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オックスフォード哲学者奇行

ベジタリアンになったピーター・シンガー

20世紀の終わり、私がまだヨチヨチ歩きの大学院生だったころにピーター・シンガーが京都に来たことがあった。私は大学でのシンガーのセミナーに出席した後、某教授の自宅での夕食会にご一緒した。そのさい私は、当時読書会で読んでいたシンガー編のA Companion to Ethicsにオートグラフ(サイン)を書いてくださいと言うつもりが、つい緊張してオ、オ、オートバイオグラフィー(自伝)を書いてくださいと言ってしまい、シンガーに「それは時間がかかるね」とジョークを言われながらサインをもらったのだった。

当日の食事は某教授の奥様によるベジタリアン食だったが、今回はシンガーがその後に書いた自伝も参考にして、彼がオックスフォード大への留学中にベジタリアンになった話をしよう[1]

秋のチャーウェル川。

ピーター・シンガーが新婚の妻レナータと共にオーストラリアのメルボルンからオックスフォードにやってきたのは1969年のことだった。シンガーは戦後すぐの1946年生まれだから、23歳のことである。彼はすでにメルボルン大学で哲学修士号を取っていたので、現在の感覚だと次は博士課程に入るものと考えられる。だが、以前の回で説明したように、当時は哲学教員になるにはむしろライルが作ったB.Philコースに入ったほうがよいと考えられていたため、シンガーもそのつもりでオックスフォードに来ていた。所属はメルボルン大学からの奨学金制度があったユニヴァーシティ・コレッジであった。

B.Philのコースでは当時、3つの哲学分野(そのうち1つは古典的な哲学者の思想)を選んで最後に試験を受けることと、3万語の比較的短い論文を書くことが求められていたが、シンガーは3つのトピックとして、倫理学と政治哲学、および「マルクスとヘーゲル」を選んだ。

最初のチューターは政治哲学の教授のジョン・プラムナッツだった。シンガーはオックスフォードのチュートリアルが思ったほど恐ろしいものではなくて安心したそうだが、プラムナッツが指定したリーディングリストには当たり前のようにドイツ語やフランス語の文献が入っていて面喰ったという。プラムナッツはシンガーにドイツ語ができるかとは尋ねたが、フランス語については何も尋ねなかった。「教養のある人間たるものフランス語は読めて当たり前」と彼が考えていたからだ。ちなみにシンガーの両親はユダヤ人で、ナチスの迫害を逃れるためにオーストリアからオーストラリアに移住してきていたという事情もあり、シンガーもドイツ語は一通りできたようだ。

チュートリアル以外は自由に講義やセミナーに出席できたので、エア、スチュアート・ハンプシャー、ストローソン、ハート、フット、バーリンなどの有名どころの話を聴きに行ったという。また、1969年にハートに代わってオックスフォードの法哲学教授になったばかりのロナルド・ドゥウォーキンが、米国人らしい明るいスーツと派手なネクタイでハートの法実証主義を批判する講義をしているのも聴講した。

他にも、オール・ソウルズ・コレッジでドイツ留学経験のある若いフェローによる、ヘーゲルの『精神現象学』を一文一文ちまちま読むセミナーにも出席した。このような講読の授業は日本では珍しくないが、シンガーは「最も奇妙な授業だった」と記しており、数十ページのテキストを読むのに週2回8週間かけるというのは英国の哲学教育の伝統とはずいぶん異なると述べていて興味深い。とはいえ、シンガーはこの授業のおかげで後にヘーゲルの入門書を書けたと記している[2]

最もおもしろかった授業は、当時まだ若手研究者だったデレク・パーフィットがジョナサン・グラバーやジェームズ・グリフィンと一緒にやっていた、今で言う「応用倫理」のセミナーだったという。人口問題などについて話していたパーフィットがチェスの名人のように議論の先の先まで読んでいたという話は前にもしたが、グラバーも後にCausing Death and Saving Lives(1977、未邦訳)で展開する興味深い議論をしていたという。

とはいえ、研究上最も影響を受けたのは当時ホワイト道徳哲学教授だったヘアで、シンガーはすでにメルボルン大学にいるころからヘアの著作を読んで知っていた。ヘアはとても怖い先生だという評判も知っていたが、勇気を出して自分が以前に書いたヘアを批判する論文を彼に送りつけたところ、時間を取って会ってくれることになった。ヘアはシンガーの批判が自分の著作の誤読に基づくことを指摘したが、心よく指導をしてくれ、道徳哲学のチュートリアルと、最後に提出することになっていた論文の指導をしてくれたという。シンガーは論文のテーマとして、当時まだ続いていたベトナム戦争とその反戦運動に関連して、市民的不服従の問題を選んだ。当時はまだ応用倫理的な論文で書くことは珍しかったが、ヘアは応援してくれたそうだ[3]

勉強の話はこのぐらいにして、次になぜシンガーがベジタリアンになったかという話をしよう。シンガーは1970年にリチャード・ケッシェンというカナダ人研究者と食事をする機会があった。ケッシェンはシンガーと同世代の哲学研究者で、グラバーの指導のもと、スピノザについての博士論文を書いていた[4]。2人はグラバーの授業に出た後、ケッシェンが所属するベイリオル・コレッジの食堂でお昼を食べることにした。その日のランチのメニューはスパゲティかサラダで、ケッシェンはスパゲティのソースに肉が入っていることを知ると、サラダを選んだが、シンガーはとくに気にせずスパゲティを選んだ。食事中にシンガーがケッシェンになぜ肉を食べないのかと訊いたところ、ケッシェンは工場畜産の問題を説明し、シンガーはそこで初めて動物福祉とベジタリアニズムの問題に直面したという。

オックスフォードに来る前は、シンガーは動物福祉は主に心の優しい老婦人が頭を悩ますべき問題であり、ベジタリアニズムは変人がやることだと思っていた。しかし、ケッシェンを通じて後に「オックスフォードグループ」として知られることになるベジタリアンの研究者たちと知り合いになり、彼らと動物福祉の問題を議論することを通じて、哲学的に考えて肉食を続けることはできないと考えるようになった[5]

とはいえ、それまではほぼ毎日肉を食べ、兎やカンガルーの肉も含めてどんなものでも食べることを自慢にしていたシンガーとしては、ベジタリアンになることは倫理的には正しいとしても明らかに自己利益に反していた。そこで彼は次のような理屈を妻のレナータに話した。

「『やるべきことがわかったら、とにかくやる』という立場を貫くなら、贅沢をしないで貧しい人のために寄付をすべきことになる。ところで、自分は現在バングラデシュで起きている飢饉に対してなすべきことをしていない。だから、動物についても正しいことをしなくてもよいのではないか」。

シンガーはこんな理屈をこねたことをあとで後悔したようだが、これに対してレナータは、むしろ自分たちはベジタリアンになり、かつ飢餓救済のために寄付をすべきなのだともっともな反論をして、シンガーもこれに反論できなかったという。

その結果、彼らは、工場畜産による鶏肉、子牛、すべての豚製品は食べるのを止めた。しばらくは放牧の卵や上記以外の肉類は食べていたが、数週間すると肉をまったく食べなくても生きていけることがわかったため、ベジタリアンになった。とはいえ、中枢神経のない牡蠣のような二枚貝は痛みを感じることはないと考えてレストランではときどき食べていたそうだ。

また、飢餓救済については、第二次世界大戦中にオックスフォードで始まった民間の海外援助組織であるオックスファムに顔を出して資料を集めるようになり、2人の所得の1割をオックスファムに寄付するようになった。ここから今日「効果的利他主義(effective altruism)」として知られる飢餓救済に関するシンガーの援助義務論が出発するわけだが、それはまた別の機会に論じよう[6]

オックスファムの店。主に古着や古本などを売っている。「1947年12月設立のオックスファム1号店」と書かれたプレートがある。

こうしてオックスフォードグループの一員となったシンガーは、工場畜産の問題を広く知らしめるために、オックスフォードの中心にあるセントマイケル教会のそばの場所を借り、狭い木の柵に閉じ込められた子牛や卵を産む雌鶏用のバタリーケージの展示を仲間たちと一緒に行った。実際は、子牛はフェルトで作り、ニワトリは張り子作りのものだったが、通りがかった近眼の人がシンガーらに喰ってかかり、なぜニワトリをそのような小さなワイヤ作りの籠に閉じ込めるのだと怒鳴られたという。

コーンマーケット通りにあるセントマイケル教会の塔。塔は11世紀に建てられたものでオックスフォードでは一番古い建物とのこと。

また、オックスフォードグループの研究者たちは、Animals, Men, and Morals(1971)という、工場畜産および動物実験の倫理的問題を論じる共著書を出した。シンガーは寄稿していなかったが、この著作が新聞の書評でほとんど取り上げられなかったことを憂いて、New York Review of Booksに「動物解放論(animal liberation)」というタイトルで書評論文を書くことにした。1973年に書かれたこの書評はかなりの注目を集め、シンガーは米国の同世代の哲学者ジェームズ・レイチェルズ(1941-2003)から「あなたの議論に説得された」と手紙を受け取ったという。またこの書評がきっかけとなり、このテーマで単著を書かないかという誘いを出版社から受け、1975年に『動物解放論』を上梓した[7]。この本は最初の数年は鳴かず飛ばずだったが、1980年前後から米国で動物権利論が盛んになってペーパーバック版が出されたころからコンスタントに売れるようになり、2009年の時点で世界で20か国語以上に訳されて60万部以上売れているという。

オックスフォードグループのこうした活動もあり、動物福祉の問題は哲学的にも社会的にも盛んに議論されるようになった。また、動物福祉に加えて環境問題や健康志向の高まりなども手伝って、ベジタリアニズムも英米を中心に広がっていき、現在では英国の1割を超える成人がベジタリアンであり、今後も増える見込みだという[8]

シンガーはB.Philを修了後、1971年から2年ほどユニヴァーシティ・コレッジに残ってチューターをしていたが、その後1年ほどニューヨークで非常勤講師をしたあとにオーストラリアに戻った。それから2年間ほどラトローブ大学で教えたあと、1977年に30歳でモナシュ大学の哲学科主任教授に抜擢された。あとは歴史というか、オックスフォードとは関係がなくなるのでまた別の機会に。

 

[1] 以下の記述は、下記の文献を参照した。Singer, Peter, “An Intellectual Autobiography,” in Peter Singer under Fire: The Moral Iconoclast Faces His Critics, ed. by Jeffrey A. Schaler, Under Fire Series, v.3, Open Court, 2009; Singer, Peter, “The Oxford Vegetarians- A Personal Account,” International Journal for the Study of Animal Problems, 3.1, 1982, pp.6-9; “What is it like to be a philosopher?” 2017, http://www.whatisitliketobeaphilosopher.com/#/peter-singer/

[2] Singer, Peter, Hegel: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2001(初版は1983年。翻訳はピーター・シンガー『ヘーゲル入門:精神の冒険』島崎隆訳、青木書店、1995年)

[3] この論文はのちに出版されている。Singer, Peter, Democracy and Disobedience, Clarendon Press, 1973

[4] ケッシェンの短い自伝は以下のサイトで読める。http://cbucommons.ca/rkeshen/bio/

[5] シンガーを含め、オックスフォードグループに影響を与えたのはRuth HarrisonのAnimal Machines(1964)という、英国における工場畜産の現状を告発した著作だった。

[6] ピーター・シンガー『飢えと豊かさと道徳』(児玉聡監訳、勁草書房、2018年)の解説も参照。

[7] Singer, Peter, Animal Liberation, Harper Perennial Modern Classics, 2009(初版は1975年。翻訳はピーター・シンガー『動物の解放 改訂版』戸田清訳、人文書院、2011年。翻訳の初版は1988年)

[8] 次のサイトを参照。https://trulyexperiences.com/blog/veganism-uk-statistics/ なお、ここで言うベジタリアンは牛肉や豚肉などの肉類を食べないという意味であり、その一部には(シンガーのように)全く肉や乳製品を食べないヴィーガンや、魚は食べるペスカトリアンなども含まれる。

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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