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オックスフォード哲学者奇行

ハンプシャーの尋問と試問

一般に、学位論文を提出すると、教員による口頭試問が行われる。試問はよく「諮問」と誤記されるが、両者はまったく異なる。諮問は専門家に意見を求めることであるのに対し、試問は学生に試験を行うことである。大学での論文試問は、学生が書いた論文を教員が試験官として審査する機会であり、学生は複数の教員の前で、自分の論文の正しさを弁護しなければならない。

論文試問という正式な場において教員に厳しく質問されるというのは、多くの学生にとっては考えただけで心が重くなる経験であろう。かくいう私も、自らが試問を受けた経験を思い出すと、今でも胸のあたりが苦しくなる。「アカハラ」という言葉が生み出される以前は、当時の京大文学部にも恐い先生がたくさん生息していたので、この頃までの論文試問はトラウマ体験と同義であった。どのぐらい恐しいかと言うと、教授室のドアをノックして開けると、机の向こうにダース・ベイダーとエイリアンと鬼舞辻無惨が座っている感じである。学生は最低1時間はそこに閉じ込められ、生き残りをかけた戦いをしなければならなかった。

そんな悪夢のような論文試問があるわけがないと思う読者もいるかもしれない。そこで今回は、試問を行う教員が、かつて戦犯として捕えられたナチスの高官相手に尋問を行っていた人物だった話をしよう。

スチュアート・ハンプシャーは1914年生まれで、アイザイア・バーリン(1909)、A.J.エア(1910)、J.L.オースティン(1911)たちよりは少し年下だが、同じ世代の哲学者である。ベイリオルコレッジで古典学を学んだあと、1936年に難関のオールソウルズコレッジのフェロー試験に合格し、バーリンやオースティンらの研究会のメンバーとして活躍する(第8回参照)。とりわけバーリンとは終生仲が良く、バーリンはタイムズ紙に掲載できるようにハンプシャーの追悼文を用意していた[1]

ハンプシャーは、今日ではバーリンやエア、オースティンほど有名ではないが、1951年にスピノザ研究の著作を公表し、1959年の『思考と行為』では心の哲学と道徳哲学を結び付けて議論するなどして、当時は英米で大きな影響力を持った[2]。彼はオックスフォードやロンドン大学で教えただけでなく、米国プリンストン大学やスタンフォード大学でも教鞭を執った。背が高く金髪のイギリス紳士だったようで、私生活ではエアの最初の妻のレネーと不倫をして、その後、彼女と結婚している。エアとはロンドン大学で同僚だったこともあるが、最終的には口も利かなくなったという[3]。彼はこの世代の哲学者の中では長命で、2004年に89歳で亡くなっている。

ハンプシャーの生涯について少し詳しく説明したが、第二次世界大戦中の活動について話をしよう。彼は、不器用なため兵士には向かなかったようで、すぐに諜報部に配置替えされ、ナチスのハインリッヒ・ヒムラーが創設した国家保安本部の活動を調査することになった[4]。国家保安本部といえば、泣く子も黙るゲシュタポを含むナチス親衛隊(SS)を統括する組織である。この時期ハンプシャーは、軍の仕事に勤しみながらも、同じく諜報活動をしていたライルやハートと哲学の議論を楽しんでいたようだ。とくに弁護士だったハートはこのときの経験がきっかけとなり、戦後にオックスフォードに戻って研究者の道を目指すことになる[5]

終戦直後、ハンプシャーは米国軍に捕えられたナチス高官の尋問を行った。その中には、上記の国家保安本部の長官を務めたエルンスト・カルテンブルンナーも含まれていた。ハンプシャーは尋問の内容について詳しく語っていないが、この経験を通して、親切心や共感だけでなく純粋な悪も人間にとってごく自然なものであることに気付かされたという。また、終戦直前には、フランス自由軍に捕えられたフランス人のナチス協力者を尋問する機会があり、「殺さないという保証をしてくれれば自白する」と主張する捕虜に対して、彼が翌日銃殺されることを知りつつも、殺されることはないと嘘をつくべきだろうか、という問題に直面したという[6]。こうした経験が、ハンプシャーのその後の倫理観に大きな影響を与えたことは想像に難くない。事実、彼は第二次世界大戦以前の「無垢」な倫理学は永遠に失われたとして、現代の倫理学は人間や政治の現実を直視したものでなければならないと後に論じている[7]

ユニヴァーシティ・コレッジ・ロンドン(UCL)。ハンプシャーは1940年代終わりと60年代初めにUCLで教えた。

さて、最初の論文試問の話に戻ろう。ピーター・シンガーの友人でリチャード・ケッシェンというカナダ人哲学者がいる。ケッシェンは1960年代末から70年代前半にかけてオックスフォード大学に留学しており、そのときにピーター・シンガーと友人となってシンガーがベジタリアンになるきっかけを作ったことでも知られているが、その話はまた別の機会に譲ることにしよう。ケッシェンが博士論文を提出したときの試験官の一人が、誰あろうハンプシャーだった。ケッシェンはそれまでハンプシャーに会ったことはなかったが、自身もスピノザを研究していたため、試問で彼に会えることを楽しみにしていた。

しかし、試問の日の少し前に、ハンプシャーが終戦頃にゲシュタポの高官たちの尋問に関わっていたことを知り、「少し震えた」という。戦後すでに四半世紀が過ぎていたが、ハンプシャーについてはそうした噂が学内で広まっていたものと思われる。口頭試問は学生も正装して3時間にわたって行われる。ガウンを来て試問の会場に向かうとき、ケッシェンは生きた心地がしなかったのではないだろうか。

ところが、実際にはハンプシャーや他の試験官は論文について鋭い指摘はしたものの、尋問口調でケッシェンと対峙したわけではなく、むしろ彼を励ますような態度で試問を行ったようだ。ケッシェンが唯一恐怖を覚えたのは、文法上の不適切な表現を4つ指摘され、そのページ番号を控えておくようにとハンプシャーから言われたことだったという。恐怖に感じたのは、ハンプシャーが論文を隅から隅まで読んでいることがわかったからか、言語使用に対する厳しい態度に驚いたからか、あるいはその両方だったのか。いずれにせよ、この試問は死人が出ることもなく無事に終了したようだ[8]

エグザミネーション・スクールズ。口頭試問を含む学生の試験は、通常ここで行われる。

というわけで、前評判では恐しい教員であっても、実際にはそうでないこともありうる。また、前評判通りの場合もあるかもしれない。これから試問を受ける人で、あまりの不安に囚われた場合は、今回の話を思い出し、敵国の捕虜となって尋問を受けることに比べたら、大したことではないはずだと考えて試問に臨むとよいかもしれない。

 

[1] Hardy, H., Isaiah Berlin’s obituary of Stuart Hampshire, 2013, http://berlin.wolf.ox.ac.uk/lists/bibliography/joint-text.pdf しかし、実際にはハンプシャーのほうがバーリン(1997年没)よりも長生きすることになる。二人の交友関係については以下に詳しい。マイケル・イグナティエフ『アイザイア・バーリン』石塚雅彦・藤田雄二訳、みすず書房、2004年

[2] Hampshire, S., Spinoza, 1951(『スピノザ』中尾隆司訳、行路社、1979年); Hampshire, S., Thought and Action, Chatto and Windus, 1959 なお、1951年のスピノザ研究は2005年に新たな論文を加えて出版されている。Hampshire, S., Spinoza and Spinozism, Clarendon Press, Oxford University Press, 2005

[3] エアとの複雑な交友関係については、以下に詳しい。Rogers, B., A. J. Ayer: a life, Chatto & Windus, 1999

[4] Hacker, P. M. S., Thought and action: A tribute to Stuart Hampshire, Philosophy, 80(312), 2005, pp.175-197

[5] Sugarman, D., & Hart, H. L. A., Hart Interviewed: H. L. A. Hart in Conversation with David Sugarman, Journal of Law and Society, 32(2), 2005, pp.267-293; Lacey, N., A life of H. L. A. Hart: the nightmare and the noble dream, Oxford University Press, 2004(ニコラ・レイシー『法哲学者H. L. A. ハートの生涯:悪夢、そして高貴な夢』中山竜一・森村進・森村たまき訳、岩波書店、2021年、第5章)。なお、本書を読むと、ハートは妻のジェニファーがバーリンとだけでなくハンプシャーとも性的関係があると思っていたようだ(第9章参照)。

[6] “Obituary: Sir Stuart Hampshire,” The Guardian, June 16, 2004, https://www.theguardian.com/news/2004/jun/16/guardianobituaries.obituaries なお、カルテンブルンナーはその後、ニュルンベルク裁判で死刑判決が下され、1946年10月に絞首刑となっている。

[7] Hampshire, S., Innocence and experience, Paperback ed., Harvard University Press, 1991

[8] Richard Keshen, Autobiographical Bibliography, http://cbucommons.ca/rkeshen/bio/

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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