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オックスフォード哲学者奇行

怒りに震える女、アンスコム

奇人変人の多いオックスフォード哲学者の中でも、エリザベス・アンスコムの武勇伝は別格の観がある。このことはアンスコムの名を冠するアンスコム生命倫理センターのウェブサイトにも彼女の奇行が記録されていることからも推して知ることができる。

「(当時の大学の規則ではスカートを履くように要求されていたにもかかわらず)アンスコムはいつもズボンを履いていた。彼女は葉巻を吸い、しばらくの間は片めがねを使っていた。伝え聞くところによると、彼女がボストンの洒落たレストランに入ろうとしたところ、婦人はズボン着用で入店することはできないと言われた。そこで彼女はその場でズボンを脱いで入店した。」[1]

当然ながら、これは序の口である。

オックスフォード大学の哲学科の建物に飾ってあるアンスコムの写真。

すでに何度か言及したように、アンスコム(G.E.M.Anscombe, 1919-2001)はフィリッパ・フット、マリー・ミジリー、アイリス・マードックと同世代の女性哲学者である。この世代は、第二次世界大戦中で男子学生の多くが従軍していたため、女性が活躍しやすい時期であった。ミジリーはこの時期のことを次のように回顧している。

「若い男たちが延々やかましく騒いで女性の気を散らすことがなかったのがよかったのだと思います――本当に哲学をやりたいと思って勉強している人しかいなかったですし。それに、将来がなさそうだったから、就職のことを考えている人もいませんでした。」[2]

この時期、ライルやオースティン、エア、バーリン、ハートなどはみな諜報機関等で働いていたことは第3回第7回前回などで述べたが、アンスコムらと同世代のヘアなどは一兵卒として従軍し、シンガポールで日本軍の捕虜となりビルマで線路を作る仕事をさせられている[3]

それはともかく、アンスコムは1937年にオックスフォード大学のセントヒューズコレッジに入学し、古典学を学んだ。母親も教師であったため、大学に入る前からラテン語やギリシア語を習得していた。この学部生の頃にフットやマードック、ミジリーらと知り合いになった。学部では好きなこと以外は勉強せず、卒業試験では哲学の一分野以外は惨憺たる出来だったが、できた部分はあまりに優秀だったため結局一等(First)で卒業したという[4]

アンスコムは学部を卒業するとケンブリッジ大学で研究員となり(1942-46年)、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの講義やセミナーに顔を出すようになる。周知のように、彼女は後期ウィトゲンシュタインの『哲学探究』を英訳し、彼の正統な弟子の一人と見なされるようになった。

その彼女が戦後にサマヴィル・コレッジのフェローとしてオックスフォードに戻ってくると、ライルやオースティンが幅を利かせており、とりわけアンスコムによって「ウィトゲンシュタインの劣悪コピー」と見なされたオースティンは、しばしば彼女の憤怒の源泉になっていたようだ。

アンスコムが戦後にフェローをしていたサマヴィル・コレッジ。当時は女子学生だけだった。彼女は1970年までフェローを務め、その後ケンブリッジ大学の哲学教授になった。

哲学者のマリー・ウォーノックの自伝によると、アンスコムはオースティンを蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っていたようだ。

1924年生まれのウォーノック(旧姓ウィルソン、後に見るようにジェフリー・ウォーノックと結婚する)は、アンスコムより5歳ほど年下で、1942年にオックスフォード大学のレディ・マーガレット・ホールに入学したときにはアンスコムはすでにケンブリッジの研究員になっていた。だが、アンスコムはオックスフォードにも顔を出していたようで、ウォーノックは友人を介してまもなく彼女と知り合いになった。

ウォーノックが哲学をやりたいと考えていることを知ったアンスコムは、彼女を「オックスフォード哲学の害悪」から救い出す使命があると考えたという[5]。そのオックスフォード哲学の害悪の権化が誰あろうオースティンであった。

ウォーノックはアンスコムから英訳中の『哲学探究』を読ませてもらうなどしてかなり目をかけてもらっていたようで、先輩後輩関係というよりは、師弟的な関係だったように思われる。

一方、戦後にオースティンがバーリンと再開したセンスデータ論を批判する講義に、ウォーノックはアンスコムと一緒に出席したりもしていた。ちなみに、この講義にはのちにウォーノックの夫となるジェフリー・ウォーノックも出ていて、マリー・ウォーノックはここで彼と最初に出会った。

ウォーノックの考えでは、アンスコムは「ウィトゲンシュタインのスパイ」としてこの講義に出ていた。アンスコムはしばしば講義の途中に異論を差し挟み、侮蔑的なコメントをしたという。

あるとき、アンスコムはいつにも増して無礼なコメントを講義中にしたため、恐れをなしたウォーノックは講義終了後にそそくさとモードレンコレッジの外に出て一人で帰ろうとした。しかし自転車の鍵を開けようとしてもたもたしているとアンスコムに追いつかれてしまう。そこで彼女は「ウィトゲンシュタインがあんな偽物を生み出したと考えると、なんていまいましい!」というアンスコムの渾身の罵倒を聞かされたという[6]

しばらく後に、ウォーノックは勇気を振り絞って、現在の(いわゆる後期)ウィトゲンシュタインはオースティンらが講義で主張していることの多くに同意するんじゃないでしょうかとアンスコムに尋ねた。すると、アンスコムはわなわなと怒りに震え、顔を真っ青にしてこう言ったという。「もしあなたがオースティンとウィトゲンシュタインの間に何か1つでも共通点があると考えるのなら、あなたはウィトゲンシュタインについて私が教えたことをまったく理解していなかったということだ!」[7]。アンスコムはオースティンの「土曜朝の研究会」には招待されなかったが、その理由の一端が垣間見えるエピソードである。

ウォーノックはこの話の前後にオースティンやライルのオックスフォード哲学とウィトゲンシュタインの哲学との関係について興味深い思索を行っているが、その紹介は他の研究者に任せることにしよう。

モードレンコレッジの中庭からモードレンタワーを眺める。

アンスコムはウォーノックが道を踏み外さないように(すなわちオックスフォード哲学に影響を受けないように)と努力していたが、結局それはうまく行かなかったようだ。アンスコムの意に反して、ウォーノックは戦後新たにできたB.Philコース(第6回)に進学を決めてしまった。ウォーノックはアンスコムにこう言われたという。「あなたは最悪な過ちを犯してしまった。なぜなら第一にあなたには哲学の才能がなく、第二にオックスフォード哲学の泥沼にさらに飲み込まれてしまうからだ」と[8]

ウォーノックはこれがアンスコムと長い会話をした最後の機会だったと言う。アンスコムがウォーノックを見放したのか、あるいはウォーノックがアンスコムの言動にいいかげん付いていけなくなったのか。

この辺で一旦終わりにして、次回もアンスコムの話の続きをしたい。

 

[1] 所長のDavid Albert Jonesによる紹介。本文の伝記的部分は主にこの紹介文に依っている。http://www.bioethics.org.uk/page/about_us/about_elizabeth_anscombe なお、アンスコム生命倫理センターは2010年にオックスフォードにできたが、その前身は1977年にロンドンに設立されたリナカー医療倫理センターである。カトリックの学術機関であり、オックスフォード大学には所属していない。

[2] Brown, Andrew, “Mary, Mary, Quite Contrary,” The Guardian, 13 January 2001, https://www.theguardian.com/books/2001/jan/13/philosophy 以下も参照。Midgley, Mary, The Owl of Minerva: A Memoir, Routledge, 2005, pp.123-124

[3] Hare, R. M., “A Philosophical Autobiography,” Utilitas, 14.3, 2002

[4] Midgley, op. cit., p.113

[5] Warnock, Mary, A Memoir, Gerald Duckworth & Co. Ltd., 2000, p.53

[6] Warnock, op. cit., p.65

[7] Ibid.

[8] Warnock, op. cit., p.69

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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