。先進国側は技術供与をする。途上国側はこの利権を取り巻く権力構造をつくりあげる。開発経済と呼ばれる、途上国が先進国の投資に依存する体系はこうしてつくられた。とりわけダムに代表される巨大なコンクリート建造物に賭けられてきたものは、住民の生活の改善ではなく、最先端技術を誇る近代国家としての威信である(註14)。この観点からすれば、近代化のために真っ先に投資の対象となるものがインフラなのであって、投資の対象とならないものはインフラとは言えない。このとき、インフラを利用するわたしたちは存在しないと言っても過言ではない。わたしたちの生に関係なく、近代化という価値を守り普及させるために、インフラは短観に従い建設されていることになるからだ。

(註14)以上はCarseを参照。インフラの現実的な利用を度外視して、近代化のために道路や橋を建設する現象を難波は「インフラ・フェティシズム」と呼んでいる。「マテリアリティの政治と「インフラ論的転回」――社会の近代性を支えるヒト‐モノへの問い――」(愛知大学人文社会学研究所 2016年度ワークショップ報告書)53-63頁、及びNambaを参照。

 日本とて例外ではない。日本の原発の輸出という話題が最近ときおりクローズアップされる。しかし、それは断片に過ぎない。日本政府や経団連が原発を含むあらゆるインフラの輸出をこの国の主要産業のひとつとして確立しようとしていることはご存じだろうか(註15)。それはわたしたちの生を支えるためではない。国家経済を短期的に浮揚させるための投資対象である。開発経済の焼き直しのなかに、公共財の理念は存在しない。わたしたちも存在しない。

(註15)広田幸紀「インフラ輸出戦略と日本経済の浮揚効果」(JICA研究所、2018年5月)、及び「戦略的なインフラシステムの海外展開に向けて 2018年度版」(日本経済団体連合会、2019年3月19日)を参照。

 どこにでもあるけれどもどこにもない、誰のものでもありそうで誰のものでもない、今はあるのかもしれないがいつまであるのかわからないインフラ。さっき僕は、インフラは公共財だと書いた。公共財とは、私有することのできない、みんなに開かれた、誰のものでもないもののことだ。たとえば、時限なくいつまでもアクセスできる権利が保障されているパブリック・ドメインやオープン・アクセスならば、それは正しく公共財だろう。けれども以上の概観を踏まえると、インフラと呼ばれているものがみんなに開かれていて、ずっと利用できる未来図がまったく思い浮かばない。インフラのことを考えれば考えるほど、公共性が退行している現実に突き当たる。

 

 実際、超就職氷河期に大学を卒業した、「ロスジェネ」と呼ばれる世代に該当する僕には、公共放送も公共の場も公共の施設もあまりピンとこない。郵政民営化のように、公共領域の市場化は進行した。自由に遊んだり、活動したりできる公共の場は私有化されるか、世間体を保つための厳しい制約を課された監視の対象になった。僕にとって公共とは、税金であり、道徳であり、国民の義務であり、隣組であり、行き当たりばったりであり、連続しない刹那であり、保証のない将来であり、成果主義であり、同調圧力である。だから公共財としてインフラをこの僕がいくら考えてみても、公共の主体であるはずのわたしたちという集合の不確かさに気が滅入るのは当然のことなのかもしれない。

 けれども、公共財としてのインフラが見当たらないということは、誰のお荷物にもなることなく僕の自己責任であればインフラを自由につくってもいい、ということでもあるだろう。それこそが新自由主義の呼びかけなのだから、異存はないはずだ。公共領域が市場化・道徳化し、そこに私的な領域が剥き出しに晒されて、どいつもこいつもスキルアップだ、働け、結婚しろ、老後の面倒は自分で見ろ、健康に生きろ、税金を納めろ、自由な表現をしたければ誰にも見えないところでやれ、そして今すぐ経済成長に資する目に見える成果を出せ、という圧力をかけてくるこの時代に、僕の自己責任でそこから半歩外れたインフラらしきものをつくってみたい。とりあえずそいつは、新しくはないし古くもない。そういうモダンの軌轍からは脱輪しよう。公私混同の公共財でも私利私欲の営利企業でもない。もはや公私では分けることのできない、薄くて緩い、浮き上がったり沈んだりする、それでも切れない奇縁のようなものになるかもしれない。わからない。

 僕だけのものではなく、かといって公共のものでもない、それでもわたしたちと言えそうななにかと強く結びついていそうな、でもわけのわからないもの、でもひとところに留まることを知らない不可逆的に生成し続けるこの日常のための災害文化を生み出すきっかけになりそうなものを、仮に「有象無象のためのインフラ」と呼んでみる。最終的にインフラのイメージが変わるか、言葉自体が変わるか、それはわからない。わからないことだけがおもしろいから、僕はそれでいい。有意義な成果なんか求めず、問うきっかけになればいい。他の誰かの踏み台になればいい。

 既存のインフラではないものをつくる。もはやどこにあるのか定かではない、僕だけでもあなただけでもない有象無象のわたしたちの生を照準するために。

 次回はこのインフラがインフレする時代に背を向けて、インフラの存在しない世界を想像してみる。というのも、インフラの存在しない世界こそが、今ここの現実なのかもしれないと思うから。

 

 

【参考文献】

・Anand, Nikhil, Akhil Gupta, and Hannah Appel. “Introduction: Temporality, Politics, and the Promise of Infrastructure.” Promise of Infrastructure. Eds. Nikhil Anand,Akhil Gupta, and Hannah Appel. Duke UP, 2018, 1-38.
・Carse, Ahley. “Keyword: Infrastructure: How a Humble French Engineering Term Shaped the Modern World.” Harvey 27-39.
・Colebrook, Claire. Death of the PostHuman: Essays on Extinction, Vol. 1. Open Humanities P, 2014.
・Harvey, Penelope, Casper Bruun Jensen, Atsuro Morita, eds. Infrastructures and Social Complexity: A Companion. Routledge, 2016. Kindle.
・Namba, Miki. “Becoming a City: Infrastructural Fetishism and Scattered Urbanization in Vientiane, Laos.” Harvey 76-90.
・Simone, Abdou Maliqalim. “People as Infrastructure: Intersecting Fragments in Johannesburg.” Public Culture16. 3 (2004): 407-29.
・木村周平「公共性」前川啓治他著『21世紀の文化人類学 世界の新しい捉え方』新曜社、2019年
・桑田学「人新世と気候工学」『現代思想』2017年12月、122‐31頁
・杉山昌弘『気候工学入門 新たな温暖化対策ジオエンジニアリング』日刊工業新聞社、2011年
・ソルニット, レベッカ『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか』亜紀書房、2010年
・藤井聡『超インフラ論 地方が蘇る「四大交流圏」構想』PHP研究所、2015年
・ペルクゼン, ウヴェ『プラスチック・ワード 歴史を喪失したことばの蔓延』藤原書店、2007年

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著者略歴

  1. 逆卷 しとね(さかまき・しとね)

    1978年生。宮崎県西都市出身、福岡県北九州市在住。学術運動家/野良研究者。
    異分野遭遇/市民参加型学術イベント「文芸共和国の会」主宰。他、トークイベントや読書会の企画。
    専門は、ダナ・ハラウェイと共生・コレクティヴ論。
    主な論稿:「喰らって喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」」(『たぐい vol.1』所収、亜紀書房、2019)
    その他『現代思想』(2019年3月号)、『ユリイカ』(2018年5月号・2月号)、『アーギュメンツ#3』などに寄稿・参加。在野研究者エッセイ集『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』(荒木優太編、明石書店、近刊)に寄稿。
    翻訳:「子どもではなく類縁関係をつくろう──サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る」(HAGAZINE)
    インタヴュー:「在野に学問あり 第3回 逆卷しとね」(記事執筆 山本ぽてと、「B面の岩波新書」)
    (写真)撮影:山本ぽてと

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