明石書店のwebマガジン

MENU

オックスフォード哲学者奇行

苦悩する男、ハート

英国から帰国して早ひと月が過ぎた。最初は対岸(というか遠い国)の火事だった新型コロナウイルス感染症も、私の帰国間際には英国でも深刻になりつつあった。帰国直前のロンドンは空いていてよかったが、帰国後まもなく全英がロックダウンしてしまった。英国は日本と違って罰則付きの外出禁止令なので、理由なく外出して罰金を取られる人も出ているそうだ。オックスフォードではヒラリーターム(春学期)の最後の1週間(3月第1週)はセミナー等の中止が相次いだが、その後はオンラインで開催されているようだ。

3月23日開始のロックダウンから9日前のケンジントンガーデン(ロンドン)でインコにエサをやる人々。結構人が出ていたが、静かに感染は拡がっていたものと思われる。

それはともかく、今回は前回予告したアンスコムの話ではなく、オースティンつながりで法哲学者のH.L.A.ハートの話をもう少ししてみたい。ハートは代表作『法の概念』や同性愛行為の非犯罪化の是非をめぐるパトリック・デブリンとの論争で日本でもよく知られているが、彼の苦悩についてはあまり知られていない。研究者および家族生活を営む人間としての彼の内面を知ることで、彼の理論をより理解しやすくなるかもしれない。ただし、長話をしているといつまで経ってもアンスコムにたどり着けないので、簡単に話してみよう。

ハートは1907年生まれなので、アイザイア・バーリン(1909)、A.J.エア(1910)、J.L.オースティン(1911)より少しだけ年上である(1992年死去)。H.L.A.はハーバート・ライオネル・アドルファスで、たまにハーバート・ハートと表記されることもある。

法学者のD.シュガーマンによるインタビューが論文になっているが、それによると、ロンドンに住むユダヤ人家系に生まれたハートは、1926年にオックスフォード大学(ニューコレッジ)に入学し、古典学を学んで29年に卒業したのち、法廷弁護士になるために大学に残って判例の勉強をして司法試験を受け、1932年に弁護士になった[1]

このインタビューでは言及がないが、ハートは学部を卒業してから法廷弁護士になる前に、超難関のオールソウルズのフェローシップ試験を2回受けている。ニコラ・レイシーの伝記では、1929年に歴史学、1930年に法学のフェローを目指して受験したが、二度とも落ちて大変辛い思いをしたという。とくに、当時から仲の良かったバーリンや、戦後に親交を深めることになるオースティンらは合格してフェローになっていたので、ますます辛い思いをしたそうだ[2]

ハートの苦悩は、戦後も続く。彼は戦前に8年間ロンドンで弁護士を務めた後、戦中は諜報部(MI5)で働き、そこでギルバート・ライルやスチュアート・ハンプシャーらオックスフォードの哲学者たちと哲学の議論を楽しんだ。そのこともきっかけとなり、戦後はニューコレッジの哲学フェローとして1945年にオックスフォードに戻ってくることになる。

だが、言語哲学が流行している中、戦前の哲学教育しか受けていなかったハートは、とくに最初の2年間はチュートリアルに相当苦労したようで、自身の日記では学生が自分のことを愚かだと思っていると書いたり、「詐欺師であることだけでも十分に悪いことだが、失敗に終わった詐欺師であることはあまりに屈辱的である」と書いたりして、もがき苦しんでいる。自分がユダヤ人というマイノリティであることについても複雑な思いがあったようだ[3]

もっとも、多くの学生たちは彼の内面の苦しみには気付かず、ハートの薫陶を受けたジェフリー・ウォーノックのように、ハートのチュートリアルを高く評価していた者もいた[4]

レイシーの伝記は当時のオックスフォード哲学についても詳しく紹介していて非常におもしろいが、そこは関心のある人に読んでもらうことにして省略する[5]。ハートはバーリンの勧めもあってオースティンと親しくなり、「土曜朝の研究会」に出席して言語哲学を学ぶ。それと並行して、オースティンと一緒に判例を基に言い訳(弁解)について検討するセミナーを行い、自分が貢献できる領域があることに気づく。ハートは哲学での独創的な研究を評価され、1952年には法哲学教授になる。

オックスフォード大の植物園の入口付近にある記念碑。ここにはかつてユダヤ人の墓地があったことや、13世紀末には英国からユダヤ人が350年にわたって追放された歴史があることが記されている。

もうひとつハートの悩みの種は、妻のジェニファーの婚外交渉だった。ジェニファー(旧姓はウィリアムズ)は1914年生まれで、ハートの7歳ほど年下である。彼女は1935年にオックスフォード大のサマヴィルコレッジを優秀な成績で卒業し、難関の試験を受けて36年に公務員になった。そのころにハートに出会い、1941年に結婚する。その後も公務員として働き続けたが(主に内務省で警察関係の仕事をした)、ハートが戦後にオックスフォードで職を得ると、彼女も公務員を辞めてオックスフォードに移り住んだ。そして1952年にはセントアンズコレッジのフェローになり、現代史を教えた。

彼女は戦前に共産党員だったため、ソ連のスパイではないかとの噂がかねてからあったが、1980年代にBBCのインタビューをきっかけにその問題が再燃し、戦中に諜報部で働いていたハートから情報を流していたのではないかという新聞記事が出て大きな話題になった。すったもんだの騒ぎの末、結局新聞社が謝罪して一応解決したが、おかげでハートは深刻な心の病を患ったという[6]

それはともかく、ジェニファーはオープンマリッジを標榜し、ハートとの結婚後、オックスフォードで数名の男性と婚外交渉を持った。その一人が、誰であろうハートの親友のバーリンである。ジェニファーのこのような行動の背景には、ハートが自分の同性愛的傾向に悩んでいたという事情もあったようだ。ハートは一度、自分の娘にこう語ったことがある。「この結婚の問題は、我々のうちの一人はセックスが好きではなく、もう一人は食べものが好きではないということだ」[7]。前者がハート、後者がジェニファーのことである。

ジェニファーとバーリンの関係は1940年代の後半から始まり、バーリンがアリーン・ド・ギュンツブールという女性と結婚した1950年代半ばには終わったようだ。だが、その30年後にアリーンがハート夫妻に対して、「あなたたちの家の隣に家を買って引っ越してくれば、もし自分が先に死んだら夫は親友一家の隣に住めていいんじゃないかしら」と述べたことがあり、アリーンが帰った後に、ハートはジェニファーにこう言ったという。「何という良い考えだろう。そしたら、私が死んだら、君はついにバーリンと結婚できるじゃないか」[8]

しかし、ハートはバーリンから直接、ジェニファーと恋愛関係にあることを二度も告げられながらも、それを信じないと述べてバーリンと変わらぬ友情関係を保った。レイシーはその証拠として、ハートが1981年に法哲学者のニール・マコーミックの草稿を読んだとき、バーリンはハートの「哲学の同僚の中で最も仲の良い友人」と書いてあるのを見て、「哲学の同僚の中で」を削除するように指示したという[9]。あえて詳しく説明しないが、アカデミアにおけるハートとバーリンの関係は、ロック音楽におけるジョージ・ハリソンとエリック・クラプトンの関係に近いと言えそうだ。


バーリンがかつて住んでいたヘジントンの家の門柱にあるブループラーク。妻のアリーンが貴族の家系だったこともあり、豪邸に住んでいた。

ここまで見てきたように、ハートはオックスフォードで悩み深い人生を送っていたようである。このような話を知っておくと、ハートの法理論をよく理解できるようになる……わけでは必ずしもないが、彼の明晰で分析的な文章の背後には、合理性だけではすまないドロドロの人生があったことを思い出すと何かの役に立つこともあるかもしれない。


ロンドンのUCL(ユニバーシティ・コレッジ・ロンドン)にあるジェレミー・ベンタム(ベンサム)のミイラ。本文では触れなかったが、ハートは20世紀後半にベンタムへの関心を復活させた中心人物である。

次回こそはアンスコムの話をしたいと思う。

 

[1] Sugarman, David and H. L. A. Hart, “Hart Interviewed: H. L. A. Hart in Conversation with David Sugarman,” Journal of Law and Society, 32.2, 2005, pp.267–293

[2] Lacey, Nicola, A Life of H. L. A. Hart: The Nightmare and the Noble Dream, Oxford University Press, 2004, pp.41-43

[3] レイシーの記述によると、ハートが入った20年代はオックスフォードの学生約4000名のうち、ユダヤ人学生は40名ほどだった。後年になるが、ハートがユダヤ人であることを知らない学生も多かったという。

[4] Lacey, Nicola, op. cit., p.131 レイシーの伝記は、ハートがユダヤ人家系であることと、また彼の同性愛的傾向が彼の内面的葛藤の大きな要因として描かれている。

[5] Ibid., pp.132-142

[6] Lacey, Nicola, op. cit., pp.342-344 and Lacey, Nicola, “Jenifer Hart,” The Guardian, 11 April 2005, pp.1–7, https://www.theguardian.com/news/2005/apr/11/guardianobituaries.obituaries

[7] Lacey, Nicola, op. cit., pp.236

[8] Ibid., p.177 もうひとつおもしろいエピソードは、ジェニファーが1959年に4人目の子どもを妊娠したことをハートに告げたときのハートの反応である。彼女は自分の日記にこう書いている。「彼の最初の質問は、『それは自分の子か?』だった。私は彼の子どもだと保証したが、もしそうでなかったら誰の子だと思うかを彼に言わせた。彼の答えは、〔一人目と二人目は全く的外れで〕スチュアート〔ハンプシャー〕かアイザイア〔バーリン〕の子どもではないかというものだった。彼はその二人ならどちらでもかまわないそうだ。進歩が見られる。」(Ibid., p.237)

[9] Ibid., p.178

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

閉じる