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私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第15便 木村友祐より(第4章 文学と社会のあいだ)

温又柔さま

 

 語り起こしの挨拶が、どうしても猫のことから離れないのですがーー、家に入れた茶白は、少しずつ少しずつ、激変した環境に慣れてきたようです。腹式で発声する野太い夜鳴きもしなくなり、夜は隣で体を伸ばして、鼻息を立てて寝るようにもなりました。かわりに先住猫のクロスケが、自分の気分が落ち着かないときに茶白とすれちがうと「ア・ア・アッ」と鳴いて威嚇するようになって、最近では茶白とともに、クロスケの心のケアにも気をつかうようになっています。

 今、ぼくは「心」と書きました。以前ならぼくは、動物たちのことに、人間に対して使うような「心」という言葉を用いるのは非科学的だとか、人間目線の擬人化のようで抵抗があったのですが、最近はあえて意識的に使っています。猫たちとのかかわりを通して、彼らは自分の感情そのままの「心」ひとつでこちらと接しているという確信が、日に日に深まってきたからです。

 温さんが教えてくださった、AKI INOMATAさんの個展「Significant Otherness 生きものと私が出会うとき」。すごくおもしろい、そして極めて重要な試みをアートとしてやろうとしているのだなぁと感心しました。創作の協力者としてタコまで参加させるなんて!

 「Significant Otherness」=「重要な他者性」。たとえば、ミノムシやタコには、どんなふうに世界が見えているのか。その心はどう世界を感知しているのか。どれほどそれがぼくらの想像を超えた、理解不能なものであっても、その生き方をだれにも見下したり蔑む権利はないし、見下すその視線に根拠などありません。理解不能だからこそ、ぼくらとまったく異なる生き方をする生きものたちを驚きと尊敬の念を持って見つめることができたら、どれほど世界は豊かなものになるでしょう。

 〈自分のいる世界は人間のためだけにあるのではなく、むしろ人間ではないものたちの気配がこんなにも満ち満ちているのだな。〉

 まさに、その気配を感じとる感性を取り戻すことが、ほんとうに大切なのだと思います。世界を“資源”としか見ない、まるで世界には人間しかいないもののようにみなした世界観は、ぼくら人間の生をも窒息させてしまうのではないでしょうか。

 温さんの初のエッセイ集『台湾生まれ日本語育ち』のカバーに映っていたやどかりのことは、もちろんよくおぼえています。透明な都市の模型を「やど」として背負ったやどかりの姿が鮮烈で、明るさと温かみのあるすばらしいカバーでした。内容もほんとうにすばらしく、温さんはこれを書くことで、今後の創作につながっていく土台をしっかり築いたんだなと感嘆しました。

 〈それからわたしは、自分がやどかりなら、と切り出しました。ーー背負ってる「やど」は日本語のことかもしれない。でも、もしかしたら、これは中国語だったかもしれない。〉

 ここに、温さんが見ているものの固有性と普遍性が表れています。固有性とは、『台湾生まれ日本語育ち』にくわしく書かれていたように、台湾で生まれ、子どものころから日本で暮らす温さんにとって、自分を取り巻く言葉や国籍のことをまったく気にしないで暮らすことはできないということです。一方、普遍性とは、温さんの思考や気づきから、人間にとっての言葉や国籍は、絶対的で固定化されたものなのかという視点がもたらされるということです。

 「やどかり」の「やど」に言葉を重ね合わせる話にぼくは、温さんの問いは温さんだけのものなのだろうかと、ふと思いました。ぼくの両親は、日本生まれの日本国籍者で、日本語話者です。その親のもとに生まれた、日本生まれの日本国籍者で日本語話者であるぼくは、それなら「やどかり」ではないのだろうかと。感覚としては、日本語という「やど」と肉体が密着して融合しているように思いもするのですが、それはほんとうに絶対的なものなのだろうか? ほんとうは、だれもがその地の「やど」を借りているだけなのではないのか……?

 ただ、ここが、この国ではマジョリティであるぼくが気をつけなくてはならないポイントなのだと思います。そのように簡単に普遍的な話にスライドさせることで、見えなくなってしまうものがあるのではないでしょうか。

 頭でっかちになりがちなぼくは、すぐにさっきのように、だれもが言葉や国籍という「やど」を借りて背負っているだけなのだと言いそうになるのですが、そうすると、温さんがこれまでずっと抱え、足をとられずにいられない葛藤や痛みをスルーすることにもなりかねません。その葛藤や痛みの原因は、もしかしたら、日本生まれの日本国籍者で、日本語話者であるぼくらマジョリティの無意識の排他的な態度がもたらしているかもしれないのに。さらに、かつて日本が台湾や朝鮮半島などを支配下に置いたときのように、植民者によって言葉を奪われた現地の人々の猛烈な苦しみさえも軽視して、言葉や国籍なんて代替可能なものだよ、なんていう暴言を吐くことにまでつながりかねません。そのように、「普遍性」という言葉は、それを扱う者の位置によっては暴力になってしまうかもしれないのです。

 〈木村さんは、わたしと自分の間にきちんと線を引いて接してくれる〉と温さんは書いてくださいました。“他者”である相手が置かれた状況を受けとめ、搾取しないでつながろうとするためには、逆説的ですが、まず線を引くことーーお互いの力の不均衡を自覚することーーが大切なのだろうと思います。社会学者の岸政彦さんも『はじめての沖縄』という本で、心から愛する沖縄と本土に暮らす自分との間に「境界線」を引いていますね。これは“他者”だから自分とは無関係だと決めこんだり、異物として排除するための線引きとは真逆のものです。

 それでも、温さんもまた、〈自分の“外部”に出ることをしなければ、知らずしらずのうちに、だれかをなにかを踏み躙ってしまう……〉と考えている。なんだか、横に一本引かれたラインのあちら側とこちら側にぼくらは立っていて、互いにちょっとずつ、そのラインをまたいだり、もどったりする光景が思い浮かびました。以前にやりとりした「持てる者」「持たざる者」の話を反復するようですが、たしかに、視点をどこに置くかで、「持たざる者」だったはずの自分が「持てる者」の側に属していたりと、立場がめまぐるしく変わってきますね。

 〈日本人のための日本語〉が体に合わずに、〈中国語や台湾語を含んだニホン語〉に引っ越した温さん。一方、ぼくもまた、〈『日本生まれの日本国籍者』だからといって、誰しもが日本語という『やど』にフィットするとは限らない〉というご指摘通り、郷里の生活の場で話される言葉よりも「標準語」が上位とされることに違和感を抱き、郷里の方言を使って小説を書きはじめました。マジョリティであるぼくにも、ぼく自身が抱えた固有性があるのでした。

 そのように、温さんとぼくは立っている場所がちがう“他者”ですが、一方では、“言葉に傷を負った者同士”でもあるといえます。言葉が強いてくる規範に傷を負った、ともいえるかもしれません。そう考えれば、どちらも、この生身の体に合わない規範から外れた者同士、です。

 自分のいのちと心を窮屈にたわめるような規範なら、たとえそれが国家が従うことを要請してくる規範であっても、従う必要はないのだと思います。規範よりもいのちが大事。近ごろのぼくの作品はそれが大きなテーマのひとつになっていますが、文学の存在理由も、それを伝えるため、規範からこぼれた心と体の有り様を拾うためにあるような気がするのです。だから、ぼくのなかでは、文学とはそもそも反逆的なものなのです。

 温さん、ぼくは前から思うのですが、何かに傷を負って表現をはじめた者は、その刻印された傷に書くものが規定される(足をとられずにいられない)ように思うのですが、いかがでしょうか。先に補足すれば、これは、ただ否定的なだけの見方ではありません。

 ぼくに関していえば、“雅(みや)び”とは正反対の濁音の多い郷里の方言にこだわるため、わざわざ漢字の隣に濁音の読みのルビを入れています。ルビがないほうが読みやすいにちがいないのですが、汚いものとみなされてきた濁音こそが東北の言葉のイノチだと思うので、そうせざるをえないのです。

 そうやって読者に濁音での読みを強制する時点で、標準語に対する方言の立場を主張するーー言いかえれば中央に対して地方の立場を主張する、政治的な反抗のニュアンスがふくまれてきます。だから、ぼくが書くものは、単純に方言の温かみを伝えるような、牧歌的な田舎の話にはなりません。中央と地方の力の不均衡を気にしないでいられる読者には、そんなこだわりなんかどうでもいい些細なものに思えて、反抗的でノイズまみれのぼくの文章を疎ましく思うでしょう(たとえ、ぼくの郷里で暮らす者であっても)。でも、そうしなければならない必然がこちらにはあるのです。

 つまり、そのようなローカルな傷を持たない書き手のように、だれもがノイズを感じないでストーリーに没頭できる「普遍的」とされる作品なんか書けないし、そのような作品を書く必然を自分のなかに見出せないということです。

 そんなぼくが書くものは、はたから見れば、厚く積もった泥に足をとられて歩いているようなものかもしれません。けれど、それこそがぼく自身の固有性がこもった表現だし、そこから見えてくる「普遍性」をこそ書こうとしているのです。「傷がある」ということは、ある限界を表現に強いるとともに、だからこその磁場を持てるという大きな可能性でもあると思うのです。……たとえ売れにくくても。

 そもそも、ぼくらが簡単に口にする「普遍的」とは、ほんとうに「普遍的」なのでしょうか。それは実際は日本の文学業界のなかでだけ、今の時代のなかでだけ流通している考え方のひとつにすぎない場合もあるのではないでしょうか。

 たとえば、『文藝2019年秋季号』は、文藝誌では超異例の3刷となるほど売れましたが、その特集の「韓国・フェミニズム・日本」という特集のなかで、斎藤真理子さんと鴻巣友季子さんが対談しています。興味深かったのは、斎藤さんによれば、メッセージ性の強い韓国文学のなかには「文学は倫理性を具えていなければならない」という大きな命題があるという指摘です。そして、そこから見た日本文学について、斎藤さんはこう語ります。

 ーー韓国でももちろん、文学と政治的な正しさの関係についてはさまざまに議論があります。ただ日本文学は、潔癖なまでに倫理的であることを拒否するというか、顕現化させてはならないと考えているところがありますね。(59頁)

 ほんとうは、作家それぞれの個性をひとくくりにはできないと思いますが、国それぞれに、その国の文学のかたちの傾向はあるのでしょう。メッセージ性や倫理観を抑制するのがよい文学だという文学観も、じつは相対的なものかもしれません。対談相手の鴻巣さんが指摘する、どんなによいメッセージもプロパガンダになりうるという危惧は至極まっとうだと思いつつ、言わなすぎの弊害もあるのではないか。メッセージ性や倫理観をださないという“文学的な意味での正しさ”を頑なに堅持してきたために、今の日本社会は政治も言論の自由も〈何もかもが手遅れになる〉寸前まで来てしまったともいえるのではないか。

 ともあれ、先ほど「普遍性」という言葉がはらむ暴力性について書いたこともふくめて、ぼくらが「普遍性」とか「普遍的」という言葉を使うときは、一度よく疑ったほうがいいのかもしれないと、自戒をこめて思うのです。

 

 2019年9月29日

 木村友祐

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著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

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