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あなたは生きなくてはならない パレスチナ・ノート

第一章 頓呼法(アポストロフィー)

 

 

 

 

 

 

リフアトさんがころされてから、シャイマが生きていた、四ヶ月のあいだに、ことばをかわしたひとにはじめて出会った。

 

アラビア語で、『光』を意味する名まえをもつそのひとは、繊細な文章を書く、パレスチナ人の若い翻訳者だった。

 

نور (ヌール:『光』の意)もまた、わたしと同じように、リフアトさんの詩の翻訳を担い、そのことがきっかけでシャイマと話したそうだ。

 

『彼女は、リフアト先生に関係するものをみると、いつも泣いてしまい、自分の気持ちをどう表現すればいいか分からない、とだけ言っていました。』

 


もう、命のない、不在のもの、それでもそばにいるような、そんな存在に呼びかかけることを、詩では、「頓呼法(とんこほう)」と呼ぶ。

 

頓呼法は、声になるまえの息、ことばになるまえの、音になるまえの、ここにいないものに会いたいと願うときの、息。

 

その息に、死者の声がかさなっていく
希望と、嘆きの、境い目にある、
体温の痕跡のようなものを思い出しつづけることで、
ちからのないものは、
なにひとつ報いることなく、
死者に呼びかけ、死者のかえす声を聴く


頓呼法は、これまで語ることができないとみなされてきた歴史の覆(おお)いを切り裂く。
爆心地の話を伝えてくれるひとはない、収容所の真実はそこに沈んだ者にしか語れないという言い伝えを、もっともまっすぐな、もっとも飾りのないことばが、たしかに変えてゆく。

 

この虐殺のあいだに、親族を二十四人ころされた大切な友人が、「日本」にいる。

 

友人の祖母の名は、スラッヤといった。
一九四八年、パレスチナのヤッファのある村で、スラッヤが目を覚ますと、外の木々や家々に火が放たれ、多くの村人が襲われ、撃ちころされていた。
スラッヤは村を逃れ、幾度もの追放と——たどりつく先々での虐殺を生きのび、やがて、「ガザ」という町へ着いた。

国外へ逃れたスラッヤは、以前から愛してきた衣服のデザインの仕事に励み、しばらくして、こどもを授かった。
この子は勉強に情熱をそそぎ、おおきくなって、やがて、こどもが生まれた。

『わたしです!』と、友人はいった。冬の東京の路上で、『わたしです、わたしです、スラッヤは祖母です。
わたしひとりでは……ちいさくて、なにもできないかもしれないけれど、みんなでなら。今度こそ、今度こそ、今度こそは、パレスチナの自由をみとどけたい。』と、友人はそういった。
二〇二三年十二月のことだった。

 

 

今から五年前、わたしは沖縄のアブチラガマを歩いていた。目取真俊さんが書かれた文章にみちびかれてのことだった。暗い洞窟のなかに、案内をしてくださった方の声と足音が響いた。
死者の痕跡をたどりつづけてこられたひとの、深い声だった。

東京はオリンピックの招致に湧いていた。
新宿駅の西口の地下道は、急速な改修のさなかにあり、コロナウイルスの流行で住む場所を追われた野宿者の方が、去年までよりもずっと多かった。
夜、精神病院を抜けだした野宿者の方とご飯を食べていた。黒いボストンバッグいっぱいにビートルズのCDをつめたそのひとは、ボロボロになった片方のイヤフォンで音楽を聴かせてくれた。別れぎわ、もしも必要だったら、支えになるようなNPOの連絡先を書きますというと、ひとりでは電話がむずかしいと話された。それなら、明日もういちど来ます、とわたしはいった。それなのに、わたしはつぎの日、そのひとのところへはもどらなかった。こういう嘘や裏切りが集積することで、ひとを追いつめつづける循環が維持されているようで、とげが刺さったように、ずっと後悔している。

一月、お金がなくて、治験のアルバイトへいった。八王子のちいさな病院だった。その日の夕方、病院からあわてた声で電話がかかってきた。
「白血球の数が異常です、すぐにおおきな病院へ行ってください。」
看護師の方は真剣だった。
わたしは信濃町の大学病院へむかい、おそらく「白血病」であると告げられた。

白血病になるまで、わたしは「高額医療制度」が生死にかかわる問題になるなんて想像したこともなかった。
何かの役に立たないなら、『ここにいてはいけない』、『生きていてはいけない』というメッセージであふれているこの社会で、健康保険証をもっていないひと、「人種」と「国籍」に起因する困難のために、健康診断をうけられていないひとは、考えられているよりきっと多いはずだ。

検査技師によれば、血液中には、一μℓあたり通常、四千から一万一千個の白血球がある。ただし一万をこえていると免疫が落ちていたり、体が炎症している場合もある。二万をこえていると、ひどいときは意識がないひともいる。
はじめて大学病院へいった日、わたしの白血球は三万二千をこえていた。それから数週間で、四万、七万、十三万と増えていった。もしわたしがあの日、偶然、お金がなくて治験へ行っていなかったら、いま生きていない可能性はきわめて高い。

 

白血病の治療で苦しかったことは、「骨髄液を抜く」処置と、こどもをもてなくなったことだった。
ひとの身体は、二三対の染色体をもっている。わたしの染色体は、九番目と二二目が、それぞれ千切れ、いれかわって結合している。これを、『転座 Transfer』と呼ぶ。
この結合部に、本来ないはずの空洞(ポケット)ができ、そこから不死化した細胞が無限に生みだされてゆくことで、白血球が増える。
あるひとまとまりの生きものは、その内側に「不死」をかかえながら持続することはできない、と身体で学んだ。

投与されることになった抗がん剤には、遺伝子の接合部にできた空洞(ポケット)を、ちょうど埋める形の分子がふくまれている。この分子のはたらきで、不死化した細胞の多量発生をふせぐことができる。


けれども、この抗がん剤は半永久的に投与しなくてはならず、これが原因となって、こどもをもつことができなくなった。あくまでも、わたし個人の状況に限った話だ。
こどもがすきだったし、白血病になるまでは、自閉症や特性のあるこどものケアと、美術と文学のあいだにある領域の仕事にたずさわっていた。まるで事故にあったように、とつぜん、こどもがもてないと決まったことにショックをうけた。

 

その後、ことばを話せなくなったきっかけになったのは、「骨髄液を抜く」処置だった。
最終的に「病名」を確定させるためには、前述の染色体の変異を、医師が目視で確認しなくてはならない。このため、腸骨と呼ばれる腰の骨から、骨の内側にある髄液にむかって穴をあけ、それを抜きとるという検査処置が必要になる。

骨髄液を抜く処置は、麻酔が効かない。皮膚や皮下組織には麻酔が効くけれども、骨髄は骨のさらに奥にある血液の工場だからだ。
骨髄は、濃く赤い血の生みだされる、水源のような場所であり、じつは骨髄そのものはすきとおっている。
骨髄液が抜かれる瞬間の痛みを、ひじょうに多くの患者が、「魂が抜かれる」、「魂が壊れる」と表現するという。

処置当日。うつ伏せで押さえつけられたまま、麻酔針の痛みに耐える。針が刺さる痛みは、骨髄へとどくものだとしても、歯を食いしばれば、耐えることができる。それは、電気や熱に似た、刺すような痛みだ。

けれども、骨髄液を抜く瞬間の痛みを、耐えることはできない。わずかな瞬間に、信じがたいほどの汗が吹き出す。全身が痙攣する。まるで脳みそを素手で触られているような、屈辱的な痛み。身体が裂けてしまうような痛み。強烈な吐き気に襲われる。なぜか、左足の先に激痛がはしる。噛みしめた奥歯が割れてしまう。骨髄液を抜く、わずかな秒数が、耐えがたく、信じられないほど長く感じる。それが二度、三度とくりかえされる。なにかを『信じる』ということを、壊す痛み。魂が壊れてしまう。

 

 

時間がたっても、魂が壊れた状態から、なかなか回復することはできなかった。五感が異常にするどくなり、とくに聴覚と光にたいして、異常に過敏な反応するようになった。肌の下に氷の膜が張っているようで、皮膚へのささいな刺激が、生活ができないほど、はげしく感じられた。


そうかと思えば、道のガクアジサイの、むらさきいろをふくんだ濃い青が、まるで生まれてはじめて色を見るように、新鮮で、うつくしく感じられた。

わたし、という、ひとつらなりの連続した時間が、断ち切られ、剥き出しになった感覚面に、刺激がとびこんでくるようだった。
死へちかづいた瞬間だった。真剣に自死とたたかった。そうしたかったわけではなかった。ただ生きてゆくためには、わたしが存在するよりもまえからつづいている——そしていつか、じぶんが去ってもつづいてゆく——川の流れのようなものと——どこかで接続していなくてはならない。

 

ことばをうまく話せない時間は、長くつづいた。
最愛のひとが描いた、ちいさなこどもの絵を、なぜかくりかえし、描きうつした。
育てていた、白い花のつぼみがひらく瞬間におどろいている、ちいさなこどもの絵だった。

白い——ちいさな花のつぼみを、夜から朝の光がさしこんでくるまで、ずっとみていたこともあった。
つぼみはひとりでにひらくのではなく、降りそそぐ光の糸と、たがいに引きあうようにして、花をひらく。

 

そんなときだった——。パレスチナに出会ったのは。

ガザ、という場所で生きている人びとを描いた、『アーミナの婚礼』という小説がある。
ある日、ふと、めくっていた放送大学のテキストのなかに、「魂の破壊に抗して」ということばで、この小説は紹介されていた。
『アーミナの婚礼』をわたしはどうしても読んでみたくなり、けれど日本語にはなっていなかったので、一文字一文字、ゆっくり訳していった。

極限状態のなかでも、じぶん以外のだれかを想いつづける、そんなふうに生きているひとの、真っ赤な血で書かれた手紙を、心臓にうけとったようだった。
わたしは『アーミナの婚礼』を、小さな川のそばにすわって、黙って読んだ。

物語の前半、いったいだれがアブー・アンタルをころしたのか?——という場面がある。
ここにあることばを、目をとじて思い浮かべた。

長い時間をかけて。

 

 

 「かれがマフラグ・アル・シュハダ検問所をとおりすぎたとき、砲弾が、戦車の砲弾がとんできて、かれの顔をふきとばした。
そのあとだれももう、かれを認識できなかった。かれを特定できたのは、着ていた服からだけだった。
顔ではなく、着ていたものからでしか見わけられないなんて。」

  「神さまのご慈悲を。」
わたしは小さくつぶやいた。
かれの姿を思いうかべる。ボロボロにちぎれた服を着て、裸足で歩きまわっていた四十代くらいの男性。難民キャンプの野菜売り場をめぐって、背負っていた麻袋には、もう腐って傷んでしまった果物をつめこんでいた。
 「だからね。」と、アーミナはいった。「きっとだれもいかないかもしれないから、お悔やみにいかなきゃと思ったの。家はどこかをひとに尋ねたら、かれはひとりで一部屋に住んでいて、ときどき何日も帰らないことがあるという話だった。
ある女性がわたしにいった。
「あの子の親戚かい。」
「いいえ。」とわたしはこたえた。
すると彼女はいった。「お悔やみを。」と。
想像してみて? 彼女はわたしを慰(なぐさ)めてくれたんだよ。アブー・アンタルは、すこしぼんやりしていたけれど、けっして、だれも傷つけないようなひとだった。

 わたしは、葬列はどこからはじまるのでしょうか、とその女性にきいた。
「病院からだよ。アル・シファー病院から。」
それで、わたしはそこへ行き、ぎりぎり間にあった。
とてもたくさんのひとがいたから、だれか重要なひとが亡くなったか、殉教したんだろうと思った。
アブー・アンタルの葬列はどこでしょうか……? と、わたしはひとに尋ねた。
するとそのひとは、「これがそうだよ。」といったの。ああ神さま! ランダ、わたしは泣いたよ!
この世界には、まだ、なにか正しいものがある、と思った。
だれもおぼえていないと思っていたのに、みんなかれのお葬式のために集まっていた。そのときわたしはこう思ったの。わたしたちは生きのびる運命にある。
わたしたち——パレスチナ人は。
そうでなかったら、百年もまえに、かれらはわたしたちを打ち負かしていたでしょう。

 


イブラヒーム・ナスラッラー著

「アーミナの婚礼」より

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著者略歴

  1. 松下 新土

    1996年生まれ。作家・詩人。
    翻訳に、リフアト・アルアライール『わたしが死ななければならないのなら』(増渕愛子と共訳)、
    アリア・カッサーブ『人間-動物の日記』(片山亜紀と共訳)、
    ともに「現代詩手帖 パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く」に収録。
    ガザのジェノサイドが起きる約一ヶ月半前までパレスチナに滞在しており、抵抗運動に関わる。

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