明石書店のwebマガジン

MENU

私とあなたのあいだ――この国で生きるということ

第1便 温又柔より(第1章 声と文字のあいだ)

親愛なる木村友祐さま

 

 お元気ですか?

 去年(2018年)の11月、京都から一緒にのりこんだ新幹線を私が品川駅で先に降りたきり、少しごぶさたしていましたね。

 同じ東京に住んでいるのだし、会おうと思えばいつでも会えると思って安心していたら、あっというまに冬が深まって、年が明けて、そして、もう旧正月だなんて。

 まばたきするうちにも時が流れている、と身をもって感じずにはいられません。

 考えてみたら、私たちも知り合って10年近くが経ちますね。その間、いったいどれだけのメールを交わしたことでしょう。最初の一通目を送ったのは「第33回すばる文学賞贈賞式」から数日後だと記憶してます。贈賞式の舞台で一緒に撮った写真をお送りしたいからと集英社のKさんに木村さんのメールアドレスを教えてもらったのがはじまりでした。

 赤に縁どられた「祝すばる文学賞受賞」と記された札をつけた木村さんと、「祝すばる文学賞 佳作」とある札をつけた私と。写真の中の木村さんは、作家になった、という責任を引き受けたようなきりりとした面持ちで、私はといえば、ふてぶてしいほどの満面の笑みを浮かべています。

 縁あって、同じ晴れ舞台に立ったのだからと、はじめはそれぐらいの気持ちで記念に撮った写真なのですが、今になって思えば、木村さんと同じ年に同じ文学賞で、作家として歩み始めることができたのは、私にとってとても幸運なことでした。

 ……もう少しさかのぼると、私たちが初めて顔を合わせたときも、やや特殊な状況でしたよね。

 忘れもしません。あれは「第33回すばる文学賞」選考会の夜でした。

 その日の、確か午後6時少し前、すばる編集部のMさんから電話がかかってきて、私の「好去好来歌」が佳作に選ばれたと知らせてきました。

 (ということは、一か月後には私のあの作品が「すばる」に載るのか……)

 Mさんとの電話を終えると、やはりじりじりと選考結果を待っていたリービ英雄さんのもとに大急ぎで駆けつけました。リービ先生とリービゼミの後輩であるHくんたちとささやかな祝杯をあげていたら、また電話が鳴ります。Mさんからでした。「今、どこにいます? もし可能なら、選考委員たちが会いたがっているので来ませんか?」

 ことの重大さが、私はあまり呑み込めてませんでした。でも、最終候補に残って以来、選考会までのごくわずかな期間で改善の余地がある限りとばかりに最善を尽くして徹底的な改稿につきあってくださったMさんの顔は見たい、と思いました。行ってきなさい、とリービ英雄もうなずきます。もしかしたら受賞した心境を聞かれるかもしれない、心の準備もしておきなさい、とも言い添えて。

 タクシーでむかった先は、帝国ホテル。シャンデリアが煌めく大理石の床のロビーで放心状態の私を、Mさんが見つけてくれます。高層エレベーターにのりこみ、選考委員たちの待つ最上階のバーに行きました。そこには、星野智幸さんや奥泉光さんなど選考委員である作家の方々が勢ぞろいしていました。「すばる」の、当時の編集長だったIさんが、かのじょはオンさんのほうで、ウミネコツリーハウスのキムラさんはいまむかってるところ、と説明する声を聞き、私は、ウミネコツリーハウス、という作品が受賞作なのだと知ったのです。私は佳作しかとれなかったけれど、ちゃんとすばる文学賞をとった、まだ男性か女性か年齢もわからないその人とも、どうやら、もうじき会えるらしい。そう思っていたら、選考委員たちの間に座るよう促されます。

「縁珠ちゃんのお母さんがしゃべる台湾語が、カタカナで書かれているのが、とても面白かったよ」

 縁珠ちゃん。

 自分しか知らなかったはずの自分の作品の登場人物の名を、江國香織さんが親しみを込めてそう呼ぶのを耳にした瞬間、目眩がする思いでした。その江國さんが、

「温さんは、どんな小説を読んできたの?」

 李良枝、中上健次、それから多和田葉子と私は緊張しながら答えました……さっきまで一緒にいたリービ英雄の名がとっさに出ません。続けて、高橋源一郎さんが私にたずねます。

「中上健次の、何が好きなの?」

「路地の……あ、いや、秋幸三部作?……あと、『千年の愉楽』と……」

 緊張しすぎて、うまく固有名詞が出てきません。

「中上健次なら、『異族』がいいよ。温さんは、あのひとが『異族』でやろうとしていたようなことを目指したらいいと思う。日本や日本語の中心と思われている軸を徹底的に揺さぶって、無効化するような小説を、ね。これからそういうものを書いてもらえるなら、頼もしいなあ……」

 高橋さんとそのような会話をしているときだったと思います。キムラユウスケさんが来ました、と編集部の方がその場にいる皆に告げます。

 ウミネコツリーハウスの作者は、男性でした。

 そして、私より年上に見えました。

 キムラユウスケ。

 あの夜、私たちはそれぞれ別々に選考委員の作家の方々に囲まれましたね。

 お互い、口を利く余裕はぜんぜんありませんでした。

 キムラユウスケ、ウミネコツリーハウス。

 私は記憶しました。そして、コウキョコウライカとオンユウジュウは、いっぺん聞いただけでは絶対に覚えられないはずだから、次、キムラさんに会ったらもう一度、自己紹介しよう……行きと同様、集英社宛ての領収書をもらうように言われて乗り込んだタクシーに揺られながら夜の東京を眺めつつ、そう考えていたことをなんとなく覚えています。

 今思うとなんとのんきなのだろう。私はキムラさんと仲良くなれるはずだと信じていたのですから。

 特殊な状況といえば、私と木村友祐作品の出会い方も、たぶん、ほかの誰ともちがっていました。2009年10月、「すばる11月号」の本誌に先立って、その号に掲載された「好去好来歌」の抜き刷り〔雑誌等で一部の頁を抜き出し別に印刷したもの〕が届き、その表紙部分というか、私の作品の最初の一頁の裏面が、「海猫ツリーハウス」の最後の一頁だったのです。

 

  生きてる、と思った。

 「生かされている」でも「自力で生きている」のでもなく、ただ、「生きてる」。ーーそれ以外、もう何も思い浮かばなかった。

 

 抜き刷りの段階では、それがその文章が、選考会の夜に帝国ホテルのバーでちらっとお会いしたきりのキムラユウスケさんによるものとは、まだわかっていませんでした。それなのに私は、〈ただ、「生きてる」。〉とは、なんと、ちからづよい言葉なのだろうか、としみじみ感じ入ったのです。それが「海猫ツリーハウス」の最終場面だと知ったときは、ふたたび、溜息をこぼしました。

 それから3か月後、「すばる」に掲載された木村さんの受賞1作目「幸福な水夫」を読んだときのこともはっきりと覚えています(それにしても、未來社によってこの隠れた名作がふたたび手にとりやすくなったことは、どれだけ喜ばしいことか!)。

 

 「とりあえず、標準語で喋ってくれる? でないと何言ってんのか、余計おれら、わかんねぇよ」

 「なんだこの……」

  鼻声で守男がつぶやき、体がぐらりと男のほうに動きだしたとき、

 「おい、“標準”ってなんだよ、あ? どごのだれが勝手に“標準”なんてもん決めだんだ?」

  ゆずるがいきなり大声を張り上げた。

 「おらはそったもん、認めでねぇぞ、言葉にヒョージュンだなんだあってたまるがよ。あえで標準語ってへる(言う)んだば、おらんどの標準語は南部弁だの津軽弁だ、いや、南部‘語’に津軽‘語’だ。いがんどぁ(お前ら)、まだ(また)こごさ迷惑施設(めいわぐしせづ)ば持ぢ込もうどしてんのがもしんねぇけど、こごさ来たら、いがんどこそおらんどの標準語ば喋れよクソ野郎!」

         

 私は確信しました。このひとの書くものには、声がある。もっといえば、声が、文字から滲むものを書くひとなんだ、と思ったのです。そして、この声をもっと聴きたい、と思いました。この声が聴こえてくる文章を読みたい、と。

 南部弁や津軽弁ではなく、南部語や津軽語。

「幸福な水夫」のゆずるの“叫び”に、私は突き刺されたような思いでした。ほかならぬ私もまたヒョージュンゴの呪縛に囚われていて、日本語といえば東京語なのだと知らずしらずに思い込んでいる部分が、確かにあったからです。

 私が説明するまでもなく、東京だけが日本ではありません。そして、この日本で話されている言葉も、東京の言葉だけではありません。しかしこの国が東京中心に回っているということも否めません。

 振り返ってみるとあの時期の私は、日本語で書く台湾出身の新人作家として、自分が育った家の中では台湾人の両親が話す中国語と台湾語と、そして日本語が飛び交っていた、とよく説明していました。縁珠ちゃんのおかあさんが話す台湾語をカタカナで書いているところがよかったよ、と江國香織さんが言ってくれたように、私の「デビュー作」を読んだ少なくない数の方々が、私の書くものの中に混じる中国語や台湾語、要するに日本語ではない言葉を、面白がってくださったのもあり、そうであったからこそ、自分にとっての日本語はなんだろう、とその意味をあらためて考えようとしていたところでもありました。

 でも、その自分が考えている日本語は、日本語という、おおきなもののうちの、ほんのわずかな一部分でしかないのだ。むしろ、東京語、と呼びかえたほうが適切なのかもしれない……と「幸福な水夫」を読みながら私は気づかされたのです。

 けれども、私自身もそうであったように、日本では、正しい日本語といえば標準語のことであり、その中身は実質、東京語である、と無意識に考えるひとが多いのも事実です。

 そもそも、「どこのだれが勝手に」、標準語とはこれだ、と決めたのでしょうか。

 ……だからといって、ここで私は、標準語ではない言葉ーー方言ーーを手放しに賛美したいのではありません。おそらく木村さんのほうが肌身で感じていることだとは思いますが、方言ひとつとってもその境目はあいまいで、それこそ、「どこのだれが勝手に」ある部分のみを切り取って、これぞ我らが方言、とばかりに讃えることは、べつの抑圧をつくりだすことにもなりかねませんからね(「なんだ、おまえは〇〇出身のくせに〇〇弁も話せないのか」)。

 そう、抑圧。私もまた、これに抗いたかった。つまり、正しいとされている日本語≒標準語ではあらわすことのできない、日本育ちの台湾人として生きてきた自分のリアリティを表現するために、中国語や台湾語を含んだ自己流のニホン語を編み出したように思うのです。だからこそ、ゆずるの叫びというか、雄たけびが私には他人事に思えません。

 

  おらはそったもん、認めでねぇぞ、言葉にヒョージュンだなんだあってたまるがよ。

 

 それは、あるときを境に私の心の底で火の玉のごとく燃え盛るようになった、ふつうの日本人って何? という問いと重なっていました。

 そのことを思えば思うほど、標準的な日本語を、お行儀よく書くことができない、したくない、するもんか、という“志”を分かち合う私たちが、「海猫ツリーハウス」と「好去好来歌」で、同じ年に同じ文学賞の新人賞と佳作をもらったことは、やはりちょっとした運命だったのではないかと信じたくなるのです。

 だからこそ、いつか木村さんが、ぼくらは同じ文学を親にする兄妹だ、と言ってくれたときは、とってもうれしかった。

 この10年の月日がそうであったように、ふだん、なにかと心へし折られ、力の奪われるような出来事に遭遇することがあまりに多いせいか、木村さんに宛てて手紙を書くたびに私は、自分の原点を意識し、初心に戻れるのを感じます。ダカラコソタタカッテヤル、とね!

 書くことは、生きること。生きてる、と存分に感じられる場所を確保すること。

 願わくば私のこの手紙をここまで読んでくださった木村さんも、いま前向きな気持ちでいらっしゃいますように。

 

 2019年2月7日  温又柔

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 温又柔(おん・ゆうじゅう)

    1980年、台湾・台北市生まれ。3歳より東京在住。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞。両親はともに台湾人。創作は日本語で行う。著作に『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年、芥川賞候補)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社、2020年)など。

    撮影/朝岡英輔

  2. 木村友祐(きむら・ゆうすけ)

    1970年、青森県八戸市生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞しデビュー。小説に『聖地Cs』(新潮社、2014年)、『イサの氾濫』(未來社、2016年)、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、『幸福な水夫』(未來社、2017年)、『幼な子の聖戦』(集英社、2020年、芥川賞候補)。

    撮影/尾島敦

閉じる