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オックスフォード哲学者奇行

囚われのヘア

この連載をしていると変な癖がついた。英国で100歳ぐらいの人が亡くなると、R. M. ヘアやマリー・ミジリーと同じ年ぐらいの生まれだな、と考える癖だ。英国では今年の4月初めにエリザベス2世女王の夫であるエディンバラ公フィリップが99歳で亡くなり、パンデミックによるロックダウン継続中のため簡素な葬式が行われた。フィリップは1921年にギリシアで生まれているが、第二次世界大戦中は英国海軍で士官として従軍し、戦後に英国国籍を取得、1947年にエリザベス2世と結婚している。

フィリップより少し前には、トム・ムーアという第二次世界大戦中に陸軍大尉としてビルマで日本軍と戦っていた人物が100歳で亡くなった。1920年生まれの彼は昨年のロックダウン中に、100歳の誕生日を迎える前に家の裏庭を100周すると宣言し、新型コロナ対策の最前線に立つ医療機関やスタッフを支援するために1000ポンドの寄付を集めるチャリティを行った。すると、テレビやラジオで話が国内外に拡がり、1ヶ月で何と3200万ポンド(40億円以上)も集まり、時の人として注目を集めた。彼はナイトの爵位を授けられ、女王と首相と挨拶をする機会も得た[1]

英国では11月中旬の日曜日に、第一次世界大戦以降の戦死者を追悼する戦没者記念日があり、ヒナゲシの花が飾りとなっている。ブリストルの中央駅にて。

第二次世界大戦中はライルやオースティン、ハートやハンプシャーのように英国の諜報機関で働く者もいれば、男子学生がほとんどいなくなったオックスフォードに残って卒業した後にロンドンの官公庁で働いていたフットやマードックのような者もいた。その一方で、陸軍士官として前出のトム・ムーアのように日本軍と前線で戦い、捕虜となった者もいた。ヘアである。今回は彼の戦争体験の話をしよう[2]

1919年3月生まれのヘアは、エリザベス・アンスコムとは3日しか誕生日が違わない。彼はラグビー校を卒業後、1937年秋にベイリオル・コレッジへ入学し、古典学を学び始めた。だが、1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻を知ると、当時はまだ学生は徴兵猶予を受けられたにもかかわらず、陸軍砲兵隊に志願入隊した。

国内で訓練を受けて少尉に任命されたヘアは、1940年の冬にインド経由でシンガポールに渡り、そこで第22インド山岳連隊の一員となる。馬に乗るより車の運転のほうが性に合っていたようで、榴弾砲を荷台に積んで運ぶためのトラックの運転をインド兵たちに教えるのが主な任務だった。その後、マレーシア北部のケダ州に移動し、そこで日本軍と交戦することになる[3]。日本軍から見ると、真珠湾攻撃と同日の1941年12月8日に開始されたマレー作戦である。

ヘアが属する部隊は日本軍の戦車による攻撃の前に敗退し、ヘアは生き残ったものの、マラリアに罹って入院しているうちにマレーシアは日本軍に占領される。翌年の1月、連合軍はシンガポールで日本軍を迎え撃ったが、すでに海軍も空軍もほとんど機能しておらず、1942年2月15日にシンガポールは陥落した。ヘアは多くの仲間とともに捕虜となり、チャンギ刑務所で暮らすことになる。捕虜としての生活は大変だったが、ヘアは友人の士官たちと助け合って生き残った。

捕虜収容所となっていたチャンギ刑務所から4人の捕虜の脱走未遂が起きると、その4人は射殺され、日本軍は残った15000人あまりの捕虜たちに脱走をしない旨の誓約書を書かせようとした。捕虜たちがこれを拒むと、日本軍は彼らが署名するまで小さな兵営に閉じ込めてしまう(セララン兵営事件)。この命令を出したのは日本軍の福栄中将(General Fukuye)という人物で、ヘアは英国の兵士たちが'Fukuye'をどう発音していたのかは容易に想像が付くだろうと述べている。わからない人は繰り返し英語発音で読んでみるか、親切なネイティヴスピーカーに尋ねてみるとよいだろう。最終的に捕虜の兵士たちはいやいやながら署名したが、署名のさいに日時と場所を記入する欄には、'At Gun Point'(銃口前にて)と記した者もいたという。

1942年9月4日、セララン兵営の連合軍捕虜。オーストラリア戦争記念館所蔵のパブリック・ドメインの写真。

チャンギ刑務所での生活は大変だったようだが、「シンガポールは寒くないし、アウシュヴィッツやグーラグに比べたらずっとまし」だったとヘアは回顧している。だが、1943年の春にタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設に駆り出されたときには、ヘアは「危うく死にかけた」という。ここでの8ヶ月は本当に辛かったようで、仲間も多く失い、ヘアにとっては思い出したくない記憶だったようだ。なお、当時の状況を描いた映画『戦場にかける橋』(1957)はまったく不正確だと酷評している。

ヘアは何とかそこでも生き残り、その後、シンガポールの収容所に戻ることができた。野菜を育てながら、捕虜になる前にチャンギ刑務所で見つけた美しい出納簿に哲学的思想を書き連ねていたという。ヘアはそこで終戦を迎え、捕虜となってから3年半経ったところで解放された。帰国前の別れのパーティでは誰かがヘアの水筒にたっぷり入れてくれた酒を痛飲したそうだが、翌日の新聞報道によれば、そのときに出回っていた酒の大半はメチルアルコール製で、失明したり死亡したりする者が相次いだという。幸い、ヘアはこのときも無事だった。

ヘアは戦時中の体験が彼の哲学に与えた影響についても少し述べている。一つは、戦争において敵国兵士を殺すことについて。彼は1938年のミュンヘン危機の際に反戦主義を放棄したと述懐しているが、自分が兵士として戦争に参加しているのは、自分の国王や国のためにではなく、「より普遍的な原理」に基づいて、すなわちインドが日本軍の手に落ちるとインド人にとって災厄となるという理由から行動していると考えていた点である。

もう一つは、普遍的で客観的な道徳原則の拒絶である。ヘアは、マレー戦で連合軍の捕虜となった日本軍の兵士2名が、解放後に「ハラキリ」によって自死を遂げたことを知り、この事件や他の文化的多様性を示す事例を通じて、W. D. ロスの言う理性ではなく直観によって知られる「普遍的で客観的な道徳的基準はない」という結論に至ったという。道徳における普遍的見地は支持しつつ、普遍的で客観的な道徳原則はないという立場がどう調停できるのかは、ヘアの理論をよく学んで考えるべきところだろう[4]

 

オックスフォードの聖マリア教会。2002年5月25日にヘアの追悼式が行われた。

このようにヘアは戦時中も哲学のことを考え続け、出納簿に書き溜めていた文章は、終戦直前に「一元論に関する論考」という一冊の書物として完成したという。しかし、ヘアがライルやオースティンらの言語分析を中心にしたオックスフォードの新しい哲学に触れるのは、戦後にオックスフォードに戻ってからである。彼は戦前のオックスフォードではまだ哲学の授業を受けておらず、またハートのように戦時中に哲学談義ができる仲間に恵まれていたわけでもなかった。そのため、帰国後には、戦時中に書いていたことは価値のないものだという結論に至り、公表はあきらめた。そして彼は、マラリアの再発に苦しみながらも、復学して最も優秀な成績で卒業し、そのままベイリオル・コレッジにフェローとして残ることになった(この点については、第5回も参照)。

なお、ヘアの息子のジョン・ヘアも哲学者であるが、2002年5月にオックスフォードの聖マリア教会で行われたヘアの追悼式におけるスピーチで、彼は次のように述べている。「私の父は戦争体験についてはあまり語りませんでしたが、ひとこと言っておきたいのは、父からは日本人に対する憎しみや軽蔑の言葉は一度も聞いたことがなかったということです」[5]

このスピーチの中で息子のヘアは、父親が怒りっぽく、ときに突発的に激怒する人物であったことも率直に認めている。私もヘアの本を読んだり人から話を聞いたりしてそういう印象を抱いているので、どちらかと言えばヘアが日本軍の罵詈雑言を吐いている姿を想像してしまうが、幸いそういうことはなかったようである。

 

[1] BBC News, “Obituary: Captain Sir Tom Moore, a hero who gave a nation hope,” 2 February 2021, https://www.bbc.com/news/uk-52726188

[2] 以下の記述は主に次の文献による。Hare, R. M., “A Philosophical Autobiography,” Utilitas, 14(3), 2002 なお、今年で生誕100周年を迎えたジョン・ロールズ(1921年2月生まれ)も、1943年から終戦まで歩兵部隊の一兵士として日本軍と戦っていた。詳しくは以下を見よ。Pogge, T. & Kosch, M., John Rawls: his life and theory of justice, Oxford University Press, 2007

[3] 蛇足だが、当時はシンガポールもマレーシアもインドも英国の植民地である。

[4] 真面目に勉強したい人は、下記を参照。R. M. ヘア『道徳的に考えること:レベル・方法・要点』内井惣七・山内友三郎監訳、勁草書房、1994年;佐藤岳詩『R・M・ヘアの道徳哲学』勁草書房、2012年

[5] Hare, J. E., “R. M. Hare: A Memorial Address,” Utilitas, 14(3), 2002, pp.306-308

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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