明石書店のwebマガジン

MENU

私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第17便 温又柔より(第5章 性と性のあいだ)

木村さま

 

 さわやかな季節です。木漏れ日がきらきらとまばゆくて心地いい。ここ数日、私は昼夜逆転がころっと転じて、朝早くに目が覚めるようになりました。きのうは夕方からとある取材を受けたのですが、予定よりもだいぶ早めに家を出て、小春日和というのが似つかわしい午後の数時間を散策に費やしました。毎年のことながら、冴え冴えとした秋の空を見上げるたび、自分は1年のうちでもこの11月が最も好きだといちいち宣言したくなります。つい数日前まで台湾にいたのもあり、今年はことさらそう感じたのかもしれません。

 『空港時光』が台湾で翻訳・刊行されたので、出版社主導の販売促進を目的とした刊行イベントをはじめ、台湾各地の大学や書店を“巡回”してきたのです。今回は、先々で迎えてくれる方々に恵まれ、首都の台北のみならず、高雄、台南と南部の町にも行くことがかない、いつも以上に長めの滞在となりました。

 同じ台湾でも台南や高雄となると、北回帰線を跨った南側。熱帯圏となります。年中温暖な気候だとは聞いていたものの、11月なのに日中も夏の陽光が眩しく半袖でも暑いぐらいでした。いや、11月なのに、という表現はちょっと自己中心的ですよね。台湾南部に限らず、この星の熱帯地域に暮らす人たちにとって、おそらくそれは、ごくありふれた11月の一日だったはずなのですから。

 ……とはいえ台北にいる間は日が沈んだら薄手のシャツ一枚ではかなり肌寒く感じられたので、北と南のこの気候の違いを肌身で感じ取れただけでも、ふだんは台北にばかりいる自分が知る“台湾”は、ほんとうにごくわずかな一部のみなのだなあとあらためて思い知りました。ちょうど『空港時光』の最後の段落で「どうやら台湾は、私が考えている以上に大きく、なおかつ複雑なのだと思い知る」と締めくくったのもあり、台湾にいたある夜、中国語で刊行されたばかりの『空港時光』の該当箇所を探して、「一直以來都這麽認爲,但此刻我領悟到,台灣比我以爲的更大,跟複雜」と日記に書き添えてみたり。

 ……その後、自分の筆跡を眺めながら、日本語ではなく、中国語を読み、書きながら育った自分について空想します。

 木村さん、可笑しがらないでくださいね。私はいまだにこんなふうに、台湾で育っていたかもしれない自分自身を想像することがよくあります。オンユウジュウ、ではなく、ウェンヨウロウ、と名のっていたはずの私の人生について思いを馳せるのです。ウェン・ヨウ・ロウ、とは「温又柔」を中国語で発音したときの音を(半ばむりやり)カタカナで綴ったものです。

 ちなみに「木村友祐」の中国音を私なりにカタカナで再現すると、ムゥ・ツゥン・ヨウ・ヨウとなるんですよ!(しかし、ユウスケとユウジュウのユウは翻訳されても、ヨウヨウとヨウロウでヨウが重なっていて、国境を越えても兄妹のようでうれしい)。つまり、ヨウヨウは、木村さんの秘められたもうひとつの名前なのですよ。

 ……とまあ、こんなふうに日本と台湾が、同じ漢字文化圏だったため、私は子どものときよく空想しました。又柔という漢字を挟んだこちら側の日本で育っている私と、あちら側の台湾育ちのかのじょ。ヨウロウ、という名のかのじょは、私の子どものときからの架空の親友だったといっても過言ではありません。

 それで、中国語になった自分の文章をながめながら、私は、はじめこそ、これはかのじょ――台湾で育ったウェンヨウロウ――が書いたものなのだと夢想しようとしました。

  不管如何,現在的咲容拿著「中華民國」護照,及日本政府發行、記載著「永住者」的「在留卡」,往來於日本和台灣之間,這件事情並沒有造成太多的困擾。至少,過往沒感到太多的困擾。現在也是如此。

  翻訳家による中国語をノートに書き写してゆくうちに、私はだんだんと疑問が湧いたのでした。‘こんなこと’、かのじょ――ヨウロウ――は、わざわざ書こうとするのだろうか、と……。この箇所はユウジュウである私が書いた原文に戻すと、

  今の咲蓉には、『中華民國』の旅行券と日本国政府が発行した『永住者』と記載された在留カードをもちながら日本と台湾を行き来することが、それほど苦痛ではない。少なくとも、以前ほどは。あるいは、今のところは。

にあたる部分です。

 木村さんもよくご存じのように、日本と台湾を行き来しながら育つ過程で、ことあるごとに自分はふつうの日本人とはちがっていると思わされ、さりとて自分は台湾人そのものだとも割り切れなかったからこそ、台湾人と日本人のどちらでもあってどちらでもない、という、不安定ともいえる感覚そのものを私は、自分の思考の拠点として選択するに至りました。

 私は、“アイデンティティー”とか“ディアスポラ”といった用語をまるで知らなかった子どものときからすでに、出生地であり、親の母国である台湾と、人生の大半を実際に過ごしている日本いうふたつの国を隔てる「線」の上で、どちらに転んでも何かがどうしても自分とぴったりとはそぐわないという感覚を漠然と持っていました。そして、このどことなくおぼつかない感覚こそが、書くという行為へと私を駆り立て、書くことの中に自分の居場所を確保したいと切望させたのだとも思っています。もしも、台湾国内で育っていたのなら、私は、ちょっとした浮遊感を伴うこのそぐわなさを抱く可能性は低かったと思うのです。

 木村さん。私は、中国語に翻訳された自分の文章の一部を書き写したあと、こんなふうに考えたのです。自分は台湾で育っていたら、書くということに対してこれほどまでに没頭していただろうか、と。いや、私のことだから、どこで育ったとしても、方法さえ習得するチャンスに恵まれたのなら、書くこと自体は好きだったかもしれない。ただ、いくら好きでも、台湾人としてうまれ、そのまま、台湾人としてすくすくと育っていたのなら、いま、書いているようなものは、書いていなかったことでしょう。

 さらに言えば、私の父の赴任先が東京ではなく、もっとべつの国の都市であったのなら、自分のルーツとなる台湾の歴史の中に刻み込まれた日本の気配に、私は今ほど、敏感だったこともない気がします。たとえば、『空港時光』のこの段落……。

  (台湾の東部の都市、台東にて)日本人が敷いた鉄道の配線跡に立ち、日本人のものだった製糖工場を見あげていたら、ふつふつと湧きあがるものがある。

 ――初めてなのに、懐かしい。どうも郷愁をそそられるんです。

 ‘勝手に懐かしがるな’。こみあげてきたのは、そんな日本語だった。その日本語は、ほかならぬ自分自身への戒めでもあった。台湾、とりわけ台湾が日本の植民地であった頃のことについて考えるとき、私の心情は限りなく日本人に近い。

  ‘こんなこと’は、台湾人としてうまれながら日本で育った’この私’でなければ、おそらく書こうとは思わないのではないか? 日本の、もっと言えば、日本の学校に通って、日本人にまぎれて読んだり学んだりするうちに日本語と一体化していったかつての自分を自覚すればするほど、私は日本語をとおして自分が台湾を書くことの限界と、その限界そのものを一つの可能性として、私にとっての台湾を書く方法を模索したくなります。そうすることでやっと自分は、台湾と適切な距離をとると同時に最大限に関わることができるはずなのだ、と。

 今回、台湾という、私にとっては、ほかのどんな国ともまったくべつの重みをもつ場所で、『空港時光』の原作者として取材に答えるかたちで発言したり、いくつかの大学では私の作品について修士論文を書いているという学生と対話する機会にも恵まれたおかげで、つくづくとそのことを思い知らされました(研究者の卵たちの視点は鋭く、どぎまぎさせられてばかりでしたが)。

 どこでも必ず聞かれたのは、おなじみのこの質問です。

 ――次回作は、どんな内容を書くご予定でしょうか?

 そう訊かれるたび、母と娘についての物語、と答えました。以前、木村さんにも打ち明けたとおり、私は今、はじめての長篇を書くことに挑戦しているのですが、それを一言で言い表すとしたら、そうなるのです。もう少々詳らかにすれば、台湾人の母親をもつ娘と、日本という異国で娘を育てることとなった母親のすれちがいと和解にいたるまでの物語を書くつもりでいます。夫との結婚生活に悩む娘は私と同世代という設定で、そんな娘にやきもきする母親も私自身の母と同世代の人物です。

 娘の少女時代にも遡りながら、いつまでもカタコトの日本語しか話せない母親の愛情を素直に受け入れられずにいる娘と、日に日に日本人めいてゆく娘との間に生じる距離をなんとか埋めようとするも空回りばかりしている母と、そのふたりを台湾から見守る、日本統治期に覚えた日本語を流ちょうに話す祖母の存在もとおして、みずからの人生において日本語と台湾とむきあうことが運命づけられた世代を跨る3人の人物の背景にある、日本人にとっての台湾と台湾人にとっての日本を交錯させられたら、と思っているのです。

 ……と、そんなふうに答えていたら、ある大学で、こんな質問を受けました。

 ――どうして、男性ではなく、女性なのですか?

 私にそう問いかけたのは、真剣なまなざしをたたえた‘男子’学生でした。私は少し考えてから、

 ――私自身が、女性であるからなのでしょうね……それに、日本人男性と結婚した台湾にルーツをもつ女性が悩む姿をとおして、日本の女性をめぐる境遇も表現したいと思うからです。

 流ちょうな日本語を操るその学生は、過去はともあれ少なくとも現代においては、台湾よりも日本のほうが圧倒的に「男性優位」社会であるという現実を知っていたのに違いありません。私がそう回答すると、すぐに納得してくれたようすでした。

 きょうも、よく晴れた、とても‘11月らしい’気持ちのいい空の下を歩きながら考えていました。ご存じのように、私がこれまでに発表してきた小説は、ごく短いものをのぞけば、すべて女性が主人公です。どうしてだか、今のところ、自分が書きたいと思うことを書くためには、必然とそうなってしまう。

 もちろん、女性だけでなく、男性のことも私は書きたい。ただ、それはたとえば娘にとっての父であったり、祖母の夫としての祖父であったり、あくまでも女性にとっての男性としての男性のことなのです。そしてこう思うのは、私自身が女性であるという事実と深く関係しています。

 考えてみれば、この件については、木村さんとこうして手紙を交わす中でも少し触れたことがありましたね。

 木村さんの小説の主人公は、必ずしも木村さんと同性である男性とは限りません。たとえば、ビルの窓拭きに従事する人々のことを描いた「天空の絵描きたち」は女性が主役です。それで私は、木村さんにとっては異性である女性を主人公にして書くときは何かべつの意識はあるのか、たずねてみました。木村さんは〈自分のなかの女性性を働かせて書いている〉と答えてくださいました。ただし、〈女性の体の感覚までは到底書くことができ〉ないため、あくまでもご自身が〈想像できる範囲内(男性と共通する部分)でしか書けないことは自覚〉しているのだと。

 あの手紙の中で木村さんは、自分は〈ぼくはやはり、“外部”に出て、現実そのものを感じたい〉と、きっぱり宣言なさっていました。

 ややもすれば、箱庭めいた、隅々まで端正に整えられている分、大変うつくしくはあるものの、非常に限られた狭い世界の中で繰り広げられる微細な関係の機微をうまく掬いあげたような、どちらかといえば私小説めいた作風のものこそが‘純文学っぽい’のだという風潮はあいかわらず根強くて、それは書き手にとどまらず、読み手や、もっと言えば書き手を志望しているような読み手たちの中にも、文学といえばそういうものなのだ、と思いこんでいる人が少なくないように感じます。けれども、少なくとも私は、文学――純文学と言ってもいいのだけれど――の可能性を、そのようなものとして狭めるのはもったいないことだと思っています。

 だからこそ〈自分が見知ったものの“外部”に体ごと出て、手に負えない異質な現実とぶつかって〉ゆく木村さんの覚悟を頼もしく思うし、そんな木村さんの最新作「幼な子の聖戦」は、いま、ご自身が書くべき主題――現代社会に対する真摯な異議申し立て――をどうにか純文学のかたちにねじ込もうとしている闘いの跡が見える分、非常に励まされるのです。

 ところで木村さん。

 私があくまでも女性の視点で書きたいという思いをより詳しく説明するためにも、‘純文学っぽさという幻想’ともかかわる、私が被ったあまり愉快ではないある出来事について、お伝えしなければなりません。まだ、私(たち)がデビューして1年も経っていない頃のことです。某大手出版社の編集者が私に会いたいと連絡を寄越しました。

 ――まあ、温さんも、いつかは、日本人しか出てこない小説を書けるようにならなくちゃね。

 ‘読んでみたい’、でもなく、‘書いてほしい’、でもなく、‘書けるようにならなくちゃね’。私は相手の物言いに、自分の目も、耳も、疑いました。しかしどう見ても彼――そう、私よりずっと年上の男性でした――は、まったく悪びれることなく、むしろ、貴重なアドバイスをしてやっている、という態度なのです。でも、と私は反論しました。

 ――私は、台湾人として日本で育ったという経験をもっと書いてみたいんですよ。

 ――いや、だから、そのあとの話だよ。

 私が黙っていると、それが気に入らなかったのか、彼はほとんどふんぞり返ったまま、言い放ちました。

 ――意外に、頑固なんだね。

 その後、彼から連絡が来ることはありませんでした。いちいち説明しなくてもわかると思いますが、私が頑固なのではなく、かれにとっての私が自分の思い通りにならなかったというだけの話です。正直、こんなことには慣れっこなのです。

 ――可愛げがないよね。

 ――〇〇さんは、もっと素直に反応してくれたけどな。

 ――色気がないなあ。

 彼ら――そう、私にこんなこと言うのは全員とも男性です――は、私に大切なことを教えてくれました。

 おまえは台湾人だ。ましてや女だ。ならばもっと従順でいたほうが、この国ではおれたち(=日本人男性)に可愛がってもらえるぞ?

 木村さん。

 私は、日本人“ではない”ということのほかに、男性“ではない”ことが理由で遭遇せざるを得なかったこうした出来事とも、書くという行為をとおして向き合うことで自分を支えてきたのです。

 ――どうして、男性ではなく、女性なのですか?

 考えてみれば、台湾で育った自分自身を想像するときの私は、一度も「性」を跨ったことがありません。空想の中の中国語を話している私はいつも「女の子」でした。今になって、ふと思うのです。私の知る限り、日本ほど、男性中心的ではない台湾社会のマジョリティとしてすくすく育った私は、ひょっとしたら「女性」としても、日本社会の中で育った‘この私’よりもはるかにのびやかに生きているのかもしれない……。

 ああ、木村さん。

 また、私たちの間に、線を引くときがきたようです。それも、とても重要な。私たちは、別々の「性」を生きています。この、ささやかな、それでいて、最大のちがいとは、どんなことを意味するのでしょう? たとえば、私が男性“ではない”せいで被らざるをえなかった経験と、木村さんが男性“である”せいで被った経験とを照らし合わせてみたら、「男性優位」であるはずのこの社会が、一体、だれにとって最も都合がいいのか、立体的に見えてくるかもしれませんね。これを機に、ちょっと試してみましょうか。もちろん、お互いに苦痛のない範囲でね。

 

 2019年11月20日

 温又柔

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

閉じる