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文学研究者・横道誠×漫画家・菊池真理子×AV監督・二村ヒトシ ちょっぴりきわどい公開対話

機能不全家庭で育った文学研究者・横道誠、漫画家・菊池真理子、AV監督・二村ヒトシによる対談本『「ほどよく」なんて生きられない』の発売を記念して、2025年5月31日(土)に青山ブックセンターでトークイベントが開かれました。宗教2世、発達障害、愛着障害、依存症、アダルトチルドレンといった生きづらさを抱える3人による、ちょっぴりきわどかった公開対話の一部を、ここでご紹介します。(坂野りんこ=構成)

アダルトチルドレン=機能不全家庭で育った人

横道:この本の対談のベースになっているのは、私たちがアダルトチルドレンという共通項を持っていることです。二村さんはアダルトチルドレンのグレーゾーンなのかもしれませんが……。

菊池:二村さんってアダルトチルドレンのグレーゾーンなんですか?

二村:むしろ、ど真ん中なんじゃないですか。親との関わりによって困りごとを抱えているのを自覚したら、その人はアダルトチルドレンだって名乗っていいって、公認心理師で臨床心理士の信田さよ子さんもおっしゃってますし。

横道:遅ればせながら補足を。アダルトチルドレンっていうのは、語感から“幼稚な大人”っていう意味だと誤解されがちなんですね。二村さんも菊池さんも私も、最初は「自分に関係ない言葉」と思ってました。でもアダルトチルドレンの正確な意味は、「子どもの頃に家庭が壊れていた人」ってことなんですね。英語で「アダルトチルドレン・オブ・ディスファンクショナル・ファミリーズ」。機能不全家庭で育った人たち、ということです。

最近よく話題になる宗教2世とか、ヤングケアラー。意に沿わぬ信仰を親と教団から強制された人を宗教2世と言います。子どもの頃から、大人がやるべきケアや家事をしている子どものことはヤングケアラー。それらもアダルトチルドレンのサブカテゴリーになるわけです。

 左から順に、横道誠さん、菊池真理子さん、二村ヒトシさん左から順に、横道誠さん、菊池真理子さん、二村ヒトシさん

 発達障害じゃない「生きづらさ」の正体

二村:横道さんは自閉スペクトラム症(ASD)と注意欠陥多動症(ADHD)の併発で、さらにアルコール依存症で宗教2世。僕も未診断ですが明らかにADHDで、隠れASDの傾向もあり、愛着障害もあると思います。宗教2世である菊池さんは一見ちゃんとした方ですよね、我々ふたりに比べると。

菊池:そうですかね(笑)。でも、トラウマを持っている人が後天的に発達障害的になる場合があるというのを、横道さんから伺って。私、小学校のときに学校にランドセルを忘れて帰っちゃったりとかしてたんですよ。

二村:それは我々のお仲間ですね!

菊池:でしょう? 発達障害っぽいじゃないですか。あとは、学校に行くときにお父さんのサンダルを履いていっちゃったりとか。でもいま思うと、それって「解離」なんですよね。

二村:菊池さんの生まれつきの脳神経系はマジョリティ寄りに思えますけど、解離という症状というか現象は、子どもの頃につらいことや嫌なことがあったとき、魂をどっかに置いていく癖がついちゃうわけですよ。生まれつき「変わった子」じゃなくても、そうやって自分の心を守っていた。

菊池:そうなんです。そんなことが当時は全然わからなかったから、「私はすごくおっちょこちょいな人間だ」とずっと思っていました。いまあんまり遅刻をしない人間になったのは、すごく注意しているからなんですよ。ものすごく注意して頑張って人並みにしようとしていて。そういう意味では、発達障害の方が抱える問題を少しはわかる気がするんですよね。

横道:歴史的な話をすると、発達障害って昔は全然メジャーじゃなかったんですよね。2005年に発達障害者支援法というのができてから急速に注目されて。

覚えている人もいると思うんですけど、当時「KY」とか「空気が読めない」とかが流行語になりましたよね。発達障害者支援法にも記されていたアスペルガー症候群が注目された結果です。知性にまったく問題がなく、場合によってはすごく高い知性の事例すらあるんだけど、なぜかKYの人々ということでね。発達障害が認知されてワーっと盛り上がって、発達障害バブルって言われるものが始まった。かつては統合失調症とかパーソナリティ障害といった診断をされていた人たちが、発達障害、つまりアスペルガー症候群を含む自閉症とか、ADHDとかだと診断されなおして。

でも、どうもそれでもないんじゃないかっていう人たちがまた目立ってきて、最近ではPTSDなどのトラウマ障害が真実だっていう診断が増えているんですよね。子どもの頃に虐待とかネグレクトを受けた人は、PTSDが深刻化して複雑性PTSDになるっていうのが最近の盛んな議論です。ややこしいのは、発達障害の人は頻繁にトラウマ障害を併発することですね。虐待されたりとか、いじめにあったりとか、仲間外れになったりとか、そういうことが多いから。

結果として、発達障害とトラウマ障害ってそう違わなく見えることもあるんですよね。さっき菊池さんが解離していたとおっしゃっていましたけど、解離っていうのは、心が現実と幻想の狭間に陥ってしまうことです。典型的には突然失踪して蒸発するとか、多重人格になるとか、自分の背後にもうひとり自分が立っている感じがするとか、いろんな事象が起きるんですけど、発達障害にはそういうトラウマ障害的な症状が併発している人はとても多いです。

発達障害者でよく話題になることとして、「こだわり」や「過集中」もありますね。興味があることにものすごく集中して、ずっと同じようなことにのめりこんでいる。二村さんが美少年のAVを50本とか100本とか撮ってるみたいなのは、やっぱりそういうことなのかなと思ったり。ちなみに過集中も、解離の一種だと思います。現実感が吹っ飛ぶからです。

二村:僕は量産できるタイプの監督じゃないですけど、たしかに女装した美青年のAVばかり100本近く撮っていて、その前にも女性が男性を抱いたり犯したりするAVや、レズビアンのAVを数百本撮りました。30年くらいそういうことをやってて、一応それらのジャンルの先駆者です。それが僕の発達障害的な「こだわり」のなせるわざなのかと言われれば、そうだろうと思います。

それともう一点、僕は他の監督から「二村さん、普通はAV監督はそんなことはしないよ」と言われてしまうようなあることを撮影中ついやってしまうので有名なんですが(目立とうと思ってわざとやってるわけではありません)、そのことについても、この本の中で横道さんから「それはきっと二村さんの自閉スペクトラム的な発達特性ですよ」と指摘されて、なるほどと納得しかありませんでした。

 

ニューロダイバーシティという考え方

横道:「自閉スペクトラム症を含めて、発達障害は必ずしも病気ではないんじゃないか」というふうに語られることが増えてきていて、日本でもニューロダイバーシティという考え方が広まりつつあります。脳や神経の多様性を指す言葉です。多くの人は多数派であるニューロマジョリティで、発達障害の人は、ニューロマイノリティ。脳のあり方が少数派なだけと見なして、障害の有無という従来の構図を脱構築してるんですね。

自閉スペクトラム症の「こだわり」は、自閉スペクトラム症の典型的な症状として論じられてきましたが、実際にはニュートラルというか、価値中立的なものですよね。イーロン・マスクとかグレタ・トゥーンベリとか、とても正義感が強いじゃないですか。そういう正義感がしばしば独善的にも見えるわけなんですけど。やはり真面目さにつながっていくという面もあるわけです。

二村:それ、僕もこの本の中で固有名詞は出さずに、ちょっと触れましたね。イーロンさんはトランプ大統領の懐刀で、グレタさんは子どものころから世界的なエコロジー活動家。右翼も左翼も極端な人は、立場は違えどどっちも我々のお仲間であることが多いように思う。お仲間だからこその近親嫌悪があって、だから、似ているのに思想的には真逆の人を憎むことがあるのかもしれない。

あと、僕はAVの仕事の他に「モテない男性はこうした方がいい」とか「クズな男ばかり好きになったりして恋愛がうまくいかない女性は、やっぱり自分と親との関係をもう一回見直すべきなのでは?」みたいな、恋愛の啓発書の書き手でもあるんですけど。僕の本は大学生や若い女性に、たくさん読まれたんですね。みんなが微細かもしれないけどトラウマを抱えていて、親との関係だったり、脳の病気とまでは言えない認知の癖や特性、被害とまでは呼べないつらい体験だったり、それぞれに小さい傷や変異性があって、それぞれの人の性格を形作っている。それがどうしても反応として対人関係に強く現れるから、恋愛やセックスで「こうすればシンプルに幸せになれるのに」という方向に一直線に行けない。みんなが恋愛しているとき多かれ少なかれメンヘラになるのも、モテない人や異常にモテる人が存在するのも全部それで説明できる感じがするんですよね。

菊池:二村さんが以前書かれた本で、いま私たちがトラウマと呼びがちなものを“心の穴”という言葉で表現されていて。その心の穴から出てくるものは、困ったものだけじゃなくて、魅力も出てくるんだよっていうことを繰り返し書かれていて。私はそれがすごく救いになったし、実感としてもわかりました。その人がものすごく何かに対して困っているとしても、他人から見たらそこに魅力が詰まっているように見えることもあるし。

二村:横道さんが、いい例ですよね。

菊池:横道さんって魅力の塊ですよね。ご本人はいろいろとお困りなこともあるかもしれませんが。まさにそれをご自分で書かれることによって、それもコーピング(ストレス軽減のために行う行動)になっていらっしゃるでしょうというお話ですよね。

横道:私は執筆活動に関しては、完全に自助グループの延長でやっていますね。自助グループでは時間の問題がありますから、その制約が発生しない執筆活動で補完する。自分の話をたっぷりと深く掘りさげたり、自助グループ活動で知りあった仲間にインタビューをしたりして、それを本にまとめるという。

 

マジョリティなんて、本当にいるの?

菊池:私は最近、多くの当事者の方に「どうやって友だち作ったらいいですか?」と質問されるんですが。

二村:それは菊池さんが社交的な人だと思われてるからってことじゃなくて?

菊池:そうかもしれないんですが、友だち作りに悩むって、人間関係に悩むっていうことですから。一見普通の社会人で、うまく生きているように見える方でも、対人関係の悩みを持っている方がいる。発達障害ということじゃなくても、多くの人がコミュニケーションで悩んでいるんだろうなと思うんですよね。

二村:横道さんからニューロマイノリティって言葉を教わったばっかりなのに、俺の悪い癖で聞いたばかりの言葉をすぐ自分流の解釈で使うんだけど、今回は「ガンダムやエヴァンゲリオンに乗れる子どもたちは、みんなニュータイプもしくは被虐待児童(アダルトチルドレン)、つまりニューロマイノリティなんだ」ってオタク的な評論の同人誌を作っちゃった(笑)。

でも実際のところニューロマジョリティ、つまり発達特性が平均的でトラウマもない人よりも、なんらかのニューロマイノリティの方が現代では数が多くなってきてるんじゃない? ニューロマイノリティって、さっき菊池さんが言ったような、ちょっと生きづらい人も含めていいんじゃないかと僕は思います。

そもそも、マジョリティなんて存在するんですかね。みんなそれぞれちょっとずつズレていて、ちょっとずつ変だと思うんですよ。「自分こそは日本人のマジョリティだ」って言い張る人がいたら、その人こそ変わった人なんじゃないか。

横道:最近、代麻理子さんの「未来に残したい授業」というYouTubeの番組に3人で出演して、そのときにも私は同じようなことを言ったんですけど、人によって自然派とか都会派とか、朝型とか夜型とか、頭脳労働が好きとか肉体労働が好きとか、肉食寄りか菜食寄りかとか、音楽でもクラシックが好き、ジャズが好き、欧米のロックが好き、邦ロックが好き、J-POPが好き、K-POPが好きと、バラバラですよね。「ザ・平均人」はどこにもいない。

日本でニューロダイバーシティ論の第一人者は村中直人さんですけど、その村中さんは「ニューロマイノリティの解放と同時にセットで進めたいのはニューロマジョリティの解体だ」ということをよく言ってます。

少数派も多数派もそれぞれ多様きわまるわけですが、多数派は「自分たちは「普通」の側であり、メジャーの方である」となんとなく思っている。それは変えていった方が、多数派にとってもメリットがあるんじゃないかなと。

二村:ただ、あらゆる人間が何らかの意味でマイノリティだったとしても、その自分の特性で本当に困っている人っていうのはいるんだよね。

横道:はい。本当はみんなバラバラに多様性を生きているんだけど、社会の多くの場所が、マイノリティのことを考えずに設計されているという問題があります。

昔は身体障害者も配慮されていなかった。道がデコボコしていたり階段しかなかったり。それがちゃんと配慮されるようになって、道がきれいにならされて、エレベーターやエスカレーターが設置されて……、となった。現状では手足が不自由な人や視覚障害者・聴覚障害者といった身体障害の人たちのことは、かなり配慮されるようになりました。

一方で、精神疾患とか発達障害の当事者に関しては、いまでも配慮から漏れがちです。だから、彼らに対して障害になっているものを除去する必要がある。それを大がかりにやるのはユニバーサルデザインですが、ピンポイントでやるのが合理的配慮です。合律的配慮が話題になるとき、マジョリティ側が「なんで自分たちばっかり配慮しなきゃいけないのか」「障害者はわがままだ、彼らに合わせる必要ない」「自分たちが損するばかりじゃないか」と感じることがあるようです。

でも世の中というのは、健常者と病人、あるいは定型発達者(発達障害のない人)と発達障害者のように人数に大きなギャップがあったり、男女のようにほぼ同数でも、男性が中心的な勢力で女性が周縁的な勢力というようにパワーバランスが均衡を崩しているのがデフォルトです。多数派や中心的勢力を基準に社会が設計されていくから、知らないうちに初めから下駄を履かせてもらってることになります。女性であるとか、子どもや老人であるとか、障害者であるとか、難病患者であるとか、外国にルーツがある人などが、下駄を履かされていない側。だからその人たちにも下駄を履かせて、デフォルトの不平等・不公平を解消しようというのが合理的配慮です。「みんな多様で、それで当たり前。だから配慮とかはいらない。何もしなくて良い」という話にはなりません。

菊池:そうですね、下駄を履いている人は……。

横道:だいたいは無自覚なんですよ。

 

障害にはブームがある

菊池:その配慮する対象に、発達障害とか身体障害だけではなくて、私は宗教2世であったりアダルトチルドレンであったり、そういうところも広げてほしいなと思うんですが、どうしていったら変わるんでしょうか?

二村:「自立するとは、依存先を増やすことである」という言葉で有名な、医師で研究者でご自身も身体障害の当事者である熊谷晋一郎さんという方がおられます。その言葉は人間関係の話だけじゃなくて、お酒を飲むとかゲームに耽(ふけ)るとか推し活をするとかセックスやマスターベーションをするとか浪費をするとか、人間は人によってさまざまな依存的行為をして自己コーピングしてないと心がつらくなってしまうものなんだけど、「ただ一つだけの依存行為を命綱にしているのは危険である。いろいろなことに散らしてコーピングしたほうが安定する」という意味でもあると思うんですね。そんな熊谷さんの言葉でもう一つ「障害にもブームがある」というのがある。

戦後、みんなが働いて世の中を復興させていくという時代になって、「あいつは身体が不自由だから働けない」みたいなことを言われるようになった。それに対して、身体障害者の立場を守ろうという運動が盛んになった時代があるわけですね。で、なぜいま発達障害ブームかというと、やはりコミュニケーションを要求される時代だから。

体が不自由でも、“いい人”だったら保護されるけど、コミュニケーションができないキモい奴が一番ダメっていう時代になった。だからこそ、それに対して「生まれつきの特性なんだから、そんなことを言わないで」というのが出てきた。

横道:あとは産業構造の変化っていうのも大きくて。昔はこだわりが強い職人カタギの人が活躍しやすい世界だった。普段はとっつきにくく、ダメなところも目立ってるおじさんなんだけど、自分のやっている仕事の分野では、名人とか親方って言われていて一目置かれている。そういう人が息をしにくい時代になったんだと思います。

二村:そうか、それもありますね。だから昔の立派な芸術家とか、すごい仕事をした職人とかにも発達障害者がおそらくいたっていうことですよね。

菊池:二村さんが「自分はAV業界で変わり者だった。横道さんも研究者の世界でそうかもしれない」とおっしゃってたんですが、私は逆なんです。とあるいい大学に行った方が、「まわりはみんな発達障害だったから、自分が発達障害であることに気がつかなかった」とおっしゃっていたんですが。漫画家さんでも、実際に診断を受けてる人の割合はわからないけれども、ちょっと発達障害っぽい人の方が多いんですよ。私はそういう人たちが多くいるなかにいたから、自分のちょっと変わった部分をあまり感じずに済んできたんですよね。

二村:菊池さんの問題提起に話を戻すと、カルト宗教というものを社会現象としてあつかうだけじゃなく、2世の当事者が受ける差別や内面の生きづらさの問題がもっともっとクローズアップされていくべきなんでしょう。アダルトチルドレンが恋愛に不器用になってしまう問題も見過ごすべきじゃない。確実に男女の分断や、世の中の過剰すぎるコンプライアンス化、ひいては少子化にまでつながってると僕は思いますし。

 

過去を語りなおすことで見えてきた自分

二村:この本の中で詳しく語りましたので読んでいただきたいんですけど、僕の母が昭和一桁生まれにしてはいささか特殊な女性だったことが、僕の愛着障害にも、女性が性的に強いとか男性が女性になっちゃうAVばかりずっと撮ってきて、それしか撮りたくなかったことにも間違いなく関係してる。

今回ね、この本で母親の悪口をまあまあ話せたんです。母のおかげで今の僕があるんだけど、でも彼女から傷つけられたこともいっぱいあったんだと初めて言えました。子どもの頃に「ユニークなお母さんだから、二村もそんなふうに育ったんだね」と言われたんだけど、それも確かにそのとおりで、だからこそ自分の変なところを仕事に使えたんだけど。僕はむしろ世の中と自分が違うことを喜んでいた人間なので、いい気になってやっていたように見えると思うんですけど。内側ではやっぱり何らかの寂しさがずっとあったんですよ。

僕のアダルトチルドレン性と母との精神的癒着は、かつて菊池さんにも取材してもらって漫画になっていますけど(『毒親サバイバル』KADOKAWA刊)、それだけじゃない。僕の母親にも、母と離婚した父にも、一種の発達障害性があったんだなってことに今回おふたりと話せて気づけたのが、すごく良かった。自分についての新しい物語を作れて、すごく楽になれた気がするんですよ。

横道:文学研究者で自助グループ主宰者をしている私の得意分野です(笑)。アノニマス系自助グループの「言いっぱなし聞きっぱなし」でも、当事者研究でも、オープンダイアローグ的対話実践でも、対話の空間が新しい物語を作っていくということ。もともとはナラティブセラピーの発想です。お互いに語りあって、それまでの「自分の人生はこんな感じ」という支配的な物語(ドミナントストーリー)を、「もしかしたら別なふうに考えられるかもしれない」という代替的な物語(オルタナティブ・ストーリー)に変えていく。ずっと「こうだ」と思っていたことでも、対話をしていると、新たな気づきがどんどん出てきて、自分の人生を新しい仕方で読みなおすこと、解釈しなおすことが可能になる。そうやって対話していると、いつの間にか人生全部が大規模に再生していく。

自己啓発の典型的な考え方は、「過去や他者は変えられないけど、自分や現在・未来は変えられる」というものです。私は、その考え方に対するカウンターパンチだと思っています。

まわりの人と話していると、対話というのは双方向的なものなので、他者も変わる。現在・未来が変わるのはもちろん、過去だって変わる。多くの人は過去は不変だと思ってるけれど、自分の過去っていうのは過去に起こったすべてによって構成されているわけではありません。自分がそう捉えたという認識のありようによって、仮構的に過去が形成されているわけですよね。いろんな過去について語るうちに、対話によって入ってきた新しい視点から過去の読み替えが発生し、過去から現在、そして未来まで人生の全体が新しい姿へと変貌していくことになるんです。

 

対話によって新しい物語を作る

菊池:最近、私は自助グループに出ているんですが、同じ話を何回もしたり、何回も聞いたりすると、自分の中の解釈がどんどん変わっていって。「私はこういうふうに親に育てられた」という物語が変わっていくのがすごく楽しくて、これはやっぱり対話の効果だなって思いました。完全にそうですよね、これ。

横道:「自分のことは自分が一番わかってる」っていうのも一つの真理なんですけど、「はたから見てる人には丸見えなのに、自分のことだからこそ自分だけ見えてない」ことも多々ありますよね。その盲点が対話によって解消され、自己理解と他者理解が一気に高まるということかなと。

二村:水平的なポリフォニーと垂直的ポリフォニーっていうことでしょ?

横道:うん、そうですね。

二村:オープンダイアローグや哲学対話で、一つのテーマで考えて話すみんなの声を聞いていると、人間って本当にいろいろで、それぞれいろんな悩みがあるってことが実感できます。それによって、一つのことにこだわりつづけて苦しかった自分がほぐれていく。菊池さんや横道さんと話しているうちに、自分の中でもいろんな声が聞こえてくる。

ポリフォニー、多声性というのは、いろいろ違う言葉や意味が響いてるということ。ハーモニーのように音を調和させるのではなく、バラバラのままでいいということ。どんどん横に水平に広がっていくみんなの話を聞いて、自分ごとについても「あ、そんな見方があったのか」と気づける。そうすると深い自分の底の方からも、今まで考えてなかった新しい視点が生まれてくる。それを今回、体験できた。

菊池さんが以前漫画に描いてくれた、父が赤ん坊だった僕をシッシッて追いはらって、それを見て母は頭にきて離婚につながったってエピソード。それは事実なんだけど、今回話し直してみたら、同じ話なのに「あ、これうちの父も母も絶対ASDっぽかったからだよな」っていう読み換えができたんです。

今まで、父も母も大概な人だったって笑い話をするときに、僕は、やっぱり傷ついてたんですよ。僕のなかに父や母がそれぞれ持ってた「冷たさ」みたいなものがあるのは自覚してたから。同じことを僕は自分の身近な人にも絶対やってるって。親が自分にやってたことを、ある一面だけで解釈していると全部、自分に跳ねかえってくる。切り離せなくなるんですよね。

横道:精神疾患的特性は遺伝しやすいものですよね。発達障害の子どもがいるとしたら、その親が類似した特性を共有していることは多い印象です。

二村:ところが、こちらを否定してこない他者との対話を繰り返すことで、それまでと違うナラティブが勝手に生成された。父ちゃんも母ちゃんもASDだったんじゃ、しょうがねえなって思えてきて、なにが良かったって自責感が薄らいだんですよ。

自責感と罪悪感の違いについて、これも信田さよ子さんが言っておられますけど。罪悪感は多少あった方が悪いことをしなくてすむから、かえって人生が安全になるけど。根拠のない自責感、むやみと自分を責める感覚は手放した方がいい。なぜなら、それは自分が無価値だって最初から思いこむことだから。そういう自責感を今回、僕はずいぶん手放せましたね。

横道:自助グループって、多くの人はどういうものか知らないないと思うんですけど。なかなか普段は出会えない自分のそっくりさんに出会える場所なんですね。発達障害者だったら、全人口の1割以下と言われています。ある社会学者が昔、日本の家庭は7割ぐらいが壊れてるって言ってましたけど、自分をアダルトチルドレンと自認する人はずっと少なくて、全人口の2割とかかな? よくわからないけど。宗教2世や依存症者だったら数パーセントくらい。そういう普段はなかなか会えない人たちでも、自助グループに行ってみたら同じ悩みの人が集まってるわけですから、ある意味そこは自分の分身ばっかりなんですよね。

そして分身だからこそ、「差分」っていうものが衝撃的に迫ってくるんです。

「なぜ二村さんと俺はある面ではこんなそっくりなのに、別の面ではむしろ正反対くらいの存在なのか」みたいな問題について、しげしげと考えざるを得なくなります。もちろん菊池さんとの関係でもそうですね。宗教2世としての体験に共通点があるけど、相違点にはどんな意味があるのだろうかと。

私の本は「自分の人生の答え合わせになった」という感想を言われることが多いです。それまでなんとなく自覚していた自分の問題、あるいは無自覚だった自分の問題とまったく同じものが横道誠の本に書かれてあったと言われます。「それで発達障害の診断を受けようと思った」とか「アダルトチルドレンという言葉は自分に無関係だと思っていたけど、自分のことだとわかった」みたいに言われます。これ、私の本に限らず、当事者本の真髄だと思います。

それで今回の『「ほどよく」なんて生きられない――宗教2世、発達障害、愛着障害、依存症、セックス、創作活動をめぐる対話』(明石書店)には、そういう当事者が3人も出ています。私たち横道誠、菊池真理子、二村ヒトシ。みなさんも、この本を読んだら、きっとどこかしらで自分の問題に出くわすことになると思います。「ある部分は非常によくわかるんだけど、別の部分はまったくわからない」といったことが起こると思います。そんなところから、自己理解も他者理解もぐんぐん深まっていくと思います。ちょうど本書が自助グループのような役割を果たすわけですね。ぜひ堪能してみてください。

 

◆次回イベント告知!!

6月13日(金)19時30分~ @本屋B&B

横道誠×菊池真理子×二村ヒトシ×松本俊彦(精神科医)「みんなおいでよ、依存症の豊かな世界」

https://bb250613a.peatix.com/

 6月13日(金)19時30分~ @本屋B&B

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著者略歴

  1. 横道 誠

    京都府立大学文学部准教授。1979年、大阪市生まれ。博士(文学)(京都大学)。専門は文学・当事者研究。著書に『信仰から解放されない子どもたち―#宗教2世に信教の自由を』(編著、明石書店)、『発達障害者は〈擬態〉する―抑圧と生存戦略のカモフラージュ』(明石書店)、『アダルトチルドレンの教科書―回復のメタメソッド』(晶文社)、『酒をやめられない文学研究者とタバコをやめられない精神科医が本気で語り明かした依存症の話』(松本俊彦氏と共著、太田出版)など。

  2. 菊池 真理子

    漫画家。1972年、東京都生まれ、埼玉県在住。2017年、アルコール依存症の父と家族の姿を描いたノンフィクションコミック『酔うと化け物になる父がつらい』(秋田書店)で大きな話題を集める。2022年には、自身を含む7人の宗教2世の体験をつづった『「神様」のいる家で育ちました ~宗教2世な私たち~』(文藝春秋)を発表。最新刊に、2024年刊行の『うちは「問題」のある家族でした』(KADOKAWA)や『壊れる前に旅に出た』(文藝春秋)など。

  3. 二村 ヒトシ

    アダルトビデオ監督。ソフトオンデマンド社 顧問。1964年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。著書に『すべてはモテるためである』『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(ともにイースト・プレス)、『AV監督が映画を観て考えたフェミニズムとセックスと差別と』(温度)、『どうすれば愛しあえるの』(宮台真司氏と共著、KKベストセラーズ)、『オトコのカラダはキモチいい』(金田淳子氏・岡田育氏と共著、角川文庫)、『欲望会議 性とポリコレの哲学』(千葉雅也氏・柴田英里氏と共著、角川ソフィア文庫)、『深夜、生命線をそっと足す』(燃え殻氏と共著、マガジンハウス)など。

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