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阿部大樹×秋草俊一郎 翻訳から3歩はなれて

前編続き)
 
 

有名/無名

秋草:基本的に研究が集中してるところとそうじゃないところっていうのはもちろんあって、研究が集中する作家に関してはすごくわかってるわけですよ、当たり前ですけど。カノンと言われる人たち、日本だったら夏目漱石とかだったらものすごい細かいところまでわかってるわけです。ただ、わかったからそれで終わりという感じではなくて、細かいところがわかればさらに細かいところをどんどん調べていくことになります。それに意味があるかどうかはともかくとして。

ただ、あんまり研究されない人というのはもちろんいるわけです。じゃあその研究されてない作家がつまらない作家なのかというと、必ずしもそうではないこともある、いろんな事情が絡まりあってくるので難しいんですけども。ただ、まったくやられてない領域のことをやるのは、どうしたらいいかわからない、そもそもどう手をつけたらいいかわからないので、どうしても人ってある程度やってるところをやりたくなるんですよね。

 

阿部:たくさん研究されているというのは、いわゆる「大作家」ということですか?

 

秋草:そうですね。20世紀のモダニストと呼ばれる作家たちの研究は相当集まっています。たとえばジェイムズ・ジョイスは世界的に見てもものすごい論文や批評が集積されています。

古典の訳だと、日本だと何パターンも出ることも多いですよね。そうするとこれっていう定訳というよりは、それぞれの訳者でかなり違ったバージョンとして受けとめられていくのだろうと思います。遡ると明治時代には長く参照される訳を残した訳者がいたわけです。森鴎外とか堀口大學とかですね。むしろ彼らが訳したことで翻訳が一種の「日本文学」として流通した面もあります。ただ現代だとそういうのは薄れてきたのかなというのはありますね。

 

阿部:欧米でアンソロジーに編まれるような翻訳というのは、研究者によるものが多いんですか。

 

秋草:いや、そうではないケースが多くてですね。この点日本文学の翻訳はやや特殊です。日本語ができる人は限られてしまうので、研究者が訳すことが多いわけです。それこそ日本文学者のエドワード・サイデンステッカーとかドナルド・キーンとかが訳したものが定訳化して、アカデミックな権威をまとって流通するんですが、たとえば他のヨーロッパ語同士では必ずしもそうではなく、研究者以外が翻訳してることがかなり多い。

ロシア文学の場合を例にとりますと、19世紀の終わりから20世紀の頭にコンスタンス・ガーネットという人が訳した一連のロシア文学の英訳によってドストエフスキーやチェーホフが西欧に広まるわけですけど、ガーネットはべつに研究者ではありませんでした。ただ、そういうわけなので、学術的にみてすごく厳密な翻訳かというと必ずしもそうではなかったりもするんです。そういう訳も普通にアンソロジーに入ってきます。

 

阿部:僕のよく通じている範囲だと、フロイトの翻訳は19世紀末から20世紀初頭にかけて世界中で爆発的に行われましたが、現代ではいつの間にかフロイト本人によるドイツ語版ではなく、英語訳こそ「公式版 standard edition」とされていて、不思議なことだなと思います。

 

秋草:英米圏といいますか西洋ではそういう傾向があるように思います。つまり翻訳が翻訳でないものとして流通するところがある。それは聖書とかもそうですね。

 

阿部:ウルガタ訳(*3)もその一例ですか。

 

秋草:そうですね。もともとはヘブライ語とギリシャ語で書かれたものですが、むしろラテン語がカトリックでは権威あるものとして流通していきます。さらに英国国教会では英訳が参照され、原典よりもむしろそちらが権威を持つということはありますね。

 

阿部:原点であるはずのヘブライ語テキストは一時期まで低く見られてたというのは有名な話ですよね。

 

秋草:ただ日本だとやはり、特に西洋のものは横のものを縦にするという言葉があるようにかなり違ったものを訳しているという意識がどうしても残る。だから、さすがに日本である翻訳がすごく読まれていても、それをつかって学会で議論しましょうとなることはない。

 

阿部:たとえば英語作品がフランス語に訳されるときと比べると、日本語への翻訳は概してかっちりしているように思いますが、それにはどんな背景がありますか?

 

秋草:日本語訳はそういう傾向は強いと思います。翻訳研究の文脈では同化翻訳と異化翻訳があるとよく言われます。日本では異化的な翻訳、違和感を残す翻訳が尊ばれる傾向が比較的強いのです。日本では西洋と異なり、研究者が翻訳をかなりの部分担ってきた歴史があります。そうなると原典を尊重しようという意識が前面にでてきやすくなる。今は違うんですけれども、遡ると70年代ぐらいまでは外国文学研究者ってそもそも研究というよりは翻訳をする人という位置づけだったのです。文学研究者が博士論文を書くようになったのは比較的最近の話なのです。

 

阿部:ガルガンチュアを訳出した渡辺一夫先生も、退官近くなってから博士論文を書いたというような随筆がありましたね。

雇用慣行とか労働形態がテキストに滲みでてくるのは面白いことですね。

 

秋草:訳しながら、大学で授業したりもするわけです。たとえば原文購読の授業で、学生と一緒に1ページずつ読みながら、自分で訳すわけです。それで授業が終わったら本として出版するというのが過去によくあったパターンです。そういう手法で翻訳すると、原文から極端に離れた訳ってたぶん生まれにくいと思うんです。

 

 

女性作者/男性翻訳者

阿部:最近気になっていることですが、アメリカ映画の製作現場で特に、トランスジェンダーの役にそうでない役者をキャスティングすることが非難される風潮があります。

雇用機会の不平等というのが厳然としてあって、それを是正するために、という観点で行われることであったら正しいことだと思います。一方で、先日のラジオ放送で西崎憲さん、柴田さんが話していたのは、「では女性作家を男性翻訳者が訳出するのはいけないことなのか」ということですが…

一面では、端的に性そのものが主題になっているようなテキストでは、原作者と訳者のジェンダーが一緒である方がシンプルなのかなとは思う。ヴァージニア・ウルフの話もでたし、あるいはミシェル・ウェルベックみたいな、性的対象としてみられないことの息苦しさを扱った小説なんかは。

ただ、文学はもとがフィクションであって、そこには「ひとが違っていても通じるものがある」ということが前提としてかたくあるわけです。ジェンダーが一緒でないとテキストを読み解けない、芸術上の不公正だということになると、私たち一人ひとりがそれぞれ違う国に育ち、違う言葉を話しているという、その創作することの足元にあるものが崩れてしまうようにも感じます。

ハリウッド、つまり「演じる」ことに焦点がある世界で、この問題が表面化したのは宿命的だなとも思いますが…

 

秋草:先ほど話した内容と関係するんですけれど、基本的に文学者って作者というよりはテキストのことを考えている。今の人の感覚は少し違うかもしれないですけれども、私はテキストに対して誠実であるかどうかが、第一に求められる資格で、それ以上は考えない。つまり、基本的には、作者と自分の性別が同じかどうかは考えない。

ただいろいろと過去の翻訳の様々な例とかを見ていくと、問題がありそうな例も出てきます。数年前に、エミリー・アプターという人が書いた『翻訳地帯』という本を訳したことがあるんですけれども、その中では「疑翻訳」というものが取り上げられていて、原文がないのにあたかもあるかのごとく訳してしまう、訳すというか創作してしまうことがあるんです。たとえば、ピエール・ルイスというフランスの詩人が、古代ギリシャで女性が書いた詩を発見しましたといって、フランス語に翻訳したとして発表するということがありました。『ビリティスの歌』という作品ですが、そのなかで、エキゾチシズムとかなりエロチックな内容のものを捏造してしまう。こうなってくると、やはり倫理的な問題は当然出てくる。

これは極端な例ですが、通常の翻訳でもテキストに対して不誠実なことがあると――テキストにない女性性みたいなものを捏造したりしてしまうと、倫理的に問題になってくると思います。

また、阿部さんがさきほどおっしゃっていたように、翻訳の根幹には「ひとが違っていても通じるものがある」ということがあると思います。逆に言えば、「違い」がなければそもそも翻訳なんて必要ないわけです。

翻訳研究者のローレンス・ヴェヌティという人が書いた『翻訳のスキャンダル』という本をいま訳しています(先ほどのルイスの例は、こちらの本でもとりあげられています)。このひとはアメリカ人ですが、文芸翻訳家でもあって、イタリア語をはじめ、数か国語から英語にさまざまな作品を翻訳しています。ヴェヌティがそこで言っていることですが、翻訳は差異の芸術であって、それを恣意的に大きくしたり小さくしたりしてはいけない。差異を尊重するのが大事なのだということを言っています。

 

阿部:どう捉えるかは別にしても、映画界の状況は遠からず文学の世界にも波及してくるだろうなと思うのですが(*4)、たとえば文学アンソロジーが編まれるときに、そういった論点をあげるような議論はありますか。

 

秋草:『「世界文学」はつくられる』でも紹介したように、現在、アメリカの大学でつかわれているアンソロジーは非常にマイノリティに配慮したものになっており、女性作家や黒人作家、先住民の文学だけでなく、アジア、アフリカの文学まで幅広く収録しています。

日本でも今後そうなっていくと思います。そのような観点からほかの研究者と編んだアンソロジーが三省堂の『世界文学アンソロジー』です。このアンソロジーを編集したときは、全体における女性の配分とか、マイノリティが排除されないようにするバランスにはすごく気を遣いましたが、翻訳に関しては属性を揃えようというよりは、ふさわしい人にやってもらうというのが大事だと思います。仮にヴァージニア・ウルフの研究者で男性で素晴らしい人がいれば、その人にお願いすることはあると思います。翻訳者としてのキャリアなど、総合的に判断しますが。

ただ、女性やマイノリティに訳されることを望んでいるテキストというのも存在すると思いますし、その場合はそういう方に優先してやってもらえるように手を尽くすと思います。

 

 

会場から:「だわ」がなくなる日

質問者1:翻訳の際に、女言葉を使いますか。

 

秋草:あまり使いたくはないんですが、使ってしまうことはありますね。そもそもある種の女言葉自体が翻訳で生まれてきたという研究があります。「てよ・だわ言葉」というんですが、明治期に外国の文学を翻訳する過程で、登場人物の性別をわかりやすくするために会話文の語尾にそうした言葉を付けていったということがある。つまり、実は女言葉を一番話しているのは翻訳小説の中の女性ということになります。確かにそういうつくられたものだという面はあるんですけれども、ただ、誰がしゃべっているのかをはっきりさせたい場合使ってしまうということはあります。会話文に関しては、男性よりも女性の翻訳者のほうが女性の登場人物の台詞をうまく訳せるかもしれないと思いますね。

 

阿部:書かれたものって、いくら会話場面のそれであっても、最終的には文語であることには違いないので、「実際にそういうしゃべり方をする人がいないから」という理由で、いわゆる「女言葉」をなくすことはないかなと思います。ただ、それにしても時代がかった修辞法だなとは感じます。

あと難しいのは、原文でたとえば人称代名詞によって示されている情報を、比較的にジェンダーニュートラルな日本語文法にどうやって入れ込むか、というところでしょうか。

 

秋草:そういうこともありますね、確かに。

 

阿部:「女言葉」というと、文末の「よ」「わ」「ね」がよく言われるところですが、実際の会話場面だと、男性も女性も「よ」「ね」はよく使うし、男女とも「わ」はあまり使いませんね。遠からずそういう概念も廃れていくように思います。

 

 

会場から:これからのこと

司会:最後の質問を私からしていいですか。2020年はお二人ともかなり集大成といった本が出たかなと思うんですけれども、何か関心のあることだったりまた今後の予定について、教えていただけないでしょうか。

 

秋草:2020年に単著が出たので、当分は翻訳を進めると思います。とりあえず今年は、1冊はアメリカのアレクサンダル・ヘモンという作家のエッセイ集を出す予定です。ボスニア出身の作家で、内戦の際にアメリカに移住し、英語で執筆している作家です。内戦や移民の経緯だけではなく、他者と自己の関係など、精神医学的にも興味深いような内容も書かれていて面白いです。もう一冊は、ナボコフが奥さんに書いた手紙『ヴェーラへの手紙』を出す予定です。半世紀にわたって三百通以上の手紙を集めたものですが、ロシア語の原書でかなりぶあつくて、700ページぐらいあります。かなり大変だったんですけど。

 

阿部:700ページはすごいですね。

 

秋草:そうなんです。手紙と言いましてもかなり凝った内容で、私はナボコフの中でも一番いい作品なんじゃないかなと思ってるぐらいです。それぐらい、彼の妻への愛とか日常での観察が書きこまれてて、人間らしさがよく出ているいい本なんですよね。

あとは先ほど言ったヴェヌティの翻訳についての本(『翻訳のスキャンダル』)がありますが、これはもう少し先になるかもしれません。

 

阿部:僕の方はいま、60年代前半の公民権運動からサイケデリックなヒッピー文化がどうやって派生していったか、それを同時代史として描いた『ヒッピーのはじまり』という本が作品社から出る予定です。

60年代のカウンター・カルチャーは数年のうちに世界中に拡散していきますが、その最初の2年間、まだ何もかもヘイト・アシュベリーという小さな街のなかに閉じ込められていた頃の記録です。

もう一つは、これはもう少し時間がかかるけど、本職の精神医学の方面で、「妄想」という現象についてのモノグラフを準備しているところです。妄想って、正しくなくてしかも訂正できないものって定義されてるんだけど、それが正しいって判断するのは誰なんだろうとか、思考が訂正されるってどういうことだろうっていうのを歴史的に見たり、あるいはちょっと言語学の観点から、語意変化の法則性とか類似性について、そういうことを考えてみようかなと書き溜めているところです。

(対談終わり)

 

 

*1 (1892-1981)詩人、仏文学者。詩集『月光とピエロ』、訳詩集『月下の一群』やシャルル・ボードレール『悪の華』等の名翻訳により、日本における西洋文学の受容、日本の近代詩に多大な影響を与えた。

*2 (1934-)精神科医。神戸大学名誉教授。1989年に読売文学賞、1996年に毎日出版文化賞などを受賞。著訳書多数。サリヴァンの邦訳の訳者でもある。

*3 カトリック教会で使われてきた、標準となるラテン語訳の聖書のこと。ウルガタとは「一般的な版、共通版」という意味。

*4 本対談の後、米国のバイデン大統領の就任式で詩を朗読したアマンダ・ゴーマン氏の作品をめぐり、カタルーニャ語版の翻訳者が、性別、年齢、人種などの「属性」が合致していないとして契約を解除された。AFPBB News:https://www.afpbb.com/articles/-/3336122

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著者略歴

  1. 阿部 大樹(あべ・だいじゅ)

    1990年生まれ。新潟県出身。精神科医。東京都立松沢病院、川崎市立多摩病院神経精神科等で勤務。2018年より『サンフランシスコ・オラクル』日本語版の翻訳・発行を行う。訳書にサリヴァン『精神病理学私記』(日本評論社)、ルース・ベネディクト『レイシズム』(講談社学術文庫)がある。

  2. 秋草 俊一郎(あきくさ・しゅんいちろう)

    1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、ウィスコンシン大学マディソン校研究員、ハーヴァード大学研究員、東京大学教養学部専任講師などを経て、日本大学大学院総合社会情報研究科准教授。専門は比較文学、翻訳研究など。

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