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私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第21便 木村友祐より(第6章 国家と家族のあいだ)

温又柔さま

 

 1月も、もう半ばになりましたね。今年は明らかに暖かな冬で、あれ、1月の寒さってこんなもんだったっけと、すでにかつての冬の寒さの感覚が遠のいています。

 正月に八戸の実家に帰ったら、いつもは食卓の上に塩鮭の切り身を焼いたものが大皿にぎっしり盛られて置いてあるのに、今年は1人に1個のちいさな切り身がだされただけでした。深刻な鮭の不漁のためだそうです。これも海水温の上昇の影響ではないのかと、いつも食べていた魚が食べられなくなる将来が頭をよぎって、暗い気持ちになりました。人間も困るけれど、それ以上に北海道のクマたちは大丈夫だろうか、鮭が遡上しなくなったせいで母グマと子グマが飢えに苦しんでいないだろうかと、心配になります。

 そんな不安の種を抱えて東京にもどったら、トランプ大統領の指示で、アメリカ軍がイランの国民的英雄とされるソレイマニ司令官を殺害したというニュースが飛び込んできました。自国民へのロケット弾攻撃などへの自衛のため、という理由づけをしているようですが、戦争中でもないのに、主権国家の要人をいきなり空爆で殺すという、ふつうに考えて異常としか思えないことをやったのです。だれが殺したのかわからないように実行する暗殺ではなくて、むしろ殺害のことを誇らしく世界中にアピールさえしました。

 イランがアメリカとその同盟国に報復を宣言したのも、当然といえます。トランプ大統領は事件のあとに「戦争をしたいわけではない」と言ったようですが、それだと、イラン側はやられ損になりますね。このままで済むのかどうか(済まないと思いますが)。

 こんなとき、ぼくがいつも不思議なのは、個人がやったなら逮捕され極刑に処されることでも、国がやったときはなんとなく許されてしまう(そういうものだとどこかでみんなが受け入れてしまう)のはなぜなんだろう、ということです。トランプ大統領が「個人」でソレイマニ司令官を殺害したら大問題になるはずなのに、「国」がやれば“そういうもの”になってしまう。先ほどぼくは「戦争中でもないのに」と書きましたが、なぜ、国同士が争う戦争なら殺人も許容されてしまうのか。このダブルスタンダードのマジックはなんだろうといつも思うのです。

 ぼくは、「戦争」といえば「仕方のないこと」にされること、ぼくらがいつの間にかそう思ってしまうことは、危険なことだと思っています。

 こんなぼくの思いは、知識と教養のある「大人」には、鼻で笑われるのかもしれません。大昔の、国以前の部族レベルで暮らしていたころから人間は戦争を起こしてきたのだし、近代になっても盛んに戦争はくり返されてきた。そのようにイヤでも戦争は起こってしまうのだから、一般庶民があれこれ反対を訴えても「仕方のないこと」で、国が起こす戦争に疑念を挟むのは現実を踏まえない子どもじみた認識だと。

 けれどもぼくは、そういう現実主義めいた大人の認識や諦念・冷笑には、真っ向から歯向かいたいです。政治家を選ぶ側であるぼくらは、つねに、国の一員ではなく「個人」として(もっといえば「一匹」として)、物事の良し悪しを見極める立場を明け渡してはいけないと思っているからです。「戦争だからって殺しが許されるなんておかしいでしょ?」という子どものような認識を、明け渡してはいけないと。

 この見方は、ぼくが小説を書く動機のベースになっているものです。端的にいえば、国策という巨大で冷徹な“システム”に従うことへの拒絶と抵抗というか。血の通う生きものの側に身を置こうとすれば、どうしてもこの国がやろうとする大事業とは対立せざるをえません。

 過去も現在も、この国ニッポンは、生きものの暮らしを統制し、管理し、排除して事業を押し進めてきました。戦争という大事業によって数多くの自国民の兵士を餓死で死なせ、台湾をふくむアジアの国々を植民地下に置いたことからはじまり、水俣病の原因企業であるチッソを守るための患者の切り崩し、ハンセン病患者の隔離および断種と堕胎の強制、原発事故を起こした東電の保護と事故の矮小化、沖縄県民の民意をまったく顧みない辺野古への新基地建設と海殺し、東京オリンピックの治安のためという歪んだ名目でつづいている非正規滞在の外国人の長期収容、労働環境の整備は現場まかせにして多額の借金を背負ったアジアの若者を働かせる技能実習制度、など、など……。ほんとうに、ろくでもないですね。

 こんなことをやらせるために国の運営をまかせ、権力の行使を許したわけではありません。一体、だれのための国なのかと思います。そして、一体だれのために、為政者らは国を動かしているのか。

 国といえば、つい最近、内閣の中枢にいる某政治家が、「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、一つの王朝を保ち続けている国など世界に日本しかない」と発言し、問題になりました。間違いも甚だしいその発言は、大和朝廷が東北地方を侵略して、その地で独自の文化を築いて暮らしていた「蝦夷」と呼ばれた人々を屈服させて取り込んだ九世紀の出来事をなかったことにしています。また、明治時代、北海道のアイヌ民族を迫害して同化を強いたことも抜け落ちています。

 アイヌの言葉が独自であるように、もはや記録にも残されなかった蝦夷の言葉も、独自なものだったでしょう。その政治家の地元がある九州にも大和朝廷の支配下に置かれた異なる民がいたそうですし、第一、沖縄には、れっきとした琉球王朝がありました。そういうこの国の複数性を、その政治家は、天皇を頂点とする王朝のみで均一に塗りつぶしたのです。なんという傲慢。なんという悪質な歴史の捏造。

 そんなふうに、為政者側の人間による国の定義のイカサマを見せつけられると、“国”ってなんなんだろうとあらためて思います。それは果たして、実体があるものなのでしょうか。宗教のように、ストーリーにもとづいたあらゆる権威付けと罰則によって、実体があるように思わせられているだけなのではないでしょうか。だから、国家への忠誠を誓わせることを押し進めようとすると、どんどん宗教に近づいていくのではないでしょうか。

 国があるから民があるのか。民があるから国があるのか。

 見方によっては前者があてはまることもあるかと思いますが、代議制による民主主義国家が成立する大前提は後者の「民があるから国がある」なのだとぼくは思うし、何があっても、主権は民の側にあるという立場を明け渡したくありません。

 国とそこに住む人々の関係について、以前、『移民政策とは何か』(髙谷幸編著・人文書院)という本を読んで、漠然と感じていたことをクリアに言葉にしてもらった箇所がありました。ちょっと長くなりますが、大阪大学の教授の髙谷幸さんが書かれた「出入国在留管理──非正規移民への対応を問う」から、文章を引用させてください。

 ――さてこの非正規移民とは、国家から滞在を認められていない存在である。一方で、アンディは工場に勤め、日本人男性と知り合い、子どもが生まれた。子どもは学校に通い、NGOともつながった。人びとや組織・制度が結びつき一定のまとまりとして成立している空間を社会と呼ぶならば、アンディをはじめとする非正規移民は、この社会から完全に排除されているわけではない。/彼らは、国家から承認されていない一方で、人間関係を築き、市場や家族、学校という社会における組織・制度に参入することもできる。これは、社会が、国家から相対的に自立した自生的な空間であること、人が生を紡ぐのはその空間においてであることを示している。非正規移民とは、社会と国家のメンバーのズレを体現する存在といえるだろう。(61頁)

 国家から承認されていなくても、「自生的な空間」で人は生きものとしての生を紡ぐ。まったくその通りだと思います。身につけた言語や文化のちがいがあったとしても、人が生きる営みに根本的な様式のちがいはないのだから、他国からやってきた者でもやがて異なる環境に適応して暮らしていくでしょう。

 さらに、ここを読んでぼくが感じたことは、たとえ「国家のメンバー」=国民であっても、生きものとしての生を営む本来の姿は、本質的に国家とズレがあるものではないか、ということです。そのズレを、子どものころからの学校教育やルールを遵守させる環境づくりなどによって、国家が求める人間像に沿わせていくのではないでしょうか。地方でそれぞれの方言で話していた子どもに、国家がつくった共通語=標準語を習わせるのもそのひとつです。

 先ほどの引用箇所のあとに、髙谷さんはこうつづけます。

 ――一方で、国家は、社会とのズレを放置しておくわけではない。近代国家は、領土や人員の境界すなわち国境を管理する権限をもっているが、この権限を用いて、国家は、社会とのズレを解消しようとする。(62頁)

 他国からやってきた者が「自生的な空間」においてなんとか適応し、家族や友人をつくって暮らしていく。そこでは、人が生きていくことになんの問題もありません。でも、その生きものの暮らしに日本の国家は介入して、線引きをするのです。お前は日本国籍を持っている日本人か否か、日本人でないなら、正規の在留資格を持っている者か否か、という基準で。日本国籍者ではなく、在留資格も持っていなければ、力を行使して領土から排除しようとします。治安のため、日本人の職を奪われないため、日本人の“純血”を保持するため、などという、どれも根拠が疑わしい理由を持ち込んで。

 ぼくが思うにそれは、「国家の権威」などという根拠のないものをあらしめるために立場の弱い者を利用して、国というものは厳然とあるのだぞ、国は怪しい外国人を取り締まってあなた方国民を守っているのだぞ、というイメージを国内に植えつけるためにやっているようなものです。その目的のためなら、日本で生まれた子どもと親を引き離すことさえ容赦なくやってのける。

 そして、この国家の線引きは、外国籍の者ばかりではなく、日本国籍の市民にも向けられます。日本国籍者であっても、国家の求める人間像からひとたび外れれば、基本的人権の保護の対象から外されるか、救済を後回しにされます。犯罪者はいうにおよばずですが、野宿者に対する冷遇や、生活保護受給者に対する保護費の削減もそうでしょう。また、シリアで武装勢力に拘束されたジャーナリストの安田純平さんを、この国は本気で救おうとしたでしょうか。

 困ったときに助けてもらうために国家という体制を支持していたはずが、ほんとうに困ったとき、この国は親身になって手を差しだしてはくれないようです。さらに、辺野古で米軍基地建設に抗議する人々に対する弾圧をみれば明らかなように、政府の意向に逆らう者には容赦なく牙を剝いて襲いかかるでしょう。ぼくはそこに、国家という権力機構の本質をみるのです。

 ここまで、国家というものに対するぼくの根本的な不信や疑念をつらねました。ただ、これはとくに日本という国についてつよく感じる不信なので、国家自体がなくていいとまでは、今は踏み込むことはできません。

 先日、台湾総統選で「台湾を次の香港にしない」と訴えた蔡英文総統が再選されましたね。温さんも投票のために台湾に行かれたご様子。

 香港の人々が、中国の思惑とは別に民主的でありたい願いを行動に移した途端、苛烈に弾圧されたように、台湾という国の輪郭がなければ、政治においては強権的な中国にすぐにでも飲み込まれてしまうという危うい不安を、温さんは皮膚感覚で抱えているのかもしれません。そもそも、それ以前に、かつて台湾は、アジアを侵略した日本の国家によって支配されていました。そこでは温さんの祖父母は、「日本人」とされていた……。

 ここでもぼくは、今の台湾を思う温さんの気持ちをどれだけ生々しく想像できるのだろうと自分に問わなければなりませんが、国家とそこで暮らす人々について、国境と言葉をめぐって思索を深めてきた温さんはどのように考えているか、お聞きしたいです。

 

 2020年1月15日

 木村友祐

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著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

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