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対談 荒木優太さん×熊野純彦さん:困ったときの在野研究入門 第5回

コミュニティを利用すること

 

荒木: マルクスの影にエンゲルスあり、というのはいい話ですよね。もしかしたら強引なつなげ方かもしれませんが、『ビギナーズ』では、単身での研究者という考え方を再考しようとする問題意識がある。つまり、たった一人で研究者になるのって辛いよね、と。これに対する解決策は何かっていうと、既存のコミュニティに入ったり、自分でコミュニティをつくったりして、色々なコミュニケーションを生きた知恵として摂取していくということだと思いました。この本の第三部は「新しいコミュニティと大学の再利用」というタイトルをつけてます。このパートはけっこう気に入っていて、というのも私は非常に孤独な男なんで、友達もいなけりゃ恋人もいない、人生マジ終わってるって感じで、唯一、書くものは割といいから、まあいいかって感じで生きてるんですね。もちろん、それで不満はないわけですが、しかしそれでは限界が、少なくとも他者にとってはやっぱり限界があるんです。これを突破するために「集まること」に意欲的な方々を第三部を配しました。一人では決して作れない本が出来上がった、というわけで、ひどく満足しているんです。

熊野: ちょっと話を戻す形でいいですか。なんか今さら廣松さんのことばかり話すの、少しかったるいなっていうのがあるんだけど、でも思い出しちゃったから言いますけど。あんまり余所では言わないことを言っておくと、廣松さんに感謝していることの半分ぐらい、いま思うとですが半分近くぐらいは、廣松さんが大学とかと関係なく研究会をやってて、その研究会に若い時に入れてくれたことなんですね。その研究会には、ほとんど東大の人間はいませんでした。やや不正確に言っちゃいますけど、たとえば東大哲学科の人間はいないんです、ほとんど一人も。倫理学科、ぼくも倫理学科ですが、倫理学科が数人いる。ほかはだいたい他大学で、哲学系はしかも少ない、社会科学系のほうが多いような研究会でした。先生にたまたま出逢うっていうのも大きいけど、先生を媒介にして、同年代あるいはちょっと上、ちょっと下のそういう仲間と出逢うというのはやっぱり大きいのです。今ぼくはものすごくわがままで、もう隠居モードに入っているから、人と付き合うのが面倒くさいと思って、もう10年以上も学会に行っていませんし、研究会もやっていませんけれども、やっぱりある時期、そういうピアグループがあったほうがいいと思います。どうせ、教師なんてたいしたことはできません、ただそれでも教師がやったほうがいいことは、たまたま集まった人間たちの中でそういう人間関係ができるように、少し気を遣ったほうがいいかなと、そっちのほうが大きな意味があるだろうなと思います。

荒木: なるほど。考えてみれば、そもそも廣松渉に関しても制度的な意味での先生ではなかったわけですよね。それってどういうきっかけで……別の先生の授業に行ってみようとか、ゼミに潜ってみようとなったんでしょう。

熊野: 正式に……、ね。でもまず大学に入学したときの一年目の一般教養の哲学史は、担当者が廣松渉でしたから。ただ、ぼくは高校のときから廣松さんの本を読んでいて、それもあって、理系向けの哲学概論にも潜ったのです。20歳前のガキだから恐いもの知らずで、その哲学概論のあとに質問に行って、個人的に話す機会を無理やりつくった。そのあと、19、20(歳)だったと思うけど、彼が駒場の大学院でやっているゼミに潜ったのも、これも恐いもの知らずですよね。で、たまたま或るきっかけで、当時もちろん、ぼくなんか何も知らないバカだったに決まってるんだけど、廣松さんの側が勝手に誤解してくれて、なぜかとても可愛がってもらいました。だからぼく自身は廣松さんの悪い面っていうのはあまり見たことがない。二度ぐらいしか怒られたこともありません。いいことか悪いことかは別ですけどね。

荒木: 『ビギナーズ』の中では工藤郁子さんが、在野だけども他の大学のゼミに潜って自主的に勉強する、いろんな人に助けられていますというエピソードを紹介していて、これは一つ知恵なのかなというふうに思いつつ、今日の大学ってかなりセキュリティ的にも厳しくなってきて、もしかしたら使いにくい場面が多々あるのかなと思うんですね。そのとき、大学と在野の対比で言うならば、コミュニティを勝手に結成させるというのは在野に一つ有利があるのかもしれない。ぜひ工藤さんの第二章を読んだあとには、第三部で考えを深めてほしいなとか思います。

荒木優太 氏

 

「クソみたいな人生にちょっといいことがあってもいいじゃないか」

 

熊野: (今日のイベントで)絶対触れようと思っていたのは、まずね、この「あさっての方へ」(序文)っていうのが大変な名文なので読んでほしいと思いますけれども。あともう一つは、荒木さんがお書きになっているところ(第一〇章)で、すごいなと思ったのは、これは直接には最後の表題なんですけれど、「クソみたいな人生にちょっといいことがあってもいいじゃないか」って、それは荒木さんにとってモノを書くことが趣味だろうけど、これはすごいと思うのですよ。ぼくは荒木さんほど思い切ってこの人生、要するに人生なんか押しつけられたこと自体がクソだとまでは――まあ、かみさんもいることだから――ちょっと言い切れねえな、とかあるんですけど、でも基本的には、この世界の中で生きているっていうのは、これは押しつけられたことですから、世界は自分がつくったものじゃないし、世界は自分の言う通りにならないし、なっても恐いけれども、生きてることはクソったれなことがもちろんわんさかあるわけで。何がすごいかっていうと、そのなかでモノを書いてそれを発表することが「ちょっといいことだ」と言い切れるのはすごいなと思うのです。それからもう一つは、私は私自身よりも私が書いたテキストのほうがずっと好きだって言って、ぼくも自分でもちょっとそういうところあるかなとは思うのですよ。逆に言うと、書いたものでは立派なことも書いちゃって、ときどきあんたは書くこととやることがまったく関係がない人ねって言われたりすることもありますけれども、本当に自分自身よりも自分が書いたテキストのほうがずっと好きだって言い切れるっていうのは、おそらく、これはものすごく幸せだと思う。嘘でもほんとでも、それを活字にできるのはすごいなあ、と感心しました。

荒木: なるほど。結構いいこと書くんですよ私、こう見えても(笑)。自分ではこういうふうに自己満足してるんですが、これも繰り返しになるかもしれないですけども、この本では、そういう私のロマンチックなところとか、あとは独りよがりなところ、そういったものに対する批判的な視点っていうのもちゃんと活きていてですね。だから、荒木嫌いな人が読んでもちゃんと面白いようになってる。それが編者としてはかなり達成感をおぼえるところでありまして。いまの熊野さんのお言葉、ありがたいんですが、もしかしたらみなさん「荒木ってやべえ奴なんじゃないか」みたいにお思いかもしれない。大丈夫。安心してください。トータルにみて面白いので、ぜひ読んでください。

  

会場からの質問

 

一人目の質問者: 私自身教員をしてまして、先ほど熊野先生からは、学び続ける人を育てるために教員がすべき役割に関して少しありましたけども、荒木先生のような学問を本当に好んで楽しんで続けられるような生徒を、どうやって接して育てていったらいいかなっていうことを、ちょっとすいません今回のお話の本題とはちょっとずれるんですが、お話を聞いてて是非聞きたいなと思ったんですけどもいかがでしょうか。

荒木: いきなりすごいハードな球がきてしまったなと思っています。というのも私はこの『ビギナーズ』の自分の担当の章の中で、俺は教育に興味がないっていう話をしているんです(笑)。教育に興味がないので、どうせ進学しても教師ができず、つまりは就職できず、じゃあ好きにするか、という感じでして。ちなみにそういうような欠点もちゃんとフォローしているつもりで、高校の先生をやってらっしゃる内田真木さん、家庭教師業で食っている星野健一さんに依頼しています。一瞬話がズレますけど、星野さんの文章、非常に感動的なんですよ。この本の中でもっとも情動に訴えてくる、そういう文章になっていて、いいんです。

で、質問にまったく答えてないわけですけども……そうね、いや、学生だった自分を回想して言うと、私はできるだけ教師に介入してほしくないなって思ってました。授業中とかも勝手にフランス語とかを写して勝手に勉強してるので、なんか変な英語のテキストとかを読ませないでほしい……あんまり介入しないってのは大事なんじゃないですか。まあなんか変なことを頑張ってるし、まあいいか、みたいな。……大丈夫か、これ?(笑)

一人目の質問者: こういう時期で、入試直前でちょっと、真面目な生徒がどんどんやる気を失っていくっていう、すみません私の個人的なあれで、まあそういうのを見てこういう人が育ってくれたらいいのになということで、すみません、聞いてしまいました。失礼しました。

二人目の質問者: 大変興味深いお話ありがとうございました。質問が二つございますがよろしいでしょうか。まず、在野研究者といった場合、アカデミズムとの距離の取り方で、荒木さんのお考えになるパターンがいくつか導き出されるとすればどういったパターンがあるのかということをお伺いしたいというのが一点。もう一つが、先ほどコミュニティをつくるというふうにおっしゃられましたが、コミュニティというとやはりその理想的な組織というか会合とかそういったものを指すように思います。荒木さんが思われるようなそういった在野研究者のコミュニティというのはどういったものをお考えでしょうか。二点お伺いいたします。

荒木: ありがとうございます。最初の質問に答えるとおそらく在野研究みたいなものがいま注目されているのは、多くの院生たちが就職できないというリアリティがあるためだと思います。ですので、一方には本当は大学に残りたい、大学の先生になりたい、そういうような願望を抱いているんだけども、仕方なしに在野になってしまったっていうタイプの研究者が一つ考えられると思います。ただ、それとは別に、そもそもアカデミズムに認められたいとは思わないんだけども、でもなんか知的なことをやってみたい、知的なものを書いてみたいという人々の活動もちゃんとあるよね、ということはずっと思ってまして。まあそのアマチュアリズムみたいなものも、やはり在野研究にとって重要な、そして伝統的なパターンでもある。

で、この二つ、本当は大学に行きたいんだけど行けない人たちと、そもそも関係ないけどやってるんですよっていう連中を、これは私の勝手な願望ですが、出逢わせることができることに在野研究という領域の大きな意味があるんじゃないでしょうか。つまり、本当は大学に属したい人たちに、あなたが本当にやりたいことって何なのっていうことを問うてみる。で、もちろんそれで大学に属したいんだという答えをしてくれても全然いいんだけども、もしかしたらもっと別の答えがそこで見つかるのかもしれない。

で、二つ目の、コミュニティに関してはですね、これもさっきの教育の話と同じで、私はやっぱり人間と仲良くすることがかなり難があるといいますか、不得手な男なのでなかなか答えにくいんですけども……あっ、ちゃんと人の話を聞くコミュニティというのは大事だと思います。自分が言いたいことを一方的に言ってくる人って研究者のなかにすごいいて、しかも優秀だったりもするんですけども、しかし、それだけだとコミュニティというのはうまくいかないでしょう。まずは人の話を聞く、そこからキャッチボールをしていく、そういうような習慣を根づかせていけるのならば私みたいに人間嫌いな男でももしかしたら居心地よく居られるのかもしれません。お答えになってますでしょうか。

二人目の質問者: どうもありがとうございました。

三人目の質問者: さっき話の途中で在野研究っていうもので脚光を浴びているけど、自分が専門してる有島のほうは全然人が関心を持たないって、そこで分裂しているっていうお話がありましたけど、そこの分裂は荒木さん自身は埋めていきたいと思ってるのか、そもそも自分の好きなことをやるつもりだっていうふうに考えてるのかというのをお伺いしたいです。

荒木: 純粋な願望としては埋めていきたいなというふうに思いますけども、現実的な判断としてはこれは絶対にあり得ないだろうと思いますね。というのも在野研究というのは非常に今日的な問題と接続できますけども、有島武郎がそういったものになりうるかというとそうでもない。で、もしかしたらなりうるのかもしれないけども、そこで私の中にある、まあ学者的な良心(?)みたいなものがあってですね……たぶんそういった接続、つまり現代的な接続というものを許さないだろうなっていう直感があるので、失敗するように予測します。ただ、在野研究の仕事をきっかけに私の文学研究的な論文に興味を持ってくれてる方も少なからずいるので、そういったことは、素直にありがたいなと思ってます。

三人目の質問者: ありがとうございます。

荒木: 皆さん1時間ぐらいのお付き合いでしたけれどもありがとうございました。そして、熊野さんお忙しいなか来て下さってありがとうございます。いや、最初は超ビッグなゲストなので断られるかなというふうに戦々恐々としていたんですけども、ご厚意にあずかることができてとても光栄でした。改めて感謝いたします。

 [了]

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