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オックスフォード哲学者奇行

怖いぐらい賢いストローソン

ピーター・ストローソンはヘアと同じ1919年生まれである。私がオックスフォードに行った2019年は、ちょうど2人の生誕100周年だった。同じ100周年のアンスコムやミジリーは女性哲学者の再評価が進んでいたこともあり、記念のシンポジウムなどがいろいろあった。ストローソンも、誕生日にベルギーのルーベン大学で記念シンポが開かれた[1]。だが、ヘアの記念シンポは1つも計画されている様子がなかった。オックスフォード大の某先生にその点を尋ねたところ、「そういえばそうだねえ。じゃあ君が企画したらどうだ」と言われて、いやいやいやいや滅相もありませんと答えたことを覚えている。

前回のヘアに続き、今回はストローソンの話をしよう。

ストローソンはロンドン生まれで、フィンチリーの男子校で学んだあと、1937年から1940年までオックスフォード大のセント・ジョンズ・コレッジでPPEを専攻した[2]。彼は文学少年で、元々は英文学を学ぶはずだったが、大学に入る前にルソーの『社会契約論』を読んで感銘を受けたり、今後の欧州の未来を考えたら政治経済を勉強しておくべきだと考えたりして、直前に専攻を変更したようだ。経済学はつまらなかったが、政治思想はおもしろく、また哲学はとても性に合っていたと回想している。このときのチューターの1人が後に同僚となるポール・グライス(1913-1988)であった。彼の影響もあり、自分もオックスフォード大学のフェローになりたいと考えるようになった。

セント・ジョンズ・コレッジの庭。ストローソンは学部生のときにエアの『言語・真理・論理』をコレッジの庭で読んで魅了されたという。

だが、卒業後はすぐに兵役が待っていた。ストローソンはヘアより少し遅れて陸軍砲兵隊の兵士となり、レーダーの使用法を学んで熟達した。そのため、1942年には新設の王立電気機械工兵隊(REME)に入隊し、最終的には陸軍大尉にまでなった。ちなみに、ストローソンの弟はさらに活躍したようで、陸軍少将にまで上り詰めている。また、ストローソンは終戦前の1945年に結婚し、のちに4人の子どもをもうけた。そのうちの1人がガレン・ストローソンという哲学者であることはよく知られている。

戦後、ストローソンはオックスフォードに戻って大学院(B.Phil)に行こうかと考えていたところ、学部のときに彼のチューターをしていたジョン・マボットの勧めで、ウェールズにある大学の哲学教員のポストに応募して採用された。ロンドンで育ったストローソンは田舎で暮らすとはどういうことか、そのとき初めて知ったようだ。だが、ほどなく彼はオックスフォードのユニヴァーシティ・コレッジにフェローとして採用され、教員として大学に戻ることになった。学部のころに抱いていた希望は28歳のときに叶ったわけだ。

オックスフォードに戻ったストローソンはチューターや講義をしながら、ライルやオースティンらと一緒にオックスフォード哲学の黄金時代を築くことになる。ライルの『心の概念』が1949年に出て、ストローソンの『個体と主語(Individuals)』が1959年に出るまでの10年間が、オックスフォードの日常言語学派の黄金時代だと言われる[3]

しかし、大学院で学ばなかったストローソンが、なぜそれほど偉大な哲学者になれたのか。もちろんそれは当時の時代状況やストローソンの才能もあったと思われるが、1つにはオックスフォードのチュートリアルの効用が大きいと思われる。ストローソンと同様、大学院に行かなかったヘアもチュートリアルの有用性を述べていたが(第5回)、この点について、ストローソンによる回想と、ストローソンからチュートリアルを受けたジョン・サールの視点からの説明を見てみよう。

P. F. ストローソンの論文集。[4]

「私は本から学んだことよりも自分の学生から学んだことの方が多い」と述べたのはヘアだったが、ストローソンも同様で、学生へのチュートリアルと自らの哲学研究は車の両輪だったようだ。彼は「1対1のチュートリアルでの意見交換以上に、学生と教師のお互いにとって有益な哲学の指導法はない」とまで述べている。学生としては、リーディングリストを参考に作成したエッセイを週一で書いてチューターに読んでもらうことで、より経験を積んだ聞き手の批判を受けることができる。チューターとしては、学生の思考を理解し明確にしようとすることで、しばしば自分自身の思考を明確化することに成功する、というわけだ。

ストローソンが属していたユニヴァーシティ・コレッジでは、ストローソンは論理学とデカルト以降の近代哲学一般を担当し、道徳・政治哲学と古代哲学はもう1人の哲学チューターが担当していた。実際、こうしたチュートリアルや論理学の講義を基にストローソンはラッセルの記述理論を批判する議論を練り上げ、その内容を知ったライルの勧めで『マインド』誌に1950年に論文を公表し、一躍名を上げたのだった[5]

次に、ストローソンからチュートリアルを受けた学生の側からの話として、サールの回想を見てみよう[6]。サール(1932- )は米国コロラド州生まれだが、米国で学部生をしているときに奨学金(セシル・ローズが始めたローズ奨学生制度)をもらってオックスフォード大学のクライスト・チャーチに入り、学部から博士課程までをオックスフォードで過ごした。それはたまたま、1952年から1959年というオックスフォード哲学の黄金時代に当たるときだった。

サールはオースティンやストローソンのことなど一切知らずに渡英してきたが、彼が回顧するに、当時のオックスフォードは才能のある哲学者に溢れていて、さながら前5世紀のアテネのようだったという。彼が学部生としてPPEを専攻していた1952年から55年の時期に、チュートリアルやセミナーや講義をしていた主な教員には、以下の人々がいたと記している。オースティン、ストローソン、ハンプシャー、ハート、ウォーノック夫妻、クワイン、アンスコム、マードック、フット、バーナード・ウィリアムズ、バーリン、マイケル・ダメット、アームソン、グライス、ライル、デイヴィッド・ピアーズ、ヴァイスマン、ヘア、ノーウェル=スミス、アンソニー・クイントン、などなど。ストローソンは蜜に溢れた蜂の巣の比喩を使っているが、まさにブンブンうなる蜂の巣さながらである[7]

このように優秀な教員が多かっただけでなく、当時のオックスフォード大学では、哲学を学ぶことが重要だと考えられていたため、最も頭の良い学生たちが率先して哲学を専攻していたという。60年近く経ってから書かれたサールの記述にはいくらか理想化が入っているかもしれないが、まさに黄金時代である。そうした前5世紀のアテネ的な「終わりのない哲学的議論と会話」の中でも、サールはストローソンとの1対1のチュートリアルが最もよい哲学教育だったという。

サールはクライスト・チャーチに属していたので、本来ならユニヴァーシティ・コレッジにいるストローソンのチュートリアルは受けられないのだが、ストローソンが「怖いぐらい賢い奴(frightfully clever chap)」だと評判だったため、面識はないが彼にチューターになってもらいたいと思っていた。するとたまたま、当時付き合っていたルーマニア人の彼女がストローソンの家に下宿していたので、彼女を通じてチューターになってもらうようストローソンにお願いしたところ、快く引き受けてもらったという。

ストローソンがフェローとして在籍していたユニヴァーシティ・コレッジ。オックスフォード大学の中で一番古いコレッジだと自称している。

ストローソンのチュートリアルは、当時としては珍しく、チュートリアルの前日までにエッセイを提出する決まりだった。そのため、サールは携帯用のタイプライターを両手の人差し指でパチパチとタイプして、毎回がんばってエッセイを書いて提出したという。

サールはストローソンとのチュートリアルの様子を次のように述べている。ストローソンはまず、「サール君が論じようとしていることは、実際にはこういうことではないかと、私には思われるんだがね」と言い、サールが苦心して表現しようとしていたことを非常に強力かつエレガントに提示する。そこでサールは「そうです! そうなんです! その通りです!」と熱狂的に同意する。するとストローソンは次に、「だとすると、この見解は次の4つの反論を受けるように私には思われるんだが」と述べて、サールの議論を順々に破壊していったという。

サールの議論はこのようにして毎回ストローソンによって論破されたが、ストローソンのコメントには敵対的なところはまったくなく、彼のチュートリアルは常に協力的な雰囲気の中で行われたという。「基本的に我々は、哲学という最も面白いプロジェクトを行うのに世界で最適な場所でその作業に携わっており、それを最も協力的な仕方で実践しようとしているのだと感じていた。私はしょっちゅう論破されていたが、負けたことは一度もなかったのだ。」

このようにストローソンはサールのような最も頭のよい学生にとって刺激的なチューターであっただけでなく、哲学的により才能のない学生にも理解できるチュートリアルをしていたという[8]

チュートリアルの話はこのぐらいにして、最後に1つ小話をして終わろう。1958年にウィカム論理学教授のポストが空いたとき、ストローソンは当時ロンドン大学で教えていたエアと教授選を争い、選考委員会の投票の結果、エアが勝利した。ストローソンを推していたオースティンや、別の人物を推していたライルは選挙の手続に不満があるとして選考委員を辞任するなど、かなり荒れたらしい[9]。選考結果が発表された夜、教授に選ばれなかったことに落胆したかと同僚に問われたストローソンは、こう答えたという。

‘Not disappointed, just unappointed.’(落ち込んでないよ。ただ落ちただけさ)[10]

その後、ストローソンはライルが辞めたあとのウェインフリート形而上学教授に選ばれ、1968年から1987年までそのポストを務めた。退職後も各地を旅行して活発に研究活動を行ったのち、2006年に86歳で亡くなっている。

次回はバーナード・ウィリアムズの話をしたいと思う。

 

[1] P. F. STRAWSON AT 100, https://hiw.kuleuven.be/cespp/events/strawson-conference

[2] 以下の伝記的な記述は、主に下記の著作に収録されている自伝と2つの追悼記事に基づく。Strawson, P. F. and P. Snowdon, Freedom and resentment, and other essays, Routledge, 2008; O’Grady, Jane, “Sir Peter Strawson,” The Guardian, 15 Feb 2006, https://www.theguardian.com/news/2006/feb/15/guardianobituaries.booksobituaries ; Ryan, Alan, “Sir Peter Strawson,” The Independent, 18 Feb 2006

[3] Rée, J., “English Philosophy in the Fifties,” Radical Philosophy, 65, 1993, https://www.radicalphilosophy.com/article/english-philosophy-in-the-fifties なお、詳しく書誌情報は書かないが、『個体と主語』の他にも、『意味の限界(The Bounds of Sense)』や「指示について(On Referring)」や「自由と怒り(Freedom and Resentment)」など、ストローソンの主要な著書や論文は翻訳が出ている。

[4] Strawson, P. F., Philosophical Writings, Oxford University Press, 2011

[5] この論文は、ラッセルが出した例として有名な「フランス国王は禿だ」という言明について、ラッセルがフランスには国王がいないため偽だと考えたのに対して、ストローソンは発言の文脈に応じて偽である場合もあれば無意味である場合もあると批判したものだが、より大きな批判としては、ラッセルのような記号を用いた形式論理学だけでは我々の言語や思想のあり方を解明することはできず、我々は日常言語の機能を分析しないといけないと考えていた。あるとき、ストローソンの元チューターだったグライスが「論理記号で表現できないことは、述べる価値がない」と言ったのに対して、ストローソンは「論理記号で表現できることは、述べる価値がない」と応じたという。このやりとりは、ラッセル的立場とストローソンの立場を象徴的に表しているといえる。

[6] 下記の記述は主に以下の論文より。Searle, J. R., “Oxford Philosophy in the 1950s,” Philosophy, 90(2), pp.173-193, 2015 なお、サールは2017年にセクハラで訴えられ、2019年にはカリフォルニア大学バークレー校の名誉教授の称号を剥奪された(いわゆる不名誉教授になった)が、その問題とこの論文の内容には内的な関連はないと判断した旨、記しておく。

[7] Mehta, V., Fly and the Fly-Bottle: Encounters with British Intellectuals, Columbia University Press, p.66, 1983 厳密には、オックスフォードと違ってケンブリッジには蜂(哲学者)がほとんどいないので蜂蜜(哲学)ができない、という話をしている。

[8] 上述のThe IndependentのAlan Ryanによる追悼記事による。なお、Alan Ryanはベイリオル・コレッジで1959-62年までPPEを専攻していたが、彼も当時を振り返って、なぜ哲学分野でのチュートリアル制度がこれほどうまくいっていたのか、そしてなぜそれが60年代以降に徐々に時代に合わなくなっていったのかについて、興味深い論説を書いている。Ryan, Alan, “Perfection in Politics and Philosophy,” Palfreyman, D. and J. G. Clark, The Oxford tutorial: “Thanks, you taught me how to think,” 2nd edition, ch.9, 2008

[9] Rogers, B., A. J. Ayer: a life, Chatto & Windus, pp.258-259, 1999

[10] Williamson, T., “How did we get here from there? The transformation of analytic philosophy,” Belgrade Philosophical Annual, 27, pp.7-37, 2017

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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