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オックスフォード哲学者奇行

怒りに震える女、アンスコム(続)

マリー・ウォーノックは、エリザベス・アンスコムに最初に出会ったときの印象について、自伝の中でこう語っている。

「彼女は不恰好な黒いズボンと、特徴のないぶかぶかのセーターを着ていたけれど、また、かなり長くてベタベタしていて特定の色合いを持たない髪を頭の後ろで「おだんご」のようにしてまとめていたけれど、彼女の顔は、片目の斜視が目に付くものの、驚くほどの静謐さと美しさを備えていた。彼女は「キリストの降誕」の絵に出てくる天使のような感じだった。信者が聖母マリアの厚意を得たいと願うのと同じように、アンスコムに会った人はただちに、彼女の共感、彼女の祝福、彼女の愛情を得たいと思っただろう。そしてさらに印象的だったのは、彼女が話をするときの声の美しさだった。この事実が、後々、彼女のしばしば荒っぽい言葉遣いの破壊力をさらに増したのだった」[1]

そのような容姿と美しい声で、アンスコムはウォーノックの夫となるジェフリー・ウォーノックのことを、「あのクソ男のウォーノック(that shit, Warnock)」と呼んでいた。ジェフリー・ウォーノックはJ.L.オースティンに心酔していたため、当然ながらアンスコムに忌み嫌われていた。前回、マリー・ウォーノックがB.Philに進学する件でアンスコムに責められた話をしたが、彼女が強く非難されたことがもう一つあり、それがジェフリー・ウォーノックとの結婚話だった。

アンスコムは自分と同学年のジーン・クーツが卒業後にオースティンと結婚すると聞いたときも、あんなひどい男(someone so awful)と結婚するなんてと彼女を厳しく非難した[2]。これから結婚する人に対して、アンスコムは祝福の言葉を述べるどころか呪いの言葉を吐いたわけである。

なお、アンスコム自身は、オースティンが結婚したのと同時期に、自分と同じカトリック教徒で哲学者(論理学者)のピーター・ギーチと結婚している。ギーチとアンスコムは1938年にコーパス・クリスティコレッジの催しで最初に出会ったが、そのときギーチはアンスコムを別の女性と勘違いして彼女にプロポーズしたという。しかしまもなく二人は恋愛関係となり、その年に婚約して3年後の1941年に結婚した。その後、二人はアンスコムが2001年に亡くなるまでの60年間夫婦であった[3]。彼女は結婚後もミス・アンスコムと名乗っており、夫のギーチでさえそう呼んでいたそうだ[4]

カトリック教徒の二人は7人の子どもに恵まれた。マリー・ウォーノックはアンスコムがセントジョン通りに住んでいた頃にその家でインフォーマルなチュートリアルを受けていたが、自分の哲学的才能が十分でないことが暴かれるのが嫌なだけでなく、家がとんでもなく臭いのでその家に行くことを恐れていたという。その家には子どもが「少なくとも3人、ひょっとすると4人」おり、おもちゃが床のそこら中に散らばっていた。アンスコムの書斎には使用後のおむつも落ちていたという。

あるときウォーノックは家に着くなり赤子を腕に抱かされて、あとちょっとで執筆が終わるからミルクをやっておいてとアンスコムに頼まれた。まだ赤子の扱いなど何も知らないウォーノックは、この汚くて臭い生き物を二度と見たくないと思ったそうだ[5]

セントジョン通り。ブライアン・マギーなども学生時代に住んでいた。

次に私がアンスコムの話の中で一番気に入っている話をしよう。これはマリー・ミジリーの自伝に出てくる話である。

アンスコムとミジリーとアイリス・マードックの3人が、オックスフォードの目抜き通りであるコーンマーケット通りの喫茶店で哲学談義をしていた。年代は正確にはわからないが、戦後の比較的早い時期のことのようだ。

彼らは3人で「無礼さ(rudeness)」の意味について論じていた。これは後の1958年にフィリッパ・フットが「道徳的議論」において具体例として用いて有名になったもので、フットによれば、「〜は無礼だ」という価値判断は、その人や行為についての特定の記述から導くことができる。つまり、事実と価値は連続的だということである[6]

哲学の話はさておき、この「無礼さ」の概念について3人が比較的穏やかに議論していたとき、アイリス・マードックがふと次のような発言をした。「もちろん、無礼さの〔評価的〕意味がいつも悪いものとは限らないよね。たとえば、エリザベス、あなたのことを「無礼だ」と形容する人もときどきはいるんでしょう?」

その言葉を聞いたとたん、アンスコムは凍りついた。長い間一言も発さず、彼女の心は北極ぐらい遠くまで去ってしまったかのようだった。やがて彼女は席を立ち、そのような発言は許し難い尋常ならざる侮辱であるという趣旨の短いスピーチをして、そのまま店を立ち去った。

アイリス・マードックとしてはアンスコムの気を害するつもりはまったくなく、彼女が無礼であることはあまりに有名なので本人も自覚しており誇りにさえ思っているのではないかと考えての発言だった。しかし、この一件で図らずも判明したのは、アンスコムは自分が無礼だとはつゆ考えていないということだった。その後、アイリス・マードックがアンスコムと仲直りするにはだいぶ時間がかかったという[7]

コーンマーケット通り。ミジリーの話に出てくる喫茶店はすでにない。なお、ピーター・シンガーもかつてはこの通りで動物実験に反対するデモを行っていたそうだ。

ところで、アンスコムはオースティンだけでなく、A.J.エアも憎んでいたようだ。エアが事実と価値を峻別する論理実証主義の立場から道徳の実在論を退けていたのが哲学的には気に入らなかったものと思われるが、人格的にも嫌っていたようである。

アンスコムより約10歳年上のエアは、彼女が戦前に学生をしていた頃に彼の『言語・真理・論理』によってオックスフォードで大きな影響力を奮っていた。だが、戦後しばらく経った1959年にエアがロンドンからオックスフォード大学に論理学教授として戻ってくることが決まると、アンスコムは次のように述べたという。「エアはすでに一度オックスフォードにいたんだから、彼はもう必要ありません」[8]

また、エアとの公の議論の場でもこんな具合だったそうだ。

「エア教授、もしあなたの話し方がそんなに早口でなかったら、人々はあなたのことをそこまで賢いとは思わなかったでしょうね」

それに対するエアの返事。

「ミス・アンスコム、もしあなたの話し方がそんなにゆっくりでなかったら、人々はあなたのことをそこまで深遠だとは思わなかったでしょうね」[9]

アンスコムの頭の像。サマヴィル・コレッジで行われた生誕100周年のときのシンポジウムで飾ってあった。

最後にアンスコムとR.M.ヘアとの関係について書こうと思うが、あいにく紙幅が尽きたのでその話は次回にしよう。

 

[1] Warnock, Mary, A Memoir, Gerald Duckworth & Co. Ltd., 2000, p.71

[2] Warnock, op. cit., p.68 ちなみに、オースティンが結婚したのは1941年、ウォーノックらは1949年のことである。

[3] http://www.bioethics.org.uk/page/about_us/about_elizabeth_anscombe 前回の注1を参照。

[4] Haldane, John, “Elizabeth Anscombe, Life and Work,” The Life and Philosophy of Elizabeth Anscombe, ed. by John Haldane, St. Andrews Studies in Philosophy and Public Affairs, 2019, sec.3 このあたりも奇行だなと思っていたが、よく考えると我が家もいまだにお互い旧姓で呼びあっているので人のことは言えない。

[5] Warnock, op. cit., p.59 とはいえ、ウォーノック夫妻も後に5人の子どもに恵まれることになる。

[6] Foot, Philippa, “Moral Arguments,” Mind, 67.268(1958), pp.502–513

[7] Midgley, Mary, The Owl of Minerva: A Memoir, Routledge, 2005, p.115

[8] Kenny, Anthony, “Elizabeth Anscombe at Oxford,” The Life and Philosophy of Elizabeth Anscombe, ed. by John Haldane, St. Andrews Studies in Philosophy and Public Affairs, 2019

[9] Ibid.

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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