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私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第9便 木村友祐より(第3章 持てる者と持たざる者のあいだ)

 温又柔さま

 

 台風が発生する季節となりました。昨日接近した台風は、直撃しないで過ぎていきましたが、南方から連れてきた湿気と熱気を残していきました。今年はじめてサンダルを履いたぼくの日常は、あいかわらず猫たちを中心にして回っています(小説を中心に、と言えないのがなんともはや。もうダメだ)。

 日本語が聞こえない環境にいると、妙にほっとするーー。温さんがお書きになったこととまったく同じことを、ぼくもシカゴに行って感じました。

 日本にいると、絶えず、心を乱されるような情報にさらされますね。ツイッターは情報が速いため、ちょっと時間が空くとのぞくのですが、ツイートの一つ一つごとに怒ったり、悲しんだり、ざわつく違和感を溜め込んだり。でも次の瞬間にはクスクス笑ってみたり。感情の変化がすごくめまぐるしい。ツイッターには、ぼくが関心を持ちそうなツイートを表示する機能があるのでしょう、そうするとほとんど政治や人権にかかわるツイートがずらっと並んで、心が追いつかなくなります。どれもリツイートしたくなる重要な話題でも、心のすべてをそれらに注ごうとすると、だれかに動かされたみたいに反射的な心ばかりが働いて、今、ここにいるぼく自身の心が何を感じているのか、わからなくなります。

 シカゴの中心街から外れた、黒人の町ともいえるハイドパークにいたときのぼくは、心を奪いとるそれらの情報から解放されていたのでした。ホッと自分の呼吸を取り戻していることに気がつくと、日本にいたときの自分が、気づかないうちにだいぶ消耗していたんだなとわかりました。

 日本こそが自分が取り組むものがある持ち場なのだとすれば、そんな感慨は逃避的ではないか、といううしろめたさも一瞬よぎります。実際そうとも言えます。でも、消耗して心が固まりかけた状態では、怒りや悲しみという感情も摩耗していくのではないでしょうか。理不尽な情況に対抗する本来の感情の力を取り戻すためには、いったんその場を離れることは大切なのかもしれません。旅は、だから、その意味でも有効なのです。

 ただし。ぼくが心の解放感を得たアメリカは、移民を敵視し、庶民の福祉には関心のなさそうなトランプ大統領が動かすアメリカで、そこで暮らす人々の多くは不安を抱えた生活を強いられていたのかもしれません。富を持つ者が優遇され、庶民の暮らしが逼迫しているという意味では、ほんとうは、日本と何も変わらないか、それ以上だったはずです。そういう場所でひとときの解放感を感じるとは、皮肉なことですね。

 ハイドパークでは、路上に紙コップを持って立っている、ホームレス状態と思われる黒人の人たちを見かけました。最初は小銭を入れたりしましたが、小銭じゃ少ないだろうかとか、でも財布の小額紙幣はベッドメイクやレストランでのチップのためにとっておきたいとか思っているうちに素通りするようになって、するとある男は「カネ入れねぇのか!」と言ってるみたいに怒った声をぼくの背中にぶつけてきました。ぼくは恐縮しながらも、その堂々とした態度に感心もしたのです。また、別の人は、オバマ前大統領が学生時代に通ったという食堂の前で、反省する人のように下ろした両手を体の前で組んで、うなだれて何か謝るように低い声でつぶやいていました。足元には、スポーツバッグが一個だけ置いてありました。

 ホテルから歩いて10分ほどの距離にミシガン湖があるのですが、湖岸に出るための陸橋の下にも、頭から足の先まで毛布をすっぽりかぶって寝ている人が二人ほどいました。湖といっても対岸は見えず、海のように水平線が横たわるほどの大きさで、最初にぼくが行ったときは、少しいると耳の奥が痛くなるほどの冷たい風が吹いていました。シカゴにいるのに郷里の八戸の冬の海をありありと思いだしたのですが、そんな寒風が吹きつけるなかで、毛布だけで寝ている人がいるのです。

 ぼくは思いました。シカゴ大学から旅費を出してもらって、今後有望な若手のシェフがメニューを考えたというJALの機内食を食べてここに来ているぼくとちがって、ホームレス状態の彼らや、ここで生活している人たちの多くは、おそらくずっと、どこにも行けず、この場にとどまらざるをえないのかもしれないと。

 そう思えば、もし自分がたんなるアジア人の一労働者としてここで暮らしていたら、どうだったろうと考えました。英語がわからないぼくに、ホテルの人をふくめて町の人たちは、特に気遣うことはありません。わからないほうがおかしいという感じです。

 さっき書いた食堂では、黒人のおばあさんに白いパンと茶色いパンのどちらにするかと聞かれたものの、それが「ワイ? オー、バーウン?」と聞こえてまったくわからず、「ん?」という感じで右耳を突きだしたぼくに、むっつり顔のおばあさんは露骨に面倒くさそうにして(ホントに面倒くさそうに)、それぞれのパンを持ち上げて見せてくれました。

 そのときのぼくに笑う余裕があったのは、自分は招待された客なんだという意識がどこかにあったからでしょう。でも、もしもその町の移民として暮らしていて、言葉のせいで仕事上でも生活上でも日々侮られて傷ついていたとしたら、おばあさんのその態度にさらに傷つき落ちこんだのかもしれません。

 物乞いする人は、去年行ったパリの路上でも見かけました。そこには、難民ではないかと思われる老齢の女性もいました。そしてやはり、日本でも、帰る家を失った人たちがいます。

 2〜3年前のある夏に、仕事中に新橋駅の近くで出会った人のことを、今も思いだします。横断歩道の信号の下あたりで、うなだれたように正座していました。小柄な初老の男性でした。裸足だったかもしれません。膝の前にコップか何かが置いてあって、そのように物乞いする人がまだいることに驚きました。

 そんなとき、ぼくの胸にはいつも葛藤が生まれます。見なかったことにして素通りするか、向き合うかと。心配になって何かしたいと思う反面、本気でかかわることもできないのに偽善じゃないか、いちいち足をとめていたらキリがないじゃないか、という気持ちも動きます。

 結局ぼくは、これは自分のもやもやした気持ちを晴らすためにやるのだと思うことにして、近くでキオスクを探して、おにぎりとサンドイッチ、お茶と缶コーヒーを買って、その人のところにもどりました。もしかするとお金のほうがうれしかったのかもしれませんが、お金を渡して済ますことに、なぜだか抵抗があるのです(どっちにしても自己満足なのですが……)。

 おじさん、これよかったら、食べて。そう言って、キオスクの袋を前に置きました。自分の行為に迷いがあるため緊張したのですが、その人は顔を上げて喜んでくれたので、ホッとしました。照れくさいのもあって、すぐにその場から離れようとしましたが、その人はお茶の入ったペットボトルのキャップをなぜか片手だけで開けようとしていて、開けられなくて困った表情を見せました。どうしたのかと思ったら、その人がペットボトルを支えるために出したもう片方の右手は、手首から先がありませんでした。切断された跡のように手首が丸くなっていたのです。

 一体、何があったのか。工事現場とか、漁船の網の巻き取り機で手を失ったのか。内心動揺しながら、「キャップ開けますか?」と言って、開けてあげました。その人は、うれしそうにぼくを見上げ、ニカッと歯を見せて笑いました。まぶしいくらいの、子どもが笑うような純粋な笑顔でした。

 今思いだすと、なぜか、その人の声も言葉も残っていません。混じりっけなしの笑顔の印象ばかりが浮かんできます。あれからどうしているのだろうと、時々思いだします。同じ場所を通りかかっても、もうその人の姿を見かけることはなくなりました。

 ホームレス状態の人たちを支援する者であれば、その人の今後のためにずっとかかわったのだろうと思います。ぼくは一時的にかかわって、とりあえず自分の気持ちはおさまったかもしれません。けれど、その後もその人は、片手が使えないという何をするにも不自由な体で生きていかなければならないのです。ぼくが渡したおにぎりやサンドイッチの袋を片手で開けられただろうかと思うと、そこまで考えられなかった自分を罵りたくなります。

 だから、その人との数分のかかわりをこうして書くことには、微妙なうしろめたさがあります。恥を打ち明けるようでいながら、ひそかに自慢している気持ちもあるんじゃないかと。どうしたって、そのいやらしさからは逃れられません。ただ、ぼくとしては、たとえ偽善的で中途半端であったとしても、見えているものを見ないふりするよりはマシではないかと思う気持ちもあるのです。

 異質なものを視界から排除して安心したい心の作用は、だれにでもあります。ぼくにもあります。けれど、駅の構内で寝ていたり、道端で正座している人と自分は別の人種だとして見えない壁をつくるか、同じ人として気持ちを寄せるかで、道が分かれます。

 何もヘイトスピーチの街宣が行われる場所だけが問題を抱えた“現場”なのではありません。日々の暮らしのなかで、視界に入ったものを無意識に分別する自分の目と心が、すでにもう現場なのです。これは女性差別をふくむ、あらゆる分野の差別についてもいえるのだと思います。

 家を失った人たちのことをぼくが気にするのは、同じ人間が困っていると思うとともに、その境遇に至るのは他人事ではないと思うからです。ここで恥ずかしい話をすれば(すみません)、小説を書く時間をとるためにバイトを減らしていても、そうすぐに小説は書けず、書いてもボツになることもあるぼくの状況では、もし体を壊してバイトもできなくなれば、収入は途絶えます。収入のある家族がいなければ、今ごろ路上に出ていたかもしれません。

 大学を卒業しても就職せず、バイトをしながら小説を書くことを自分で選んだわけだから、それを「自己責任」と言われても、ぼくは何も言い返せないでしょう(生活保護を受けることはためらいませんが)。けれど、では、あの片手を失った人も「自己責任」なのでしょうか。

「自己責任」という言葉は、すさまじく冷酷な言葉だと思いませんか? 困っている人に対して、同情や共感を寄せなくてもいいというお墨付きを与える言葉なのですから。その言葉を、この国では、人々の窮状を改善するためにいるはずの与党の政治家が口にするのです。そして、生活保護費を削減する。

 孵化して大きな世界に繰りだした稚魚が、お腹にたっぷり栄養を蓄えているか、そうではないか。ーー人生の初期の経済状態、つまり、生まれた家の経済環境が、どうしたってその後の人生に大きく影響するのだとぼくは思います。進学できない、学業よりバイトをして家計を助けなくてはならない、就職先も狭まるという、がんばれる環境自体が削がれているのですから。さらに、そこに運や不運も影響します。たまたま資質や才覚に恵まれてのし上がれる人もいますが、だれもがそうできるわけではありません。

 富や才覚や運に恵まれた状態でのがんばりと、そうでない状態でのがんばりを一緒くたにして、結果だけ評価するのは理屈に合わないおかしな話です。けれど、自己責任論というのは、そこを無視して、結果のすべてを個人の責任に負わせますね。

 逆に、はじめから恵まれている人は、今いる地位がゼロやマイナスから壁に爪を立てるようにして這い上がった努力の結果でもないのに、あたかも当然であるかのように振る舞い、持たない者を見下します(いまぼくは麻生太郎を思い浮かべています)。

 何が言いたいかというと、社会的に成功して富を持つ者が偉くて、そうでない者が蔑まれるというぼくらが内面化した見方、価値観には、何も根拠がないということです。そう、根拠がない。満員電車でたまたま座れた人が、“たまたま”自分がラッキーだったことを忘れて、つらそうに立っている人をあざ笑うような馬鹿馬鹿しさと同じことです。

 他者と自分を線引きし、困っている人に思いを寄せなくていいと開き直る自己責任論は、共感の欠如を正当化するという意味で、ただの意地悪以上の恐ろしさを内包しているのではないでしょうか。

 というのも、共感しなくていいという考え方、不自由のない自分の立場は当然のものだとするモラル度外視の態度は、やがては、体や心といった、自分ではどうすることもできない障がいを抱えた人のことも「そう生まれたお前が悪い」と言いだすことだってありえるのでないか、と思うからです。目をこらせば、どうもそこに優生思想の芽が潜んでいるーー。

 これは、小説家的な突飛な想像力でしょうか? でも、様々な排除や差別の根は、底の方でつながっているようにぼくには思えるのです。

 このことについて、温さんはどうお考えになりますか?

 

 2019年6月29日  木村友祐

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著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

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