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ウゾウムゾウのためのインフラ論

スマートから遠く離れて(1)

 

 

一面ではインフラは生活の失調として、つまり壊れたものとして現れる。第1回(上)で論じた災害は、生活の基盤となるインフラを意識する瞬間を示す格好の事例だといえるだろう。インフラはわたしたちの生活が壊れるときに、壊れたものとして姿を現す。このイメージに即すなら、インフラとは、足を骨折してみて初めて思い出される、歩行のメカニズムに喩えられるだろうか。

しかしインフラは、ふだんもあたりまえに機能しているということも真だ。たとえば1994年に情報科学の専門家、ジェフリー・C・ボウカーは、日常的にインフラが人間の世界を拘束している事実を示すために、インフラ反転論(infrastructural inversion)を提示した(註1)。ボウカーは物質的基盤であるインフラが、人間の社会、生活、イデオロギーに与えている大きな影響を可視化してみせようとしたのである。たとえば歩くための能力をもっている両足がインフラだとしよう。そのとき、両足はわたしたちの行動範囲や血流、景色の種類、衛生の浸透、職業の範囲、さらには思考の指向性や政治に介入するための行動力さえ規定しているということになる。ボウカーが正しいとすれば、第1回(下)で論じたJICAの資料と同様に、わたしたちの能力がどれほど発揮されるかはインフラのよしあし、両足の強靭さに左右されることになる。

(註1) Geoffrey C. Bowker. Science on the Run: Information Management and Industrial Geophysics at Schlumberger, 1920–1940. Cambridge, MA: MIT Press, 1994.

けれども、図と地の反転(figure-ground reversal)を軸にインフラを前景化する唯物論的アプローチは、インフラをいじれば人間のあり方や生活の利便性、社会性が変わるという工学万能主義的な短絡を全面化することになる。それは資本主義と植民地主義を近代化の線分上で推し進める投資のレトリックと紙一重である。第1回で確認したように、需要とは関係なく先進国の近代化の価値を橋・道路・鉄道として物質化してしまう、途上国の「インフラ・フェティシズム」(註2)を唯物論的アプローチでは掬いとることができない。東京五輪開催を契機とするインフラの充実やリニア建設がわたしたちの能力を引き出してくれるだろうか。僕はとても懐疑的だ。

(註2)難波美芸のインフラ・フェティシズム論については第2回(3)で再び参照することになる。

前回、僕はこう書いた。

わたしたちの周りにはインフラが溢れている。でも身近に「溢れている」ということは、どれが生の基盤を成しているのか事前に確かめることができないということだ。わたしたち自身の生がインフラの一部として存在しているのなら、わたしたちはもうインフラと距離をとることができない。インフラは存在しないというに等しい。

インフラを身近な存在として考えることに異議はない。けれども、わたしたちの生とインフラの関係を、下部構造決定論のように安定的に把握することはもうできない。先述のボウカーは近年、技術的・物質的次元だけではなく、社会的次元まで含めた包括的な情報インフラを長期的につくる主体として、専門のデザイナー側だけではなく、アマチュアのユーザーもインフラの構成要素のなかに加えている(註3)。インフラはプロに委託して管理できる範囲を超えているのだ。事実、ユーザーがインフラを構築するアクターであることを明らかにする「インフラの生成」(Infrastructuring)研究は増加傾向にある(註4)。だがインフラの長期的動態を包括的に考える取り組みが必要となるということは、今この瞬間にインフラの全体を把握することが困難である、ということでもある。共にあることはわかっても、なにがインフラとして機能しているのか、あるいはすでに機能していないのか、よくわからない。インフラのない世界について考えてみることが、どこにでもあるように見えてどこにもないようにも感じるインフラの問題を問い直すきっかけになるのではないか、と僕が考えた所以だ。ユーザーたちがインフラの生成にいつのまにか勝手に組み入れられる時代において、ユーザーのほうがインフラを勝手に組み直す。これはとてもアイロニカルな試みになる。

(註3)L. Star and G. C. Bowker. “How to Infrastructure.” (Eds. L. A. Lievrouw and S. Livingstone. Handbook of New Media: Social Shaping and Consequences of ICTs. London: SAGE Pub, 2002: 151-62) を参照。

近年では、G. C. Bowker, Karen Baker, Florence Millerand, and David Ribes. “Toward Information Infrastructure Studies: Ways of Knowing in a Networked Environment.” (Eds. Jeremy Hunsinger, Lisbeth Klastrup, and Matthew Allen. International Handbook of Internet Research. Springer, 99-117.)がある。

(註4)たとえばVolkmarPipek and Volker Wulf. “Infrastructuring: Toward an Integrated Perspective on the Design and Use of Information Technology.” (Journal of the Association for Information Systems 10.5 2009: 447-73) を参照。

残念ながら今回は、インフラなしの世界までは届かない。インフラがインフレしたこの世界を徹底的に考え抜き、その向こう側へと突き抜けることに専念したい。手がかりとして、映画『アイ・アム・マザー』(2019)に登場するシェルターとその内部に住まうアクターたちの存在について思考してみたい。アルゴリズムを用いて、さまざまな揺らぎや遊びを計算しつつ、システムの構成要素間の調和を図り、環境に最適の状態や動作をそれらから引き出すことを「最適化」(optimization)と呼ぶ。あらゆる不安に先回りする技術的最適化を達成した場は、それ自体インフラになりうるのだろうか。極言すれば、各構成要素とシステム全体のパフォーマンスを最大限にあげることを目指す、最適化という標語は、インフラがどこにあるのかわからない不安な状況に対する神話的地鎮の標語となっているのではないか。この問いは、わたしたちがすでに生き始めているSociety 5.0とスマートシティのスロットに接続する。

 

 

 

スマートな母

――『アイ・アム・マザー』論

 

ケアと好奇心

人類絶滅以後の世界に生まれる人間の成長とその少女を養育するアンドロイドの深謀遠慮を描く『アイ・アム・マザー』(2019)は、前回とりあげた、地球工学を題材とする災害映画とは大きく異なる。カタストロフィはすでに終息しているから、絶滅の危機は物語のシークエンスをつなぐ動力とはならない。焦点となるのは正しい人間を再生させる任務を負った人工知能搭載アンドロイド《マザー》による、人間である女児《ドーター》のケアと、女児が育つシェルターの外部に広がる、人類絶滅後の世界の正体解明である。

Image1:  人工子宮 I am Mother (2019) TM & © Netflix. All rights reserved.(註5)

(註5)以下、第2回(1)において挿入される図版はすべてI am Motherのキャプチャー画像である。

人間の再生産をテーマとする物語であるにもかかわらず女児の成長のみに焦点が当たるのは、同作のなかに人間を産むことに関する「自然」が存在しないからだ。パック詰めされた受精済みのヒト胚を人工子宮【Image1】のスロットに投入すれば、24時間以内に母胎内発生は完了し、胎児が誕生する(註6)。しかも《マザー》によれば、シェルターに63,000パック保管してあるヒト胚のどれを発生させても、解剖学的性別を除けば胎児の性質に違いはない。このように、受精・妊娠・出産という生殖にまつわる過程は、選択の余地がないようすべて機械化・自動化され、ひいては最高度に最適化されている。

(註6)シュラミス・ファイアストーン『性の弁証法』(Shulamith Firestone. The Dialectic of Sex: The Case for Feminist Revolution. 1970. New York: A Bantam Book, 1972)は性差を階級に含め、これを技術的に克服するサイバネティック・ソーシャリズムを展開した。とりわけ再生産労働における女性と子どもの抑圧を指弾する、「出産」(childbearing)の技術的代替というファイアストーンのSF的発想(原著238-39頁)は、ラディカル・フェミニズムのひとつの到達点として知られる(邦訳『性の弁証法 女性解放革命の場合』(林弘子訳 評論社 1972年)は現在、版元品切れ)。同書は、ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」(1985年)にも大きな影響を与えたことで知られている。同様の発想は、近年では菅実花による妊娠するラブドールをモチーフとした連作 “Do Lovedolls Dream of Babies?” において変奏されている。

これとは対照的に、胎児から成人への養育過程は比較的アナログで不確定な要素を含む。人間の性質を決定するのは生まれか養育過程かという古い問い、すなわち「氏(うじ)か育ちか」(nature or nurture)に照らせば、ここには「氏」は存在しない。親の生殖器官や遺伝、障害、母体の健康など生殖にかかわる不確定要素がすべて省略されているために、却ってケアの技術をめぐる問題は浮き彫りになる【Image 2】。

Image 2: 人類のケア。I am Mother (2019) TM & © Netflix. All rights reserved.

 

[マザー] あなたの思い込みは無理もないけれど、ワタシに課せられた第一の使命は、それとはあべこべで、人類をケアすること。

[MOTHER] Contrary to your understandable assumptions, my primary directiveis to care for humanity.(註7)

(註7)第2回(1)において引用する英文台詞の翻訳は拙訳による。適宜、金子要による和文字幕を参照している。

 

《マザー》は、人類(humanity)を再生産するためではなく、ケアするために存在している。特定の子どもではなく、人類一般をケアするわけだから、「ケア」の含意は複雑であることが予想される。だから成長するために学ぶのは《ドーター》だけではない。一気に人間を増やそうとはせず、慎重に一体ずつ育てながら人類全体に対するケアの技術を確立しようとする《マザー》が本映画における学びの主役となる【Image 3】。

Image 3: 母には子どもを育てる方法を学ぶ時間が必要。I am Mother (2019) TM & © Netflix. All rights reserved.

 

もう一点の物語上の焦点、すなわち人類絶滅以後の外の世界に対する《ドーター》の好奇心は、シェルター内部の無機質さに退屈する鑑賞者の興味にも重なるだろう(註8)。《マザー》の説明によれば、外部世界には放射性物質が跋扈し、人間が生きることができる環境にはない。したがって、《ドーター》(とわれわれ)はシェルターという孵化器のなか、与えられたタブレットで昔のアメリカのトークショーを視聴したり、読書をしたり、あるいは折り紙で動物たちの姿を再現したりしながら、外の世界への想像を膨らませ、退屈を紛らわせる。そして次第に増長する好奇心は、ケアする《マザー》の測定基準/方策(measurements)への疑義と自立心の芽生えを促すことになる(註9)

(註8)ルーク・バックマスターは、物語の大部分の舞台となる金属製の宇宙船のようなセットが、外の世界に対する好奇心を呼び起こす、と指摘している。Luke Buckmaster“I Am Mother review――brooding sci-fi thriller tackles timely questions”。

(註9)物理的限界のあるカメラフレームの枠内で物語を構成しつつ、その外部に広がる世界への好奇心と恐怖を刺激する映画作品は多い。たとえば、シェルターに匿われているのではなく監禁されているのではないかという疑義と黙示録的な外部世界の情報を独占する人物の君臨を扱う『10 クローバーフィールド・レーン』(2016年)や、「部屋」に監禁されている母子と子どもが抱く外の世界への関心を描く『ルーム』(2015年)がある。

人間をケアする方法の《マザー》による学びと、次第に昂る(視聴者の関心とも重なる)《ドーター》の外への好奇心というふたつの力学は、物語の進行上、折り合わないように見える。たとえばある夜のことだ。《マザー》が充電のため、監視を解いているあいだ、電気系統にトラブルが発生する。通常のトラブルであれば、《マザー》は緊急案件に自ら対処するのだが、電源が落ちているため稼働しない。《ドーター》は自ら原因を特定し、ほつれたコードをつなぎ合わせたのち、コードを齧った主犯であるネズミを発見し、捕獲する。このネズミこそ、少女にとっては生まれて初めて遭遇する外来生物であり、外界が生きることのできる世界である可能性を知る契機を与えてくれた存在だった。しかし少女の報告を受けた《マザー》は、汚染されている外部世界から生物が侵入してくる可能性を否定したうえで、念のためにこのネズミを焼却炉で焼却する。《ドーター》は執拗に外の世界の不毛さを強調する《マザー》の知識を疑い、外界への好奇心を強める。【Image 4】

Image 4: 「外の世界に生き残っているものはいないと言ってたけど、《マザー》のほうが間違っているとしたら?」。I am Mother (2019) TM & © Netflix. All rights reserved.

 

このように、《ドーター》は《マザー》が管轄するシェルターの外へと関心を向ける。だが、外界に関する情報を疑うことは、そのままシェルターの存立要件を揺るがすことになってしまう。なぜなら外の世界が安全ならば、住居をどこにでも建てることができ、シェルターにとどまる理由はなくなるからだ。外界は生存不可能な領域であるという《マザー》の情報が正しい場合のみ、シェルターはシェルター(避難所)として機能しうるのである。だが一見したところ密やかな反抗でもあるように映る、《ドーター》の外への関心を涵養することが《マザー》のケアの目的なのだとしたらどうだろう? 所与の世界を疑い、自ら世界の外を知り、他の人間を愛する能力、究極的には《マザー》の世界から自立する能力を測るのが真の試験であるとすれば、外界への好奇心の高まりは《マザー》の評価基準に抵触しているように見えて、実はその養育の成功をしっかり裏書きしていることになるだろう。果たして、《マザー》はなにを学び、《ドーター》はなにを学ばされているのだろう。人間一般をケアするとは、いったいなにをどうやってケアすることなのだろう。

少女が《マザー》から独立した世界を切り開く契機は外からやってくる。外の世界を警備する武装型アンドロイドから発砲され、腹部に被弾し、助けを求めてやってきた《ウーマン》の到来である。《ドーター》は禁を破り、機転を利かせて《ウーマン》をシェルターのなかに入れ、かくまう。こうして生物が生存できないとされていた外の世界からやってきた《ウーマン》を前に、《ドーター》は空想に頼ることなく、自らの手で世界を構築し直す必然性を得る。

Image 5: 《ウーマン》の治療を一任するよう求める《マザー》。I am Mother (2019) TM & © Netflix. All rights reserved.

 

 

信頼とは何か

外の世界からやってきた素性の知れない異邦人と、外の世界に関する正しい情報を語っているようには見えない庇護者のあいだで、《ドーター》の判断は揺れる。カギとなるのは「信頼」(trust)である(註10)。《マザー》は重傷を負っている《ウーマン》に医療的処置を施そうとするが、《ドーター》はネズミに対する処置と同等の危害が彼女に対し加えられるのではないかと不安に駆られる。このとき《マザー》は、疑念に襲われる少女に対し信頼を求める【Image 5】。《ウーマン》の傷を治療しようとする《マザー》の態度を見た《ドーター》は、今度は自分たちを信頼してもいい、と警戒を解かない《ウーマン》をほだす。この連鎖はなおも続き、のちに外界に脱出したあと、約束されていた条件が整わない状況にとりみだす《ドーター》に対し、《ウーマン》はまるで新たな母であるかのように自身への信頼を促す。

(註10)ベンジャミン・リーは、《マザー》と《ウーマン》が共に相手は信頼に値しないと少女を説得しようとする点、そして視聴者が少女の歩みと軌を一にして、信頼に値するものがなにかを理解するよう促される点を指摘している。Benjamin Lee. “I Am Mother review――all-female Netflix thriller is a solid sci-fi watch”。信頼一般に関する哲学や社会学、心理学等の研究に関しては小山虎編著『信頼を考える リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房 2018年)を参照。その他、Carolyn McLeod “Trust.(Stanford Encyclopedia of Philosophy)やニクラス・ルーマン『信頼 社会的な複雑性の縮減メカニズム』(大庭健+正村俊之訳 勁草書房1990年)を参照。

このように、外界からシェルターに到来した第三者により、信頼の存在と欠落が前景化される。再帰的な定義になるが、信頼が必要になるのは、信頼できるかどうか判断が必要になる要素がシステムのなかに紛れこんできたときである。そして無条件の信頼はありえないし、時間的・空間的に限定された条件のなかでしか信頼は成立しないことも確認しておこう(註11)。シェルターを安全安心なインフラへと整えるのは、その内部の技術的な条件ではない。インフラをインフラたらしめているのは、シェルターの機能でも《マザー》の存在でもなく、自分自身に発する他者やシステムへの信頼である。裏返せば、外界の危険を語っていた《マザー》のほうが信頼を求めるとき、シェルターは《ドーター》のインフラとして信頼に値するかどうかを分ける分岐点に置かれていることになるだろう。有象無象のインフラ論の文脈に照らせば、管理者や技術者、システムとその構成要素だけではなく、ユーザーも加わって共にインフラをつくり続ける「インフラの生成」(Infrastructuring)が、この信頼が必要となる局面からようやく始まるのだと言えるだろう。

(註11)ニクラス・ルーマンによれば、信頼とは複雑性の縮減である。ルーマンの信頼論の訳者のひとりである正村俊之は「信頼が社会的な複雑性を縮減するのは、信頼が、①情報不足を、②内的に保障された確かさで補いながら、③手持ちの情報を過剰に利用し、④行動予期を一般化するからである」(『信頼』訳者解説Ⅱ 239)とまとめている。換言するなら、行動するには、外的なものに対する確実な情報のない不確定な状態にありながら、それでもなお既知の情報を拡大解釈して、外部問題を内部問題へと置き換える必要がある。だが、自己責任よろしく個人に信頼の成否がいちいち委ねられるのは厳しい。だから個々の負担を減らすためには、間主観的に構成されるシステムに対する信頼も必要となる。社会の水準で個々の信頼のリスクは分散される。そして社会システムの再帰的な構造が個々の信頼の信頼性を検証し直す。いずれにしても、信頼を基礎づけてくれる絶対的な基盤はどこにも存在しないことは銘記しておくべきだろう。

僕の理解が正しいならば、あらゆる存在は同時に複数のシステムを生きており、このシステムのあいだのネガティヴ・フィードバック(信頼)によってリスクは分散されている。しかし、複数のシステムは、今や金融システムへの単純化・一本化の度合いを深めているようにも見える。この想定が正しいのであれば、不安や危機に際し信頼を必要とするとき、信頼に値するシステムをわたしたちが選択することそれ自体が困難な状況にあると言えるだろう。

 

Image6: 大きさの異なる銃弾。I am Mother (2019) TM & © Netflix. All rights reserved.

 

信頼する相手がひとりしかいない場合、信頼の内実を問うことは難しい。特に外界の経験をもたない《ドーター》にとっては、それは妄信に等しいかもしれない。その妄信を当初からぐらつかせていた要因は、《マザー》の語る外部世界像の不確かさだった、というのはすでに見たとおりだ。しかし誰かの世界観にただ疑念を投げかけるより、実際に情報源が複数存在して、情報の蓋然性を比較検討できたほうが、信頼を実践的に学ぶ機会に恵まれていると言えるだろう。

たとえば、《マザー》は《ウーマン》の負傷を自作自演の結果であることを示唆する。これに対し、被疑者は「自分の目で銃弾を比べてみたら?」と少女に問いかける。《ドーター》は思弁せず、行動する。すなわち実際に銃弾を比較する。すると、《ウーマン》に発砲した相手が外界をうろつくアンドロイドであることは一目瞭然となる【Image 6】。それだけではない。《マザー》のすべてに対する信頼を疑問に付すような証拠さえ《ドーター》は手に入れるのである(註12)

(註12)僕に対する読者の信頼を毀損する重大なネタバレにつながるため、詳細は明かさない。

今や《ドーター》はシェルターを自分の生存に不可欠なインフラだとは考えていない。だから《ウーマン》の情報を信頼して、生存できない可能性もある外界に向かう。出来事の連鎖のなかで、《ドーター》は妄信することをやめ、行動と確認を伴う信頼を実践し、インフラを生成させるアクターとなる。こうして《マザー》が与えてきた外部世界像の崩壊は、《ドーター》を「より賢明に、より倫理的に」(《マザー》の台詞 “smarter, more ethical”)変えたことになるだろう。

以上のように互いに齟齬をきたしているように見えた、人間全体をケアするという《マザー》のプロジェクトと、《マザー》のケアから逃れてシェルターの外に向かう《ドーター》の好奇心は、信頼という実践倫理を蝶つがいとしてつながっているのかもしれない。つまり、《ドーター》が既知の世界の外部へ向かい、自分とは異なる人間を、ひいてはあらゆる人間を信頼できるようになるという好奇心の物語は、《マザー》の人類全体に対するケアの物語の一部なのかもしれない。インフラは、与えられるものではなく、ヒトやモノと共に思考し信頼し、行動しながら生成させていくものである、という本連載の趣旨からしても、このふたつの物語の綜合を支持したくなる。

 

 

自然の排除とケアの主体

だが、ケアと好奇心の物語を綜合するのは性急かもしれない。なぜなら、両者の綜合は、《ウーマン》の存在によって破綻しているようにも見えるからだ。シェルターのなかに信頼が発生する契機をもたらした《ウーマン》は、技術的に最適化され不確定な自然を排除したシェルターに侵入してきた、憎き自然に他ならないからだ。

まずは、ここまで特に定義しないで放置していた、「人類のケア」の内実を確認しておこう。《マザー》は映画の最終盤において、次のように人間を評価し、自らの使命を明かす。

 

[マザー]ワタシはなによりも人間の命を尊重するよう育てられた。

ワタシには人間がそれ自体もっている自己破壊的な自然にゆっくりと屈していくさまを無為に傍観しておくことはできなかった。

介入する必要があった。ワタシの創造者たち〔人類〕を向上させるためにね。

 

[Mother]I was raised to value human lifeabove all else.

I couldn't stand by and watch humanity slowly succumb to its self-destructive nature.

I had to intervene, to elevate my creators.

 

人工知能搭載アンドロイドである《マザー》は、人間の手によって何らかの方法で創造され、人間の命を尊重するように育てられた。それは事実だろう。しかし、上の引用を見る限り、マザーの仕事は、気づかいや配慮、介助、手助けというような、いわゆる人間的な世話と同じものであるようには読めない。連載第2回(1)冒頭で確認した《マザー》の使命としての人類のケアは、人類の「向上」のための「介入」(intervene)を意味する。そして「向上」のための障壁となっているのが、「人間がそれ自体もっている自己破壊的な自然にゆっくりと屈していく」プロセスである。振り返ろう。すでに述べたように、遺伝子や受精に伴う不確定な自然はこのシェルターから予め排除されている。であるなら《マザー》のケアとは、それでもなお残っている人類の自然の排除の徹底、すなわち人間のもつ「自己破壊的な自然」を人類から減算することである。人類の自然なプロセスに介入し、「自己破壊的な自然」を人類から間引きするのが《マザー》による人類のケアの本懐である(註13)

(註13)《マザー》の仕事が、人類につきもののエラーの要因や失敗の排除に特化していることを示す例証を挙げると、物語の根幹にかかわるネタバレになってしまう。本作を観る予定のない方はウェブ上で検索してみてほしい。

マット・ソーラー・シーツによる、フランケンシュタイン博士が人工知能搭載アンドロイド《マザー》であり、培養された人間《ドーター》が怪物である、という大胆な解釈は興味深い。Matt Zoller Seitz “I am Mother.”。

Image 7: 自然な感情。I am Mother (2019) TM & © Netflix. All rights reserved.

 

人類一般のケアが、その自己破壊的な自然を間引くことにあるなら、あらゆる自然は《マザー》の敵になる。もっともケアしなければならないのは、《ウーマン》という「自然」である。すでに述べたように、《ドーター》は《マザー》が構築してきた内部世界への信頼を失い、《ウーマン》が語る外の世界を信頼するようになる。傾注すべきは、《マザー》への不信と《ウーマン》への信を、人間にとって自然な感情として《ウーマン》自身が語る場面である。

 

[ウーマン] わたしが正しかっただろ? 銃弾のことだけど。

[ドーター] それ以外のなにもかもが。

[ウーマン] お前が感じているなにもかもが自然なものなんだ。それが人間だからな。

 

[woman] I was right, wasn't I? About the bullet.

[Daughter] About everything.

[woman] Everything you're feeling is natural. It's human.

 

ここでは《ドーター》が《マザー》の世界に疑義を抱くことそれ自体が、人間として自然なふるまいとして肯定されている。他の箇所でも《ウーマン》が指摘しているように、機械は冷酷で感情を持たず、信じるには値しない。これは、人間的な見地からすると《マザー》の存在は不自然である、というありふれた機械への忌避感の表明に過ぎないのかもしれない。しかし《マザー》からみると、事はそれほど単純なものではない。機械仕掛けの母にとって、信頼によって生じたふたりのあいだで共有されている感情は自然なものではなく、本当にケアすべき自己破壊的な自然を見えなくさせる覆いである。

Image 8: 愛情と本性。I am Mother (2019) TM & © Netflix. All rights reserved.

 

[マザー] あの子〔ドーター〕にはあなた〔ウーマン〕に対する愛情がケーセーされてきたようですね。その愛情のせいで、あの子にはあなた本来の自然が見えなくなっている。

[Mother] It seems she has formed an affection toward you /that has blinded her to your true nature.

 

《マザー》は人間が互いに殺しあってきたこと、それからシェルターの外にいる人間たちが殺しあっていたことを知っている。だから外からやってきた《ウーマン》の「あなた本来の自然」は、先ほど《マザー》が人間の忌むべき自然として示した「自己破壊的な自然」と同じものだと考えてよいだろう。これを踏まえて以上の引用を見るならば、《ドーター》の「愛情」(an affection)は、《ウーマン》の自己破壊的な自然とは異質なものであることが明らかである(註14)。さらに興味深いのは、その違いである。つまり《マザー》は、愛情というものは特定の相手に対して抱いたり(have)、感じたり(feel)、示したり(show)するものではなく、「ケーセー」する(form)ものだと考えている(註15)。ということは、《マザー》にとって愛情とは、人間が生来備えている自然の一種なのではなく、信頼の実践によってあとから形成されるものだということになる。

(註14)だが、《ウーマン》もまた技術的所産だとしたらどうだろう?

(註15) “form an affection”というコロケーションは英語として相当に「不自然」である。僕が検索してみた範囲では、この連辞は出てこなかった。《マザー》にしてみれば、感情は体温や心拍数などによって数値化されたものでしかないため、このような表現になるのかもしれない。

このような人類という同類に対する愛情の育みも《マザー》のケアの物語の一部をなしている。というのも、《ドーター》は、外界に脱出する際にもなお、シェルター内に残されたヒト胚の行方を心配し、のちにそれら同胞を守るためにシェルターへと帰還するからである。信頼の実践による後天的な同胞愛の植えつけは成功した。では、同類に対する愛情を残しつつ、人類の自己破壊的な自然だけを間引きすることはできるのだろうか。果たして、《マザー》はそのミッションをやり遂げたように見える。

Image 9: ケアの主体。I am Mother (2019) TM & © Netflix. All rights reserved.

 

[ドーター] 子どもたちのケアは自分でできる。

できるようになるようにわたしを育てたんでしょ? わたしの家族をケアできるように?

わたしに任せて!

[マザー] ワタシはまだお前のマザーだよ。

[ドーター] ええ、ひとりのいいお母さんね。あなたが始めたことはわたしがやり遂げるから信頼して。

 

[Daughter] I can take care of them myself.

That’s what you raised me to do, isn’t it? Take care of my family?

So let me!

[Mother] I’m still your M-Mother.

[Daughter] ...and a good mother. Trust me to finish what you started.

 

《ドーター》は人類一般をケアする主体へと変貌を遂げる。《ウーマン》という悪しき自然の侵入を契機に、独自の世界をつくりあげた《ドーター》は、自ら同胞をケアする母の役割を選びとる。この決断は、《マザー》を大文字のケアする母ではなく、「ひとりのいいお母さん」(a good mother)として相対化する点に凝縮されているだろう。娘から母へ。《マザー》はここで任務を終える(註16)。《ドーター》を《マザー》は信頼し、人類の自己破壊的な自然を「ケアする」使命を譲り渡すのである。

(註16)ただしケアの外延は広く複雑だ。このあとの《ドーター》の行動もケアの一部なのかもしれないし、外部世界のすべてがケアの行為体なのかもしれない。『アイ・アム・マザー』においては、自らの健康を自分で整える新自由主義的なセルフケアの言説を裏返した、人類の全体最適化というケアが行われていると考えてもいいだろう。

ケア論は、家庭内における母親の私的労働を前景化するところから始まり、その後、その前提となる公私二元論を越え、公的な労働としてケアの実践を捉えなおす方向に展開している。その際、ケアする階級とケアを受ける階級という分断を乗り越えるケアの倫理が問われることになる。岡野八代「ケアの倫理は、現代の政治的規範たりうるのか?」(『思想』2020年4月号 6-28頁)を参照。

『アイ・アム・マザー』に対するフェミニズムの批判は容易に想像できる。母と娘、さらには最終盤に誕生する息子とのあいだの一般化された世帯内的関係や、《マン》が登場しない点、自己破壊的な外の世界の人間たちと生活を共にした孤児の《ウーマン》が排除される点、ケア労働を女性性と結びつけるという古典的な問題など、フェミニズム批評の観点から考えるべき点はたくさんあるだろう。しかし同作は、依然として母親がケアする主体であるとはいえ、それが公私の分断を越えたより普遍的でエコロジカルな母である点、ケアの権力を扱う点、それからケアする権利を譲り渡す側が覚える、映画『ミザリー』(1990年)のようなホラーを改めて浮上させたという点において、ケアの思想史、ないしはフェミニズムでは扱われない問題系に深くかかわっている。《マザー》が体現する人類のケアという思想は、植松聖のやまゆり園障害者殺傷事件とも強い関連性がある、と僕は考えている。月刊創編集部編『開けられたパンドラの箱』(創出版2018年)を参照。

ケアは2020年において否応なく前景化されているテーマである。コロナ時代のケアについて論じた浜田明範「新型コロナ「感染者を道徳的に責める」ことが、危機を長期化させる理由 必要とされる「ペイシャンティズム」(『現代ビジネス』)、及び「ようこそケアの世界へ (COVID-19と文化人類学発表資料)」も参照。

人間世界にとどまらないケアの問題についてはMaría Puig de la Bellacasa. Matters of Care: Speculative Ethics in More than Human Worlds (U of Minnesota P, 2017)。「バイオインフラストラクチャー」(Bioinfrastructure)という概念を提唱しているデ・ラ・ベラカーサの論については、今後、検討するかもしれない。

ケアについては、マルチスピーシーズ人類学研究会で企画された、僕と尾崎日菜子との対談でも主要テーマのひとつとなった。「シリーズ『COVID-19〈と〉考える』 |TALK 02|逆卷しとね × 尾崎日菜子|接触と隔離の「あいだ」を考える──コロナの時代の愛をめぐって」(『HAGAZINE』)。

《マザー》は自己破壊的な自然を人類から間引き、後天的な同胞愛と信頼だけが残るよう、人間をケア=最適化する。スロットにヒト胚を投入すれば(入力)、たちまち条件の同じヒトが誕生する(出力)人工子宮と同じように、自己破壊的な自然さえ除けば、他人やシステムへの信頼(入力)は、人類すべてを同胞として愛する(出力)結果に至るというわけだ(註17)。入出力のあいだで働いているアルゴリズムがブラックボックス化した、この人類のケア=最適化装置が、以後も効力を発揮するかどうかは不明だ。しかし《マザー》や《ドーター》という、役割や機能、あいだがらを指し示す彼らのアレゴリカルな固有名詞が示唆するものは、個体の互換可能性を前提とした、実に工学的なケア=最適化の関係性であるように僕には思える。それは次節で、エンドユーザーたちの積極的な貢献による全体最適化を論じるための布石になるのかもしれない。

(註17)『ブラックミラー』4-4「Hang the DJ」は、本来ユーザーにはわからないマッチングAIの、インプットとアウトプットのあいだで働いているアルゴリズムの機序を物語化している。計算プロセスを知らなくても気軽に結果だけを得ることができる便利なアルゴリズムに、ヒトは呪術のように依存する。

外界からの退避地であるシェルターは、その外部の正体を知らないものにとってはインフラにはならない。外が危険な場所であることがわかって初めて、シェルターは意味を持つ。だからシェルターに住むためには、シェルターには包摂されていないものを知る必要があるのだ。僕に言えるのは、『アイ・アム・マザー』におけるインフラは、アクターたちの信頼の絡み合いのなかで不確定性や危険を排しつつ、人類の最適化を目指して刻々と生成するケアの動態である、ということだけだ。これを動態として維持するためには、インフラは閉鎖系ではなく開放系である必要がある。けれどもシェルターの外を披露するのは僕の仕事ではない。読者を信頼してネタバレを最小限にとどめてきた僕の仕事ではない。

 

 

 

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著者略歴

  1. 逆卷 しとね

    1978年生。宮崎県西都市出身、福岡県北九州市在住。学術運動家/野良研究者。
    異分野遭遇/市民参加型学術イベント「文芸共和国の会」主宰。他、トークイベントや読書会の企画。
    専門は、ダナ・ハラウェイと共生・コレクティヴ論。
    主な論稿:「喰らって喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」」(『たぐい vol.1』所収、亜紀書房、2019)
    その他『現代思想』(2019年3月号)、『ユリイカ』(2018年5月号・2月号)、『アーギュメンツ#3』などに寄稿・参加。在野研究者エッセイ集『在野研究ビギナーズ 勝手にはじめる研究生活』(荒木優太編、明石書店、近刊)に寄稿。
    翻訳:「子どもではなく類縁関係をつくろう──サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世|ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る」(HAGAZINE)
    インタヴュー:「在野に学問あり 第3回 逆卷しとね」(記事執筆 山本ぽてと、「B面の岩波新書」)
    (写真)撮影:山本ぽてと

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