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私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第10便 温又柔より(第3章 持てる者と持たざる者のあいだ)

木村友祐さま

 

 先日(2019.7.1)は、第6回鉄犬ヘテロトピア文学賞の選考会でお会いできてうれしかったです(考えてみれば、こうして手紙を送り合うようになり、直接顔を合わせたのははじめてでしたね)。

 鉄犬ヘテロトピア文学賞は、「小さな場所、はずれた地点を根拠」とし、「場違いな人々に対する温かいまなざし」を持ち、さらには「日本語に変わりゆく声を与える意志」を感じられる作品をそれぞれ見つけてきて紹介しあい、最も自分たちを勇気づけてくれるものを選んで勝手(!)に贈賞しちゃおうということで、2013年にスタートした企画ですが、その選考という、我々の「年中行事」も、かれこれ5年目となりましたね。毎年、木村さんをはじめ、歴代受賞者も含む面々と顔を突き合わせながら候補作をめぐってとことん語らったあとはいつも、ふだん、見失いがちな希望を取り戻したような気持ちになれます。

 それぐらい、ただ、ふつうに暮らしているだけで、何かと絶望させられがちなのかと思うとやや複雑なのですが……。

 ついさっきも、新聞をぱらぱらとめくっていたら、「子どもをつくったのが最大の功績」という小見出しが目に飛び込んできてのけぞったばかりです。これ、元外務副大臣だかなんだかといった経歴をもつ自民党の議員が、同党の現職女性候補の応援演説で言い放ったものだそう。

 70歳近い男性議員の「人口が増えるのもありがたいが、母親になった彼女が、自分の赤ん坊の寝顔を見ながらこの子のためにいい国にしてゆきたいという思いが芽生えたはずだ」という ‘問題’発言を、私が読んだ記事はどちらかといえば批判的に紹介していたのですが、当然でしょう。

 この老議員の、まるで、人口を増やすために女性は子を産むのが義務であり、赤ん坊のいる女性は‘自然と’母性が芽生えるものなのだと言わんばかりの調子に、ただもう呆れるばかりです。

 記事によれば、この応援演説の場には‘彼らの党の総裁’も駆けつけたそうですが、まったくなんという政権がこの国を牛耳ってしまっているのだろう?

 思い返せば数年前にも、東京都議会で女性の妊娠や出産の支援政策について質問していた30代の女性議員が「早く結婚したほうがいいんじゃないか」「産めないのか」といった野次を飛ばされて、涙ぐむという出来事がありました。

 今も、テレビ画面ーーあるいは、だれかがツイッターにあげた動画だったかもしれませんがーーに映し出された彼女の弱々しい笑顔を見たときの胸の痛みをはっきりと思い出せます。ああいうときは、決して笑ってはいけない。笑ってうやむやにしてはならない。もっときちんと尊厳を傷つけられたという怒りをその場ではっきりと示すべきだ、という論調もありましたし、確かにそのとおりなのですが、それでも私は、自分が同じ目に遭ったのなら、やっぱりとっさに笑みを浮かべてしまうような気がして、それがたまらなく切ないのです。

 たぶん、私だけがそう感じているのではないと確信していますが、今の日本社会では、学校の先輩や会社の上司といった自分よりも立場が上にある男性に対し、女性は愛想よくふるまうことが求められる傾向があります。そうしないと、素直ではないとか可愛げがないなどと言われることがあります。そんなの気にしない、私は好きにやってやる、と思っていても、あいつは生意気だ、と、たとえばそのコミュニティで権力を握る者に目をつけられると、もうそれだけでそこには居づらくなることが実際に起きたりするのです。

 大事に扱われなくなるのは言うまでもなく、へたしたら仕事や業務に支障が出る。最悪の場合は、組織を追われる(解雇)に至ることもある。それで、心の中で舌を出しながらでもいいから、表面的には従順そうにふるまってみせるという「処世術」を、多くの女性は知らずしらずのうちに身につけさせられてゆくという歪んだ状況があります。

 公の場ーーまったく信じられないことにそれは都議会という開かれた場所で起きたことだったのです!ーーで、「産めないのか」「結婚したほうがいいんじゃないか」という心無い野次を飛ばされた女性議員がとっさに浮かべた物悲しくて痛々しい笑みに、理不尽な目に遭わされながらも、そうやって笑うことでどうにかやり過ごすしかない女性たちの笑みが重なって見えて、とても胸が痛みました。

 この都議会での「事件」はまたたくまに知れ渡り、ツイッターをはじめとしたネット上では男女問わず多くの方々が怒りを表明しました。これはもう、野次のレベルを超えている。一人の女性に対するセクハラまがいのヘイトスピーチそのものだ、と。正直、ほっとしました。やっぱりあんなのはおかしいんだ。わたしだけが胸を痛めたわけではないんだ。

 いやそれどころか、心無い野次を飛ばした議員に対する人々の怒りはあまりに激しく、それが新聞やテレビニュースでも取り上げられたために、その議員は特定され、謝罪に追い込まれましたっけ。しかし彼には問題の本質がどこまでわかっているのやら。「炎上」したからいちおう謝っただけにすぎないのなら、ほんとうにやりきれません。

 あえて言うまでもなく、女性は「産む機械」ではありません。ましてや、日本の、もっと言えば、日本人の人口を増やすための!

 それなのに、いまだに「子どもをつくったのが最大の功績」という発言が、一人の女性を讃える言葉として堂々とまかりとおるとは……

 それでも、いまだに、女性に限らず、男性でも、結婚して、子どもがうまれてはじめて世間ーーまったく漠然としたものだなと思いますがーーから一人前とみなされる、という風潮は強くありますよね。私自身は子どもがいない自分の人生を気に入っているし、正直、十分満たされているので、お節介なオジサンやオバサンたちに「孫の顔を見せるのが最大の親孝行」だの「子どもがいないと、将来、さみしいわよ」だの言われたところで、「はいはい、そうですね」とそれこそ心の中で舌を出しながら受け流せるのですが、そもそも今の社会には、結婚や出産をしたくても収入面や労働環境のせいで踏み出せない人が大勢います。それは、ほんとうに彼ら個人の責任でしょうか?

 周知の通り、バブル崩壊後の就職氷河期には、就職したくても非正規雇用を選ばざるをえない人が少なくありませんでした。今、40歳前後の私の友人や知人にも学生時代はそこそこ優秀だったものの、ついに正社員にはなれなかった人たちが少なくありません。それどころか、どうにか確保した職を失いたくないがゆえに劣悪な環境で働く人もいます。それも、おまえの代わりはいくらでもいるぞ、と怯えながら。

 要するに、先々のことが見えない、明日のことも不安といった不安定な立場に置かされた人たちにとっては、自分ひとり喰ってゆくのに精いっぱいで、とにかく、余裕がない。結婚? 出産? したくてもできないよ。いや、したいと思う気持ちにもならない。

 都議会の一件が人々の逆鱗に触れたのは、まさに、その問題を取りざたにしている真っ最中に、「産めないのか」という野次が飛んだからというのもあると思います。

 言うまでもなく、女性に限らず、弱い立場に置かされている男性も同じプレッシャーに晒されています。

(このひとたちに逆らったら、ここにはいられなくなる。そしたら、明日からどうやって生活しよう……)

「子どもは最低三人ぐらい産んでほしい」だの「若者が結婚や出産をしないから、少子化になるんだ」と平気で言ってのける政治家たちには、このような現実が見えていないのでしょうか? 仮に見えているのだとしたら、自分たちが果たすべき責務を国民になすりつけているとしか思えません。国民が安心して暮らせる環境を整えることは、本来ならば彼らの責務でしょう。それなのに国の発展のために、子どもを一人でも多く産めと言いつつ、社会保障予算は切り下げ、公的福祉分野も縮小させてゆく。

 こんなの、だれのための国なの?

 国家のほうが、国民より大事なの?

と、問いただしたくなる。

 ……ああ、もっと別のことを書こうと思っていたのに、さっき目にしたばかりの記事で、つい、こんなにも長く書いてしまいました。

 まったく、毎日、こんな調子なのです。毎日、のけぞってしまうような、ひどい話が目につく。

 それにしても、いわゆる‘義憤’に駆られるときというのは、けっこう疲れます。心が摩耗します。へたしたら、体もぐったりしてしまう。それでも、ひどいと感じなくなったらおしまいだ、という意地のような思いもある。

 どうして、私は日々、こんなに怒ってばかりいるんだろう。

 怒らずにはいられないんだろう。

 次から次へと何かに腹を立てずにいられない自分を持て余していたのもあって、木村さんが書いてくださった〈様々な排除や差別の根は、底の方でつながっている〉という表現には、はっとさせられました。そうか、ひとつひとつのことに対して、自分はばらばらに怒っているのではなく、もともと根は一つなのかもしれないな、と。

 木村さんがおっしゃるように、〈社会的に成功して富を持つ者が偉くて、そうでない者が蔑まれるというぼくらが内面化した見方、価値観には、何も根拠がないということです。そう、根拠がない〉。

 そう、そうなのです。根拠など、ない。あるわけが、ない。しかし、お金持ちの政治家ーー「持てる者」ーーと、野宿者ーー「持たざる者」ーーのどちらに発言力があるのかといえば、やはり前者なのですよね。沈黙させられている「持たざる者」を踏みつけながら(あるいは踏みつけている自覚すらなく)、「持てる者」はえてしてこんなふうに言ってのける。

 ーーわたしたちとちがって、彼らは能力が低いから、努力が足りないから、貧しいのだ。

「持てる者」である彼らは、決して疑おうとしません。自分たちが〈お腹にたっぷり栄養を蓄えている〉状態でこの世に生を受けた魚であることを。

 餓えの苦しみを味わうことなく、芳醇な餌を与えられながらすくすくと育った彼らが、痩せっぽちで生まれたきり餌もろくにもらえず喰うものを自力で求めてもがくしかない魚たちにむかって、「おまえは努力が足りない」とあざ笑う姿は、ただもう醜いとしか言いようがありません(いまわたしも麻生太郎を思い浮かべています)。

 ところで、(麻生の野郎に限らず)「持てる者」たちの多くは、自分自身も「持たざる者」だったかもしれない、といった視点が著しく欠けていると思いませんか? そうであるからこそ、「持たざる者」たちと「持てる者」である自分の間に排他的な線を容赦なく引く。そう、線のこちら側にいる自分は「優生」で、あちら側にいる彼らは‘彼ら自身の責任’で劣っているとばかりに。

 実は私、この対極にある態度は、シカゴの食堂の女性や、新橋駅で出会った初老の男性とむきあったときの木村さんの姿勢だと思ったんです。

 木村さんは、シカゴの食堂の店員を「ぶっきらぼうな黒人のおばあさん」と書いて終わることもできたはずです。しかし木村さんは、〈大学の招聘でアメリカにやってきた一日本人〉としてではなく、〈たんなるアジア人の一労働者として〉そこで暮らす自分を想像しようと努めます。ツーリストとして、日本の作家として、安全な位置にいる自分をそうやってずらしてみせることで、‘ふつう’の観光客なら、おそらく見逃してしまうはずのものに木村さんは懸命に目を凝らすのです。

 新橋駅横断歩道の脇で正座していた男性との「出会い」については、自分もああだったかもしれない、路上で寝起きしていたかもしれない、と現実に根差した想像力を働かせて書く。シカゴの女性にうっとうしがられている自分が、今のような安定した立場ではなかったのなら、という仮定。今はたまたま「施す」側にあるけれど、自分が新橋の路上にいる、という想像。

 木村さんのこうした態度は、「持てる者」と「持たざる者」の関係が永遠に固定されているとばかりに、まるで自力でその位置にたどり着けたかのようにふんぞりかえっている肥えた魚たちとは正反対です。

 木村さんがこれまで書いてきた小説や、おそらく今書きつつある小説、そしてこうやって交す手紙の中にいつも私は、ありとあらゆる歪んだ関係を支えている構造の、底のほうをのぞきこむ視線と、そうすることで、特定の誰かにとってのみ都合がよい状況を問い直そうという強い意志を感じるのです。

「持てる者」のみがほくそ笑み、「持たざる者」は常に泣き寝入りする……そのことに腹を立て、そのことに胸を痛めるという‘まっとうさ’を、私も失いたくないと思っています。と同時に、木村さんに倣って、自分自身のことも、あらゆる角度から見つめ、点検しなければとも思っています。たとえば、ある部分で「持たざる者」である私が、別のある部分では「持てる者」であるということなどを……。

 さて。さまざまな差別や排除の根が底のほうでつながっていることに勘づいたからには、もう、以前のままではいられないですよね。今の日本には〈優生思想の芽が潜んでいる〉と危惧するなんて突飛なことだと私たちをわらうひとたちもいるかもしれません。けれども私はこうも思うのです。自分を含めたすべての作家は、「発言力」を(少しでも)備えているという意味では、「持てる者」の側に属するのだと。

 少なくとも、声を奪われて沈黙を余儀なくされている人たちと比べれば、作家である私たちはやはり、‘持っているほう’なのです。そうであるからこそ、このひどくいびつな、一部の「持てる者」のみがほくそ笑む状況に目をつむってはいられない。ましてや、この現実の歪みを見てみぬふりして、自分にとってのみ居心地のよい小さな世界を書いている暇はない。たとえ、そのほうがずっと楽なのだとしても。

 意地になっています。でも、私はやっぱり文学が本来的に備え持つ包容力を信じたいのです。いや、信じています。そのせいか近頃ますます、自分が何かを書いているというよりも、自分は何かに書かされているという感覚が強まってきたように感じることがあります。書いているときが最も心休まるのです。その分、書いていないときはしょっちゅう不安になります。私は、ほかでもない自分自身を満足させられるような小説を、ほんとうに書き終えることができるのだろうか、と。

 木村さん。木村さんさえよければ、今、書いているという小説についても、聞かせてほしいです。

 

 2019年7月14日

 温又柔

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著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

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