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私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第2便 木村友祐より(第1章 声と文字のあいだ)

親愛なる温又柔さま

 

 温さん、心のこもったお便りをありがとうございました。

 拝読して、ああ、そうだった、そんなふうにお近づきになったんだと、温さんとぼくが出会うことになったいきさつを鮮やかに思いだしました。授賞式がはじまる前、ガチガチに固まったぼくに、温さんが「大丈夫よ」と声をかけてくださった記憶がよみがえります。まるで「一緒に乗り切ってやろうじゃない?」とでもいうようなニュアンスで。まだ親しくなる前でしたが、そんなふうに仲間に対するように言ってくれたのがうれしく、そして、なんてつよい人なんだろう、と思いました。でも、あのとき、じつは温さん自身もかなり緊張していたんですよね。

 あれからもうすぐ10年ですね。その間、高山明さん演出の「東京ヘテロトピア」や、管啓次郎さんが企画した「鉄犬ヘテロトピア文学賞」などでお会いしてきましたが、お互いなんとなく似たような方向へ、つかず離れず、声をかけ合いながら歩いてきたような気がします。一緒にデビューしたとはいえ、その近しい間柄が不思議でおもしろくて、「文学を親にする兄妹」みたいだと言いましたが、でもあいかわらず、ぼくのほうがいつも励ましてもらっているような気がします。

 温さんのお便りには、「幸福な水夫」を読んで〈声がある〉と感じたとありました。〈声が、文字から滲む〉と。また、だれかが「標準語」を勝手に定めたことへの疑念も記していました。

 たしかにぼく自身、あの作品を書いたとき、またその前の「海猫ツリーハウス」を書いたときに、そのような疑念と異議申し立ての気持ちを抱えていました。そのわだかまりと、声の表出は、関係があるのかもしれません。その関係について考えたいと思います。

「海猫ツリーハウス」も「幸福な水夫」も、震災前に書いたものです。その震災前には、今ほど、「東北」のことが人々の関心にのぼることはありませんでした。観光においても産業においても注目されることはなく、マスメディアで取り上げられることはほとんどなかったと思います。それが、震災と原発事故という甚大な災害をきっかけに認知度が上がったのは、なんとも皮肉なことですね。

 青森に限らないのかもしれませんが、郷里の八戸にいたころ、「笑っていいとも!」は夕方に放送されていました。人気歌手のコンサートはたまにしかなくて、あっても遠い県庁所在地での開催だから行けません。週刊のマンガ雑誌の配本も数日遅かったように思います。小学生のころは、マンガ雑誌が買える最寄りの店は、近所の人たちに「卵屋」と呼ばれていた店でした。以前は鶏卵を売っていたらしいその店に、目当てのマンガ雑誌の入荷を期待して、ほんとうにワクワクしながら走ったのをおぼえています。

 水が上から下へと流れるように、流行も文化も、すべて東京から一方向に流れ落ちてくるものでした。しかもすべてではなく、限定的に、時間差とともに。そうやって、物心ついてから大学入学のために上京するまでの間に、青森は東京より「下」で「遅れている」のだという認識と、東京に対する羨望が、必然的に刷り込まれていったのだと思います。

 だからでしょう、郷里出身のタレントが、テレビで地元の方言ともつかない妙な訛りで話して笑われているのを見ると、恥ずかしくてたまりませんでした。お前には訛りを売りにするしか芸がないのかと腹立たしくなりました(こう書いて、じゃあ方言で小説を書く今のぼくはちがうのかと、少し複雑な気持ちになりますが)。

 今思いだすと、かなり卑屈ですね。結果、大学入学とともに東京で暮らすようになっても、人と気がねなく話すということができなくなりました。うっかりすると、東北弁の特徴である「濁音」がでそうになるから。この濁音がいかにも未開で野卑な言葉のように感じられて、すごくカッコ悪く思えたのです。岩手県生まれの石川啄木は「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」と歌っていますが、自分のなかから東北色を払拭しようとしていたぼくには、その感覚はわかりませんでした。だから、人に何かを聞かれて答えるときは、イントネーションもふくめて一度頭のなかでシミュレーションしなければなりませんでした。言葉が自由に話せないということは、身体を拘束されているのと同じようなものです。

 同じ東北出身者でも、そこまで気にしない人もいたでしょう。自意識過剰でカッコつけの性格も作用したのだと思います。ただ、ここで温さんに伝えたいことは、東京が「上」で、濁音まじりの言葉を話す東北は「下」だという考え方、その価値の序列を、ぼくはずっと「あたりまえのこと」「そういうもの」として受け入れていたということです。

 この思い込み。自分の命や尊厳をたわめる卑屈な考え方を、みずから、まるで自然の法則のように受容する。いつのまにかできていた価値の序列を鵜呑みにして内面化してしまう。この心の仕組みは、今も様々なところで作動しているのではないでしょうか。自分に対してのみならず、他人に対する見方に関しても。

 そうしてぼくは、変化の速い東京の時間に合わせていれば間違いはなくて、自分の郷里の時間は「遅れている取るに足りないもの」と無意識に感じるようになっていたようです。もっといえば、東京にしか時間が流れていないとさえ感じていたかもしれません。かといって都会の人になりきることもできなくて、どちらにも居場所がないように感じていました。

 でも、そんな自分を、郷里に帰れば家族は温かく受け入れてくれるんですね。郷里に帰って兄や母と地元の言葉で話しているとき(もう30代後半になっていましたが)、自分の感情がすごく伸び伸びしていることに気がつきました。子どものころのように大笑いしたり、切なくなったり。そのときぼくは、ここにはここの時間がたしかに流れていて、その時間や人々の喜怒哀楽に、優劣なんかつけられるわけがないと思いました。

「海猫ツリーハウス」「幸福な水夫」で、それまで恥ずかしくてたまらなかった濁音まじりの方言をことさらに再現したのは、そこで暮らしている人々のありのままを提示したいと思ったからです。標準語の書き言葉で形成された小説の世界に、話し言葉の濁音をあふれさせてやれ。まるで自覚的に悪事を働くような危うい快楽がありました。それは、長い彷徨の果てにようやく訪れた自身の来歴の受容であり、あらゆる価値の序列を疑うことのはじまりとなりました。

 ここまで長々と個人的なわだかまりのことを書いてきたのは、このなかに、どこかで温さんと重なるものがあるのではないかと思うからです。温さんのデビュー作「好去好来歌」も、自分が引け目を感じていたものを温かく抱きとめ、これまでだれかに信じこまされてきた視点を転換するための、必然の作品だったのではないかと。

 声は、身体のなかの情動の高まりによって発露する、言葉以前のものです。言葉にならないうめき、悲鳴、叫び。あるいは、声にもなれない叫び、身体の身悶えという無音の声もあるでしょう。

 言葉になる以前の声や、押し込められた無音の声。それが言葉に変わるきっかけには、「あたりまえ」とみなされ、自分を抑圧してきた価値観をひっくり返す、視点の「転換」があるのではないかと思います。それは〈生きてる、と存分に感じられる場所を確保する〉必要に迫られて生じます。その「転換」によってまず声がほとばしり、その声は歌にもなれば踊りにもなり、あるものは言葉となって世に現れでるのでしょう。

「好去好来歌」にも、まぎれもなくそのような声から生まれた言葉が響いています。両親に連れられて3歳のときに台湾から東京にやってきて、以来ずっとそこで暮らしてきた主人公の縁珠の心に堆積した数々の想いと、日本で暮らす台湾人の家族が中国語や台湾語や日本語で交わす声、さらに、台湾で暮らす一族の声。

 温さんにとって、この作品を書くきっかけとなった「転換」とはなんだったのでしょう。

「好去好来歌」は、親の世代、祖父母、曾祖父母の世代のことまでも果敢に描きだそうとした、これからさらに描かれるだろう物語の地図であり、書き手としての温さんの器の大きさを予言するものでした。そして、日本で暮らす移民の日常の姿を知らしめる、新たな「移民文学」の幕開けを告げる作品でした。

 でも、「好去好来歌」が発表された10年前、その作品の重要性をどれだけの人が理解していたのでしょう。ぼくだって、片鱗しかわかっていなかったかもしれません。あれから10年たって、外国人労働者の受け入れ拡大が準備もなく強引に推し進められるなかで、すでにこの国には大勢の移民の人々が定住し、暮らしていることがようやく注目されるようになりました(逆にいえば、おそらく、いるのにいないもののように扱われてきました)。この国は、日本人の両親のもとに生まれ、自動的に日本国籍を付与される者たちだけのものではなかったのです。

 東京だけに時間が流れているわけじゃない。

 その東京が、温さんやほかの人たちにとっての大切な生活の場であることは忘れてはいけませんがーー、“政治・経済・文化その他の中心として君臨するもの”という意味での東京に対し、ぼくはそう思いました。それと同じように、ほかにも、この社会や世界において現存する支配的な力についても言ってみます。

 日本生まれの日本人だけに時間が流れているわけじゃない。

 男だけに時間が流れているわけじゃない。

 大人だけに時間が流れているわけじゃない。

 権力者や富裕層だけに時間が流れているわけじゃない。 

 人間だけに時間が流れているわけじゃない。

 ほかにも、ほかにも……。

 上に列挙した者たちの対義語にあたる者たち、つまり、支配的な力に抑圧されている者たちには、声をあげる権利があります。いえ、権利というよりも、自分が生きるために、自分はここにいるのだという存在証明のためにそうせざるをえないのだし、してもいいのです。叫んでいい。

 ただし、前のお便りで温さんが〈これぞ我らが方言、とばかりに讃えることは、べつの抑圧をつくりだすことにもなりかねません〉と書かれたとおり、存在証明の叫びだったものが、いつしか権威をまとって抑圧する側に回るとしたら、これは本末転倒ですね。そんなのは、ぼくも温さんも望んではいません。だれかを抑圧するような権威や権力こそ、ぼくらがもっとも距離をとりたいものでしょう。

 方言に関していえば、『東北おんば訳 石川啄木のうた』(未來社)の編著者である詩人の新井高子さんは、狭い地域での方言でも個人個人でちがう、と語っています。震災の津波被害のあった岩手県大船渡市のおばあさんたちと向き合ってきた経験から、そのような気づきを得たそうです。それは、方言にかぎらない、言葉の、声の、本質的な姿ですよね。言葉も声も個人それぞれ。ぼくもすぐに物事をひとくくりにして言いがちですが、その根本の姿を忘れてはいけないのだと思います。

 温さんと顔を合わせると、よくお互いこう言い合いますね。「気が狂わないためにも書いていきましょう」と。

 この対話も、正気を保つために、ぼくには必要なのです。見えない嵐のなかで、またお便りが届くのを心待ちにしています。

 

 2019年2月20日  木村友祐

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著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

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