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オックスフォード哲学者奇行

マードックと二人の教師たち(2)

大学教員には研究者としてより教育者として名を残す者もいる。ドナルド・マッキノン(Donald MacKinnon, 1913-1994)は、その典型であろう。彼はスコットランド西部にあるオーバンというウイスキー蒸留所から発展した町で生まれ、イングランドのウィンチェスターコレッジという男子全寮制の名門パブリックスクールを出たあと、オックスフォード大学のニューコレッジで古典学を学んだ。卒業後にさらに1年間神学を学んだが、この頃にはJ.L.オースティンやI.バーリンらの「木曜夜の研究会」にも参加していた(第8回)。

その後、エディンバラ大学で1年間道徳哲学の助手を務め、1940年にオックスフォードのキーブルコレッジでフェローになった。彼は喘息持ちであったため、A.J.エアや他の教員たちのように兵役に就くことはなく、戦時中もオックスフォードに残って教育を続けた[1]。アイリス・マードックやマリー・ミジリー、フィリッパ・フットなどが彼の薫陶を受けたのはその頃のことである。

今や神学かキリスト教学を研究しているのでもなければ彼の名前を聞くことはほぼないであろうが、マッキノンは当時のオックスフォードではとりわけその奇行でよく知られていた[2]。1940年秋から彼のチュートリアルを受けることになったミジリーは、事前に注意を受けていたものの、それでもかなり驚いたという。

マッキノンのチュートリアルはキーブルコレッジのビクトリア朝ゴシック様式の建物にある一室で行われた。そこはテーブル以外には何もない部屋で、本や紙が無造作に積み上げられていた。彼はときどき予想のつかない変な動きや苦しんでいるかのような引きつった顔をしたが、それは今日で言えば病名がつくほどのものだったとミジリーは回想している。また、暖炉の火かき棒やその他のものをぶんぶん振り回したり、それらを用いて暖炉を壁から取り外そうとしたりしていたという。さらに、床に寝そべったり、壁を激しく叩いたりもした。長い間沈黙して、学生の話を聞いていないように見えるときもあったという。

キーブルコレッジのチャペル。キーブルの建物はヴィクトリア朝ゴシック様式で有名。

奇行伝はまだ続く。マッキノンはかなり傷んだ安楽椅子に座ってチュートリアルをしていたが、ときにはテーブルの下に仰向けに寝っ転がり、鉛筆削り用の剃刀の刃でテーブルを切り刻んだり、自分の唇や手の上に剃刀の刃を載せて何度もひっくり返したりしていた。それで鉛筆を削り出すと止まらずに1ダース削ってしまうこともあった。

また、何か説明に困ることが出てくると、義歯を舌の先っぽに載せて、その舌を突き出すこともあった。チュートリアルを受けている学生は、義歯が床に落ちた場合に拾わなくてすむようにと、必死に後ろにのけ反るのが常だったという。さらにまた、マッキノンは部屋にある2つの窓の1つから顔を出して学生に話をすることもあった。学生は彼の声を聞くために、自分ももう1つの窓から顔を出さざるをえず、その姿は建物の装飾に用いられるガーゴイルの彫像のようだったという。

傑作なのが次の話である[3]。ある男子学生が日曜の午前中にマッキノンのチュートリアルを受けることになった。指定された時間に学生が部屋に行くと、マッキノンは風呂に入っていた。ここで普通なら風呂から上がるまで学生を待たせるところだが、マッキノンは学生に、湯船の隣にあるトイレに座ってエッセイを読み上げるようにと指示した。そして指示通りにトイレに座った学生がエッセイを読み終えると、次にマッキノンは湯船から出て、「タオルがない」と文句を言い出した。そして大声をあげて女性用務員にタオルを持ってこさせようとしたが、いつまで経っても持ってこず、「あの用務員は私のことを変人扱いしている」とぼやきだした。仕方ないのでついには男子学生が志願してタオルを取りに行ったという。

話はさらに続く。マッキノンが服を着ると、二人はセントジャイルズ通りの傍にあるLamb & Flagというパブに出かけた。スコットランド人のマッキノンは自分と学生にそれぞれダブルとシングルのウイスキーを頼み、それを飲み終わってからチュートリアルの続きを行った。「そう、カントがそのように言うときは、彼が言いたいことはこういうことであって、そしてそれこそ重要なのだ」という調子で、マッキノンはスコットランド訛りで30分ほど熱心に大声で話したという。

当日のパブの客はすべて兵士たちで、しまいには彼らは完全に沈黙してしまった。といっても彼らは怒っていたわけではなく、理解しているかどうかはともかく、マッキノンの熱弁に聞き入っていたようだ。そして、マッキノンがしゃべり終えると、パブは大拍手に包まれた。ところが、拍手されたマッキノン自身は喜ぶわけではなく逆に深く恥じ入ったという。彼は「意識的に変人を装っているわけではなく、本物の変人だった」からだ。

セントジャイルズ通り。ちょうど移動遊園地が来ているとき。

このような奇行が知られていたが、マッキノンは優れた教育者であり、週80時間と噂されるほど熱心に教えていた[4]。彼は広く深い哲学的関心を持っており、カントやヘーゲルなどの思想に詳しかった。ミジリーは、自分も含め、マードックやフットがマッキノンのチュートリアルを受けたおかげで、論理実証主義以降のオックスフォード分析哲学の影響を直接受けずに済んだと回顧している。フットも、自分に最も影響を与えた哲学者として、アンスコムとマッキノンを挙げている[5]

とくにマードックはマッキノンのことをキリストと考えるほど崇拝しており、まったく利己的なところのない、非常に気高くて知的な人物であり、彼のためなら火に焼かれても良いと思えるような人だと友人への手紙に書いていた。マッキノンもマードックとフットに気を配り、戦時中のボヘミアニズムから彼らを守る保護者を自任していた[6]

しかし、マッキノンとマードックの仲は傍から見ても深くなりすぎたようで、1943年秋には、二人の関係を心配したマッキノンの妻の介入により、二人は絶縁状態になった。その後も二人は数回会うことがあったが、1947年にマッキノンがアバディーン大学の道徳哲学の教授としてスコットランドに移り住むと、二人の関係はまったく途絶えてしまった。マードックはそのことを深く悲しんだという。マッキノンはその後、1960年にはケンブリッジ大学の神学の教授になり、78年に引退するまでその職を務めた。

マードックが1948年にセントアンズコレッジのフェローになると、マッキノンを彷彿とさせるチュートリアルをしていたようだ。彼女もチュートリアルをするさいに床に座るか寝そべるかしていた。ストッキングを履かずにソファに寝そべり、足には自転車に乗ってはねた泥が付きっぱなしだったこともあり、また、洗ったばかりの濡れた髪のままチュートリアルをすることもあったという。さすがに湯船に入ったままチュートリアルをすることはなかったようだが。

さらに、ある女子学生が入学面接を受けたとき、なぜ哲学をしたいのかとマードックが尋ねたことがあった。学生が「賢くなりたいからです」と答えると、マードックは腹を抱えて笑い転げたという。この学生は当然ながらこの反応にひどく傷ついたようだが、数日後に合格通知が届くと、マードックのことを赦したという。

チューターとしてのマードックの評価は良いものも悪いものもあったようだ。種目の多い体操競技ではないが、教育者、研究者、小説家など、すべての役割において秀でるのは今も昔も大変なことであろう。いずれにせよ、フレンケルやマッキノンといった教師に恵まれ、マードックは優秀な成績で大学を卒業し、哲学者兼小説家の道を歩むことになる。

秋のオックスフォード。

マードック関係の話はこのぐらいにして、次回はマードックの親友であったフィリッパ・フットの話をしたい。

 

[1] マッキノンの生涯について、詳しくは以下を参照。Sutherland, Stewart, “Donald MacKenzie MacKinnon 1913-1994,” Proceedings of the British Academy, 97, 1998, pp.381-389; Cameron, R., Donald MacKenzie MacKinnon, Royal Society of Edinburgh, https://www.rse.org.uk/fellow/donald-mackenzie-mackinnon/

[2] これ以降の記述は主に以下を参照した。Conradi, Peter J., Iris: the life of Iris Murdoch, W. W. Norton & Company, 2002; Midgley, Mary, The Owl of Minerva: A Memoir, Routledge, 2005

[3] この逸話はConradi, op. cit.より。この男子学生は後にキーブルコレッジの学寮長にもなるDennis Ninehamという神学者である。

[4] なお、マッキノンは兵役に就けなかったことを深く恥じており、そのこともあって新婚の妻とは同居せず、学生の教育に打ち込んでいたとされる。Conradi, op. cit.

[5] Voorhoeve, A., Conversations on ethics, Oxford University Press, 2009, p.87 なお、マードックやフットとは対照的に、R.M.ヘアも戦後すぐにマッキノンのチュートリアルを受けたが、「有名なオックスフォードの奇人」の言うことは1つも理解できず、良い本を勧めてもらった以外は影響を受けなかったという。Hare, R. M., “A Philosophical Autobiography,” Utilitas, 14(3), 2002

[6] Conradi, op. cit.

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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