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オックスフォード哲学者奇行

反理論家ウィリアムズの誕生(1)

バーナード・ウィリアムズは1929年9月生まれで、ヘアやストローソンなど1919年生まれのグループとはちょうど10年違うことになる。イングランドの東部にあるエセックスで育った彼は、戦後の1947年にベイリオル・コレッジに入学した。そして学部を最高の成績で卒業したのち、最難関のオール・ソウルズ・コレッジのフェローになり、その後もケンブリッジ大とオックスフォード大の哲学教授を歴任した。ウィリアムズはライルがその礎を築いた戦後の「オックスフォード哲学帝国」が輩出した最も優秀な哲学者の一人であり、また最も手強い功利主義の批判者でもあった。

いったい誰がこのような哲学者を生み出したのか。今回は主に彼の前半生に関するエピソードを紹介しながら、この問いについて考えてみよう[1]

バーナード・ウィリアムズ。

ウィリアムズは学部で古典学を専攻していた頃からすでに尋常ではないほど優秀だった。ラテン語とギリシア語が達者なのは当然として、教員から学ぶのは格好悪いと考えていた学生たちのためにインフォーマルな哲学セミナーを開いて教えていたぐらい哲学にも通じていた。さらに、最終学年での哲学の試験では、論述試験の彼の回答があまりに優秀だったため、試験官が口頭試問をする代わりに立ち上がって拍手を送るという、最も栄誉ある成績(congratulatory first)で卒業した。

1951年に卒業後、ウィリアムズは英国空軍に入ってカナダで2年間、英国の代表的な戦闘機であるスピットファイアを操縦する訓練を受けた。朝鮮戦争に行く可能性があったようだが、訓練後はオックスフォードに戻り、これまた最も優秀な学生だけが入れるオール・ソウルズ・コレッジのフェローとなった。

ウィリアムズはとにかく頭の回転が速かったようで、エアもライルも彼のことを高く評価していた。ライルは次のように述べている。「ウィリアムズは、議論の相手が何を言おうとしているかについて、相手が理解している以上に理解し、それに対するあらゆる可能な反論と、それらの反論に対するあらゆる可能な応答を、相手が発言し終わる前に見てとるのだ」[2]

ほとんど妖怪である。しかも、ウィリアムズの会話は機知とユーモアに溢れていたので、いつも彼の周りには人々が集まっていたという。また、当時のウィリアムズは大変ハンサムで、のちに結婚するシャーリー・ケイトリンによれば、彼は背が高く、つやのある暗褐色の髪で、映画俳優のような顔立ちだったというから、ケチのつけようのない人物だったようだ。

マグノリア。ウィリアムズは4年次の歴史の最終試験のさい、胸に白いマグノリアの花を付けて受験したそうだ。

ウィリアムズは1954年にニュー・コレッジのフェローになり、翌年には学部生のころから知り合いだったシャーリー・ケイトリンという女性と結婚する。ウィリアムズより1歳年下の彼女は、サマヴィル・コレッジでPPEを専攻したのち、フルブライトの奨学金を受けてコロンビア大学で政治学の修士号を取った。64年には労働党所属の国会議員となり、さらに後には労働党から離脱して社会民主党を結成することになる(社民党は後に自由党と合流して自由民主党になる。これは日本の同名の政党とは違って左翼政党である)。

労働党政権で重要なポストを歴任した彼女は一時は将来の首相と目されたが、結局首相になることはなかった。その一因には、1974年にウィリアムズと離婚したことがあったようで、彼女はシングルマザーとして一人娘を育てる傍ら政治活動をする大変さについて自伝で語っている[3]。初の女性首相の名誉は、同じサマヴィル・コレッジ出身で彼女の少し先輩に当たる保守党のマーガレット・サッチャーが手にすることになる。

シャーリー・ウィリアムズは、サッチャーが首相になれたのは、彼女の夫が献身的だったからだとラジオのインタビューで述べており、ウィリアムズがもっと献身的であったなら、歴史は大きく変わっていたかもしれない[4]。もっとも、彼女は当時のマッチョな対立的な政治のあり方が苦手だったようで、それもあって首相の補佐役にはなれても党首や首相にはなれないと自分でも認識していたようだ。それに対して、「内閣にいる唯一の男性」とか「政府のメンバーの中で唯一タマが付いている人物」などと形容されていたサッチャーは、対立的な政治を厭わない男性的な政治家だったからこそ首相になれたのだ、と述べている[5]

先に述べたように、ウィリアムズは尋常ならざるほど優秀だったが、私の個人的な印象では、彼はスピットファイアに乗っていても(スターウォーズの)ルーク・スカイウォーカーというよりは、ダースベイダーになる前のアナキン・スカイウォーカーに近い感じがする。では、ウィリアムズをダークサイドに導いたのは誰か。

ウィリアムズは自分が最も影響を受けた人物を数名挙げているが、その一人はギルバート・ライルである。彼はライルについて、「とくに好きだったのは彼が主義や学派をものすごく嫌っていたことです。私はその考え方に大きな影響を受けました」と述べている[6]。ウィリアムズ自身も、功利主義を批判してもそれに代わる立場を出すわけでないため、しばしば反理論(anti-theory)の立場を取っていたと言われる[7]

また、ウィリアムズはライルの追悼文(1979)の中で、彼がライルから個人的にも知的にも大きな影響を受けたと述べつつも、人々は彼の書いたもののみからは彼の知的な偉大さを十分に理解できないだろうと記している[8]。この点については、50年代のオックスフォードでウィリアムズから指導を受けていたジョン・サールもウィリアムズについて同じようなコメントをしており、興味深い。

「バーナードが書いたすばらしい哲学の著作のすべてにも拘らず、彼を知っている人ならみな、出版された著作はあの男性の水準に到達していないと常々感じていた。」[9]

サールは、ウィリアムズの著作は当時の哲学シーンで最高水準のものだと認めつつも、彼と会話したり授業や講演で話を聞いたりしたときに感じる目のくらくらする特別な感じは本からは完全には伝わってこない、と述べている。この、ライルやウィリアムズについて言われる「本よりも本物の方がすごい」というのは、小説家の場合にはありそうにない話だが、哲学者の場合は十分にありうることだろう。

サールはウィリアムズの本が本物ほどはよくない理由について、彼が結局のところ哲学は簡単すぎるのでそこまで真剣に取り組むテーマではないと考えていたからではないかと述べている。ウィリアムズの考えでは、哲学は「精神的なオナニー」であり、真理が発見可能な科学に比べて不完全な学問であったという。このようなウィリアムズの科学崇拝については他からも批判があるが、サールは科学へのこうした劣等感は、ウィリアムズも含めて当時のイギリス人の多くが14歳までしか科学を学ばなかったからだろうとコメントしている。このあたりもウィリアムズの屈折を感じるところだ。

マートン・コレッジの南側。この時期はバラがきれい。

何にせよ、サールはウィリアムズはどんな職業でも優れた業績を残しただろうと述べ、哲学者になったのはオックスフォード大学では古典学を専攻すると哲学も学ぶことになっており、たまたま当時は哲学が流行していたから哲学の研究者になっただけで、もし哲学がそこまで流行っていなければ、古典学者として名を馳せたかもしれないことを示唆している。しかし、これは裏を返せば、ライルが作ったオックスフォード大学の哲学研究の仕組みがうまく機能していたため、ウィリアムズのような才能のある若者を哲学専攻にすることに成功したということでもあろう。ライルがうまくダークサイドに引き入れたのである。

その一方で、ウィリアムズが誰から影響を受けなかったか、というのも重要である。サールは、ウィリアムズが当時強大な影響力を持っていたウィトゲンシュタインやオースティンからほとんど影響を受けることはなかったと述べている。とりわけオースティンは、若くて優秀なウィリアムズを自分の陣営に引き入れることができなかったため、オックスフォード大学の哲学および自身の影響力の終焉を予感したそうだ。

こうしてウィリアムズは、オックスフォード哲学の言語分析の手法は学びつつも、主流とは違った方向に進むことになる。だがそこにはもう一人の人物の影響があった。(続く)

 

[1] ウィリアムズは自伝を書いていない。以下の記述は主に下記を参照した。Jeffries, Stuart, “The quest for truth,” The Guardian, 30 Nov 2002; O’Grady, Jane, “Professor Sir Bernard Williams,” The Guardian, 13 Jun 2003; Lehmann-Haupt, Christopher, “Sir Bernard Williams, 73, Oxford Philosopher, Dies,” The New York Times, 14 Jun 2003; Blackburn, Simon, “Bernard Arthur Owen Williams 1929-2003,” Proceedings of the British Academy, 150(2007), pp.335-348

[2] Jeffries, Stuart, “The quest for truth.”

[3] Williams, Shirley, Climbing the Bookshelves, Virago, 2009, Ch.8 この章はキャロル・ギリガン(社会学者として紹介されている)の話も出てきておもしろい。

[4] “Last Word: Baroness Shirley Williams,” BBC Radio 4, 18 Apr 2021

[5] 同上

[6] Jeffries, Stuart, “The quest for truth.”

[7] 反理論については詳しくは下記を参照。Robertson, Simon, “Anti-Theory: Anscombe, Foot and Williams,” The Cambridge History of Moral Philosophy, Cambridge University Press, 2017, pp.678-691

[8] Williams, Bernard, “Ryle Remembered,” The London Review, 1979

[9] Searle, John R., “Oxford Philosophy in the 1950s,” Philosophy, 90.2(2015), pp.173-193 以下のサールのコメントもすべてこの論文からである。

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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