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私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第3便 温又柔より(第1章 声と文字のあいだ)

 木村友祐さま

 

 きょうは雨が降っています。空があかるいのは、雨は降っているけれど雲がそれほど分厚くない証でしょうか。あかるい曇り空を見上げていると、春が、刻一刻と近づくのを感じます。もう、寒くない。

 ところで私は、春先、湿り気をたっぷり含んだ風を浴びると、笑わないでくださいね、わけもなく泣きたくなることがあります。

 はじめて、この「気分」の存在を知ったのは、たぶん7歳か8歳の春休みのこと。雨上がりの夕暮れの中でした。子どもなので、「センチメンタル」という言葉なんてまだ知らなかったけれど、確かにそういう気分に見舞われながら、雲と雲の合間にのぞく橙色の空を見あげていたことを覚えています。

 実は、私のうまれた台北は雨のとても多い町なんですよ。

 風にはいつも水気がたっぷり含まれていました。

 私が台北に暮らしたのは、たった3年弱。それもおぎゃーとうまれた赤ん坊のときから3歳の頃なのですが、皮膚は、ちゃんと記憶しているのでしょう。

 今のような時期の、雨がふったりやんだりする日の、湿った風を肌に感じるたび、台湾にいた頃の記憶が、ふと疼くのを感じます。

 思えば私は幸福な赤ん坊でした。

 両親をはじめ、祖父母や大伯父夫婦、伯父や叔母や従兄姉たち……大勢の親戚たちに囲まれて、とても可愛がられていました。まあ、面白がられていたともいえるのでしょうけれど、3つ年下の従妹が生まれるまでは、一族で最年少、という境遇だったので、皆が大事にしてくれていたのです。

 もちろん、そのことをはっきりと覚えているわけではありません。

 それなのに、春先に、南国を、もっといえば、台湾を思わせるしっとりとした風を感じると、ナツカシイという感情とともに、ただ、そこにいるだけで、息をして、おなかいっぱい食べて、排せつをして、よく寝るだけで、いい子だね、おりこうさんだね、と皆が褒めてくれたときの記憶が、頭に、ではなく、からだに、蘇ることがあります。

 そういうとき、ナツカシイながらもくるおしいのは、あんなふうに、ただ生きてるだけでよかった、それだけで、そのことだけで、だれからも喜ばれた、という状況は、もう二度と体験できないとわかっているからなのでしょう。

 寒さが徐々に和らぎ、春の兆しがふと襲うこの季節は、いつもなんだか落ち着かない。

 考えてみれば日本の新年度は4月に始まるので、春は、それまでの秩序が、ぱきぱきっと組み替えられて、そのために多くの人たちが環境の変化を経験する季節ですよね。

 小学生から中学生になったり、クラス替えで周囲の顔ぶれが変わったり……状況の変化は心躍ることもあるけれど、さみしいことや、新たな緊張を強いられることも。

 たとえば、慕っていた担任の教師が遠くに行ってしまったり、別のクラスにいた苦手な子が同じクラスになってしまったり……

 いずれにしろ、きのうまでと同じような日々ではもういられない、となるので、変化に対応するために心身が追い付かないこともありますよね。

 まったく、春は優しくって残酷です。

 私はひとよりも長く、だらだらと学生生活を送っていたのもあって、学校なるものを卒業してすでに何年か経った今も、桜がそろそろほころびるこの季節は、つい、そわそわしてしまいます。

 白状すると、私はきのうからずっと集中力が乱れています。

 しなければならないことはたくさんあるのに、どうも、力が入らない。それで、とうとう、えいやっと、諸々、放り出すことに決めました。こうなったらいっそ、春に身をまかせて、きょうは好きなことだけしよう、と。

 それで、こうして木村さんにお手紙を書くことにしたのです。

 先日ちょうだいしたお手紙、うれしくて、とても力が湧きました。

 いま、もう一度お手紙を読み返しながら、「卵屋」で買ったマンガをわくわく抱きしめる木村友祐少年が浮かんできました。

 木村さんは以前、漫画家になりたかったと発言なさってましたっけ?

 その後、漫画家ではなく小説家になったわけですが、表現者という意味では繋がっていますよね。そんな表現者の卵たる少年が、「卵屋」でお気に入りの物語を読むための漫画雑誌を買っていたことを思うと、なんだかほほ笑ましい。

 とはいえこれは、ほっこりするための話などではなく、流行や文化は一方向に流れ落ちてゆく、という構造についてのエピソードであるのを忘れてはなりませんね。

 身につまされます。私も同級生が地元の話をするのを聞いて、「えっ。いいともが夕方に? うきうきするのお昼休みじゃないんだ!」と言って、というか、のたまって、舌打ちされたことがあります。

 木村さんはご自分が〈自意識過剰でカッコつけの性格〉と言いますが、東京ありき、という感覚を抱えている方は案外少なくない気がします。

 私の場合は、高校を卒業するまでは特に同世代となると自分の生活圏内である東京育ちの友人しかいませんでした。大学に進学してはじめて、群馬や山形、長野に新潟や宮城など地方出身の友人が一気に増えました。そんな友人たちと話していると、どうやら彼らの世界ははじめから二つに分かれている、と気づかされることがあったのを思いだします。

 彼らにとっての二つに分かれた世界とはつまり、地元と東京のことなんですよね。

 文化(のみならず政治、経済、も)の「中心」といった顔でふんぞり返っている東京と、東京以外と言い換えてもいいかもしれません。

 テレビや、それこそマンガや雑誌をとおして、渋谷や原宿や下北沢やお台場を知る彼らは、地元とは別世界の「東京」を、ずっと意識させられてきたのです。

 私は友人たちが、東京っぽい、という言い方を、まるで、とってもいいことのように言うのを聞きながら、そのことを知った気がします。

 今、改めて思うのです。

 こんなふうに地方出身の友人たちが憧れた、あるいは、憧れるように仕向けられた「東京」とは、いったい、なんだろう?

(それは、今後また話題に出るはずの高山明さんが「東京ヘテロトピア」で浮彫りにしようとしている東京とは、まったくかけ離れたものですよね。)

 たとえば、「東京」という、東京以外の人々にとっての「中心」が、彼や彼女らの人生をより豊かにする可能性に満ちた、開かれた場所であるのなら、それは大変素晴らしいことだと思うんです。

 地元で、××さんちの長男のお嬢さん、といったまなざしに始終とり囲まれながら、親のみならず祖父母や伯父や叔母、結婚しているなら結婚相手の家といった親族に恥をかかせないように、それらしく生きるのが要請される世界。そういう世界では絶対にできないことでも、東京という新天地では、できるかもしれないのだから。

 ただし、東京で、地方出身者として、みずからのルーツや、鬱陶しいながらも自分を育んだ文化を、軽んじたり、貶めたり、押し殺したりしなければならないのなら、そんな「東京」の価値観に、どうして憧れなければならないの? と思うんです。

 東京と地元。

 二つに分かれた世界と世界は、どちらかが上とか下とか、端とか中心とかではないはずなのに。

 木村さんがおっしゃるように、それぞれの場所にたしかに流れている時間や、人々の喜怒哀楽に優劣などつけられるはずがない。

 そのはずなのに、なぜ私たちは、知らずしらずに、一方は優れていて、一方はそうでないと思い込まされるのでしょう。

 今になってやっと、「都会育ちにはわからないよ」と嘆いたかと思えば、「でも、あいつの地元のほうがおれんとこより田舎だから」と卑下とも自慢ともとれる口調で言っていた友人が、どんな価値観に支配されていたのかわかるような気がします。

 言うまでもなく、こうした〈価値の序列〉は、東京と地方に限った話ではありません。

 たとえば、日本とアジアの関係にも通じるものがあります。

 子どもの頃、親に連れられて台湾に「帰国」するたび、私は私のことを昔から知る人たちから、あの子はだんだん日本人っぽくなってきた、と言われるようになりました。

 道行くひとたちなど、頭っから私を日本の子どもだと思っているせいか、ちょっと中国語を話すだけでとても褒められます。

 ーー日本人なのに、中国語を話せるなんてね!

 台湾での、日本のイメージはとてもいいものです。いわゆる「親日」の人が多いのも事実です。

 加えて私が子どもだった1990年前後は、日本の景気がよかったのもあり、少なくない数の台湾人が日本に対して憧れのまなざしを注いでいるような状況がありました。

 日本人みたいだね! というのは、だからあきらかに、褒め言葉としてつかわれていたのです。

 台湾でそんなふうに言われると、幼い私は自分が何かとてもよいものになったような気がして、正直、わるい気はしなかった。

 それはあきらかに優越感でした。

 ひるがえって日本にいるときに、自分や家族が、外国人、それも台湾というアジアの国の出身であることが、肯定的なことというよりはどちらかといえば否定的にみなされているという事実を思いがけず突き付けられて、ショックを受けたことも何度もあります。

 ーーへえ、日本人じゃないんだ。

 ーー大丈夫。台湾人なんかには見えないよ。

 台湾で抱いた優越感が、そのまま日本にいる自分の劣等感としてのしかかる……そのような経験を重ねるうちに私は、木村さんの表現を拝借すれば、自分の中にある〈価値の序列〉は、どんなものであれ鵜呑みにしたくないという意地が生じたような気がします。

 ただ、そういった序列というか、ヒエラルキーといったものの馬鹿馬鹿しさを頭ではわかっていながらも、そこから完全に脱することができないという切なさもまた、わからなくもないんです。

 私の場合、台湾で感じたあの気持ちよさを、あえて手放さない、という態度だって、実はとれるはずなんですよね。自分のいる世界(社会?)の中で、いいとされている側に属していたい。そのほうが安全で、得られるものが多く、またチヤホヤされるのならば、よりいっそう……

 木村さん。日本人の中には、台湾をパラダイスのように思っている人もいます。いや、そういう人のほうが多いかもしれませんね。何しろ、日本人であるというだけで、ただそれだけで喜ばれるような雰囲気が、台湾にはいまも確かにあるのです。

 ーー中国語? あんまり上達しないね。だって、日本語で喋ったほうがウケるから。

 これは、私が実際に台湾で会ったある日本人が言っていたことです。

 話が逸れました。

 さて、この手紙を書きながら、地方出身の友人たちと交わしたさまざまな会話を思い返しつつ、今、ふと気づいたのです。

 当時、皆、「標準語」をすらすらと話しているように見えましたが、ひょっとしたら、私や、ほかの東京や関東近郊出身の同級生たちに対し、葛藤を抱えながら、‘自分のものではない’言葉を懸命に喋っていた人もいたのだろうな、と……木村さんのお手紙の中にあった〈言葉が自由に話せないということは、身体を拘束されているのと同じようなもの〉は本当に突き刺さりました。

 私があれほど心奪われ、魅了された豊かな濁音あふれる「海猫ツリーハウス」「幸福な水夫」もまた、〈長い彷徨の果てにようやく訪れた自身の来歴の受容であり、あらゆる価値の序列を疑うことのはじまり〉と知り、なんということだろう、と身をふるわせました。

 この言い方を、どうかゆるしてほしいのですが……私も、まったく同じでした。

 私も、まったく同じ気持ちで、「好去好来歌」を、そして“受賞一作目”である「来福の家」を書きました。

 簡体字と繁体字のまじる中国語の文字、そしてカタカナで台湾語をあらわすとき、私も、〈悪事を働くような危うい快楽〉を確かに感じていました。

 おっしゃるように、あの快感は、それまで言語化されてこなかった領域に、息を吹き込むような感じがありました。

 あの作品を構想した頃、私には切実な欲望がありました。

 自分自身の言葉を堂々と生きたい、というーー。

 日本人としてうまれなかったのに、日本語しかできない。台湾人なのに中国語ができない。

 そういう自分を表現するには、自分がそれまで知っていた日本語(標準語)では不足である。それなら私は、私自身のリアリティを、私にしか書けない、私しか書かないであろう文体で、書いてしまおう、と決意して、そして、書くという行為の中に、自分の居場所を確保しようとしました。

 「好去好来歌」の冒頭には、赤ちゃんになる夢を見てた、という言葉があります。

 あの小説を構想するとき、私は自分が、言語を言語として認識する以前の、周囲に溢れる言葉が、まだ、ただの親しいひとたちの声そのものでしかなかった赤ん坊の頃のことを、どうにか思い出そうと努めました。

 それはまさに、木村さんがおっしゃるように、言葉になる以前の声、押し込められた無音の声を、誰のものでもない、私自身の言葉として書くための準備だったのです。

 私の作家としての原点は、私のデビュー作であるあの小説の冒頭で書こうとしたこと、まだどの言葉も言葉でなかった幸福な無文字時代なのです。

 考えてみれば私は今も、おなかいっぱい食べて、排せつをして、よく寝る。ただそこにいるだけで、いい子だね、おりこうさんだね、と皆が褒めてくれたときの記憶に支えられながら、ほかでもない自分自身が楽に呼吸できる場所を確保するために、何かしらをひたすら書き続けているような気がします。

 そうやってできあがった作品を通じて、そう、私が私のために作った場所を知った誰かが……たとえば、かつての私のように、日本語しかできないのに日本人としてうまれなかった自分を嘆いている‘あの子’が、自分もここにいていいんだ、と感じてくれるなら、ほんの少しでも安堵してくれるのなら、作家として、こんなにうれしいことはないな、とも。

 

 ーー今は、今だけは、ぐっすり安心しておやすみ。

 

 さあ、春。

 春ですよ、木村さん。

 あいかわらず、春はくるおしい。

 8年前から、なおいっそう、そうなのです。

 8年後が迫っています。

 次の手紙では、震災前と震災後でガラリと変わってしまった、木村さんの、この世界に対する耳の澄まし方について、そこから聴こえた呻き声との向き合い方について……もしよかったら、聞かせてくださいね。木村さんの新たな〈転換〉について。今だからこそ私もあらためてちゃんと知っておきたいと願うのです。

 

 2019年3月7日  温又柔

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著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

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