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阿部大樹×秋草俊一郎 翻訳から3歩はなれて

サリヴァン『精神病理学私記』で、第6回日本翻訳大賞を受賞した阿部大樹さんと、ナボコフほか多数の翻訳書を手掛けてきた秋草俊一郎さんの対談「翻訳から3歩はなれて」をお届けします(2021年2月13日に行われた、阿部大樹さんの著書『翻訳目錄』(雷鳥社)の刊行記念トークイベントを再構成したものです)。

 

阿部大樹

1990年生まれ。新潟県出身。精神科医。東京都立松沢病院、川崎市立多摩病院神経精神科等で勤務。2018年より『サンフランシスコ・オラクル』日本語版の翻訳・発行を行う。訳書にサリヴァン『精神病理学私記』(日本評論社)、ルース・ベネディクト『レイシズム』(講談社学術文庫)がある。

 

秋草俊一郎

1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、ウィスコンシン大学マディソン校研究員、ハーヴァード大学研究員、東京大学教養学部専任講師などを経て、日本大学大学院総合社会情報研究科准教授。専門は比較文学、翻訳研究など。

 

 

精神科医として/文学研究者として

阿部:僕は翻訳をするとき、元のテキストというよりも、もっと抽象的な、〈書かれようとされたもの〉を日本語にしようとするようなところがあります。

精神科医としての経験から僕は、どれだけ訓練を積んだ人であっても、一種類のメディアだけで考えたものを他人に伝えることは難しいと思っていて、だから、著者の生きた時代や、趣味嗜好とか交友関係まで知れる限りを調べて、そのうえで作業にかかります。

そのとき、あえて極端な言い方をすれば、もとのテキストというのも手掛かりの一つに過ぎなくて…

この前、柴田元幸さんと対談をしたときにもここのところで盛り上がって、柴田さんは「私たち文学研究者はテキストを相手に仕事をしている、作者ではなく。」といいました。〈作者の伝えようとしたものをもっともよく表現しているのがテキストである〉というところに前線基地をおくという意味だと僕は受け取りました。

 

秋草:(私は直接の教え子でもあるので柴田先生と呼ばせていただきますが)柴田先生は、透明な翻訳が理想とおっしゃっていますね。もちろん訳者の色はどうしても出てしまうんですけれども、それでも極力抑えて、テキストの特性を日本語に引き写していくのがいい翻訳というご意見だと思います。

やはり文学研究者はテキストを第一のものとして訓練されるので、そういう傾向はすごく強いです。ある時期までアメリカで支配的だった「ニュークリティシズム」という読み方があるのですが、(ごくざっくり言うと)これは作品をテキストとして、作者とは切り離して読む立場のことです。こういった考え方は日本の外国文学研究界にもかなりの程度浸透していました。

基本的に、医者は人間を相手にすると思うんですが、文学研究者って、人間をそんなに好きじゃない人が結構多いのかなという気もする(笑)。阿部さんのご本『翻訳目錄』のあとがきにも書かかれていましたけど、患者さんにとって病気は表現ではないわけですよね。奇妙な夢を見たとしても誰かにむけたものではない。そこに医者が介入する余地がある。ただ作家は作品を表現として、自覚的に公表しているわけです。そこが大きな違いだと思います。たとえば、作品の中で矛盾があることもあるわけです。ただそれも、一応はそういう表現だと受け取って訳さないと、駄目なわけですよ。そこをじゃあ矛盾だから変えましょうって言って変えてしまうと(もちろん単純な誤植の場合は別ですが)、おかしなことになるというのがテキスト中心主義的な立場です。

表現ということに話を戻しますと、表現は受け手がいて完成するものです。私にとって、訳者とは最終的な受け手である読者に表現を届ける役割です。終着点は読者であって、訳者ではないというのが、そこが医者と患者のアナロジーと翻訳者と文学作品の関係のちがうところだと思います。

 

 

意義の研究書/エゴの文芸書

阿部:「世界文学」はつくられる』をとても面白く読みました。文学というフィールドで、価値あるもの/権威あるものがどう形成されていくかが丹念に描かれていて。

 

秋草:ありがとうございます。

 

阿部:秋草先生は文学研究者という立ち位置から研究書と小説の両方を訳されていますが、作業として、この二つではどういう違いを感じますか。

 

秋草:おっしゃるように、私は文芸書のほかに、研究書、とくに世界文学や翻訳研究の研究書の翻訳を手がけています。デイヴィッド・ダムロッシュの『世界文学とは何か?』とか、フランコ・モレッティの『遠読』といった本がそうです。そういった翻訳は、他の共訳者の人と一緒に、勉強会のようなかたちで議論しながら訳しています。自分の担当箇所以外も全部読んで、共訳者の訳文を細かくチェックして、何度も集まって、のべ数十時間かけて議論する。こうすることで理解がすごく深まりますし、訳文も洗練されます。

あとは、研究ばっかりやっていると疲れてしまうというか飽きてしまうので、論文を書いたら翻訳して、翻訳をしたらまた研究というサイクルを意識的につくっている面はあります。翻訳って論文とは違って1日少しずつやれば少しずつ進んでいくので精神衛生的にもいい。

研究書を訳すときは、「文脈」をつくることを考えます。特に世界文学研究は、日本ではほとんど未紹介の分野でした。まず欧米の基本的な文献を何冊か紹介して、ある程度議論のフィールドを作らないとそもそも研究自体をきちんと受け入れてもらえません。

やはり翻訳書が重要で、そこでつくられた言葉とか考え方が、日本語として広まっていく。

 

阿部:議論の土台とするために、ということですね。

 

秋草:そういうことですね。でも、1冊だけだと弱いので、3冊ぐらいあると場を定義できる。

そういう研究書を訳して初めて『「世界文学」はつくられる』みたいな本が一冊書けるところはある。逆に言うと、研究者の翻訳の醍醐味は本を訳すことでそのようなムーヴメント(さきほどは文脈と言いましたが)をつくっていける点にあると思います。いままでは知られていなかった作家や概念、学問を紹介することで新しい学術的な価値観を導入できます。ただ研究者の仕事としては一番の仕事は自分のモノグラフを書くことですので、そこをゴールにして翻訳の仕事もやっていくというのが研究書の翻訳のパターンです。

 

阿部:自分の書きたいモノグラフの構想が先にあって、基礎文献を訳していくということですか、それとも、翻訳もリサーチの一環というような…

 

秋草:初めからそこまで確固としたイメージはないのですが、むしろやりながら理解を深めつつ自分の論文も書いて発表して、最終的に、10年ぐらいのスパンで本にまとめていくっていう感じです。

 

阿部:10年!

 

秋草:結構それぐらいはかかりますね。現在は研究書を出版してくれる出版社も見つけづらかったりするので結構難しいですけど。ニューアカブームから90年代頃は、先生が弟子を集めて一緒に共訳しながら研究者を育てることがあった。で、弟子は翻訳のスキルと、その翻訳をしたという業績、実績を得て、自分もまたそういうことをやって再生産していくというのがあったと思うんです。

 

阿部:なるほど。実質的な作業をする大学院生や若手の研究者はコンテキストを頭に叩き込むことができて、あとは翻訳に関わったという実績を得られることになりますね。

 

秋草:もっと遡ると、たぶん下訳という感じで弟子は関与していたと思うんですけれども、そうすると名前も出ないのでわからないんです。

 

阿部:なるほど、心理学書でも大きな本では確かにこれまでそういったプロセスが採られていきましたね。思いつくのは特に、ヤスパースとユングですが…

反対に、文芸翻訳では、どんなときに「この本を訳そう」と思いますか。

 

秋草:文芸書はやはり自分が面白かった本を基本的には選んでいますが、ただ面白いだけではなくて、私しかやらないだろうなというこだわりで選びます。

極端に言うと、たとえばドストエフスキーならいくらでも有名な先生方の名訳はありますし、わざわざ私が訳す必要はそんなにないですよね。なので、あんまり知られてないような作品の企画を出したりします。ただそうすると企画自体が通りづらいことがあります。私が訳す文芸書は、頭のおかしな男の話とかが多いんですが、そういうのを出版社に持っていくとやっぱり断られること多いです。それを妻に愚痴ると、可愛い女の子が出てくるものを選んだほうが出版社ウケはいいって言われるんですけど。そんなの一切やりたくない(笑)。もともと自分が頭がおかしいからそういうのが好きなのか、訳しているから頭がおかしくなってくるのかちょっとわからないですけど、そういう意味では感情移入しやすい作品を選んでいるのかな、よくわからないけど(笑)。

 

阿部:学界がどう動いていくかに僕はあまり興味が無いので、むしろ数年かかるだろう作業からどれだけ沢山のことを吸いとれそうかという観点で考えますね。小説を訳したことはありませんが、ある意味では秋草先生のスタンスに近いかもしれない。以前にサリヴァンの『精神病理学私記』を徹底的にやったときにも、原本がまるで搾りかすになったみたいに感じた一瞬がありました。

 

秋草:本が「成仏」したと、書かれていましたね。

 

阿部:そうです、成仏といえるくらいに、書いてあることを吸い尽くす作業が、自分にとっての翻訳という仕事です。

僕の卒業した長岡高校の大先輩である堀口大學(*1)は、むかし翻訳にかんして「よろこびの大半は、完全な精読の機会を与えられること」と言っていますが、その感覚はよく分かるような気がします。

また一方で中井久夫先生(*2)は、翻訳とは征服することであり征服されることである、とも言っていますね。強くて長い文章を翻訳したときには、ある意味では原作者を征服したような気持になるけれど、一方で、誰かの書いた文章と数年がかりで付き合うことは、自分自身の書き方とか考え方に克服しがたい影響を残すことになるので…

(後編に続く)

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著者略歴

  1. 阿部 大樹

    1990年生まれ。新潟県出身。精神科医。東京都立松沢病院、川崎市立多摩病院神経精神科等で勤務。2018年より『サンフランシスコ・オラクル』日本語版の翻訳・発行を行う。訳書にサリヴァン『精神病理学私記』(日本評論社)、ルース・ベネディクト『レイシズム』(講談社学術文庫)がある。

  2. 秋草 俊一郎

    1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、ウィスコンシン大学マディソン校研究員、ハーヴァード大学研究員、東京大学教養学部専任講師などを経て、日本大学大学院総合社会情報研究科准教授。専門は比較文学、翻訳研究など。

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