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オックスフォード哲学者奇行

ウィトゲンシュタインのオックスフォード

ウィトゲンシュタイン(1889-1951)はオックスフォード大学とは直接関係がない。『ウィトゲンシュタインのウィーン』という本があるように、彼はオーストリア生まれで、哲学はケンブリッジ大学のラッセルやムーアの下で学んだ[1]。だが、いわゆる前期ウィトゲンシュタインが書いた『論理哲学論考』と、後期ウィトゲンシュタインが書き死後に出版された『哲学探究』は、これまでに取り上げたオックスフォード哲学者たちの多くに甚大な影響を与え、彼らの自伝や伝記の中でも、ウィトゲンシュタインについて愛憎入り交じる形で語られている。その意味で、ウィトゲンシュタインはオックスフォード哲学の影の主役である。

ケンブリッジ大学はオックスフォード大学から見て北東約130キロ先にあるが、今日に至るまで直通の電車が走っていないこともあり、近くて遠い大学である。オックスフォード大学と比べると哲学科のサイズは昔からずっと小さいものの、シジウィック、ラッセル、ムーア、ウィトゲンシュタイン、ラムジーなど、とくに20世紀初頭において哲学の歴史を刷新するような哲学者を次々と輩出してきた[2]。彼らの奇行については、次のサバティカルがあれば詳しく書くつもりだが、やはりオックスフォード哲学におけるウィトゲンシュタインの影響を語らずに連載を終わらせることはできないので、最後にオックスフォード哲学者たちの「ウィトゲンシュタイン体験」について見てみることにしたい。

ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジの中庭。ウィトゲンシュタインが学生のときから所属していた。

まず、ライルとウィトゲンシュタインの関係について[3]。1900年に生まれたライルより約10歳年上のウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学で哲学を学んだあと、第一次世界大戦中はオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士として従軍し、その頃に書いた原稿が戦後に『論理哲学論考』(1922)として発表された。一方、第一次世界大戦直後のオックスフォード大学で哲学教育を受けたライルは、新しいケンブリッジ哲学の潮流にいち早く気付き、ラッセルやムーア、ウィトゲンシュタインなどの著作を読んで学んだ。それまでほとんどオックスフォードとケンブリッジの哲学者は交流がなかったが、ライルらの若手研究者は学術誌の『マインド』とアリストテレス学会の合同年次大会に顔を出すようになり、そこでムーアやウィトゲンシュタインと知り合ったという。『論理哲学論考』を読んでウィトゲンシュタインに憧れていたライルは、1929年の大会で実物と会って友人となったという。

もっとも、友人といってもライルはウィトゲンシュタインとそこまで深い付き合いをすることはなく、またそれゆえに彼から絶縁されることもなかったようだ。ただ、西部劇やミュージカルなどのハリウッド映画が好きなことで有名なウィトゲンシュタインが、英国人に良い映画を作れるはずがないと主張していたのに対しては、ライルは真っ向から反論していたらしい[4]

また、ライル以降のオックスフォード哲学者たちはケンブリッジ大学に遠征して、モラルサイエンスクラブという哲学の研究会で発表するようになったが、ライルはこの研究会におけるウィトゲンシュタイン崇拝を目の当たりにして、「教育的に悲惨な結果をもたらすだろう」と感じたという。とくに問題だったのは、ウィトゲンシュタインに影響を受けた学生たちの間では、哲学史や他の哲学者の研究をする人は本当の哲学者ではないという雰囲気になっていたことであり、ライルが発表するさいにも、ウィトゲンシュタイン以外の哲学者の名前を出すと会場から野次が飛んだという。ライル自身はこのような経験を通じて、ある哲学者の思想についてのみ研究するのではなく、多くの哲学者の思想を比較するようなスタイルの研究が重要であると心に銘記したという。

ライルがどのような自動車を運転していたかは不明だが、オックスフォードにはかつて米国フォードと肩を並べるほど有名だったモーリスという自動車会社があり、20年代頃から徐々に自動車が普及していった。創業者のウィリアム・モーリスは後にナフィールド子爵となり、オックスフォードにナフィールド・コレッジを創設するとともにナフィールド財団を発足させた。写真はロングウォール通り沿いにある展示より。

次に、エアとウィトゲンシュタインについて[5]。エアはチューターのライルから『論理哲学論考』を紹介され、学部生の終わり頃にジョウェット・ソサエティという、学内の哲学研究会で『論理哲学論考』の内容を論じた研究発表を行った。エアや他の人の記憶によれば、これがオックスフォード大学でウィトゲンシュタインに関する報告が行われた最初の研究会だったという。1932年のことなので、『論理哲学論考』が出てから約10年が経っていた。ちなみに、エアはこの発表の内容をまとめて『マインド』に投稿したが、独創性がないため不採用だったそうだ。

ライルが学部卒業したてのエアを自動車でケンブリッジに連れていってくれたおかげで、エアも実物と会うことができた。ここでの経緯は省略するが、約20歳年上のウィトゲンシュタインはエアをいたく気に入り、エアが後にモラルサイエンスクラブで報告したときにも有益なコメントをくれたりしたそうだ。「エアの問題は、彼がいつでも賢いことだ」とウィトゲンシュタインが褒めていたのを、エアは人伝えで知ったとのことである。

ジョウェット通り。ジョウェット・ソサエティという名前の由来でもあるジョウェット(Benjamin Jowett, 1817-1893)は、神学者でありプラトンの全対話篇の翻訳者としても有名。ベイリオルコレッジの学寮長を務めた。

 

しかし、戦後まもなく、エアはウィトゲンシュタインの逆鱗に触れることになる。エアは1946年にBBCラジオで現代英国哲学について話をする機会があり、 その文章が翌年にPolemicという雑誌に掲載された。ウィトゲンシュタインが自分の思想を誤って紹介されることを極端に嫌っているのを知っていたエアは、ウィトゲンシュタインの哲学について言及するさいに、地雷を踏まないように気をつけていたという。

だが、地雷を踏まないで気をつけようと思えば思うほどつい地雷を踏んでしまうのが人間の性である。かくいうエアも、ついウィトゲンシュタインの哲学と精神分析の類似性について語ったことで1つ目の地雷を踏み、また近年のウィトゲンシュタインの哲学を知りうる手掛かりとして彼の弟子のジョン・ウィズダムの思想を紹介したことで2つ目の地雷を踏んでしまい、ウィトゲンシュタインから怒りの書留郵便を受け取ることになった。その手紙には、エアは自分の最近の思想について知らないふりをしているが絶対に知っているはずであること、また仮にエアが自分から長年にわたって貴重な教えを受けたことを認めないとしても、自分の考えを誤解の生じる仕方で社会に広めるのではなく、何も言及しないのが最低限の礼儀だと考えられること、の2点が記されていた。要するにウィトゲンシュタインについては語りえないのであり、語りえないものについてエアは沈黙しなければならなかったのだ。

その翌週、エアは再びケンブリッジ大学のモラルサイエンスクラブで発表した。ウィトゲンシュタインも話を聞きに来ていたが、エアが発表を終えると、ウィトゲンシュタインはジョン・ウィズダムに何かを囁いたあと、部屋からつかつかと退出してしまった(そして弟子のアンスコムがそのあとを追った)。それ以降、ウィトゲンシュタインはエアなど名前も聞いたことがないと語っていたと人伝えに聞いて、エアは非常に悲しかったそうだ。

後期ウィトゲンシュタイン(ウィトゲンシュタイン2号とも呼ばれる)が書いた『哲学探究』は1950年代初めまで公表されなかったが、ウィトゲンシュタインがケンブリッジでの講義内容を弟子たちに口述筆記させたいわゆる『青色本』は、バーリンによれば1937年にはオックスフォードでも出回っていた[6]。そのため、ライルやオースティンらのいわゆる日常言語学派が、どの程度後期ウィトゲンシュタインの思想の影響を受けているのかについて、現在まで議論になっている[7]。アンスコムのように、オースティンはウィトゲンシュタインの劣化コピーだと考えるものもあった(第11回)が、概してオックスフォードの哲学者たちは、ライルやオースティンが独自に自らの理論を発展させ、後期ウィトゲンシュタインと同じような言語観に辿りついたと主張している。とりわけ、ウィトゲンシュタインの不明瞭な書き方が気に入らなかったオースティンは、ウィトゲンシュタインを「ヴィターズ」と省略して、「ヴィターズを好きな人もいるが、私はムーアが大好きだ(Some people like Witters, but Moore is my man.)」と、まるでCMのキャッチコピーのようなセリフを述べていたそうだ。

このように個々の哲学者との影響関係は議論になるとはいえ、『青色本』や『哲学探究』に見られる後期ウィトゲンシュタインの哲学がオックスフォード哲学全般に大きな影響を与えていたことは疑いがなさそうだ。たとえばハートは『青色本』のコピーが友人から回ってきて、「意味を尋ねるな、用法を尋ねよ」という考え方を学んだと述べているが、このフレーズはオックスフォードの日常言語学派のスローガンのひとつであった[8]。また、『哲学探究』を徹夜で読んだハートは、翌日ジェフリー・ウォーノックに飛びつき、「一晩中起きてた! 一晩中起きてたよ! 他には何も考えられない」と興奮して言ったという。ハートは1907年生まれだから『哲学探究』を読んだのは40代半ばだったはずで、それを考えると味わい深い逸話である。ハートは、ずっと後年になってからも、『哲学探究』を「われわれのバイブル」と表現していたという[9]

長くなってきたので、今回はこのぐらいにして、次回はウィトゲンシュタインが実際にオックスフォードにやって来たときの話をしよう。

 

[1] Janik, Allan and Stephen Toulmin, Wittgenstein’s Vienna, Simon and Schuster, 1973(S. トゥールミン/A. ジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』藤村龍雄訳、平凡社、2001年)

[2] ケンブリッジ哲学の歴史については次の論文が面白い。Broad, C. D., “The Local Historical Background of Contemporary Cambridge Philosophy,” in C. A. Mace ed., British Philosophy in the Mid-Century: A Cambridge Symposium, George Allen & Unwin, 1957

[3] 以下の記述は主に次の文献より。Ryle, Gilbert, “Autobiographical,” in Oscar P. Wood and George Pitcher eds., Ryle, Macmillan, 1970

[4] Ayer, A. J., Part of My Life, William Collins Sons & Co Ltd, 1977, pp.119-120

[5] 以下の記述は主に次の文献より。Ayer, A. J., Part of My Life; Honderich, Ted, “An Interview with A. J. Ayer,” Royal Institute of Philosophy Supplement, 30, 1991, pp.209-226

[6] Berlin, Isaiah, “Austin and the Early Beginnings of Oxford Philosophy,” Essays on J. L. Austin, Clarendon Press, 1973

[7] 次の論文に詳しい。Harris, Daniel W. and Elmar Unnsteinsson, “Wittgenstein’s Influence on Austin’s Philosophy of Language,” British Journal for the History of Philosophy, 26.2, 2018, pp.371-395

[8] Sugarman, David and H. L. A. Hart, “Hart Interviewed: H. L. A. Hart in Conversation with David Sugarman,” Journal of Law and Society, 32.2, 2005, pp.267-293; Rée, Jonathan, “English Philosophy in the Fifties,” Radical Philosophy, 1993

[9] Lacey, Nicola, A Life of H. L. A. Hart: The Nightmare and the Noble Dream, Oxford University Press, 2004(ニコラ・レイシー『法哲学者H. L. A. ハートの生涯:悪夢、そして高貴な夢 上・下』中山竜一・森村進・森村たまき訳、岩波書店、2021年)

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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