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私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第7便 木村友祐より(第2章 動物とヒトのあいだ)

温又柔さま

 

 これを書いている今、世の中は、改元にともなう10日間の連休に入っています。電車に乗っても座れるほど空いていて、正月休みみたいですが、気温はもう5月の陽気。重力が軽くなったみたいな、不思議な空白のなかを歩いているような気がします。

 わざと作りだされた、恩着せがましいような大型連休ですが、こんなにも休みがあるとふだんできないことをできる余裕が生まれるのはたしかで、新たな元号になった日に、ずっと気になっていた風呂場の掃除をやりました。そしたら、左腕の関節のスジをどうにかしたみたいで、曲げるとズキンと痛むのです。間抜けですね。でもなぜだか、「ざまぁみろ」と思いました。自分に対してではありません。大きな歴史を作ろうとしているだれかに対してです。

 それは、あんたたちはいかにも年越しみたいに盛大な祝賀ムードの空気を演出して、「新しい」「ピカピカの」「生まれ変わった」時代になったと思わせたいのかもしれないけど、ここでこうして腕のスジを痛めるという、あいも変わらず取るに足らない現実を生きてるやつがいるんだぜ、といった気持ちだったと思います。お前らの作りだす大きな歴史から漏れまくっている、今を生きるその他大勢のひとりが、現にここにいるんだぜ、という。

 こんな憎まれ口は、相手にはなんにも届かないし、影響力も持ちません。でも、もしかしたら、こういうごくちいさな実存にこそ、脅威になりうる表現の力が潜んでいるんじゃないか、と思ったりもします。ツイッターでの消費的・捨て石的なつぶやきとは別次元のところで。

 温さんがぼくの手紙のことを一日中考え、公園のベンチで、足首の曲がった鳩と、黒丸のことを思ってくださったことに、ぼくもまた心が震えました。ありがとう。と思いました。

 黒丸は、ぼくが家猫のクロスケを散歩させるために外にでると、必ず、ムチッと大きくふくらんだお腹を揺らしながらトコトコと寄ってきて、なでてもらいたがりました。

 クロスケが植木鉢の草を食べている間、しゃがんだ体勢で右手でクロスケのリードを持ち、左手で黒丸をなでます。腰をポンポン叩くと、待っていたというように腹ばいになります。でも黒丸はなぜかじっとしないで、腹ばいのまま、ちょっとずつ前に進んでいくのです。

 もっと腰を中心に叩けということなのでしょうか、ぼくはそのたびに腕を伸ばすことになります。体勢が保てなくなって叩くのをやめると、黒丸はムクッと起き上がって無言で寄ってきて、しゃがんでいるぼくの腰のあたりに体をすりつけるのでした。あらためてポンポン叩いてやると、満足そうにまた腹ばいになります。

 クロスケが草を食べ終えて移動すれば、黒丸を置いてぼくもついていくのですが、そうすると黒丸は、またはちきれそうなお腹を重そうに揺らしながら、短い脚でトコトコ寄ってくるのでした。

 その黒丸がいるのがあたりまえだった時間から、いないことが通常となった時間に移り変わろうとしています。それに慣れていく自分も認めざるをえません。それでも時々、黒丸が倒れていたという隣のアパートの通路の奥を見やってしまいます。

『ゾウの時間 ネズミの時間』は、興味深いですね。〈わたしたちヒトとは異なる秩序を生きているイキモノ〉の時間を伝える、大事な本だろうと思います。ぼくらが考える世界像とは、結局、ぼくらヒトの視点から見た世界像でしかありません。ヒト以外の生きものたちの視点から見れば、ガラリとその見え方は変わるはずです。もっといえば、あたりまえだと思っていた世界が転覆するくらいのものだと思います。

 不思議なのは、そうした見方を伝える本も映像もすでに無数にあるはずなのに、なぜ未だにその見方が浸透していないのか、ということです。「真実」だからといって、必ずしも世の中に共有されるわけではないのだな、ということを最近思います。大勢の人々が、その真実の存在に見向きもしなければ、あってもないことと同じになってしまうのだと。

 今年の2月末に、批評家でありながら釜ヶ崎で長年野宿者支援を行ってきた生田武志さんが、『いのちへの礼儀』という本を刊行しました。執筆に10年もかけたという大変な労作であり、ヒト以外の生きもの=「動物」に関するあらゆるテーマを強靱かつしなやかな知性で一望できるようにした、記念碑的な動物論です(「動物」という言葉にはぼくも根本的な違和感がありますが、ここは便宜的にあえて使いますね)。

 その本には、鶏が、豚が、牛が、効率的に肉や卵や牛乳を得るためにどれほど本来の生のかたちを歪められているのかが克明に描かれています。そのなかで生田さんは、彼ら家畜たちの「死の苦しみ」は最小化されたけれど、「生の苦しみ」と「尊厳の剝奪」は極大化された、という恐ろしい指摘をしています。いつだって肉や卵を食べられるぼくらの食事がどんな犠牲のうえに成り立っているか、だれもが真剣に考えるべきときが来たのだと思いました。

 傷ついた人間に動物たちが寄り添うことがあるように、苦しむ動物たちにも人間が寄り添い、ともにいのちを管理・統制する社会の変革をめざすという心揺さぶるビジョンを示したその本を読むと、動物たちの命の姿について考えることは、人間の命の姿について考えることでもあると、あらためて気づかされます。

 ただし、人間のことを考えるために動物のことを考える、というのであれば、それは本末転倒で、やはり動物たちの置かれた悲惨な立場のことから離れてはいけません。また、管理・統制に組み込もうとする社会からの脱却をめざして「自分も生きものだ」と脱・人間宣言することと、「登録」がないために動物たちと同じように不安定な立場に置かれた人々の人権(人間らしくあるための権利)について考えるのは、別の話です。それぞれの問題は、個別に考えるべきものですね。

 それをぼくは並べて書くから、どっちに重心を置くか、温さんも返答しづらいんじゃないかと思います。すみません。でも、動物たちの扱いのことを考えていると、どうしても、この社会における人間の扱いのことにつながってしまうのです。これってどういうわけでしょうか。

 その理由を、ぼくはこう考えました。ぼくら人間が、(意識的にであれ無意識的にであれ)動物たちに対して抱く優越意識や蔑みという心の動きは、人間同士のなかでもそのまま作動しているからではないかと。

 人間社会において上位にいる者が、下位にいる者を前にしたときに発動する、優越意識や蔑み。つまり、人間が人間を見る視線のなかに、すでに動物を見るときのような視線がセットされているのではないかと思いました。言いかえれば、植民者が被植民者を見るときのような視線が埋めこまれている。そしてそれは、為政者や企業の経営者といった上位にいる「力を持つ者」が、下位にいる「力を持たない者」をいかに管理・統制するかという局面で、強烈に表れるのかもしれません。

 ワタミグループの社員向け冊子には「24時間365日死ぬまで働け」と記載されていたそうです。ブラック企業との批判を受けて後で取り下げたようですが、ワタミだけではなく、収益アップをどこまでも追求する企業の剝きだしの本音を表せば、そういう表現になるのではないでしょうか。

 ムダを減らし、効率を高めて業績を上げるという方向も、見た目はまちがっていませんが、ワタミの文言を単に裏返しただけ、という場合もあります。従業員の人生を一変させるリストラがそうです。また、「ノー残業デー」を最近設けた会社で働くぼくの妻は、この連休中も仕事を家に持ち帰ってやっています。完全タダ働きです。

 そしてこれは温さんもよくご存知かと思いますが、4月から出入国管理法が改正され、それまでは外国人が単純労働に就労するのを禁じていたのを、きめられた業種に限って就労できるようにした「特定技能」という在留資格が新設されました。労働力不足を補うためですが、これは移民政策ではない(移民は認めない)という態度を固持する政府は、業種が多くていちばん人が集まるだろう特定技能1号は、在留期間を最長5年間に限定し、更新は不可、家族帯同も認めていません。建設や造船業に限定した特定技能2号では、更新はできて家族帯同も認めていますが、実際そうできる人は限られてくるようです。

 つまり、政府も経済界も、人ではなく、労働力だけがほしいのです。家族もあり日々の暮らしも当然ある、顔のある“人間”を招くのではなく、顔のない“労働力というエネルギー”だけを呼びこみたい。日本人が嫌がる現場仕事で使うだけ使って、一定期間働いたら国に帰れというわけです。

 この国ニッポンの、外国人に対する、それも日本との経済力に格差のあるアジアの人々への冷たく傲慢な視線は、一体なんなのでしょうか。

 温さん、ここまで書いてふいに悲しくなってきましたが、この日本という国は、前のお手紙で温さんが指摘した〈昭和天皇の時代、天皇陛下万歳、といって死んだひとたちの中には朝鮮人や台湾人もたくさんいました〉という、アジアの人々を暴力で取り込んだ植民地時代から、本質の部分は何も変わっていないのではないでしょうか。

〈冗談じゃない、狂っているのはむしろ「人間世界のルール」のほうじゃないか〉と温さんは書きました。それは真実なのだと思います。

 黒丸の丸めた背中を触ると、背骨の固さとともに、ほのかな温もりを手のひらに感じました。その温もりで、自分と黒丸はつながっていると思えました。それに対して、ほかの生きものたちとのつながりを断ち切り、自分たちを生きものとは異なる特別な何かだと錯覚するようになった人間社会では、動物たちばかりではなく、今や同じ人間に対しても、その命を利用し尽くそうとする触手を伸ばしています。

 これは、実際に肉を食わないまでも、間接的な「共喰い」ではないでしょうか。ぼくらの社会は、共喰いを許すまで、モラルの底が抜けたのではないでしょうか。

 体温の温もりのある生きものの側に、そして充分な人権を与えられない者たちの側に身を寄せたいと願う者は、おのずと既存のルールからはみだすしかないのだと思います。それは、文学業界の多数を占めるがゆえに、それこそが文学だと思われている“人間の・人間による・人間のための文学”からもはみだすということかもしれません。

 ただ、ぼくが野宿者の話を書いてもほとんど読まれなかったように、書いても往々にして、世間からも文学業界からも、なかったことにされることは予想されます。それでも、おかしいことをおかしいと叫ぶ者がだれもいなければ、食う者たちの高笑いも、食われている者たちの断末魔の悲鳴も、人知れず上がり続けることになるでしょう。

 こういうことにこだわるぼくや温さんは、人間の言葉を話すけれど、その身体が置かれた位置は、動物たちの側に近いのだと思います。“人間の言葉を話す動物”です。しかもぼくらは“人間の言葉を「書く」動物”でもあります。

 生きものたちの叫びを人間の言葉に変えて、優越意識を持ってこちらを見下す相手の喉笛に、深々と言葉の牙を突き立ててやるのです。

 

 2019年5月7日  木村友祐

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著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

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