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私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第20便 木村友祐より(第5章 性と性のあいだ)

温又柔さま

 

 2020年、になりましたね。二度目の東京オリンピックが開催される年。

 このオリンピックのために、新国立競技場の工事現場のそばで暮らしていた野宿者は移動を余儀なくされ、世紀の一大イベントに備えた治安維持のためという名目で、非正規滞在の外国人が不当に長期勾留されています。またこのイベントは、必ずや、「日本人」の国威発揚に利用されるでしょう。

 そのような華々しい/禍々しいオリンピックに対抗するために、ぼくらはちいさな文学賞、「鉄犬ヘテロトピア文学賞」をはじめましたね。その文学賞も、今年でひとまず終わりを迎えます。

 のっけからこんなことをいえば、お正月の祝賀ムードも微妙にもやもやしてきますが(すみません)、とはいえ、まずは、新年おめでとうございます。今年も温さんにとって、実り多き一年となりますように!

 ぼくのほうは、小説家デビューから10年目にしてはじめて、芥川賞という“新人賞”の候補に引っかかり、結果を待っている状態です。文学そのものの本質とはかけ離れたイベントに、いちいち心をとらわれねぇぞと思いながら、それでもふとした拍子にそのことが頭に浮かんでしまうというこの不本意な感覚は、すでに温さんは経験されましたね。作品は提示されました。あとはもう風まかせ、です。

 気がついてみれば、温さんと昨年2月からはじめた手紙のやりとりも、もうすぐ1年がたつのですね。何かの媒体で公開される予定もないのに、温さんにいただいた言葉についてじっと考え、悩み、うろたえ、自分が答えられるギリギリの言葉をどうにか紡いできました。温さんもまた、同様だったことと思います。このひそやかな言葉の往還、思考の惑いと沈潜。なんという贅沢なことでしょう。

 前回のお手紙では、女性の身体をめぐる、当事者であるがゆえの鮮やかな、かつ生々しく切実な視点を提示していただきました。感じたことは、『82年生まれ、キム・ジヨン』を読み終えて感じたことと同様に、わかったつもりでいたことも、その細部の心情の機微までは全然わかっていなかった、ということです。

〈わたしにとっては、いや、おそらく多くの女性にとっても、望まぬ性的視線に晒されるのはとても苦痛なことです。〉

〈じろじろと無遠慮に眺められることや、死守したい一線を踏み越えられそうな状況に陥るのは、ただの恐怖でしかありません。〉

〈その不快感やおぞましさときたら、すさまじいものがあります。〉

 まさに、その苦痛や恐怖、すさまじいまでのおぞましさを、ぼくら男の側は、どれだけほんとうに身にしみてわかっているのだろうと思いました。そう言われてはじめて、そうだったのか、とようやく想像をはじめるほど、女性の側の思いや受けとめに鈍感だったのでは、と思います。それゆえ、人によっては、そう言われてもまだピンとこない人もいるのではないかとさえ思いました。

 温さんとの対話の影響もあって、最近、このことを自分に置き換えてみるのです。ぼくはバイトの勤務先に行く前に、自販機で缶コーヒーを買います。取り出し口から缶コーヒーを取ろうと腰をかがめるのですが、そのときぼくのお尻は歩道のほうに突きだした状態です。もちろん、ふだんはいちいち自分のお尻に注意など払っていませんが、ふと、まさに今、だれかが(男でも女でも)おれの尻に性的な視線を集中させていたらと考えたとき、なんとも落ちつかないイヤな感覚になりました。視線ばかりではなく、いきなりそのとき背後から力ずくで腰を抱え込まれたとしたらどうだろうとも。そんなことがあったら、自分が自分である尊厳を強引に無視された痛みと屈辱を感じるだろうと想像しました。

 男性側には、こんな話は笑い話として受けとられるかもしれませんが、女性には笑える話ではないはずです。なぜなら、日々、毎時間、その可能性にさらされているのですから。

 性的なものをふくんでだれかに(とくに自分が関心のある人に)身体を見せたいという気持ちになることはあるでしょう。でも、仕事中心の日常の意識にいるときに、自分の気持ちとはまったく別に身体を性的に眺められることは、人としての尊厳をそのつど削り取られる感覚に陥ることだろうと思います。

 缶コーヒーを取りだそうと腰をかがめて突きだした尻を、だれかに舐めるように見つめられる感覚。この苦々しい感覚を、すべての女性は日々味わっているのではないでしょうか。尻ばかりではなく、顔も、髪も、胸も、首筋も、二の腕も、腰も、太ももやふくらはぎも、そんな視線にさらされながら。

〈いまのわたしは、「コンビニからエロ本がなくなる日」の到来を切々と待ち望んでいます。自分のために、というよりは、この国の女の子たちが、自分のふくらみつつある乳房や、いずれ陰毛がはえてくる股間などが、男に劣情を催させるモノなのだと思い込まされることがないように。そうした男の視線に呪縛されることで、みずからの欲望を歪めてしまわないように。〉

 だれもが出入りする全国のコンビニに、エロ本が置いてある。さらにいえば、エロ本とはみなされていない週刊誌や少年マンガ雑誌の表紙や巻頭ページに、水着姿の女性が堂々と掲載され、棚の前を通りかかった老若男女すべての人の目に入る。

 今までは、それがあたりまえのことになっていました。ここでもまた、温さんの指摘によってハッと気づかされるという情けなさをさらすのですが、そこに表れているのは、女性の体を欲情の対象として眺めて何が悪い、という男の側の論理なのではないでしょうか。子どもから老人まで出入りするコンビニにそのような雑誌が公然と置いてあるのは、その論理を国中で公認していることだともいえるかもしれません。

 これに関しては、「女性の体は隠すべき恥ずかしいものではない」という言い方は、(言葉そのものは正しくとも)的外れな指摘ですよね。そして、出版の自由をふくむ「表現の自由」を言い立てるなら、だれにとっての表現の自由なのかを問い返さなければなりません。それは結局、男にとっての表現の自由なのではないか、ということです。

 コンビニや書店にエロ本を置けないようにすることは、まずやるべきことだと思います。ただ、それなら女性の水着姿やヌードの掲載をすべて取り締まればいいのではないかと考えを進めたとき、それはそれで微妙な問題をはらむように思いました。女性の裸体が人の目にふれることを、現段階では男の閣僚がほとんどを占める国家が禁じる。つまりそれは、男が独占する国家が‘女性の身体を管理する’こと、もっとストレートにいえば、男が女の身体を管理することになるのではないでしょうか。

 そこで連想するのは、キリスト教やイスラム教、仏教といった古くからある世界宗教における、女性や女性の身体に対する扱いです。それらの宗教のいずれかに属していれば、どうしても考え方の基層にその思想が浸透していると考えられるのですが(ぼくでいえば仏教に)、人々のモラルの指針となる宗教においても、女性の身体はなんらかのコントロールが必要な、統制や禁忌の対象とされてきたのではないでしょうか。言いかえれば、はるか昔からずうっと、女性の身体は女性自身のものとはみなされてこなかったのだと思います。

〈異性である男性の裸体よりも、自分と同性である女性の乳房や腰つき、やわらかな曲線、肌の艶やかさのほうにこそ、エロティックなものを感じていました。〉

 女性の身体について、同性の視点として、温さんはそう書かれました。これは男としてのぼくには、思いもよらない、とても新鮮な指摘でした。そのあと、温さんはこうつづけます。

〈これはわたしが木村さんとちがって、〈寄ってたかって「見られる」〉のほうの性に属していることと密接な関連があるように思います。〉

 その側面はあるのかもしれないと思いつつ、そこにあえて付け加えてみたいのは、女性の身体は、男性ばかりではなく、女性にとっても官能性をふくんで魅力的なのではないか、ということです。だからこそ、体のラインを強調した服が多くの女性に支持されている。

 そのうえで先ほどまでの話にもどれば、両性にとって魅力的な女性の身体を、男の側はあたかも‘私有財産や財宝のように’囲い込もうとしてきたのではないか、という疑いが湧いてきます。

〈この女は、モノとして不特定多数の男の慰み者にしていい。

 この女性は、そんな目に遭わせてはならない。丁重に扱おう。

 こうした「線」は、いったいどうやって引かれるのか……〉

 この線を引く権利を有する者は、当然、男にちがいありません。そして、そこでの線引きの基準は、線を引く男の関係者かそうでないかという、根拠などない、たんなる所有意識、身内意識、階級意識にもとづくものと予想します。引いた線からこちら側(線引きする男の側)にいる女は、人間扱いされるという。そしてそのような視線は、日本人以外のアジア人の女性には、より一層露骨に注がれることになってしまう。

 ただ……、こうやってすごく物がわかったような口ぶりで書いているぼくだって、その時代の特権階級にいたらどうなっていたことか。なんのやましさも感じずに〈ぞっとするようなこと〉を行っていたかもしれないのです。その事態を想像すると、ほんとうに、考えるほどにぞっとします。

 いちばん身近で長らく見えにくくされていたもの。それが、女性の尊厳および人権の低い扱いではないでしょうか。その真の意味での確立は、残念ながら、まだしばらく時間がかかるのでしょう。なにせ究極的には、(原発事故で自主避難した母子を本気で支えなかったように)女性と子どものことをいつも後回しにする政府を相手に闘わざるをえないくらい根深い問題なのですから。

 でも、その弊害に、人々は少しずつ気づきはじめてきました。この流れを後退させないように、地道に当事者の声を積み上げていかなければならないと思います。もちろんこれは、女性だけの闘いではありません。というより、むしろ、ぼくら男性が取り組むべき闘いです。男たち一人ひとりが、自身の心の中にある、女性に対する優位性や特権性、差別心と向き合うようにならなければ、ほんとうの意味での変化は起きないのでしょうから。

 ここで最後に、‘わかっていたようでその生々しさまではわからなかった’ことについて、別のお話をさせてください。

 昨年、ある会食の席で、初めてお会いしたゲイの男性が、エイズを罹患した最愛のパートナーの最期に立ち会えなかった悲しみを吐露されました。パートナーの実家の家族よりも付きっきりで看病したのに、結婚が法的に許されていないため家族とはみなされず、また相手の親の拒絶もあって、病院で最期を看取ることができなかった。ずうっとひとりで看病してきて、だけど最後の最後には、そばにいられなかったと。その悲しみと無念を、その人は泣きながら、胸の奥からふりしぼるような声で訴えていました。

 ぼくはその話を聴きながら、その人が被った理不尽に痛みをおぼえ、あふれでる涙を抑えることができませんでした。でもその涙は、「知らなかった」ことに対する涙でもありました。

 同性愛について偏見を持たずに“わかっていた”つもりのぼくは、実際は何一つその心情をわかっていなかった。その事実を痛切に思い知らされ、激しい自責の念に頭を殴られたようになって、余計に泣けてしまったのです。その人の絶望の深さを目のあたりにして、同性婚を法的に認める必要性をまざまざと感じました。

 異性を愛するという“ふつう”とされることからはみだしてしまう性的指向や、体の性別と心の性別が合致しない人たちの生。彼らはたしかにここにいるのに、いまだに何かまちがった者のように異物視され、結婚という、人としての“ふつう”の権利も与えられないままでいます。一体どれだけ多くの人々が、ぼくたちに話を聞かせてくれたあの人のように、だれにも気づかれないところで苦悶の声を上げているのでしょうか。

 温さん、ぼくはやはり、声を聴かなければなりません。自分の外に出て、声を聴きに行かなければなりません。少なくとも、わかったつもりになっている自分を疑わなければなりません。当事者や現場にいる人の声の生々しさにふれたとき、はじめて、物事の本質の一端にふれることができるのかもしれないのですから。

 

 2020年1月3日

 木村友祐

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著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

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