明石書店のwebマガジン

MENU

教わることに頼らないための自学自習法

理解するとは何か? 少しはみ出すくらいがいい

柳原浩紀

 あなたが自学自習を始めようとするとき、一番不安なのは、「自分だけで勉強して理解できるようになるのか?」ということではないだろうか。先生の説明を聞いてわかった!という経験は誰にでもあるが、同じような経験を教科書や参考書、問題集だけで自分でできるのか。そこにどうしても不安を感じてしまうだろう。

 一方で、理解するとは何だろう。問題を解けるのは理解していることになるのか。「完全に理解!」と思ったのに、またわからなくなることも多いはずだ。日頃使われる言葉だし、その重要性を強調されもするのに、「理解する」というのが何かは言語化されない。そこで、まず理解する、というのが何かを考えてみよう。そして、そのためにはこれまでのように「理解していない」とはどういう状態かを考えてみるのがいい。

 たとえば、あなたはこれまで学校や塾でとてもたくさんの問題を解かされてきた。なんとなく見よう見まねで繰り返し解いていると、たしかにそのときは解けるようにはなる。しかし、時間が経ったらすぐに忘れてしまうことも多い。どの場面で何を使うかだけは何となくわかって問題は解けるけれども、なぜそう解くのかは説明できない。いや解くのだって、見たことがある問題はできるとして、少しひねられてしまえばできないだろう。これらは「理解している」と言えるのだろうか。たいていの場合、このようにリクエストに応じて型通りの反応しかできないだけの状態だと、それを「理解していない」と呼ぶようだ。

 もちろん逆に「理解はできるけど、問題が解けない…」という経験もあるだろう。ただ、この場合の「理解はできる」はだいたい「誰かの説明を聞けばわかる」ということでしかなくて、自分の言葉で説明できるほどはわかっていないことがほとんどだ。すると、「説明されれば理解できる」→「簡単な問題が解ける」→「自分でイチから説明できるくらい理解している」というように、だんだんと「理解する」の度合いが上がるのかもしれない。だとすると、説明を聞いてわかることも解けることも、それでは十分ではなく、自分でイチから誰かに説明できる、ということの方が、「理解している」かどうかのチェックとしてはよさそうだ。

 自分でイチから誰かにわかるように説明できるかどうかでチェックしてみると、まず、知識があまりにもない分野についてはそもそも説明ができない、ということがわかる。知識がなければ何と何を結びつけていいかもわからない。一方で知識さえあれば理解しているのか、というとそれも違う。バラバラに覚えていることがいくら多くても、それを並べるだけでは結びつきが説明できず、聞いている人には何のことかわからないだろう。

 

 だとすると、理解するとは、

 

新たに学ぶ内容を、自分にとってあたりまえの知識に結びつけようとすること

 

と言えるのではないだろうか。最初にあげた、たくさんの問題をただ繰り返し解かされてその答えを覚えてしまっている例だと、繰り返し練習したり覚えたりしてとりあえず身につけた知識が自分にとってあたりまえの知識とは結びついていないから、決して残らないし、応用も利かない。しかし、そうなってしまっているのはあなたのせいではない。自分のあたりまえにかすりもしない知識を詰め込むことだけをあなたがやらされてきたのだとしたら、新しく学ぶ内容はあなたのあたりまえに結びつけなければ身につかないということに思い至らないのも当然だ。そしてそれは、決してあなたのせいだけではない。「あたりまえの知識が一人一人違っても、今勉強している内容さえ頑張って勉強すれば大丈夫!」とカリキュラムを消化したい教える側の都合のせいもあるだろう。

 

 理解する、ということをとりあえずそのように定義しよう。さて突然だが、ここで、野球の守備練習の話をしてみたい。

 守備練習のために指導者がボールを打つことをノックと言う。良いノックというのは守る側が「しっかり動けば追いつけるところにボールを転がす」ものだ。動かないまま真正面で取れるボールでは守備練習にはならない。一方で決して追いつくはずのないボールを打たれても、追いかける気を最初からなくしてしまうだろう。「しっかり動けば追いつけるボール」を取ろうとすることが守備力を鍛える練習になる。すると、中日ドラゴンズの落合元監督のようなノックの名手なら、それぞれの選手に「しっかり動けばなんとか追いつけるボール」を打つことで、徐々にその選手の守備範囲を広げることができるかもしれない。もちろん守備範囲は各々の選手で違うからこそ、ある選手には良い練習になるボールも、他の選手には全く練習にならないものになってしまう。このことから、守備範囲がとても広い選手には、その選手でも追いつけるかどうかという遠いところに打つべきだし、狭い選手には、それを少しはみ出るくらいの近さがいい、ということになる。

 この野球のノックのように、理解することとは新たな内容へと一歩踏み出しつつ、自分にとってあたりまえの知識へと結びつけて「守備範囲」を少しずつ広げていこうとすることだとしたら、それは自分の知識と遠すぎてもいけないし、近すぎてもいけない、ということになる。あたりまえの知識から少し先くらいまで追いつこうとするのがよい。あなたの知識をそのまま答えるとき、理解は必要ない。一方であなたの知識からはかけ離れすぎたものを答えるとき、理解は届かない。あなたにとってあたりまえの知識をベースとして、それをはみ出る内容をどのようにあたりまえに結びつけていくか、が理解するということだろう。やわらかなものを結び合わせていく、一本の糸のように。そして、その糸には当然長さの限界があるのだ。

 そしてだからこそ理解することについても、自学自習が大切になる理由がある。それは、何があたりまえの知識であるかは一人一人で当然違う以上、万人に理解させる授業というのは基本的にはありえないという理由だ。良い授業も、ある生徒にとっては理解していることをなぞるだけのボールになるし、別の生徒にとっては前提となる知識が少なすぎて、理解しようと「足」(頭)を動かそうとしても、とうてい取れないボールになる。各々の守備範囲がまるで違うからこそ、理解するためには、自分の知っていることの少し先を自分があたりまえに知っていることへと結びつけようとする努力でなければ、実を結ばない。

 

 こう考えてみると、覚えこんで解けるようにしただけのものをすぐに忘れてしまう、ということにも納得がいく。それは問いと解答の一連をあなたの中に無理やり詰め込んだ状態だからこそ、あなたにとってのあたりまえの知識に結びつくことなく剥(は)がれ落ちてしまうのだ。あなたの血肉になっている知識に結びつけられなければ、どんなに努力して詰め込んでも、ある個体に移植された生物組織が、「他者」とみなされて拒絶されるように、剥がれ落ちるしかない。

 そして、新たに学ぶ内容をあなたにとってあたりまえの知識に結びつける方法には、大きく分けて2種類がある。学習内容にとって内側の論理と外側の論理と呼んでみよう。一般的な言葉で言えば、前者は「演繹(えんえき)」または「導出(どうしゅつ)」であり、後者は「たとえ話」「類推(るいすい)」だ。

 内側の論理とは、演繹とか導出とか難しい言葉をたくさん出してしまったが、要はこれは最初に決めたことやわかっていることから、次のわかっていることが見えてくる、ということだ。数学の定義から定理が出てくることをイメージしてもらえるといい。あるいは歴史の流れでも、力学を使って物理の他の分野を説明するのでもいい。学習する内容同士の結びつきを思い浮かべてほしい。

 それに対して、たとえ話や類推とは何か。ある内容を理解しようとしても、結局その分野での知識があなたに足りなければ結びつける先はないままだ。そんなときでも、その内容を他の分野の話に結びつけて「理解する」ことはできる。さっきの野球のノックの話のように。これは、他の分野の知識や仕組みと、今学ぼうとする内容との間に似ている部分を探していく、ということだ。詩的な想像力、と言ってもいい。

 「わかりやすい授業」「わかりやすい参考書」というのはこの2つのどちらか、あるいは両方が充実している。導出のプロセスを端折(はしょ)ることなくていねいにたどっているか、様々なたとえ話が出てきてその学習内容に習熟していなくても他の分野のあたりまえの知識からたとえ話としてわかることができるか、というように。

 もちろんたとえ話というのは、必ずズレが生じるものだ。そのたとえ話であなたがわかったとしても、そうしたズレについてはひとまず先送りにしている状態、と言えるだろう。だからあなたはたとえ話を通じてわかった気になったとしても、それが本当にわかるためには、その後勉強して、その分野の知識を増やさなければならない。たとえ話を通じての「わかった!」を繰り返しながら、だんだんとそれが他の分野からの借り物の言葉ではなく、その分野そのものの言葉を使って、あたりまえになっている知識と結びつけられる状態へと近づいていこうとすることが、より深く理解しようとするプロセスだとも言える。

 しかし、ここで強調したいのは、それでもたとえ話は大切だ、ということだ。新しく学ぶ内容も別分野のあなたにとってのあたりまえの知識と結びつけていいんだ!という、理解しようとする勇気をたとえ話は与えてくれる。テニスやサッカー、バレエや合唱、ゲームでも小説でもなんでもいい。あなたが頑張ってきたり好きでやってきた経験の中であなたのあたりまえになっている知識がたくさんあるはずだ。類推してそれらに結びつけて理解しようとすることは、あなたが勉強について自学自習するときの大きな武器となる。自分の経験とは全く別のものとして勉強をムリヤリ丸呑みしようとしないことで、あなたは理解することを諦めずに自学自習を始められる。

 そのうえで、学ぶ分野の中であなたにとってのあたりまえの知識を増やせばいい。それを増やせば、外側の論理ではなく、内側の論理で説明できるようになってくる。理解することの結果として自分でイチから説明できる状態になっていく。未知のものをあたりまえのものと結びつけるだけではなく、あたりまえのものから一見未知であるように見えるものを導く準備が整ってくる。

 

 理解する、とはこの2種類の方法を使いながら、自分があたりまえに知っていることと新しく学ぶ内容とを結びつけようとすることだ。だからこそ、近すぎても遠すぎてもいけない。そして、その新しい内容が近いか遠いかは、一人一人のもつ知識によってまるきり違う。だからこそ、理解するためにも自学自習こそが大切だ。

 

 もちろん、このように結びつけていく作業は、かなり地道でもある。説明を読んだり聞いたりした瞬間に「わかった!」と思うのは、実はわかるという長い長い道のりのスタート地点だ。そのあと手を動かして書いてみたり、自分の言葉で言い換えたり、様々な問題を解いてみたり。色々な努力の末に、ようやくじわじわとわかってくる。自分にとってあたりまえの知識と結びつくことに、終わりはない。さっきの糸のたとえで言えば、結ぶための糸は何本でも増えていく、ということだ。

 多くの人がわかりやすいと思う授業は、導入としては本当にありがたいものだとしても、わかりやすいからこそ、内側の論理を鍛える必要や、そのために必要なあたりまえの知識を身につける必要を忘れさせてしまう恐れもある。それに対して自学自習は、外側の論理を使うところから始めても、それが内側の論理に代わっていくまでは、教科書や参考書を繰り返し読み返さなければならない。「理解する」ことがカンタンには許されないからこそ、理解するための材料を増やしていく努力ができる、と言い換えてもいい。そのとき、あなたは自分にとって何があたりまえにはなっていないのか、を繰り返し確認することができる。それは一つ一つ、体重を預けられる確かな手がかりを探しながら岩山を登るような地道な作業だ。これだけを見れば、とても効率が悪いように見えてしまうかもしれない。

 しかし、思い出してみよう。あたりまえになっている知識がなければ、理解しようとしてもそこに結びつけることはできない。自学自習のよいところは、あなたにとってあたりまえの知識が少なくて目の前の内容が理解できないときに、その場でどこまでもさかのぼって知識を確認できる、ということだ。それはわかりやすい授業よりも、あなたのあたりまえを増やし、そしてあなたの理解を準備する。

 そのようにして、「説明されてわかる」→「自分で解ける」→「自分で説明できるくらいわかる」というところまであなたの理解が進めば、忘れにくくなるだけでなく、忘れたとしても再現できるようになる。また、典型的ではない問題についても、自分で試行錯誤の方法を考えられるようになる。こうして「あなたにとってあたりまえの知識に、新たに学ぶ内容をつなげようとする」「そしてあなたのあたりまえの知識から新たに学ぶ内容を説明できるようにする」ことはあなたの勉強において、とても有効なツールとなっていくのだ。

 

 まとめよう。

 理解するとは、自分の中で既にあたりまえになっている知識へと、新たに学ぶ内容を結びつけていくことだ。既にあたりまえになっている知識との結びつきが見えないままに新たな内容をムリヤリ詰め込もうとしてもすぐに剥がれ落ちてしまう。しっかりと自分のものにしていくためには、外側の論理を使って自身のあたりまえの知識に結びつけつつ、やがて内側の論理へと置き換えていけるように、学習内容についてのあたりまえの知識を増やし、そこへと結びつけていくことが必要だ。もちろん、完全に理解した!と言える状態に簡単に到達することはできない。自分はまだまだ理解できていない、という苦しさに何度もぶつかるだろう。しかし、新たに学ぶ内容があたりまえの知識としっかりと結びついていないと痛感するとき、あなたは確かに理解することへと向かっている途中であるのだ。自分が理解していないことを思い知らされるためには、理解することを目指していなければならないからだ。

 あなたにとって何があたりまえかを常に確認しながら、それと新たに学ぶ内容とを結びつけようとする必要があるという点で、理解することもまた、常に自分と向き合う作業である、ということがわかってくるだろう。だからこそ、自学自習こそが理解するためにも必要なプロセスであるのだ。

 

 自分にとってあたりまえの既存の知識からはみ出て、未知のものと結びつけようとするという行為が理解するということであるとすれば、それは確定された過去を未来へとつなごうとする生きた現在であると同時に、自己に立脚しつつも他者を思いやろうとする自己と他者をつなぐ行為でもある。過去や自分だけにとどまってもいけない。一方で未来や他者をそのままに受け入れようとしても、それはすぐに剥がれ落ちるだろう。過去を振り返るものだけが未来についても想像力を働かせることができるし、自己を振り返るものだけが他者に想像力を働かせることができる。そこにおいて、わたしたちは、既に自分にとってあたりまえなことに安住せぬように、わからないものをわからないままに丸呑みにしてその場だけをごまかそうとしないように、理解できない自分に耐えて理解しようとしなければならない。そんなしんどい取り組みをわたしたち大人が日々できているのか、と言われたら、とても難しいことだ。それでも、あなたにもそれに取り組んでほしいと思う。そしてそのためには、少しはみ出すくらいがいい。

 あなたのはみ出しを少しずつにとどめるためには、あなたにとってあたりまえの知識を増やしていかねばならない。そのためにあなたは自学自習において具体的に何をしていくべきなのか。それが「覚える」ということだ。それを次回書いていきたいと思う。

 

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 向坂 くじら(さきさか・くじら)

    詩人。「国語教室ことぱ舎」代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」朗読担当。著書に第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)。現在、百万年書房Live!にてエッセイ「犬ではないと言われた犬」、NHK出版「本がひらく」にてエッセイ「ことぱの観察」を連載中。ほか、『文藝春秋』『文藝』『群像』『現代詩手帖』、共同通信社配信の各地方紙などに詩や書評を寄稿。2022年、ことぱ舎を創設。取り組みがNHK「おはよう日本」、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などで紹介される。1994年名古屋生まれ。慶應義塾大学文学部卒。

  2. 柳原 浩紀(やなぎはら・ひろき)

    1976年東京生まれ。東京大学法学部第3類卒業。「一人一人の力を伸ばすためには、自学自習スタイルの洗練こそが最善の方法」と確信し、一人一人にカリキュラムを組んで自学自習する「反転授業」形式の嚮心塾(きょうしんじゅく)を2005年に東京・西荻窪に開く。勉強の内容だけでなく、子どもたち自身がその方法論をも考える力を鍛えることを目指して、小中高生を指導する。

閉じる