明石書店のwebマガジン

MENU

オックスフォード哲学者奇行

仲間に噛みつく猟犬:オースティンの2つの研究会(1)

ヒラリー学期も3月中旬で終わり、オックスフォード大学は約1か月半の春休みに入った。オックスフォード大学でも新型コロナウイルスの感染者が出ており、一部の教員や学生は自宅隔離になっていると聞く。日本だと緊急事態宣言などというと戦争の悪い記憶が甦るため拒否反応があるようだが、イギリスは戦争のときの“Keep Calm and Carry On”(落ち着いて自分のやるべきことをせよ)の標語も持ち出されて、何とか乗り切ろうとしている。

ところで、今回の新型コロナウイルス騒動で、ようやくイギリス人も手を洗う習慣を身に付けつつあるようだ。英国では現在、「ハッピーバースデー」の歌を2回分歌いながらお湯で20秒間の手洗いをすることが奨励されているが、私の娘は先日初めて小学校で昼食前に手を洗ったと言っていたし、オックスフォード大学の某有名男性教授は「なぜ女性があれほどハンドクリームにこだわりが強いのかよくわかった。私と違って女性はきっちり手を洗っているからのようだ」とツイートしていた。

また、大学のトイレの洗面所の多くはお湯の蛇口と水の蛇口が分かれているのだが、お湯といっても熱湯が出るため、20秒間手を洗おうとしてやけどをしたと事務員に文句を言っている人を先日見かけた。この人もおそらく今までまともに手洗いをしていなかったものと思われる。

私のいる某センターの入口にもハンドサニタイザーが置かれるようになった。

さて、前回、戦前にJ.L.オースティンがアイザイア・バーリンと一緒に授業をしていたことを記したが、もうひとつオースティンがバーリンとしたのは、研究会である。今回はその話をしよう。

大学関係者でないと研究会とは何かわかりにくいかもしれないが、少なくとも人文系の研究者にとっては、研究会というのは非常に重要な場所である。学会の大会というのは基本的に(ほぼ)完成した原稿を用意して発表をする場所であるが、研究会というのは個人の私的な思索と公的な発表の場である学会や学術誌の中間に位置するもので、比較的親しい人たちの間で自分の思索を発表して洗練ないし熟成させる場だと言える。

こういう場を持たずに、個人の思索をいきなり学会で発表したり、論文や本として公刊したりすると、練られていない内容を公にしてしまって、あとで恥ずかしい思いをすることになりかねない。学生の間は卒論・修論等の演習があるが、一度研究者になると、このような研究会を持てるかどうかでだいぶ研究人生が変わってくることになる。研究会の参加や運営は昨今の大学評価ではまったく評価の対象にはならないが、質の高い研究を生み出すプロセスにおいて重要な役割を果たしていると言える。

[動画]クライストチャーチの小さな図書室。ライル関係の資料を調べるときに使用した。

さて、日本では、昨今の研究会は基本的に誰でも歓迎というところも多いように思うが、オックスフォードやケンブリッジでよく知られているものは、クローズドのものが多い。バートランド・ラッセルやG.E.ムーアやルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインなどが参加していた有名なケンブリッジの「使徒の会(The Apostles)」もそうだし、オースティンとバーリンの「木曜夜の研究会」や、戦後の「土曜朝の研究会」もそうである。研究会をクローズドにするのは、そうでないと自由闊達な議論ができないからだろう。とはいえ、クローズドにすると、同じ意見を持った仲間同士のため批判的視点が不十分になるなど、悪いところもあるように思われる。どのようにすれば研究会をバランスよく運営できるかは、研究者にとって永遠の課題であろう。

話がやや脱線したが、オースティンが戦前に実施していた「木曜夜の研究会」については研究会に参加していたバーリンが詳しく書いているので、少しその様子を紹介してみよう。

バーリンの記憶では、研究会は1937年の春から1939年の夏まで、オールソウルズのバーリンの部屋で、学期中の木曜日の夕食後に開かれた。主な参加者は、オースティンとバーリンの他、A.J.エア、スチュアート・ハンプシャー、ドナルド・マッキノンなど、オックスフォードで哲学を教えていたりフェローをしたりしていた者7名である。研究会はインフォーマルなもので、とくに事前に何を話すかは決まっていなかった。主なテーマは知覚の理論(認識論)、アプリオリな真理、反実仮想文の検証や論理的正確の問題、自己同一性の問題の4つだったという。

手前がオールソウルズ、奥はユニバーシティ・チャーチ。お金を払えば尖塔に上れる。

オースティンはエアの『言語・真理・論理』(1936年)を読んで最初は誉めていたそうだが、この研究会では手厳しく批判した。とりわけエアと論争になったのが知覚の議論であり、具体的にはセンスデータ説である。これはエアが標榜していた「検証できない文は無意味だ」とする論理実証主義と密接に結びついた理論であるが、教科書的に説明すると、我々の意識にデータ(与件)として与えられる感覚がセンスデータであり、エアやラッセルらがとっていた現象主義(phenomenalism)は、我々は実在する椅子などの物的対象を直接知覚するという素朴な実在論を批判し、「センス・データこそ知覚の対象であると考え、物的対象に対するその先行性を主張し、物的対象は、規則的に現象してくるセンス・データからの論理的構築物に他ならないと考える立場」[1]である。

オースティンはセンスデータの単位を問題にして、例えば虎の毛皮のように7本の黄色と黒の縞を目にした場合、それは7つの黄色の縞のデータと黒の縞のデータからなるのか、あるいはひとまとめのデータなのかということを問題にした。つまりセンスデータの数え方、最小単位は何なのかという問題である。また、センスデータの平均的なサイズや平均的な寿命はどれくらいかとか、それは観察者によっても変わるのか、といった細かい質問をしてエアを苦しめたようだ。

エアは知覚に関する現象主義が駄目だとしたら他にどのような選択肢が残るのか、とオースティンに詰め寄ったが、「他人が出した解決策に穴を掘るのが好きな」オースティンは代替案を出さなかった。そこでエアはオースティンに対して次のように捨て台詞を吐いた。

「君はまるで、自分では走りたくない猟犬、しかも他の犬たちに噛みついて彼らも走れなくさせてしまう猟犬のようだ」[2]

エアも彼の自伝で、このように言ったことをバーリンに指摘されたと書いているが、その後に付け加えて、「後年、オースティンは、控えめなスピードで仲間を率いる〔猟犬の〕リーダーになり、日常言語の研究という袋小路に入ってしまったが、彼の牙は決して鋭さを失わなかった」と述べている[3]。誉めているのかけなしているのかわからない一文である。

いずれにせよ、このような形でオースティンはエアの論理実証主義を執拗に批判するようになり、その批判の手段として日常言語への注目を深めていくことになる。バーリンの言葉でいえばこうである。

「当時、またその後のオースティンの考えでは、意味の種類や区別はしばしば日常言語に反映されていた。日常言語は不可謬のガイドではない。それはせいぜい、言語が記述したり表現したり(……)する主題における区別の方向性を指し示すものでしかない。そしてこうした重要な区別は、白か黒か〔という極端な〕哲学によって提出される明快な二分法によっては忘れられる傾向にあった。そしてこうした哲学は、存在するものや、人が意味することがらについて、受け入れられない教義をもたらすのである」[4]

訳してみると何だかわかりにくいが、要するに日常言語が持つ多様な区別を分析するという手法で、単純化されがちな哲学の議論を批判するという態度である。これが「オックスフォード流分析」として戦後に発展していくことになる。とくにオースティンは、命題は分析的か経験的でなければナンセンスだという論理実証主義を超えて、戦後に言語行為論を発展させていくことになる。

オースティンはこの研究会での議論を発展させ、前回述べたようにSense and Sensibilia(1962年)でエアのセンスデータ論を批判している。この本が出たことで、センスデータ論は葬り去られたという認識が哲学界に拡がったが、エアはこれを苦々しく思っていたようで、後にオックスフォード大学に戻ってきてから「オースティンはセンスデータ論を葬ったのか」という論文を公刊したが、それはオースティンが死んだあとの1967年のことだった[5]

バーリンによれば、このように「エアは抗いがたいミサイルのように、オースティンは不動の障害物のように」常に衝突していたが、研究会はみな顔見知りの小さな集会であったため、自由闊達に議論したそうで、「振り返ってみると、私が出席したもののなかで最も実りの多い哲学的議論だったように思われる」と述べている[6]

ただ、問題は、「当時のオックスフォード哲学全般」の欠点として、この研究会での内容はほとんど公表されなかった。「われわれは魔法のサークル――この場合はオックスフォード、ケンブリッジ、ウィーン――の外側にいるいかなる人も、我々に教えるべきことを何ら持たないと考えていた」ため、自分たちの周りにいる人々の間だけで合意が取れればそれでよいと考えていたのだ[7]。その結果、そのサークルの外にいる者から見ると、戦後、突如オックスフォード哲学がどこからともなく現れてきたように見えることになる。

話がすっかり長くなったので、オースティンのもうひとつの研究会については次回に回すことにしたい。

 

[1] 信原幸弘編『ワードマップ心の哲学』新曜社、2017年、17頁

[2] Berlin, Isaiah, “Austin and the Early Beginnings of Oxford Philosophy,” in Essays on J. L. Austin, Clarendon Press, 1973, p.10

[3] Ayer, A. J., Part of My Life, Willam Collins Sons & Co Ltd, 1977, p.160

[4] Op. cit., pp.13-14

[5] Ayer, A. J., “Has Austin Refuted the Sense-Datum Theory?” Synthese, 17.2, 1967, pp.117–140 なお、エアは1940年から第二次世界大戦中は秘密情報部のMI6などで活動したあと、戦後は1946年から59年までユニバーシティ・コレッジ・ロンドンで教授を務め、その後オックスフォード大学のウィッカム論理学教授のポストに就任した。

[6] Op. cit., p.16 and p.9

[7] Op. cit., p.16

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

閉じる