明石書店のwebマガジン

MENU

私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第16便 温又柔より(第4章 文学と社会のあいだ)

木村さま

 

 のっけから、弱音を吐かせてください。

 いま、頭が痛くてたまらない。といっても、決して比喩的なことではなく、ただもう、物理的に頭がひどく痛い。おそらく、観測史上最大の台風が近づいているからなのでしょう。いつからか、自分が頭痛に苛まれるときの多くは気圧が低下中であることを発見しました。その後、それは私の気のせいではなく、気圧の変化で自律神経が乱れて起こる不調の一つなのだと知りました。

 はたして、先ほど、Twitterで「頭痛」と検索すると、私と似た症状の人が悲鳴をあげていました。あまり抗生物質に頼るのはよくないと思いつつも、これ以上耐えられそうにはなく、とうとう頭痛薬をとりだして、水で喉に流し込んだところなのです。

 効き目よ早くあらわれろ、と願いながら、雨風が強まったり弱まったりを不気味に繰り返す窓辺のソファーでしばらく身を投げ出していたら、だんだん気が塞いできて……。

 昨夜からずっと台風関連のニュースが流れていて、不要不急の外出は控えてください、と今朝もアナウンサーが呼びかけていましたね。私はあいかわらず昼夜逆転で、朝方に執筆を一段落させたばかり。

 ふだんならお昼近くまで眠るのですが、きょうは午前中のうちに買い物を済ませようと開店間際のスーパーに出かけました。そしたら、来るべき台風に備えるためか、十時台でもうレジは長蛇の列。こんなに混んでいるなら別の店に行ったほうがいいかなとよぎりましたが、特に急ぎの用事があるわけでもないので、人波を潜り抜けながら必要なものをさっさとかごに入れて、レジの最後尾につきました。

 妙に、殺伐とした雰囲気なのです。余裕がない。どの顔も、疲れていました。朝方まで原稿を書いていた私も、まあ、似たようなものだったのでしょうが。年配の女性の溜息が後ろから聞こえたと思えば、混みあう列の間を眉間に皺を寄せて割ってゆく、やはり年配の男性の姿も。どの客の買い物カゴにもものが大量に詰まっています。

 そのうちじわじわと頭痛がしはじめ、のろのろと進む列でじっと耐えていました。すると、おまたせいたしました、というさわやかな声が聞こえてきたんです。レジ担当の若い男性店員でした。20代半ばに見えます。テキパキとしたようすで会計をしながら母親の横にちょこんと立つ小さな子どもにも、またおいでね、と笑顔で声をかけるのを忘れません。ものすごく混んでいてマニュアル以上のことばを尽くすのは客を対応するうえで決して効率的ではないはずにも関わらず。殺伐とした雰囲気の中で、溌剌と働く彼の姿が視界に飛び込んできたとき、突然、一服の清涼剤を与えられた心地がしました。

(あの店員さん、今夜、ぶじに家に帰れるだろうか?)

 大型台風の上陸が迫っていても、仕事を休めない人たちが大勢いる。昼前には必要分の食糧を確保して自宅のソファーにぐったりと身を任せていられる私とはちがって……それにしてもこんな日は外暮らしの猫たちはどうしているんだろう?

 それで、えいやっと、起きあがって、こうして木村さんに手紙を書くことに決めたのです。いや、その前に、木村さんからのお手紙を読みなおしていました。もっといえば、ここ数回のやりとりを思い返してもいました。

 木村さんが引用してくださった『文藝 二〇一九年秋季号』の斎藤真理子さんのお言葉――〈日本文学は、潔癖なまでに倫理的であることを拒否するというか、顕現化させてはならないと考えているところがありますね〉。

 ‘倫理的であることを、潔癖なまでに拒否する’。

 確かに、その傾向はあるのでしょう。ただ、私は、自分の中の「日本文学(純文学」のイメージがきちんと、2019年時点での「最新バージョン」に更新されているかどうかというと、実はまったく心もとありません、仮に、「五大文芸誌」と呼ばれる雑誌に掲載されている作品が、「日本文学」あるいは日本の「純文学」の最前線なのだとしたら、以前そっと打ち明けたように、いまだに私は、毎月、送られてくる文芸誌をまったく読まぬまま翌月のものが届いてしまうこともしょっちゅうで……とまあ、月々の「文芸誌」に掲載されている小説は読みこぼしてばかりいるものの、本を、それも小説を読むこと自体は私、とても好きなんです。

 いや、好き、というのでは足りないぐらい。書くことと同じぐらい、私が自分の人生の中で最も大切にしたい行為のうちのひとつは、まちがいなく、面白い小説を読む、と断言できます。面白いと一口に言っても色々な意味があるけれど、私の場合は、それを読む以前と以後とでは、これまで見えていたものの見え方が変容させられる快感を与えてくれるものに対して面白いと感じる傾向があります。もっと言えば、想像力を刺激させられて、こちらも早く何かを書かなければ、と焚きつけられるような、そういうもの。

 最近で言えば、『ユリイカ』での追悼特集にエッセイを寄せる機会を得て集中的に再読したトニ・モリスンや、新刊が出たばかりのジュンパ・ラヒリ、ウェイク・ワンなどがすごく‘面白かった’。特に、アリス・マンロー作品――この作家も私は大好きです――の名訳で知られる小竹由美子さんによって初邦訳されたウェイク・ワンのデビュー作『ケミストリー』は、著者が私と同世代の中国系アメリカ人女性ということもあって、アメリカと日本とではまったく事情がちがうものの、“中国”をバックボーンにアメリカ社会で生まれ育った“移民”の“女性”としてじたばたするさまが妙に身につまされました……。

トニ・モリスンは黒人女性であり、ジュンパ・ラヒリもインド系のアメリカ人女性ということを思えば、私はあいかわらず、こうしたいわゆる社会の“中心”とは否応なくずれた位置にある(とみなされる)作家たちが書くものに心惹かれてしまうようなのです。そうであるからかこそ、先の『文藝』にある鴻巣友季子さんの〈翻訳文学は日本文学の一部〉といったご発言には、すがりたくなるような思いを抱いてしまいます。

 さて、この『文藝』が〈文藝誌では超異例の3刷となるほど売れ〉たというニュースには、率直に言って、腹の底から力が湧くのを感じました。‘文学がニュースになった’とは言っても、“みずみずしい感性”を謳い文句に十代やそこらの“若い”書き手をもてはやしたためではなく、別の分野ですでに著名である書き手がいかにも“文壇”受けしそうな“純文学”を書いたことを大いに売り出したからなのでもありません。「韓国・フェミニズム・日本」という、日本社会がどちらかといえば敬遠する“政治性”を感じさせる特集が、2019年の現在、出版界内外で熱烈な注目と支持を集めたことの意味はとても重要だと思うのです。

 しかし考えてみたら私自身も今年に入ってから夢中になった小説のうちのほとんどは、韓国発のものでした。チェ・ウニョンの『ショウコの微笑』に、ファン・ジョンウンの『誰でもない』。キム・ヘジン『娘について』や、チョン・スチャンの『羞恥』などなど。あえて韓国のものを読もうと意識したわけではないのですが、面白そうと思って選んでいたらそうなったんですよね。

 たとえば、『娘について』は、不当解雇に遭って生活に窮する娘が母親を頼って戻ってくるのですが、その娘のパートナーが女性であることに困惑する母親の一人称によって淡々とつづられた小説です。娘を愛しているつもりが娘がレズビアンであるという現実を受け入れられず懊悩するその内面を描きながら、異性愛を前提とした家族制度に絡めとられている女性の倫理感を抉り出して、読者であるこちらの想像力を試します。

 あるいは、北朝鮮から南韓国に命からがら亡命してきた脱北者たちのその後として、ピョンヤンオリンピックに向けて選手村建設に沸き立つ街で、彼らが徐々に追い詰められてゆくさまが静謐な文体で描かれている『羞恥』を読んだときも、一読者として、このような状況を生み出した現実に少なからず自分も加担してしまっていることを切々と問い詰められるようで、静かな悶えを感じました。

 重要なのは、こうした韓国発の小説が、ただ単に、〈政治的な正しさ〉を訴えるためだけの器に成り下がってはいないということ。題材としては、ノンフィクションとして告発したほうが早いはずの問題提起が、ものの見事に小説として面白く読める。いや、小説になっているからこそ面白く読めたとも言えます。今、すぐれた翻訳者たちによって続々と邦訳されつつある現代韓国小説が具える、この眩しいような‘小説的強度’は何だろうと思っていたのもあり、木村さんからのお手紙を読んで、あらためてそこには“倫理”の問題が関わってくるのではないか、と思いました。

 ……ここでいったん、台風に備えた買い物客で混みあうスーパーに話を戻します。それが当然の権利とばかりにうんざりしたような溜息を聞こえよがしにこぼす人や眉間に皺を寄せて他人を押しのける人……そんな殺伐とした雰囲気の中で、溌剌と働いていた男性店員の笑顔に思いがけず心を洗われた私は、つい、彼のことが心配になったのです。

 (彼はどこに住んでいるんだろう。近所だろうか。歩いて帰れる距離ならいいけど。こんな日でもバイトは休めなかったんだよね。ただでさえ人手が足りない感じだったし。何時まで働くんだろう。その頃には電車は動いているかな。ちゃんとぶじに家に帰れるんだろうか。彼自身の今夜の食糧は確保できてる?)

 スーパーとしては商品がひとつでも多く売れるのならそれはありがたいことにちがいない。自分を含めた買い物客にとっては、こんな日でもスーパーが開店しているのをどこかで当たり前だと思っている。でも、それが成り立つには、パートやアルバイトを含めた従業員たちがいるからなのです。

 (不機嫌そうにほかのひとを押しのけるような人がさっさと自宅に落ち着いて、あの店員さんが台風で家に帰れなくなるんだとしたら……)

 そして、あらためて、腹の底から思いました。

 私はただ、心根がやさしく、まじめなひとたちが、きちんと報われる世の中であってほしいのだと。

 これって、そんなに突飛な願いなのでしょうか?

 むしろ、なんとも凡庸な思いだと思いません?

 しかし現状はどうやら、そうではない。今、世の中は、この書簡で再三繰り返してきたように、階級の固定化は急速に進みつつあるし、社会は不寛容になる一方です。実際に、社会の細部に目を凝らせば、やさしくてまじめなひとが馬鹿を見て、ずるがしこいひとたちがうんと得をしている。しかも、ずるいひとたちが必ずしもしあわせそうではない。「持たざる者」に余裕がないのはしかたないとして、「持てる者たち」にも余裕があるようにはとても思えない。少なくとも私はそう感じてしまうのです。

 こんな現実なら、まじめにコツコツなど、馬鹿らしくてやっていられない。だれかにやさしくすることで損をしたり傷つくことしかないのなら、だれも自分以外のだれかにやさしくなどできません。しかし、やさしさに損得勘定が入り込むなんて悲しいですよね。率直に言って、こんな世の中は歪んでいる、と、そう思います。それで、この正直な反応というか、叫びにも似た苛立ちこそ、非常に“倫理的”な反応ではないかと。

 そこで、ふと思うのです。ふたたび、例の『文藝』の対談を参照にするのですが、韓国では〈文学は倫理性を具えていなければならない、という大きな命題がある〉という指摘をうけて、鴻巣さんは非常に慎重な口ぶりで、

  日本の批評では倫理という言葉はまず使わないですよね。使うと、途端に胡散臭い感じがしてしまう。(『完全版 韓国・フェミニズム・日本』136頁)

という言い方をなさっています。しかし、韓国文学と比較したうえで日本文学――あるいは、もっと厳密に日本の文学業界と絞ってもいいかもしれない――に〈潔癖なまでに倫理的であることを拒否する〉傾向があるのだとしたら、これを特に疑問視しない日本の作家や批評家たちは、一体、文学に何を求めているのだろう?

 私にはそのことが不思議でならないのです。そして、おそらく木村さんはそのことにひどく苛立っているのでしょう。というのも私は、自分のことも木村さんのことも、今の日本の中では、‘よくもわるくも’、“倫理的”なほうの書き手だとみなされているように感じています。それで一歩踏み込んで、私たちはこの書簡において、 “倫理”と“政治的な正しさ”を、いっそ思い切ってほぼ同義語として扱ってもいいのかもしれないと思いました。そのうえで私は思うのです。私が“倫理”や“政治的正しさ”と思うものは別に、そんなに仰々しいものではない。もっと素朴に、こんなふうでは息苦しい、とか、この不安はどうしたら癒されるのか、とか、どうすればもっとひとにやさしくできるのか、といった意識のことなのです。

 そうであるからこそ、先の『文藝』で斎藤さんの以下のご発言を読んだときは目から鱗が落ちる思いでした。

   ……いまの韓国文学を読んでいて、一人ひとりの作家の倫理観に基づく独特の“正しさ”への感覚があると感じます。「正しさへの志向性」と言うと強すぎるなら、「まともさの追求」と言ってもいいかもしれません。そして、それを作品に落とし込むのが韓国の作家は上手だと思います。(『完全版 韓国・フェミニズム・日本』137頁)

 ‘まともでありたい’。そう、私もまた、ただ、それだけなのだなと。

 木村さんは書きましたね。〈文学とはそもそも反逆的なもの〉。心から同意します。そうではないものを、私も文学とは呼べません。意地でも、呼びたくはありません。木村さんはさらに書きます。〈どんなによいメッセージもプロパガンダになりうるという危惧は至極まっとうだと思いつつ、言わなすぎの弊害もあるのではないか〉。

 おっしゃるように、今や、〈言わなすぎの弊害〉が及ぼす影響は、すでに手の打ちようがないほどのものです。取返しがつかないぐらいの。だからこそ、胡散臭いと冷笑されようとも、どんどん言わなければならないのです。

 ただ、一方で、反逆の仕方によっては、既存の権力構造を逆に補強する可能性がある、という危惧も私にはあります。というのも、反逆者ぶってひっくり返したつもりでいて、その実、権威の側に巧みに取り込まれてしまっている、という状況は、滑稽にもわりとありふれている。いや、これは木村さんとちがって、私が非常にわかりやすく“マイノリティ”とみなされる位置にあることからくる危惧なのでしょう。

 ――日本人ではないせいで、かわいそうな目に遭ったね。よくがんばったね。あなたが日本人ではなくてもぼくはやさしく受け入れてあげますよ……

 木村さん。私は肝に銘じているんです。私が書いた小説を、余白を含めた文章の質そのものを度外視し、作者である私が台湾人である(≒日本人ではない)という出自や来歴によってのみ、評価しようとするひとたちからの称賛はすべて疑ってかかろうってね。私をそのように評するひとたちは、私を彼らにとっての“政治的な正しさ”の檻の中にぶちこもうとしているのに過ぎません。その証に、私の小説を読む前と後とで、彼らが変容した気配は一切ありません。そんな彼らは、自身をみずから「反逆者」と称することも多い。冗談ではない。私にとってのこうした読者は、私を決めつけるもう一つの権威でしかありません。

 〈“他者”である相手が置かれた状況を受けとめ、搾取しないでつながろうとするためには、逆説的ですが、まず線を引くこと──お互いの力の不均衡を自覚すること〉。

 木村さんとむかいあうときの、このすがすがしさの理由がわかったおかげで、私は以前にも増して直感が冴えるようになった気がします。あ、今、私は「暴力」をふるわれたな。そう気づき次第、容赦はしません。

 ……鎮痛剤の効果があらわれたのか、やっと頭痛がおさまってきました。心がほぐれたせいもあるのでしょう。私にとって木村さんとの手紙のやりとりは、自分自身の‘まともさ’を再確認するための行為でもあるなとつくづく思います。ほんとうにありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

 

 2019年10月12日 観測史上最大の台風が近づきつつある日の午後に

 温又柔

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

閉じる