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オックスフォード哲学者奇行

オックスフォードのウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタインは二度オックスフォードを訪れている。一度目はジョウェット・ソサエティで発表をするため、二度目はアンスコムの家に滞在するためである。哲学史的にも重要なのは前者なので、やや詳しく説明しよう。

前回説明したが、ジョウェット・ソサエティは現在も続くオックスフォード大学の哲学研究会である[1]。1947年5月、当時ケンブリッジ大学の哲学教授であったウィトゲンシュタインは、この研究会で発表するためにオックスフォードにやってきた。このとき、研究会はモードレン・コレッジで夕刻に開催されたという[2]

モードレン・タワー。

発表は引き受けたものの、ウィトゲンシュタインは自分の研究を発表するのではなく、学生の報告を受けてその場でコメントをするという形式を望んだ。そのため、学部生で研究会の幹事を務めているオスカー・ウッドという学生が、デカルトのコギトの論証(我思う、ゆえに我あり)について報告することになった。当日はライルやバーリンをはじめ、哲学科の教授やフェローがほぼ全員来ていたという。彼らの前で発表し、しかも発表後にウィトゲンシュタイン教授からコメントを受ける予定だった学生ウッド君の心中は、控え目にいっても穏やかでなかったに違いない。私だったら発表中に泡を吹いて卒倒していたか、途中で腹を下してトイレに駆け込んだまま部屋に戻らなかっただろう。想像しただけでも失禁を禁じえない。

私のことはともかく、優秀なウッド君は無事に報告を終え、次にウィトゲンシュタインがコメントを始めた。新約聖書と同様、ここからはいくつかのバージョンがあるため、以下ではそれらを総合して再現してみよう。

ウィトゲンシュタインは「ウッド氏は2つの指摘をしたように思われる」と不機嫌そうに述べたあと、ウッド君の報告の内容は放り出し、自分流の仕方で「コギト」が何を意味しうるかについて議論をし始めた(ウォーノック伝)。その場にいたミジリーによると、最初の5分ほどは重要なことを言っているように思えたが、そのうち言葉に詰まり始めて、「いやいや、そうではなく……何と言えばよいのか……ここで難しい問題は……いやいや、これではだめだ」などと手で頭を抱えたり頭を叩いたりし出したという(ミジリー伝)。

その中で彼は「ある人が空を見ながら私に対して、『私は雨が降ると思うがゆえに、私は存在する』と言ったら、私は彼のことを理解しないだろう」と述べた。するとそこで高齢のH. A. プリチャードがしびれを切らして発言した。「あなたのお話はよくわかった。しかし、私が知りたいのは、コギトが妥当な議論なのかどうかです。」(ウォーノック伝)

ここで急いで補足しておくと、プリチャード(H. A. Prichard, 1871-1947)はオックスフォード大学の哲学者である。ムーアやW. D. ロスと並んで直観主義者として位置付けられ、「道徳哲学は誤解に基づくか」(1912)という有名な論文がある[3]。ハートフォード・コレッジやトリニティ・コレッジでフェローをしたのち、体調を崩して一度退職したが、その後1927年から10年間、ホワイト道徳哲学教授を務めた。1871年生まれで、基本的に第二次大戦前に活躍した人物である。プリチャードの約束についての議論がオースティンの言語行為論に影響を与えたとされる一方、ヘアは戦前に出た彼の講義が理解不能だったと述べている[4]

ウィトゲンシュタインも通ったであろうモードレン・コレッジ内の回廊。

さて、このときすでに75歳であったプリチャードについては、耳は遠いし咳はひどいし声は甲高いしと、散々な書き方がされているが、とにかくウィトゲンシュタインに何度も果敢に喰ってかかったようだ。しまいにプリチャードはウィトゲンシュタインの名前も間違って次のように発言したという。

「ウィットゲンシュティーン君、ウィットゲンシュティーン君、君は『我思う、ゆえに我有り』と言ったデカルトは正しかったのかという問題に答えていないでしょう。まだ答えていないでしょう。我思う、ゆえに我有り! これは正しいのですか?」

この質問を聞いたウィトゲンシュタインはついにブチ切れて、冷やかな口調で次のように答えた。

「私はここにいるのは非常に愚かな老人だと思う、ゆえに私は何だと言うのか?

(I think this is a very foolish old man, therefore I am what?)」(ハッカー伝)[5]

この発言を失礼で許されないものと受け止めるか、あるいは正当な応答だと考えるか。そこにいた聴衆の意見は二分したそうだが、当のプリチャードは激怒した。そして彼は、「デカルトが関心を持っていたことは、今回君が扱ったいかなる問題よりもはるかに重要なことだ」と言い残して、よろよろと会場を出ていった(ウォーノック伝)。ウィトゲンシュタインは引き続き議論を続けたが、話が終わらなかったので翌日の午後も研究会が行われたという(ミジリー伝)。

ウォーノックによれば、これがプリチャードの最後の外出であり、その後、彼は一週間も経たずに亡くなった。……とのことだが、実際のところ、プリチャードが亡くなったのはこの年の年末のことなので、物語はそこまで劇的な展開とはならなかったようだ。しかしいずれにせよ、この出来事はオックスフォード哲学における世代交代、すなわち哲学史を重視する伝統的な研究スタイルから、(ウィトゲンシュタインほどではないにせよ)哲学史を重視しない分析哲学へと切り替わる潮目の出来事として後世の記憶に残ることになった。

一方のウィトゲンシュタインも、この年一杯でケンブリッジの教授職を辞めている。著作の執筆に専念するためだったようだが、以前からウィトゲンシュタインは、「普通の人間は大学の教員でありかつ誠実で真剣な人間であることはできない」と弟子のノーマン・マルコムに忠告していたそうなので、アカデミックな生活を嫌っていたものと思われる。だが、その2年後の1949年の冬には、前立腺がんと診断されることになる[6]。60歳のときだった。

大学を辞めたあとのウィトゲンシュタインは各地を転々としていたが、友人宅に居候することも多かった。そのうちの一人が弟子のアンスコムで、ウィトゲンシュタインは1950年の4月から翌年の1月ごろまで、オックスフォードのアンスコム家に滞在していた。

セント・ジョンズ通り。引退後のパーフィットもこの通りに住んでいた。

セント・ジョンズ通りにあるアンスコム家には他にも下宿人がいたため、ウィトゲンシュタインはうるさくも静かでもない環境で暮らしていたようだ[7]。彼はノーマン・マルコムへの手紙の中で、オックスフォード大学について「哲学的砂漠だ」と述べたり、学生と話したければ話せる環境にあるがそうしたいと思わないと述べたりして、哲学的にはあまり実りのない時期にあった。夏は5週間ほど友人とノルウェーに行き、その後もノルウェーに住んで研究を続けたいと思っていたが、体調が悪化し、叶わなくなったという。

この当時、アンスコムにチュートリアルを受けていたマイケル・ダメットの逸話をティモシー・ウィリアムソンが記している。ダメットはオックスフォードのウィカム論理学教授を務めた哲学者で、ウィリアムソンはその弟子で現ウィカム論理学教授であり、その彼がダメットから聞いた話とのことである[8]

1925年生まれのダメットが25歳ぐらいのとき、アンスコムの家にチュートリアルを受けに行った。彼女はいつもながら玄関の鍵をかけていなかったので、ダメットは勝手に中に入って呼ばれるのを待っていた。すると、バスローブを着た年老いた男が階段を降りてきて、「牛乳はどこだ?」と尋ねた。ダメットは「私に聞かないでください」と答えた。それがダメットがウィトゲンシュタインと交わした唯一の会話だったという。え、オチはどこ? と読み返しても、オチはない。こんなどうでもよい会話が逸話として語り継がれているところがウィトゲンシュタインのすごいところだろう。

ウィトゲンシュタインは次第に体調が悪くなったが、英国の病院でだけは死にたくないと考えていた。幸い、主治医が自宅で看取ってくれることになったので、彼は年が明けてからケンブリッジに戻り、主治医の家に居候することになった。しばらく小康状態にあったが、1951年4月27日に、アンスコムら4人の弟子たちに囲まれ、息を引き取った。よく知られているように、最期の言葉は「私は素晴しい人生を過ごしたとみんなに伝えてくれ」であった。

サウスパークから見たDreaming Spires(夢見る尖塔)として知られるオックスフォード大学の遠景。

こうして50年代初頭に死んだウィトゲンシュタインはオックスフォード大学を「哲学的砂漠」と形容したものの、すでに見たように、このあとの約10年にわたり、オックスフォード哲学は黄金期を迎えることになる[9]。本連載はこれで終わることにするが、ここまでの連載でライルやオースティンなど個々の哲学者に関心を持った人は、ぜひ自らオックスフォード哲学について調べてみてほしい。また、今回取り上げられなかった哲学者も多くいるので、それも合わせて調べてもらえたらと思う[10]

サバティカル中に始めた本連載だが、帰国してから書いた回数のほうが長くなってしまった。これまでに紹介した哲学者たちの生き方や人間模様が読者の哲学理解に少しでも役に立ったのなら望外の喜びであるし、彼ら・彼女らの風変わりなエピソードが読者の気晴らしになっただけでもやはり喜ばしいことである。本連載を終えて肩の荷が少し軽くなった私は、先のサバティカルを可能にしてくれた関係各位に感謝しつつ、また次のサバティカルを首を長くして待ちつつ、京都で研究を続けることにしたい。

 

[1] https://www.philosophy.ox.ac.uk/the-philosophical-society-/-jowett-society#/

[2] 以下の話は、下記の文献に基づく。Warnock, Mary, A Memoir, Gerald Duckworth & Co., Ltd., 2000; Monk, Ray, Ludwig Wittgenstein: The Duty of Genius, Vintage, 1991; Midgley, Mary, The Owl of Minerva: A Memoir, Routledge, 2005; Lacey, Nicola, A Life of H. L. A. Hart: The Nightmare and the Noble Dream, Oxford University Press, 2004

[3] Prichard, H. A., “Does Moral Philosophy Rest on a Mistake?” Mind, 21, 1912, pp.21-37 この論文は、死後に出された以下の論文集に収録されている。Prichard, H. A., Moral Obligation: Essays and Lectures, Clarendon Press, 1949

[4] Harris, Daniel W. and Elmar Unnsteinsson, “Wittgenstein’s Influence on Austin’s Philosophy of Language,” British Journal for the History of Philosophy, 26.2, 2018, 388 n15; Hare, R. M., “A Philosophical Autobiography,” Utilitas, 14.3, 2002; Ayer, A. J., Philosophy in the Twentieth Century, Vintage Books, 1984

[5] ハッカー伝は次の文献より。Lacey, Nicola, A Life of H. L. A. Hart: The Nightmare and the Noble Dream, Oxford University Press, 2004 なお、1939年生まれのピーター・ハッカー自身はその場におらず、その場にいたアームソンとハートから聞いたそうだ。下記も参照。Dancy, Jonathan, “Harold Arthur Prichard,” The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Spring 2018 Edition, Edward N. Zalta ed., https://plato.stanford.edu/archives/spr2018/entries/prichard/

[6] Malcolm, Norman and G. H. von Wright, Ludwig Wittgenstein: A Memoir, 2nd ed., Oxford University Press, 1984(ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン:天才哲学者の思い出』板坂元訳、平凡社、1998年)

[7] Monk, Ray, Ludwig Wittgenstein: The Duty of Genius, Vintage, 1991(レイ・モンク『ウィトゲンシュタイン:天才の責務 1・2』岡田雅勝訳、みすず書房、1994年)

[8] Williamson, Timothy, “How Did We Get Here from There? The Transformation of Analytic Philosophy,” Belgrade Philosophical Annual, 27, 2017, pp.7-37

[9] 本連載ですでに何度か引用したが、詳しくはJonathan Ree, Mehta, Searleなど。

[10] アイザイア・バーリンは国内に研究者も多いので省略したが、マイケル・イグナティエフによる彼の伝記は翻訳がなされている(Ignatieff, Michael, Isaiah Berlin: A Life, Chatto & Windus, 1998(マイケル・イグナティエフ『アイザイア・バーリン』石塚雅彦・藤田雄二訳、みすず書房、2004年))。また、モノマネ好きのジェリー・コーエンの最終講義は翻訳されていないが、傑作なので一読を勧める(次の著作に所収。Cohen, G. A. and Michael Otsuka, Finding Oneself in the Other, Princeton University Press, 2012)。あまり音質はよくないが、録音ではコーエンのモノマネに聴衆が大笑いしている様子を聴くことができる。https://soundcloud.com/user-671277267/g-a-cohens-valedictory-lecture

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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