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テレワークがもたらすもの ─呪縛からの解放─

第20回(最終回) 生き方としてのテレワーク

◆テレワークの普及は不可逆的
 本連載を開始してからほぼ5か月が経った。あの頃と比べて、テレワークはすっかり私たちの生活に定着したようだ。元の通勤生活に戻った人もいるだろうが、とにかく多くの日本人がテレワークを経験することになった。テレワークを良いと思った人もいるだろうし、不便と思った人もいるだろう。いずれにせよ、テレワークの「ブーム」が、今後かりに下火になっても、中長期的にみると、この働き方が広がっていくことは確実だ。本連載で繰り返し述べてきたことだが、もう一度その理由を確認しておこう。
 第1に、ICT(情報通信技術)は、今後ますます発達していく。5G(第5世代移動通信システム)が広く導入されると、VR(仮想現実)やAR(拡張現実)はもっと身近になっていくだろう。これにより、対面型でなければできない仕事は、少なくとも技術的な面からは大幅に減っていく。あとは企業がきちんとデジタル技術に対応できるかという問題だ。中小企業ではコストの負担もあって大変だろうが、コロナ禍を経験して、デジタル対応がBCP(事業継続計画)としていかに重要であるかが、広く認識されたはずだ。来たるべき災害に備えるためにも、企業はデジタル対応を進めていくだろうし、政府もそれを支援していくだろう(支援すべきだ)。これがテレワークの広がりが確実だと考える第1の理由だ。
 第2の理由は、第1の理由と関係するが、デジタル技術の発展が、産業の様相を一変させ、それにともない仕事の内容も変えていくからだ。これからの仕事は、データを活用してそこから新たな価値を生み出すものが中心になっていく。人間が手足を使って行う作業の中心は、PCなどの端末への入力になっていくだろう(将来的には、それも不要となるかもしれない)。ただ、その作業も機械的な肉体作業ではない(機械的な作業であればRPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)で代替されていく)。入力する情報は、頭の中で行った知的労働の成果だ。こうした知的労働が中心になると、わざわざ会社に行かなくてもよくなるだろう。インターネットにつながっていて、仕事に必要な情報が格納されているクラウドにアクセスさえできれば、世界中のとこででも働けるのだ。

◆幸福追求の手段としてのテレワーク
 第3の理由は、コロナ禍を経験し、人々のライフ(生存や生活)に対する意識が大きく変わってきたことだ。とくに日本人は、これまで、ワーク(仕事)のためとなるとライフを簡単に犠牲にしてしまっていた。「ライフよりもワーク」という優先順位の付け方は、長らく日本社会では当然のことだった。しかしテレワークは、この優先順位を揺るがす可能性がある。生活の拠点から動かずに仕事ができることの意味は大きい。単に通勤がなくなり、身体的な疲労が減る、生活時間が増えるといったことにとどまらない。働く側の意識の面で、仕事のために移動しなければならないというワーク中心の発想から脱却できるかもしれないのだ。
 ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)は、2007年に制定された労働契約法により、労働契約の締結や変更において配慮すべきものと定められた。法律上は、具体的にどのように配慮するかが明示されていないので、効果が薄そうな規定だが、そのもつ理念的意味は深いものだ。つまり、私たちは、いつ、どこで、どのように生活するかは自分達で決定できるべきであり、労働は、あくまで私たちの生活のなかの一部にすぎないのだ。
 私たちは、本来、時間主権と場所主権をもっている。これは広い意味での自己決定権の一つであり、憲法が保障する幸福追求権を実現するうえでの大前提でもある。私たち一人ひとりが自分の幸福を追求するためには、いつ、どこで、どのように労働するかを自ら決定していく必要がある。テレワークは、こうした生き方や働き方に少しでも近づくために欠かせない要素なのだ。

◆奪われた場所主権
 動物としての私たちは、植物と異なり、生きていくためには食物を求めて移動しなければならない。移動する生き物だから「動物」なのだ。約1万年前に農業が発明されてからは、一つの場所で安定的に食物を得ることができるようになり、それほど移動しなくても生きていけるようになった。
 約250年前にイギリスで産業革命が起こり、産業の中心が農業から工業に移ると、人々の生活は一変した。農村は農業生産性が向上するにつれ人口が過剰となり、そこから都市部に人々が流入するようになった。農村から離れて都市に出て働くようになった工場労働者は、食料を得るためには労働して賃金を得なければならなかった。このときから、工場労働者の苦難の道が始まる。工場は機械が主役で人間はそのオペレータにすぎない。とくに重化学工業の巨大な工場では、労働者は組織の歯車にすぎず、その労働は苦役だった。工場が稼働する時間に合わせて、自宅から工場まで行き、工場が止まれば自宅に帰るという通勤は、時間的にも場所的にも主権を奪われた労働者の苦境を象徴する行為だった。
 高度経済成長期以降の日本では、労働者の苦境は違った形で現れていた。雇用や賃金が安定し、一見恵まれているようにみえる正社員でさえ、都市部では人口が集中し職住接近が難しいため朝夕のラッシュアワーは「通勤地獄」と化していたし、社内では「いつでも、どこでも、何でもやる」という拘束性の強い働き方が、彼らを苦境に追いこんでいた。そこでは、時間主権や場所主権は大幅に制約されていた。なかでも転勤という移動の強制は、転居をともなうものであっても、企業はおかまいなしだった。最高裁判所は、住居の移転をともなう転勤は「通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」をもたらす場合には企業の権利の濫用になると述べた(東亜ペイント事件)が、それは逆にいうと、生活面での多少の不利益であれば甘受せよということを意味していた。非裁判官出身の最高裁判事ならともかく、一般の裁判官であれば、転勤はごく当たり前のことだ。「通常甘受すべき」として、労働者に受忍を求める水準が高まってもおかしくはない。実際、人権の最後の砦となるべき裁判所も、企業の転勤には比較的寛大だった。

◆場所主権のレコンキスタ
 テレワークは、通勤のみならず、転勤の必要性もなくしてくれる。自宅にいることによって、子の育児や家族介護との両立もやりやすくなる。育児や介護は、人間としての基本的な営みだが、時間主権も場所主権も奪われている労働者には、これまでは、法律によって育児休業や介護休業を認めてもらえなければ、こうした営みさえままならない状況にあったのだ(育児休業の導入は1992年、介護休業の導入は1999年)。
 しかしテレワークが広がっていくと、個人で対応できる余地が広がる。企業は、育児や介護をする社員のためにだけテレワークを認めるのは難しくても、前述のように、企業は、事業の遂行方法をテレワーク仕様に再編成していかなければ、将来の発展可能性はない。最初は大変でも、いったんテレワークを導入すると、優秀な人材が力を発揮しやすくなり(出産を理由とする退職や介護離職なども避けられる)、企業の成長にもつながるという好循環が起きる。人手不足が進む今後は、こうした企業しか生き残れないだろう。
 以上は主として雇用型テレワークの話だが、自営型テレワークとなると、ワーク・ライフ・バランスはいっそう実現しやすい。自営型テレワークが私たちの働き方の「ニュー・ノーマル」として完全に定着したとき、私たちの場所主権や時間主権の「レコンキスタ」(*)は完結するのだ。

(*)奪われたものを取り返すこと、の意。歴史的には、大文字のReconquistaを使って、イスラム教徒に占領されたイベリア半島を、キリスト教国家が取り戻す運動を意味する。

◆呪縛からの解放
 テレワークは、DX(デジタルトランスフォーメーション:デジタル変革)の一つの側面にすぎない。私たちの生活は、今後、デジタル技術を活用したものに劇的に変化していく。その典型例が、移動をせずに、仕事をすることだ。在宅でのテレワークは、まさに「ムーブレス・ワーク」なのだ。これを完全に実現していくためには、行政に関する手続もすべてオンラインで完結できなければならない。行政のデジタル化が完成して、初めて真のムーブレス・ワークも実現できる。
 仕事や行政サービス以外の場面でもムーブレスは広がっていく。例えば、商品の購入は急速にムーブレス化が進んでいる。近い将来、コンビニエンスストアは、倉庫となり、ドローンによる配送の拠点に変わるだろう。教育も医療も、旅行も芸術鑑賞も、人々は移動しなくてサービスを享受できるようになる。サザンオールスターズのライブ配信で話題になったように、エンタテインメントの分野でさえ同様だ。その根底には、情報がデジタルデータ化されて、高度に送受信できるようになったことがある。さらに、そうしたデータがAI(人工知能)をつかって分析され、次々と新しい価値を生み出していく。こうして私たちの生活は激変していくのだ。
 ただ、私たちは、DXの真っ只中にいながらも、まだどこか20世紀的な発想の呪縛に囚われている。そうした呪縛の典型例が、ワーク・ライフ・バランスに踏み切れない私たちの働き方だ。私たちは、何か大きな仕事をするときには、企業に入らなければできないと思っていないだろうか。会社員になると、企業の組織人となることが人間としての成熟を意味すると考えていないだろうか。組織(ワーク)のために家庭(ライフ)を犠牲にしても、それは結局、家族のためになると思い自己正当化していないだろうか。逆に家庭(ライフ)を中心にすることは、人間として恥ずかしいことだと思いこんでいないだろうか。そして、こうした意識をもたない若者たちを、上の世代が、否定的にみて押しつぶしていないだろうか。
 いま必要なのは、こうしたレガシー発想を捨て、企業中心の働き方から個人中心の働き方へと移行することだ。これは、ワーク中心からライフ中心への移行と言い換えてもよい。そうした移行をするために、どうしても必要なのがテレワークなのだ。これまでの発想の呪縛から解放され、21世紀にふさわしい働き方としてテレワークが広く認知されるときにこそ、私たちは人間らしい生き方・働き方を取り戻すことができるのだ。

(おわり)

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著者略歴

  1. 大内伸哉(おおうち・しんや)

    1963年神戸市生まれ。東京大学法学部卒、同大学院法学政治学研究科博士課程修了。神戸大学大学院法学研究科教授。博士(法学)。労働法を専攻。著書に『君は雇用社会を生き延びられるか』(明石書店、2011年)ほか多数。SHINYA OUCHI Web Site:http://www2.kobe-u.ac.jp/~souchi/

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