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オックスフォード哲学者奇行

マードックと二人の教師たち(1)

アイリス・マードックはオックスフォード大で学んでいたときに二人の教師から大きな影響を受けた。一人はエドアード・フレンケル、もう一人はドナルド・マッキノンである。今回は、フレンケルの話をしたい。

前回述べたように、マリー・ミジリーとマードックがオックスフォードのサマヴィル・コレッジに入ったのは1938年10月のことだった。その年の始めにはヒトラーの率いるナチス政権がオーストリアを併合し、翌年の9月にはポーランド侵攻により、ついに欧州は第二次世界大戦に突入した。まもなくライルやエアやオースティンといった教員たちが軍で活動するだけでなく、若きヘアをはじめ大勢の男子学生も一兵卒となって戦場へと向かった。

戦争の影響の一つとして、ミジリーは五月蠅い男子学生がいなかったので勉強がしやすかったと述べているが(第11回)、もう一つ大きな影響があった。それは、ナチスに迫害されたユダヤ人研究者がオックスフォードに多くいたことである。戦時中、とくに北オックスフォードのバスの車内では、ドイツ語が飛び交っていたという[1]。そのようなユダヤ人研究者の一人にはフランクフルト学派のテオドール・アドルノがいるが、別の一人は、エドアード・フレンケル(Eduard Fraenkel, 1888-1970)である。

フレンケルは1888年にベルリンに生まれ、詳細は略するが、フライブルク大学で文献学(philology)の教授になった。今日、文献学はすでに言語学に吸収合併された学問であるため、現在ではニーチェがもともと文献学の教授だったことくらいしか思い出されないが、ミジリーは文献学を「特定のギリシア語やラテン語の起源や関係についての研究」と説明している。ところが1933年にナチス政権が成立すると、フレンケルは教授職を辞めさせられた。1934年に妻と一緒に渡英すると、その年の終わりにオックスフォードのコーパス・ラテン語教授職に就任した。

フレンケルの容姿はインターネットで検索すれば写真が見つかるが、ピーター・コンラディの記述によると、「背は低く、不釣り合いなまでに大きな頭をしており、立派な額がドーム状の禿げ頭(端に少しだけ髪が残っている)へとつながっていて、きれいな目と、大きな耳と鼻と非常に頑固そうな顎をしていた」[2]

左端の人物がフレンケル。イタリア語版Wikipediaにあるパブリックドメインの写真を転載。

ミジリーはフレンケルのホラティウスに関する講義に出席したところ、それまで退屈だった古典学への考え方が一変したという。彼がヨーロッパにおいて古典学の研究が次第に発展していく様子を話すのを、ミジリーは次のように回想している。

「彼が話していると、すべてのプロセスが活き活きと蘇ってきた。幾世代もの写本家たちや他の作業をしていた者たち――以前は我々の(読解の)努力に対する単なる邪魔者と思われた者たち――が、次第に同僚として、つまり過去の偉大な思想家たちの著作を理解し使用する努力を共に担う者たちとして立ち現れてきた。(中略)自分が時代を超越した偉大な努力の一部となる感覚――この感覚はオックスフォードの建物からもどのみちある程度は得られるものであるが――は、より明確に、またより直接的になった。」[3]

ミジリーの記憶では、マードックはフレンケルの講義には出ていなかったが、コーパス・クリスティ・コレッジで行われたアイスキュロスのギリシア悲劇『アガメムノン』のゼミには出席していた。ドイツ式のゼミは当時のオックスフォードではめずらしかったようで、ミジリーは次のように説明している。ゼミは週1回夜の5時から7時に行われ、無断欠席は許されず、病気か死につつある場合は、事前に書面で連絡する必要があった。実際、ミジリーは一度足首を骨折した際に手紙を出して休んだが、それ以外は5学期にわたって通い続けたという[4]。ゼミは20名ほどで、学生だけでなく教員(フェロー)たちも参加していた。

マートン通り。左手はマートン・コレッジで、まっすぐ行くとコーパス・クリスティ・コレッジとクライスト・チャーチがある。この石畳は非常に歩きにくく、ときどき自転車が転倒している。

毎回、読解を行う箇所について学生と教員の二人がそれぞれ事前に勉強して、本番では、それがどういう意味と考えるか、またなぜそう考えるかを述べる。まず学生が発表し、解釈に行き詰まると、フレンケルがそれはどうしようもなく間違った解釈だと述べ、次に教員が発表するが、やはりフレンケルによって間違いをはっきり指摘される。そのあと、フレンケルが引き継ぎ、関連するほかの文章やヨーロッパの歴史まで話が及び、議論が場合によっては数週間続く……という感じで、「恐ろしい手順だったが、同時にものすごく魅力的なもの」だったようだ[5]

マードックも、フレンケルが他の研究者による解釈に対しては「ノンセンス」「語るに落ちる」と罵っていたと記しており、「優れた教師は少なからずサディスティックなところがある」と述べていた[6]。彼女はアガメムノンの授業を絶賛しつつも、「(コーパス・クリスティ・コレッジの隣にある)マートン・コレッジの時計の鐘の音を聞くと、今でもあの授業の緊張した雰囲気を思い出す。そして、もし自分の知らないことを聞かれたらどうしようと非常に怖れていたことも」と約四半世紀後に述べている[7]

マードックらから4年ほど遅れてフレンケルの講義やゼミを受けたマリー・ウォーノックによれば、フレンケルや他の亡命ユダヤ人研究者が行っていた厳密な文献学は、オックスフォードの古典学に、また哲学にもよい影響を与えたという。

「我々はこれらの授業から、根拠のないワイルドな解釈の無用さを学んだ。我々は特定の単語がそれが用いられた時代にどのような意味でありえたかと常に問うことを学んだ。(中略)物事を――非常に小さな物事さえをも――正しく理解したいというこの深淵な欲求は、間違いなく戦後の哲学において再び現れたものである」。[8]


秋のテムズ川。遠景に見えるのはFolly Bridge。

フレンケルの授業はこのように時に恐ろしいながらも大変刺激的なもので、オックスフォードの学生や教員たちに大きな影響を与えていたようだ。しかし、その一方で、フレンケルには大きな問題があった。彼には女子学生へのセクハラ癖があったのだ。

フレンケルのお気に入りの女子学生は、ゼミ終了後に彼の研究室でチュートリアルを受けたが、それは身体的な接触を含むものだった。後にマードックが夫のジョン・ベイリーに話したところでは、フレンケルとマードックはテキストを開いて隣同士に座り、時には1つの単語に30分ほどかけて解釈を行うこともあったが、その際に腕をなでられたり手を握られたりすることがあったという[9]。また、ウォーノックも同様の経験をしたが、彼女の場合はフレンケルが「キスや不器用な手つきで下着を触る以上のこと」はしなかったという[10]。なお、ミジリーは、自分はチュートリアルに呼ばれなかったため、そのような経験をしなかったと述べている。

興味深いのは、マードックもウォーノックもこうしたセクハラ行為をあまり問題視していなかったことだ。そもそもミジリーとマードックのチューターの一人だったイソベル・ヘンダーソンが二人にフレンケルの指導を受けるように伝えた際、「フレンケル先生は女性の体に少し触るけど、気にしないでいいわよ」と伝えたというが[11]、それはフレンケルの性癖はすでに大学内で噂になっていたということだろう。しかし、それが大きな問題になることはなかった。マードックの夫によれば、「アイリスは、彼(フレンケル)の行動――今日であればセクハラのショッキングな一例となるもの――に何か危険なものや尊厳を傷つけるようなものがあるとは、一度も思いもしなかった」[12]。また、ウォーノックも「公的に苦情を言うことができる事柄があるとは、一度も思いつかなかった」と述べている[13]

このような体験をしてから約30年後にウォーノックとマードックはあるパーティー会場でこの話をする機会があり、お互いが同じ体験をしていたことを知って話が盛り上がったという。そこで二人が同意したのは、一つには、フレンケルの性的行為の不適切さは彼が与えてくれた豊かな知識や彼が開いてくれた広大な地平と比べれば全くもってささいなものと見え、また一つには、身体的なものと知的なものとの結合は世界で最も自然なものと思われ、ある種の理想を示しているとも言えた、ということであった[14]

再びマートン通り。私の背後、5時の方向にコーパス・クリスティ・コレッジがある。

ここまでフレンケルのセクハラ癖について述べてきたが、ジョン・ベイリーが言うように、今日であれば大問題になるレベルのセクハラ行為である。仮に私が同じことをしたら、「倫理学者が非倫理的な振る舞いをした」などとソーシャルメディアで非難を受け、当局に念入りに拷問されたうえで火炙り生き埋めにされ、私の著作も焚書に処されて私も著作もこの連載もそもそも存在しなかったことになってしまうだろう。往時とは人々の道徳的感受性が大きく変わったことを示している。

もっとも、当時においてもマードックやウォーノックらと同じようには思わなかった女子学生もいたようで、ウォーノックの友人でフレンケルから同じような行為を受けた女性は、フレンケルの行為を非常に汚らわしいものと感じ、またセックスに対する自分の考え方に長く続く悪影響を及ぼしたと語ったという。そのような女子学生が他にも少なからずいたことは想像に難くない。

また、ウォーノックの同級生の一人がフレンケルから同じような行為を受けた際、彼女ははっきり断り、さらに自分のチューターに一部始終を伝えたという。それによって聞き取り調査が行われ、ウォーノックはそれ以降、フレンケルのチュートリアルを受けることはなくなった。しかし、それでフレンケルのセクハラがなくなったわけではなかった。ウォーノックによれば自分より20歳以上年下の女性もフレンケルからセクハラを受けていたとのことで、それが正しければ、1953年に教授職を引退して名誉フェローになってからも同じような行為を続けていたことになる[15]

しかし、一昔前のこととはいえ、このような権力を利用した不正義がまかり通って良いものだろうか(いや良くない)。そう思ったコーパス・クリスティ・コレッジの学生たちは、2017年に、コレッジ内にある「フレンケル・ルーム」という部屋の名称を変更する決議を行った[16]。死後の復讐というものがあるとすれば、これがそれであろう。オリオル・コレッジにあるセシル・ローズ像も撤去が予定されているが[17]、優れた業績を残すと同時に大きな道徳的不正を犯した人物をどう評価すべきかというのは倫理学的に興味深い話題ではある。しかし、それはまた別の機会に論じることにしたい。

 

[1] Conradi, P. J., Iris: the life of Iris Murdoch, W. W. Norton & Company, 2002 コンラディの本はkindleで閲覧しているため、ページ数は省略。

[2] Ibid.

[3] Midgley, M., The Owl of Minerva: A Memoir, Routledge, 2005, pp.96-97

[4] ギリシア語・ラテン語の試験(Honour Moderations)が行われるまでの、最初の約1年半のこと。第5回の記述を参照。

[5] Ibid., p.98

[6] Conradi, op. cit.

[7] Conradi, op. cit.

[8] Warnock, M., A Memoir, Gerald Duckworth & Co. Ltd., 2000, p.40

[9] Bayley, J., Iris: a memoir of Iris Murdoch, Duckworth, 1998 ベイリーの本はkindleで閲覧しているため、ページ数は省略。

[10] Warnock, op. cit., p.70

[11] Midgley, op. cit., p.98

[12] Bayley, op. cit.

[13] Warnock, op. cit., p.70

[14] Ibid., p.77 コンラディは「それだけでなく、彼女(マードック)は後に、エロスと知性の関係について、哲学思想を作り出すことになるのであった」と述べている。Conradi, op. cit.

[15] Ibid.

[16] “Corpus votes to rename room named after alleged sex offender,” Cherwell, 27th November 2017, https://cherwell.org/2017/11/27/corpus-votes-rename-room-after-allegations-of-sexual-misconduct/ ただし、これはあくまで学生組織の決議であるため、コレッジとしての正式な決定ではない。新しい名称が決まったという話を聞かないので、時間がかかっているのかもしれない。

[17] BBCニュース「英オックスフォード大学のコレッジ、植民地政治家の石像を撤去する意向」2020年6月18日、https://www.bbc.com/japanese/53088031

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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