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『「発達障害」とされる外国人の子どもたち――フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り』試し読み

外国から来たその子、本当に「発達障害」ですか?
本格的な「移民時代」を迎えた日本の、外国人支援政策の陥穽を問う!

いま教育現場では、日本語がわからない外国ルーツの子どもが「発達障害」と診断され、特別支援学級に編入されるケースが増えている。
本書では、この問題のメカニズムと背景を、フィリピンから来た2人のきょうだいにかかわった保護者や教員ら、計10人に対するインタビュー調査を通して探る。
外国人の子どもたちが「発達障害」とされる過程を詳細に明らかにし、現代の日本社会の実像を考察したこれまでに類のない一冊である。

2020年2月末発売の『「発達障害」とされる外国人の子どもたち――フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り』。
京都大学で社会学を専攻し、現在は新聞記者として活躍する気鋭の著者・金春喜さんが、多角的なインタビュー調査を行い、共生社会を実現するための喫緊の課題に切り込みました。
日本に住む私たちにとって決して他人事ではない問題を、いっしょに考えてみませんか。
ここでは、本書の「まえがき」を抜粋して紹介いたします。


まえがき    金 春喜

 私が嫌いなのは、祖父母や母親が日本で直面したトラブルや困難を話し、不平不満を言うことだった。彼らの語る、在日コリアンとしての差別経験を始めとした困難は、いまや何不自由なく日本人の友人たちに囲まれてしあわせに生きる私にとっては、古くさくて耳障りなものでしかなかった。そんなことを聞かなければ私は、自分が外国人の家族に生まれたことを思い出さずに済む。私はしあわせなままなのだ。
 小学1年生で日本の公立学校に通い始めたとき、日本人の友達が私をからかった。それで私は父親に、「どうして私ばっかり、韓国人だからってからかわれないといけないの」と文句を言った。父親は、「それは、あなたが韓国人だからじゃないよ。あなたがもっとみんなに優しくすれば、みんなはあなたが韓国人だからって、からかったりはしなくなるよ」と答えた。なるほどと思って、以来、私はなるべく「優しく」過ごすようにした。
 いまにして思えば、父親の言ったことは、半分あっていて、半分あっていない。たしかにそれ以来、私にはたくさんの友達ができて、誰にも「韓国人だから」といっていじめられることはなくなった。まして、大学時代の友人は言う、「そう言えば、あなたって韓国人だったね」。私が「優しくすれば」、友達はできるし、みんなは私が外国人だということを忘れてくれる。けれども、父親が提案した思い込みは、自らが「韓国人だから」ということで困りごとを抱えることがあるのをごまかすこともできるものだったろうと思う。外国人だからということに結びつく何かを、外国人であるという以外の何か、優しさの不足とか、心や気持ちの問題のようなものにすり替えて考えることは、私にとっても父親にとっても、きっとすごく気楽なことだった。
 気楽なままの私は、大学院に入学した。もともとは子どもに強い関心を持っていたので、子どもとかかわれるならば、というぐらいの気持ちで、入学直後から、外国人児童に向けた学習支援のボランティア活動に参加し始めた。主にフィリピンから来日した児童たちに、日本語の学習や日々の宿題のサポートをするものだと聞いていた。ボランティアに参加し始めた当初、はりきって一番乗りで教室に到着した私は、電気のつけ方がわからず、真っ暗な教室でみんなを待っていた。ある生徒がその次に教室に着いて、「電気、つけますか」と、スイッチの場所を私に教えてくれた。そのときのことを、私ははっきりと覚えている。その生徒はその後、「発達障害だ」ということで、特別支援学校に進学することとなった。
 以来、「昔話」と思っていた祖父母の話を、もうはっきりとは思い出せないけれども、その口ぶりを、よく思い出すようになっている。昔話ではなかった。そう思って私は、ときに切迫した思いを持つ。もし、時代がずれていて、私の祖父母や両親の時代にも、「発達障害だ」と言われることがあったとしたら。彼らが障害者として処遇されることになっていたとしたら。そうだったら、私はいま、どこにいるだろうか。
 もちろん、障害者あるいは健常者として生きることに是非や優劣をつけるというのではない。しかし、それでも、日本に生きる「外国人としての困難」に向き合うことはされずに、抵抗できない子どもの時代に障害者としての道を歩むよう決められることを思うと、わだかまりが残る。彼らは「同じ障害」を持つ人々と、何をどこまで共有できるというのだろうか。
 自分が外国人の家族に生まれたことを忘れ、家族が経験した困難の語りに耳を塞ぐのは、とても気楽で平和だった。そうすれば、問題なんて存在しないところに生きている気分になれる。けれども、そうすること自体、何かを見えなくする仕組みに乗っかり、誰かを見えないままにすることに加担していたのだろうと、いまになってみれば、そう思う。およそ20年と、そういう態度をとってきた者が、ここ1年や2年、反省してみたところで、言えることなど限りがあるだろう。けれども、20年の思い込みに気づかせてくれた生徒たちと、20年もの間、自らが目をそむけつづけてきた祖父母たちのことを思って、私はこの本を書き始めた。これによって、私が見聞きした苦難の繰り返しの終わりに近づくことに、少しでも貢献できればと願いつつ。

 日本の学校に通う外国人児童が「発達障害だ」と認められ、特別支援学校に進学するようになる、という一連の経緯は、どんなものだったのか。この本は、そんな出来事に目を向け、振り返り、考えるものだ。これまで、この類いの出来事はきわめて見えづらいものだった。そのせいもあってか、詳細に検討し尽くした本はまだない。そんな出来事がどうやって成立したのかを考える最初の本は、きわめて未熟で、舌足らずなものになってしまった。それでも、小さな一石を投じることができれば、との思いを込め、世に送り出した。
 2018年の暑い夏から秋にかけて私は、10人の大人たちにインタビューをした。彼らはみな、フィリピンから来日し「発達障害だ」と認められ、特別支援学校に進学することになったきょうだい2人にかかわった保護者や教員たちだ。仕事で多忙な保護者や異動で散らばった教員たちを追いかけ、あちこちを訪れた。やっと会えた10人それぞれに尋ねたのは、「あのとき何を見て、思い、考えていたのか」。すると、外国人児童に「発達障害」の診断が下り、特別支援学校に通うことになった、というたった1つの単調な事実の奥に隠れた、外国人児童の深刻な苦難の様相が浮かび上がってきた。舞台は日本。この一連の出来事の深みにまで目を向けることを通して、外国人児童と彼らを支える人たちの苦難、そしてそれらを見えなくする仕組みがどんなものかを、これから読者とともに考えていきたい。


『「発達障害」とされる外国人の子どもたち――フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り』
金 春喜[著] 2020年2月末発売 定価2200円+税
AMAZONのページはこちら→www.amazon.co.jp/dp/4750349720/

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著者略歴

  1. 金 春喜(きん・ちゅに)

    1995年東京生まれ。京都大学大学院文学研究科修士課程修了、修士(文学)。専攻は社会学。現在、日本経済新聞社の記者。

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