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オックスフォード哲学者奇行

どのオースティン?

気付いたらもうすぐ帰国である。あっという間の1年間だった。ミケルマス学期(秋学期)は日が毎日短くなって陰鬱で、年が明けてヒラリー学期が始まったが、しばらく〆切やら報告準備やらに追われていたため、授業にも出られず、この連載も前回からすっかり間が空いてしまった。

その間に英国はEU離脱(Brexit)をしてしまい、現在は新型コロナウイルスの脅威が英国にも日々迫っている。いっそのことオックスフォードもイタリアのように都市封鎖をしてくれたら、帰国せずにすむのだが。いやいや、そのような不謹慎なことを考えてはいけない。英国から泳いででも帰国して、4月から元通り働かなければ。

それはともかく、今回はオースティンの話をしたい。

2月末くらいから水仙がそこら中に咲いている。

さて、オースティンと言ってもいろいろなオースティンがいる。ギルバート・ライルが好きだった文学者のJ.オースティンがいるし、J.ベンタムの弟子の法哲学者のJ.オースティンもいるのでややこしい。今回の主役は日常言語学派のJ.L.オースティン(John Langshaw Austin)である[1]

このオースティンの思想について賢明な読者に詳しく説明する必要はないとは思うが、編集者が説明しなさいと言うのであえて説明しておくと、彼はライルと並ぶ戦後のオックスフォード哲学の中心人物として、その隆盛を生み出した人物である。日常言語の分析を通じて、一方でA.J.エアら論理実証主義者たちが唱えていたセンスデータ理論を徹底的に批判し、他方で言語は何かを述べるだけでなく何かを行うという役割もあるとして、言語行為論の土台を作った人物でもある。

しかし、そういう話はほどほどにして、ここで話したいのはオースティンがオックスフォードの他の哲学者たちとどういう関係にあったのかであるが、まず少し伝記的な話をしておこう[2]

哲学科の吹き抜けの廊下にあるオースティンの写真。あまりよい写真がないのか、大きな額縁の中に小じんまりとした写真が収められている。

オースティンは1911年生まれで、エアが1910年生まれ、アイザイア・バーリンが1909年生まれのため、このあたりの連中が1910年組である。1907年生まれのH.L.A.ハートもこの組に入る。それに対して、ライルは1900年生まれで、R.M.ヘアやP.ストローソンやエリザベス・アンスコムら女性4人組は1919年生まれなので、約10年ずつずれている点が彼らの師弟関係や交友関係などを考える上では重要である。

オースティンは学部ではオックスフォード大学のベイリオールコレッジで古典学を学び、卒業後はオールソウルズコレッジの超難関の試験を受けてフェローシップを獲得した。これが1933年のことである。エアはその前年の1932年にこの試験を受けたが落ち、エアと同じ年に受けたバーリンは合格している[3]。オースティンはここでバーリンと仲良くなるが、2年後の1935年にはモードリンコレッジのフェローになる。バーリンは、1936年に、オースティンと共同でオールソウルズで学部向けの授業を開講したときの思い出を次のように述懐している。

「私は共同の授業というのはどのように行うのかまったく理解しておらず、おそらく2人の講師がテキストに述べられている点について対話することから始めるのだろうと思っていた。そしてその対話においては、当時の〔オックスフォードの〕フェローたちの哲学的議論においてよく見られたほとんど過剰なまでの礼儀をお互いに示すのだろう、と。オースティンは授業の最初に、私にテーゼを説明するように言った。私は、具体的で知覚可能な特質――ルイス〔授業のテキストとして使っていたC.I.LewisのMind and the World Order〕がクオリアと呼んでいたもの――についてのルイスの主張を選び、自分の思うところを述べた。オースティンは私を厳しく睨みつけ、『すまないがもう一度言ってくれないか』と言った。私はそうした。すると、オースティンはゆっくりと言った、『私が思うに、君が今言ったことは、まったくのナンセンスだ』。そこで私は気付いた。これは礼儀正しいシャドーフェンシングなどではなく、死ぬまで闘うのだ――つまり、この場合、私が死ぬまで闘うのだ、と。」[4]

オースティンはバーリンに対してだけでなく、学生にも容赦ない。バーリンの記述はおもしろいのでもう少し引用しよう。

「オースティンは学生たちに質問を投げかけた。もし、恐怖によって石化しているために誰も発言しないと、オースティンは長くて細い指をまっすぐ伸ばして、1分ほどその指を前後にゆっくりゆらゆらさせたあと、ピストルの銃口のように突然前に突き出し、任意に選んだ学生を指して、大きな神経質な声でこう言った。『、答えなさい!』。犠牲者は、ときどき、恐ろしすぎて声を出せなかった。オースティンはそれに気付くと、自分で答えを述べ、また元通りの議論に戻るのだった。」[5]

読むだけで失禁しそうになる内容だが、それでも学生数の減らない人気の授業だったようで、バーリンによればおそらくこれが現代の哲学者を扱う最初の授業であり、自分の参加した最も良い授業だったという。

左側がラドクリフカメラ(ボードリアン図書館の一部)、正面がオールソウルズコレッジ。戦後、バーリンはこのコレッジで、後にチャールズ・テイラーやG.A.コーエンが務めたことでも知られるチチリ社会・政治理論教授になる。

さて、オースティンは1940年から45年までは兵役を務め、最初は英国諜報部でとくにノルマンディ上陸作戦のときに情報戦で活躍し、後に連合軍遠征軍最高司令部に異動して中佐にまでなったという。実務的な能力が高かったようで、戦後にオックスフォードに戻ったあとも大学や大学出版局で行政的な活躍をしていたそうだ。

オックスフォード大学出版局の城のような建物。大学出版社としては世界最大とのこと。私もせっせと本を買うことで貢献している。

オースティンは1952年にホワイト道徳哲学教授に選出され、名実ともにオックスフォード哲学を牽引する人物になる。ライルが戦後のオックスフォード哲学の制度的基盤であるB.Philを作って若い哲学者たちをフェローとして集めたのだとすれば、オースティンはオックスフォード大学の中心で、そのフェローたちを率いて戦後のオックスフォード哲学の興隆を担った人物と言える。

しかし、栄華は長く続かない。オースティンは1950年代にオックスフォード哲学の黄金期を作り上げた後、1960年に肺がんで急死してしまう。因果関係はもちろん不明だが、彼はセミナー中もパイプを手放さない喫煙者だったようだ。

戦前にすでに本を数冊出していた同世代のエアと違って、オースティンは寡作であることで知られている。彼が生きている間に公刊された著作は、翻訳や書評などを除けば論文7本のみだった。オースティンの弟子の一人のG.J.ウォーノック(同じく哲学者のマリー・ウォーノックの夫)は、こう述べている。

「オースティンは本当にとても不幸な人だった。彼は自分があまり物を書いていないことを気に病んでいた。(中略)もちろん彼はたくさんの本を読んでおり、彼の読んだ本はどれでも余白にメモや問いや非難の言葉が記されていた。彼が1955年にハーバード大学に行ってウィリアム・ジェームズ講義をしたとき、彼はハーバードの人々みなを驚かせた。彼は何も本を書いていなかったので、学者の価値を本の厚さで評価するハーバードの人々は、彼の講義は内容の薄いものになるだろうと決めこんでいたのだ。初回の講義から、彼らはオースティンの読書量がはんぱでないことに気付いた。」[6]

この講義は、オースティンの死後にHow to do things with wordsという題名で弟子のアームソンの編集により1962年に出版された。ウォーノックの述懐が収められた上記の本の中で、オースティンはパウロなきイエスだという記述があるが、実際にはオースティンは弟子に恵まれ、没後に出た3冊の本によってその後の哲学に大きな影響力を持ったと言える。

ちなみに、上記の本は日本では『言語と行為』という題名で訳されており、最近新訳も出た(講談社学術文庫、2019年)。この新訳の訳者解説には詳しい伝記的情報があり、また、オースティンの言語行為論のその後の影響なども書いてあるので、関心のある読者には一読を勧める。ここまで書いた伝記は、その記述とはなるべく重ならないように書いたつもりである。

このようにオースティンは死後の講義録などで没後世界的に有名になるわけだが、その講義のもとになったのはオックスフォード大学の他の哲学教員たちとの議論であり、その主な舞台となったのは戦前には「木曜夜の研究会」と、戦後は「土曜朝の研究会」だった。

次回はこの研究会の様子について素描したいと思う。

 

[1] ちなみにJ.L.オースティンの没後に出されたSense and Sensibilia(邦訳では『知覚の言語』で、内容はエアのセンスデータ論批判)は、文学者のオースティンのSense and Sensibility(邦訳は『分別と多感』)のパロディになっている。

[2] 以下の記述は主に下記を参考にした。Hacker, P.M.S., “Austin, John Langshaw(1911-1960), Philosopher,” Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004

[3] Ayer, A.J., Part of My Life, Willam Collins Sons & Co Ltd, 1977, p.125

[4] Berlin, Isaiah, “Austin and the Early Beginnings of Oxford Philosophy,” in Essays on J.L.Austin, Clarendon Press, 1973, pp.7-8

[5] Op. cit., p.8

[6] Mehta, Ved, Fly and the Fly-Bottle: Encounters with British Intellectuals, Columbia University Press, 1983, pp.62-63 なお、ウォーノックによると、オースティンはマイクに向かって話すのが苦手で、バーリンと違ってラジオやテレビにも出なかったようで、ウォーノックはこれも彼の不幸の原因だったと述べている(p.63)。オースティンの写真が少ないのもそのせいかもしれない。

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著者略歴

  1. 児玉 聡 (こだま さとし)

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。
    主な著書に『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)、『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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