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グレゴワール・シャマユーから現代日本の論点を考える

グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』とその位置づけ

この記事は2023年2月25日、台東区は田原町にある書店「Readin’ Writin’ BOOKSTORE」で行われたオンライン・イベント「グレゴワール・シャマユーから現代日本の論点を考える」を再構成したものです。 思想史家であるグレゴワール・シャマユーの著作の訳者3人(信友建志、渡名喜庸哲、平田周)とともに、『統治不能社会―権威主義的ネオリベラル主義の系譜学 』を代表とした4冊の訳書(『ドローンの哲学―遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争』『人体実験の哲学―「卑しい体」がつくる医学、技術、権力の歴史』『人間狩り―狩猟権力の歴史と哲学』)を通してシャマユーの思想の源流やこれらのテキストを読み解きながら、権力が生まれて実装される過程や現代の日本に通じる論点、シャマユー自身の多様な関心の根本にあるものに迫っていきます。イベントの内容は全5回に分けて公開する予定です。 これまでグレゴワール・シャマユーの編集をご担当された元明石書店の武居満彦氏、そして公開にあたり当日の映像等を快くお貸しくださったReadin'Writin' BOOK STOREの落合博さまに厚く御礼申し上げます。

 

イベントの様子(左:渡名喜庸哲氏、右:平田周氏、信友建志氏はオンラインでの参加となった)

 

司会:皆さまこんにちは。小社ではこれまで4冊、グレゴワール・シャマユーという思想史家の本が刊行されていて、2018年に『ドローンの哲学』と『人体実験の哲学』、次に2021年の『人間狩り』、最後に2022年の『統治不能社会』となります。「狩猟権力」から「ネオリベラリズム」、「ドローン」まで様々な領域に関して研究をされているということでこの機会に改めて、これまでの著作の論点と、グレゴワール・シャマユー自身の思想の源流に迫るということで今回お三方の訳者にご説明いただきたいと思います。まず、『統治不能社会』の訳者の信友先生からお願いします。

 

信友:鹿児島大学の信友でございます。オンラインで失礼します。あいにく国公立大学の今日が入試でございまして、先ほどまで労働しておりましたので、喋れるかどうか今一つ自信がないのですが、皆様よろしくお願いいたします。

それでは、こちらのほうからスライドを共有いたします。「グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』とその位置づけ」というタイトルでお送りしようと思います。この後の渡名喜先生、平田先生との意見交換から、この多角的な多面的な著者の特徴をもう少し浮き彫りにできればと思いますので、それぞれのトピックの共通点になりそうなところを中心にピックアップして話を進めていくことにします。

今回はシャマユーさんと個人的なコンタクトを取っていませんので、もしかして渡名喜さん平田さんがかれをお捕まえになっていたのであれば、その情報もまた補っていただければと思います。以下はですから、オンラインで見つかる程度の情報ということになります。

グレゴワール・シャマユーの来歴

シャマユーは1976年生まれですから、僕よりちょっと若いことになります。かれのディシプリンは科学哲学という領域です。そこで博士論文を書いて、今はナンテール校ほかいくつかの大学でどうやら講義を持っているらしいということがオンライン上のデータからは伺えますが、あまり詳しいことはわかっていません。このあたりは昭和の訳者みたいで、今時ちゃんとコンタクトが取れてないのか、と言われると、ちょっと恥ずかしいところでもあります。皆さまのほうからの情報もいただければと思います。

今、司会の方からお話もありましたけれども、邦訳で出ているものだけをとってもかなりジャンルが割れています。『人体実験の哲学』、これが博士論文ということになるようですけれども、こちらはフーコーを思わせるような題材で、そういったスタイルで書いている。ですから医学史的関心というふうに言うこともできるでしょう。同じテーマでは、たとえばカントの心身論関係の翻訳を手掛けています。それから、今会場にもいらっしゃる渡名喜さん、平田さんが手掛けられた『ドローンの哲学』、あるいは『人間狩り』のほうに含まれるような、軍事技術の社会史的な関心です。こちらに関しても、シャマユーの一つの特徴でもあると思うのですが、律儀に基礎資料のフランス語訳を作って出版する作業も並行している。フランスの博士論文は昔からそういう習慣があるので、その延長線かと思わせるところです。それから今回ご紹介します『統治不能社会』に見られるような資本主義への関心があります。こちらのほうはマルクスや、今回の本でも大きなトピックになっている、シュミットやヘラーの著作の翻訳などが同時に進行しています。

シャマユーの一連の著作は、ヨーロッパ圏の著者としてもなかなかここまでは、という早さで翻訳が進んでいます。『統治不能社会』を訳出している時点でも、いまご紹介した一連の著作が英語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語ぐらいにはもう訳されていましたかね。そういう受容を見ても、ヨーロッパで非常に期待されている哲学者だと言うことはできるのでは、と思います。

せっかくのネットのご時世ですから、実際に喋っているところを見てもらおうと思います。映像のほうも流してみましょう。統治性の危機について話している映像です。簡単に訳すと、制度やそういったほうの統治の危機というわけではないのだ、というような話をしていますね。まだ若い感じですし、非常に落ち着いた喋り方をする方です。コロナのせいもあって直接コンタクトを取ったりお話をしたりする機会がなかった、というのは僕もちょっと残念に思っていますし、引き続きちょっとコンタクトを取ってもう少し情報量を増やしていきたいとも思います。ネット上にあまり情報のない人ではありますが、こういった対談動画はかなりネットに上がっておりますので、興味のある方は探していただければよいのではないでしょうか。

かれにたいし「フーコーの再来」という評もあがったという話はもう、加納先生が『人体実験の哲学』を訳されたときに紹介なさっています。わたしのほうでも、いくつかそういう紹介があることは確認できました。もちろん全面にわたって比較するというのはちょっと難しいですが、特徴的なところとして、資料へのアクセスを見てみましょう。フーコーはご存じのように、認知度の低い、どこからそれを思いついて、どうやって持ってきたのと思うような、裁判資料、あるいは精神科医の記録といったところを持ってきて、大胆な着眼点、そして、大胆すぎるかもしれない構図の中に落とし込むという特徴がある方でした。

シャマユーはといえば、ご存じのような情報過多な時代ですから、特に軍事技術などは、ウェブ上にも様々な見解というものが取っ散らかっていると言っていい状況にあるのですが、それをどうやったらこんなに集めて整理できるのか、という、収集整理能力のあるマシンのようなところがあるという方です。まずはそんな印象でフーコーとの対比を考えていただければと思います。よく似ているといえば似ているところもありますが、資料の扱いに関してはフーコーよりも比較的スタンダードかつ幅が広いと言えるのではないでしょうか。逆にフーコーのような大胆な見方をバンッと打ち出すというよりはむしろ、膨大で雑駁な資料の中から、何か哲学が貢献しうるような使命、哲学ならではの視点を見てとる、そこに彼の一つの特徴があると思っています。

加納先生は訳書のあとがきでも、フーコーのモデルはいかにも魅力的だけれども、資料を拾って確認していくとどうかと思うところもないではない、と書かれておられましたが、シャマユーに関してはあんまりそういうことはないかな、というのがリファレンスを確認した際の印象です。この情報過多すぎる時代に、どれだけ整理能力を発揮して綺麗に問題を切り分け、そこに哲学が果たしうる使命を見せてくれるのか、引き続き聴衆の皆様と我々も一緒に彼の仕事を追っていければと思っています。

先ほど申し上げた三つのジャンルはいかにも広くて、なかなか統一した線が見えづらいとは思いますが、今回のイベントで取り上げられる3冊の本、『統治不能社会』、『ドローンの哲学』それから、『人間狩り』については、最も主要なリファレンスはカール・シュミットではないでしょうか。ですから、カール・シュミットに、そしてカール・シュミットがもたらした多面的な影響に取り組んでいるシャマユーと付き合っていくのが、このイベントの1時間になるとお考えください。

カール・シュミットと「奪取」の資本主義

シュミットは多様な人物で、ナチスのイデオローグの法学者としてその名前をご存じという方が多いのではないかと思いますが、若い頃にはシュレーゲルあたりを受け継いだようなロマン派的な書き物もありますし、戦後にもたとえばコジェーヴとの往復書簡など様々な活動があります。ですが今回の我々が扱うシュミットのメッセージは、戦後の書き物の中に出てくるものですが、「奪取することなく与えることのできる者などいない!」という大変力強いメッセージです。タイトルからして『奪取・分割・生産』という1950年代の書き物ですからね。暴力的、戦闘的な「奪取」が常に資本主義の背景にはあって、そして、それを調整する、様々にアレンジしていく、ソフィスティケイトしていくことによって人類史の記憶に封印しているというのがそこでの彼の指摘です。ですから意外なことに、マルクス的なと言ってもいいような強烈な資本主義観というものを持っていることが伺えます。

現在の戦争とは、資本主義においての戦争というのは、支配集団が自国民に対して仕掛けるものだというジョージ・オーウェルの有名な言葉がありますけれども、ではそれは「どんな戦争」による「奪取」なのか? シャマユーが整理する戦争は三種あり、『ドローンの哲学』で明確にうち出されています。正義の処罰、つまり裁判官というか裁判官かつ検察官としての正義の処罰なのか。あるいは対等な立場で行われる決闘という意味なのか。それに加えてシャマユーは、これはまた渡名喜さんのほうからもお話を頂けるのではと思いますけれども、新しい戦争のスタイルとして、狩猟、ハンティングを持ってくる。そこが『ドローンの哲学』と『人間狩り』、渡名喜先生と平田さんのお話と共通してきます。

では、シュミットの言う「奪取」というものは、国家による何の奪取なのか。難しいところですが、とりあえず社会的な共有物と措定してみました。そして、それに対する狩猟、駆り立てが行われる場として、『統治不能社会』を措定してみてはどうだろうかと思います。つまり、ネオリベラル社会と言われるものは、シュミットの言う奪取的な社会観に乗っかっている。そして、そこでの奪取とは、戦争の三つの型のうち、正義の処罰や決闘とは別の、狩猟型の奪取と措定される。狩猟型も厳密にはシャマユーは二つに分けていて、駆り出すないしは追い出すのか、それとも捕まえるのか、二通りあるのですが、ここではそのどちらも使われていると考えています。

手前味噌になりますが、以前、エリック・アリエズとマウリツィオ・ラッツァラートが二人で書いた『戦争と資本』という本を杉村昌昭さんと訳出したことがあります。そこでは資本主義の中に戦争のテクノロジーが脈々と残り、用いられていると指摘されています。その戦争についても、植民地戦争から現在の、それこそドローンなど大規模な内戦のテクノロジーまで追っている著作です。そこで考えられる戦争とそのテクノロジーに対し、シャマユーなら「狩り」、「狩猟」という明確な定義を与えることができるというふうに考えると、そこに一つの構造をもたらすことができます。だとすると、シャマユーの貢献は大きいことになります。

ネオリベラル主義の捉え方

では『統治不能社会』における「ネオリベラル主義」というのはなんなのか。「ネオリベラル主義」あるいは「新自由主義」という言葉が非常に多義的であるということは皆様もよくご存じかと思います。たとえば、明治学院大の稲葉振一郎さんは、新自由主義という言葉の定義が取っ散らかりすぎていてどうするんだという着想から一冊ご本をお書きになられています。ですからこの言葉を使う人間を見ると、ちょっと眉に唾を付けてみたくなるという方がいらっしゃるのは当然じゃないかと思います。

ここでは、それをシュミット=ハイエク主義というふうに捉えて、その一面だけを扱うことにすればよいのではと思っています。さしあたり、そこではシュミット的な「奪取」を原動力に、ハイエク的な「経済的自由主義」を擁護するために、それに対抗しようとする社会防衛ないし民主主義的なものを、国家権力で抑圧・解体するということを特徴としているものと、まずは措定してみればどうでしょう。そうすれば、権威主義と自由主義の野合としての権威主義的なネオリベラル主義が誕生することになります。

権威主義的な資本主義というと我々はどうしても、たとえば中国であったり、あるいはひと頃のロシアであったりというような、広い意味では民主制と言えなくもない体制の中での権威主義的なリーダーを思い浮かべたりするわけですけれども、この場合は少し違います。むしろ経済自由主義を全面的に維持するためにはなんだって使う、もちろん国家権力を使ったっていいじゃないかという意味でのそれです。

ハイエクの特徴は、独占の解体のために国家を使おうという1930年代から1940年代ぐらいのネオリベラル主義とは違い、社会防衛や民主主義に対する攻撃を鮮明に打ち出しているというところだと考えていただければいいかと思います。いわゆるネオリベラル主義のルーツと言われるものはリップマン・シンポジウムで、それは1930年代にパリで開かれたということはご存じの方も多いでしょう。そしてミシェル・フーコーが1977年、1978年ぐらいですかね、『生政治の誕生』でそのあたりの事情を大きく扱ったということもご存じかと思います。

ですが、リップマンがハイエクの書物を見たときのリアクションについて、面白い逸話があります。「まだ中身は読んでないんですが、目次や索引を見てみたら、企業の話は1回しかしていないのに、組合の話を19回もしてますよね、それはあなたどうなんですか?」とハイエクに突っ込んだというのです。リップマンにとっては企業の独占の解体による公正な自由競争だったはずの新自由主義、ネオリベラル主義が、ハイエクにとっては組合の解体や、そういった民主主義的な防衛システムを解体する方向に換骨奪胎されてしまったのではないだろうか。そして、資本主義とは別なところで社会が築き上げてきたシステム、あるいは共同体、共有物をそういった形で積極的に駆り出そうと、弱い者たちに戦争を仕掛ける。それが一つの形の新自由主義、ネオリベラル主義、我々は一応とりあえずこれをシュミット=ハイエク型というふうに呼んでみようかなと思っているのですけれども、そういったものになるのではないかと思います。

私たちの世代ですと、それこそ中学生とか高校生ぐらいのときに柄谷行人が流行していましたよね。かれがシュミットの現代議会主義論を紹介して、シュミットは「民主主義と自由主義は違うんだよ」と言っているのだと書いているのを見て「そうなんだ、自由民主党とかどうするんだろう」と思った、という記憶をお持ちではないでしょうか。ここでもたとえば、こちらもまた手前味噌になりますが、わたしも村澤真保呂さんと訳出に加わった著作でウォルフガング・ストリークが提示したような見方が参考になります。もともと自由主義と民主主義というのは組合等々の圧力、あるいは復員兵の暴動等々の恐怖を前にした非常に儚い歴史的な条件のもとで成立したにすぎず、いつ分かれてもおかしくなかったというのがここでのかれの見立てですが、これもシュミットから帰結する見方として理解できるのでは、と思います。

『統治不能社会』のタイトル、「統治不能」というのは、そういったネオリベラル主義に対抗する力を持つ労働者や組合、あるいは環境保護といった資本主義の経済的な自由を損なう何かにたいしてハイエクらの抱いた問題意識です。ハイエク型の社会では、かれらのせいでこの社会は統治不能になっているのだ、と訴えられているのです。

このハイエク型の社会での奪取の事例として、本書では「外部化」があげられています。社会が共有財として育てたものにただ乗りし、それを収奪する。場合によっては民営化といった形で収奪する、あるいは場合によっては本来企業が負うべき生産活動の一部を家庭に押し付ける形で「責任化」する。わたしのほうでも例を挙げますと、たとえば南北戦争における南軍側の奴隷制度擁護というのはなかなか気が利いています。「お前らの言う労働者ちゅう奴な、あれ、うちの奴隷より悪い状況で働いとるやんけ」というネタがちょいちょい見られるのです。もちろんそれが本当かどうかは一旦おきましょう。しかし彼らが言うように、奴隷であれば再生産の部分、つまり家やベッドを用意し、ご飯を食べさせるといったこと、もちろんろくに食わせてないから問題になるわけですが、そういった再生産の部分も、本来は資本家が担う義務だったはずなのです。労働者というのはその部分をまんまと押し付けられている。ですから体調を回復させるのは自己責任になっている。これは皆様、現実にもご理解いただけると思いますが、一生懸命稼ぐ、稼ぐためには働かなきゃいけない、働いてくたびれたからストレス解消しなきゃいけない、ストレス解消するためにお金を使わなきゃいけない、だから稼ぐ……という悪いループがありします。それはこういった外部化という問題とも切り離せない。

ほかにも、株主利益との自動的な同調システムがあげられます。これによって権威づくの制御から離れることができる。これはシャマユーが挙げている悲劇的で皮肉な例ですけれども、労働組合が積み立てをする、積み立てされた金は投資ファンドに向かう、すると投資ファンドの要請によって組合が強い企業は困るよ、となる。つまりは自分で自分の首を絞めてしまうという悲劇さえ見られるのです。こういった自動同調システムが奪取を可能にする。

あるいは、これは大学人の皆様はご存じのことかと思いますけれども、市場言語に翻訳するという形で組織改革が要請される。つまり、株主が企業の資料を見るときにどんな組織体系になっているのかわかりやすいよう、組織を標準化するのと同じように、大学も様々なISOの規則に則った組織運営を行ってくださいね、ということです。ちなみに、鹿児島大学の水産学部の学部長であった方が、お隣の志學館大学というところの学長になりまして、ISO 9001の観点からの大学改革について、素敵なご本をお書きになられております。それはなにも大学に限らず、たとえばお役所には「ニュー・パブリック・マネジメント」という言葉もありますが、そういったところで広く行われ、我々の組織改革にも反映している。そして、平等や生活保障といった政治財の部分に関しても市場に委ねるという形で、狩りの対象となった「共有地」が消滅する間際にある、と言っていいのではないでしょうか。

日常生活のネオリベラル主義批判

最後に、そういった問題が提起されている本書の中でも、最大の特徴といっていいものを、「日常生活のネオリベラル主義」批判、と呼んでみたいと思います。フロイトの『日常生活の精神病理学』というご本をご存じのかたもおられるかもしれませんが、その意味においてです。ビジネス啓蒙書等々で散々に垂れ流されるネオリベラル主義的な言説のミクロな実践、その背景にある思想、その歴史的な経緯はなんなのか。あなた方が、なにか素敵だと思いながら実行している改革の背景にある思想はどういうところから来ているのか、そこを思想史的、あるいは系譜学的に解明する。そのことによってたとえばネオリベが……といったような、抽象的、国家論的な議論、あるいはハイエクのような理論家を持ち出した議論よりも、むしろ、我々が日常生活の中で追われている改革であったり、あるいはボランティア、リサイクルであったり、そういう小さな実践の歴史的な経緯、背景、思想史的な流れを浮き彫りにする方を選ぶ。そのことによって我々が今どんな位置にいるのかを明らかにする。そこが大変魅力的です。

ここが、是非皆様にお伝えしたいと思っているところです。なにか大所高所からの批判ということになりがちな大きな問題について、本当に小さな実践、「リサイクルってどういう経緯で行われるようになったの」とか、そういうところから問題の核心の所在をうかがわせる、そういう意味で素敵な著書なのです。そういったささやかな実践の中の小さな綻び、矛盾から我々の社会のイデオロギーというものを掴み取ることを可能にしてくれるのが哲学なんじゃないだろうか。

特に重要と思うのですが、ネオリベ型社会を批判するにしても、その魅力もしっかり見据えなければ有効な対抗言説を持っていくのは難しい。フーコーの言葉として挙げられていますけれども、「自分自身の人生を企業する者ならではの自律」という強い幻想があるのです。ですから、たとえば「リサイクルってね、ほんとはね」って言ってみたとしても、「でも、ちょっとでも何かしたいんです」っていう学生にどこまで有効なのか。しかし、そういった思想史的な系譜の中から、もっと別な、ネオリベ型ではない形での自律、たとえば、シャマユーが挙げる自主管理体制の埋もれた系譜のようなものも有り得たんじゃないだろうかというところまで提示できれば、この、ちょっとハッピーすぎるネオリベ社会の中の自律、市場の中に埋め込まれた自律の幻想というものにも対抗できる手掛かりが掴めるんじゃないか。そういったところまで皆様に読んでいただければ幸いかな、と思っています。すいません、ちょっと喋りすぎたかもしれませんが以上です。ありがとうございます。

 

信友建志氏

(第2回に続く)

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著者略歴

  1. 信友 建志(のぶとも・けんじ)

    2004年京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。現在、鹿児島大学医歯学総合研究科准教授。専門は思想史、精神分析。訳書にE.アリエズ、M.ラッツァラート『戦争と資本:統合された世界 資本主義とグローバルな内戦』(杉村昌昭共訳、作品社、2019)、W.シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』(村澤真保呂共訳、河出書房新社、2017)、イグナシオ・ラモネほか『グローバリゼーション・新自由主義批 判事典』(杉村昌昭ほか共訳、作品社、2006)など。

  2. 渡名喜 庸哲(となき・ようてつ)

    1980年生まれ。立教大学文学部教授。専門は、フランス哲学・社会思想史、パリ第7大学博士課程修了。著書に『現代フランス哲学』(筑摩書房)、『レヴィナスの企て』(勁草書房)、『カタストロフからの哲学』(共編著、以文社)、訳書にグレゴワール・シャマユー『ドローンの哲学』(明石書店)、ジャン=ピエール・デュピュイ『聖なるものの刻印』(共訳、以文社)、『カタストロフか生か』(明石書店)など。

  3. 平田 周(ひらた・しゅう)

    1981年生まれ。南山大学外国語学部フランス学科准教授。専門は、社会思想史。パリ第8大学博士課程修了。博士(哲学)。主要業績に『惑星都市理論』(仙波希望との共編著、以文社、2021年)、『予測と創発』(共著、春秋社、2022年)など。翻訳に『民主主義の発明』(クロード・ルフォール著、共訳、勁草書房、2017年)、『もっと速く、もっときれいに―脱植民地化とフランス文化の再編成』(クリスティン・ロス著、共訳、人文書院、2019年)『恋愛のディスクールーセミナーと未完テクスト』(ロラン・バルト著、共訳、水声社、2021年)など。

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