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私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第18便 木村友祐より(第5章 性と性のあいだ)

温又柔さま

 

 台湾での『空港時光』の刊行、おめでとうございます! 10年前にデビューしたばかりのころは、ご自分の小説が台湾でも読まれるようになるとは思ってもみなかったのではないでしょうか。でも、これは必然の流れですね。

 いただいたお手紙では、温さんは〈もしも、台湾国内で育っていたのなら〉とくり返し想像していました。それにつられてぼくも、もしも、翻訳された『空港時光』を温さんの想像上の分身であるウェン・ヨウ・ロウさんが読んだなら、と想像してみるのです。

 おそらく、台湾で生まれ、台湾で暮らすウェンさんは、自分が気づかなかった視点や感覚をもたらされるような思いで、新鮮な興奮をおぼえながら読むのかもしれません。たとえ、台湾での暮らしに不足がなくても、温さんの分身であるウェンさんもきっと、日々の暮らしの中のちいさな違和感に足をとられることはあって、答えを探すために小説を手に取ることがあるのではないか、と考えるからです。

 そう想像しているぼくもまた、「木村友祐」を中国語で発音すれば、「ムゥ・ツゥン・ヨウ・ヨウ」となる! 仲間から「おーい、ヨウ・ヨウ」と呼ばれて振り返る、もう一人のぼくの姿が思い浮かびます。“自分”とは、絶対に動かせない固定された存在ではなく、別の存在の可能性だってある。そう考えると、楽しいですね。

 先のお手紙では、温さんはさらに、ウェンさんについてのもう一つの可能性を想像していました。

〈わたしの知る限り、日本ほど、男性中心的ではない台湾社会のマジョリティとしてすくすく育ったわたしは、ひょっとしたら「女性」としても、日本社会の中で育った‘この私’よりもはるかにのびやかに生きているのかもしれない……。〉

 温さんがデビュー後に男性の編集者から浴びせられた言葉の数々。まだ駆けだしの、日本ではマイノリティである台湾人で、女性である書き手に向けた、なんという恥知らずな言葉かとあきれました。ひどい、信じられん……と思いましたが、実際にあったことなんですね。そのあとに〈正直、こんなことには慣れっこなのです〉とも温さんは書いていて、さらに啞然としました。これまで温さんと色々とお話ししてきましたが、その話を聞くのはおそらく初めてだし、しかも何度も同じような目にあっているなんて。小説も女性の作家も商品としか見ていない、そんな愚劣な連中が文芸の編集者ヅラしてるのかと憤りをおぼえます。どこの編集者だよ、出てきてツラァ見せろと言いたい。

 温さんと一緒にデビューしたぼくのほうは、「可愛げがないよね」とか、「〇〇さんは、もっと素直に反応してくれたけどな」とか、「色気がないなあ」などという言葉を、一度も言われたことがありません(男のぼくに対してそういう「愛嬌」や「従順さ」や「色気」に言及するのは妙なのかもしれませんが、相手が女性ならば言っていいわけではありません)。また、ぼくが読者に読まれにくい方言を使って書くことに対しても、「木村さんも、いつかは、標準語を話す都会人しか出てこない小説を書けるようにならなくちゃね」なんて言われたこともありません。内心では思っていたかもしれませんが、面と向かって言った人はいません。

 この明らかな差異、断絶。ここに、日本人で男であるぼくと、台湾国籍で女性である(さらに若い)温さんとの立場のちがいが噴きだしているのだと思わされました。そして、そんな抑圧があったということを、ぼくが長年気づかないでいられたこと自体に、すでに格差が潜んでいたのです。

 だから、その男性編集者らの態度に怒りをおぼえつつも、彼らのことを他人事のように、その卑劣さと無縁であるかのように、一方的に断罪することはできません。自分ごととして足元を見つめなくてはなりません。

 まず、ぼくの個別性のことからお伝えするなら、温さんが〈男性“ではない”せいで被らざるをえなかった経験〉にくらべて、ぼくが〈男性“である”せいで被った経験〉は、ほとんど思いだせないくらいに乏しいのです。お互いの経験を照らし合わせてみましょうという温さんのご提案には、おそらく、「男だから〜すべし」という男らしさを強要された抑圧の経験を語るようにうながす意味があったのだと思います。

 でも、ぼく自身は、昔から「男らしくあるべし」という価値観にあまり染まったことがなく、そういう抑圧の記憶が残るほどには、親や教師からつよく言われたおぼえもありません。

 妙なエピソードをお伝えすれば、中学生くらいのとき、ぼくはオカルトや精神世界の本が好きで、そのとき読んだものの中には「両性具有者」のことが書かれていました。生身の人間の両性具有者ではなく、天使か何かの想像上のものだったと思いますが、そのときぼくが感じたのは、二つの性を兼ね備えていることは、理想的な完璧な姿ではないだろうかという憧れです。だから、自分の中に女性的な要素を見つけたとしても、わりと素直に受け入れていました。オトコオトコしたものに対して逆にカッコ悪いとさえ思っていて、悩みといえば、そんなふうだから(オトコオトコしてないから)女の子にモテないのだろうかと、時折頼りない気持ちになったくらいでしょうか。

 そこには、温さんとぼくの経験の非対称が存在していて、被害を打ち明けあうには、ぼくはふさわしくありません。でも、だからといって、男女の上下関係に無縁かといえば、けしてそんなことはありません。今ぼくは「男女」とごく自然に書きましたが、あらゆる面で男が先で女が次という順番自体に、社会的かつ歴史的な上下関係の刻印があるのです。そして、くり返しますが、そうした差異に無頓着でいられたということ自体が、優遇された場所にいて不足を感じなかったことを示しているのでしょう。

 むしろ、ここでぼくが語るべきなのは、これまでも今も、そのように自分が無意識に加担しているだろう、女性に対する加害についてのことです。

 これから書くことは、おそらく、温さんの心をかき乱すことになるのではないかと危惧します。そして、今までの対話の中で、いちばん不快なものになるでしょう。ぼく自身、知られたくなかったことを書くのだから、痛みをおぼえます。だけど、この国で女性が置かれてきた現状を浮き彫りにするためには、書くしかありません。

 女性を見るとき、まずモノとして見る。一つの人格としてではなく。

 この傾向が、男性が女性を見る目線には、根深く、根強くあるのではないでしょうか。視界に入る見知らぬ女性を見るとき、まず、その容姿を認識します。顔の造作。丸みをおびてやわらかそうな体のライン。若いかどうか、など。ただし、これはぼく自身をモデルにしているので、男がすべてそうだとはいえません。ぼくの下劣さをもって一般化はできませんが、それでも、世間で問題になるセクハラの事案を見ていると、おそらくそういう、女性をモノとして見る性癖・慣例が根にあるのだろうとすぐ理解できるのです。他人事ではないからこその、ひどく苦い感触とともに。

 街中や駅の構内を歩いていて、この視線を自分の中に感じるとき、見ている相手の人柄などおかまいなしに、ただ見た目だけに意識が集中していると感じます。そして驚くのです。その人の痩せていたり太めだったりする体つきは、こちらに見せるためにそうなっているわけじゃないのに、自分は今、ジロジロと評価して品定めするように見ていたと。

 そんなときぼくは、以前観た村上浩康監督の『蟹の惑星』というドキュメンタリー映画を思いだすのです。それは、多摩川の河口近くの干潟にいる蟹の生態と、その蟹の研究をしているおじいさんのことをとらえた驚きと見応えのある映画なのですが(蟹の美しさに見惚れます)、おじいさんが言うには、蟹を捕まえるときは、ピョンと突きでた目玉を倒せばいいのだそうです。目玉を倒して視界をふさげば、蟹は動けなくなるんだと。実際、映画の中では、目玉を倒された蟹は途端に動くのをやめてしまいました。

 なぜぼくがそのことを思いだすかというと、(『春琴抄』の佐助のように針で両眼を突けとまでは言いませんが)男たちの目をふさぐだけで、痴漢やセクハラやレイプといった被害はグッと減るだろうと思ったからです。手足を拘束するまでもありません。なぜなら、嗅覚が衰えたぼくら人間の男たちは、女性を女性として認識するのは、ほとんどといっていいくらい視覚情報に拠っているからです。

 見る/見られる。女性だって男性を見るし、場合によってはそこに品定めの視線がまじるとしても、それでも女性のほうが、男性よりも寄ってたかって「見られる」のではないでしょうか。たとえば「見初める」という言葉がありますが、女が男を見初めるという具合に使われるよりも、男が女を見初める、そして女は見初められる、というふうに使われることのほうが多いように思います。

 ここにも上下の力関係があるように感じますが、この関係が、ごくあたりまえのように、男と女の間に強固に根づいているのではないかと仮説を立ててみます。つまり、女性たちもまた、見られることを前提にした日々を送っているのではないかと。見る/見られるという関係を自明のものとしたうえで、それを逆に「見せる」「魅せる」ことに反転する。だからこそ、化粧品や若返りグッズや脱毛エステなどの美容業界、女性向けのファッション業界の衰えることのない隆盛がある──。テレビのCMでも、電車内でも、それらの広告はいたるところに氾濫していますね。

 ……と、ここまで書いて、でも、これもまた、男目線の危うい誤解をはらんでいるのではないかとも感じはじめています。この見方で押し進めるなら、女性がスカートを穿いて脚の形を視線にさらすのも、体のラインをくっきり浮き立たせる服を着るのも、男の欲望を内面化したため、となりかねません。女性には女性の自律したおしゃれの喜びがあるのだということをわからずに、その装いすべてに男の欲望を介在させて見るなら、どうなるでしょう。肌の露出が多かったり、体のラインがくっきり出た服を着ていれば男に媚びているサインだときめつけてしまったら、性暴力を起こす口実にもなってしまうのではないでしょうか。だとすれば、非常に危険です。

 それにしても、一体、どこまでが男性目線の内面化で、どこからが自分から美容やおしゃれにいそしみ、美しい自分を楽しむことなのでしょうね。この問い自体が大きなお世話かもしれませんが……。なぜなら、男性の装いについて同じ問いを立てないこと自体が、ほんとうはおかしなことなのですから。

 上下の力関係といえば、根本的なものに、一対一で向き合ったときの女性の筋力と男性の筋力の差があります。そこに、男性が女性に対して権力的に振る舞う要因の根があると感じます。相手を屈服させるなら、最終的には暴力に訴えればいいという。筋力は暴力(軍事力)の保持であり、すなわち権力となるという図式。つまり端的に、筋力=権力。そうした生まれながらの筋力の差に基づく男女の上下関係が社会のはじまりにあって、それが現在の社会構造に固定化したのでしょうか。それとも、女性の持つ潜在的な大きな力を恐れて、その力が発揮できないように封じこめるため、そしてさらに非力な男でも女性の上に立てるようにするために、女性を下位に置くという構造を女にも男にも内面化させてきたのでしょうか……?

 女性と男性の非対称性はまだまだありますが、たったこれだけ書いただけで、気が滅入ってきました。白状すれば、ぼく自身、夜道で前を女性が一人で歩いているとき、追いついて恐がらせないように速度を落としながら、自分が今、「男」であることの禍々しさを運んでいるように感じることもあるのです。男は男であること自体でヤバいんじゃないかと。今は理性的に振舞ってはいるけれど、戦争といったタガが外れた状態では何をしでかすかわからない、本質的にヤバイ生きものなんじゃないかと思うことがあります。そしてこれは、残念なことに、過去の戦争や現在の紛争における男の振る舞いを見れば、考えすぎではないという予感があります。

 女性をモノとして見る、上下関係にもとづいて男にとって都合のいいように従わせる。その最たる悲惨な現れが、従軍慰安婦だったのでしょう。以前ふれたドキュメンタリー映画『主戦場』では、歴史修正主義者と性差別はセットになっていることにふれていました。たしかに、慰安婦とされた女性たちの苦しみの声に寄り添うよりも、慰安婦の存在を否定することばかりに躍起になる人々の心性は、もとより女性を軽んじていると思うほかありません(女性の歴史修正主義者も同様です)。そしてそこには、日本以外のアジアの国々に対する蔑視も組み込まれているでしょう。彼らからすれば、ぼくがここで書いた考察は“自虐的男性観”とでも呼ぶべき苦々しいものに見えるのだろうと思います。男子たるもの、もっと益荒男(ますらお=雄々しく強い男)たれ、と。

 最悪なのは、そうした歴史修正主義と女性差別とアジア差別を標榜する者たちが、この国ニッポンの政治を司っていることです。なぜ、この国は敗戦をへても、女性は男に従うべき、かつ良妻賢母であるべきという考え方と、アジア差別を改めることがないまま来てしまったのでしょうか。A級戦犯だった岸信介(安倍首相の祖父)がGHQとの取引で罪を免れたといわれるように、戦争の中枢にいた者たちが裁きを逃れ、戦後も政治や教育に影響力を保持していたということでしょうか。

 女性とアジアへのそうした蔑視が根深く根を張るこの国で、ではどうすればいいのかと答えに窮します。でも、その根を断つためには、ともかくぼくらは、ぼくら男たちに足を踏まれて「痛い!」と悲鳴を上げた女性たちの声を聴くことからはじめるしかありません。伊藤詩織さんをはじめ、顔と名前をさらして声を上げる女性たちが現れているのですから。……悲劇は、もう充分すぎるほど起こりました。

 温さん、今ぼくは、大変遅ればせながら、日本で大ヒットとなったチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子訳、筑摩書房)を読んでいます。韓国での男性優遇の社会構造を、具体的な細部を積み上げて浮かび上がらせるこの作品は、日本にもほとんどそのまま当てはまります。読んでいて、ひたひたと悲しくなるのです。

 

 2019年12月1日

 木村友祐

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著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

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